禅と日本文化 (岩波新書)

著者 :
制作 : 北川 桃雄 
  • 岩波書店
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本棚登録 : 662
レビュー : 42
  • Amazon.co.jp ・本 (196ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004000204

作品紹介・あらすじ

禅は日本人の性格と文化にどのような影響をおよぼしているか。そもそも禅とは何か。本書は、著者が欧米人のためにおこなった講演をもとにして英文で著わされたものである。一九四〇年翻訳刊行いらい今日まで、禅そのものへの比類なき入門書として、また日本の伝統文化理解への絶好の案内書として読みつがれている古典的名著。

感想・レビュー・書評

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  • 殊のほか晦渋で読了に骨に折れる作品。恐らくは、英文の翻訳であること、古文漢文の引用が多いこと、この二つのためなのであろう。とまれ、趣旨はただ一点、日本の芸術も武術も、禅的な直観、すなわち悟りによって「無意識」に見出だされた真理(神秘)を具現したものである、ということ。日本の風土に生まれぬ外国人はこの精神に入れないと書いているわけだから、「何のための本書?」という気もするけれど、不立文字の道を敢えて言葉にしているのだからしょうがないのか。個人的には上杉謙信への言及が多いのは嬉しい。

  • 以下引用

    見わたせば
    花も紅葉もなかりけり
    浦のとまやの
    秋の夕暮


    花をのみ待つらむ人に
    山里の雪まの
    草の葉を
    見せばや


    ほととぎす
    鳴きつる方を眺むれば
    ただ有明の月ぞ残れる


    ★日本人の心の長所は、事物を哲学的に推理すること、すんわち偉大な思想体系を建設するために思想を配列することに存じない。

    日本人の心の強みは、最深の真理を直覚的につかみ、表象を借りてこれを表現すること

    俳句ー直観そのもの

    西行、新古今
    風になびく
    藤の煙の
    空に消えて
    行方も知らぬ
    我が思ひかな

    旅人と
    わが名呼ばれん
    初しぐれ


    形式の単純性はかならずしも内容の瑣末姓を意味せぬ

    禅の方法に影響された芸術家は、最少の言葉や筆触を用いるかたむきがある

    文字の数は詩人の資質となんら関わりがない

  • 先日読んだ『茶の本』に続き、私にとっては難解な本で、単語も調べつつ読んでいきました。

    著者が外国人のために、禅が日本文化に与えた影響について書いた書籍を和訳したもの。

    読んでも禅について明確に分かった!という気にはなれなくて、

    禅と日本文化(美術、武士、剣道、茶道、俳句)とに共通する思想がぼんやりと分かったような。

    あまり著者について詳しくないのですが、「集合的無意識」と何度か出てくるところは、ユング心理学の影響を受けているのでしょうか。

    説明苦手なので、恒例の一部抜粋。

    <印象に残った個所>

    ・禅は初唐即ち八世紀に中国に発達した仏教の一形態である。

    ・禅のモットーは「言葉に頼るな」(不立文字)

    ・道徳的というのは、禅は、一たびその進路を決定した以上は、振り返らぬことを教える宗教だからで、哲学的というのは生と死とを無差別的に取扱うからである。

    ・禅には、一揃いの概念や知的公式を持つ特別な理論や哲学があるわけではない。ただそれは人を生死の覉絆から解こうとするのである。

    ・剣道の極意は死を恐れざることで御座る。

    ・「業」もじつは「心」から発する。ゆえに最も肝要なことは、「心」そのものを洞徹することである。

    ・禅宗と同様に、芸術のすべての部門において、この危機の通過ということは、あらゆる創造的作品の根源に到達するためにきわめて肝要だと考えられている。

    ・剣道においてその技術以外に最も大事なことは、その技を自由に駆使する精神的要素である。それは「無念」または「無想」という心境である。

    ・まことに和や柔軟心はこの世の生活の基礎である。

    ・茶の湯が原始的単純性の美的鑑賞であること、換言すれば、茶は人間の生存が許しうるところまで自然に還って、自然と一つになりたいという、われわれの心奥に感じる憧憬の美的表現であることを示している。

    ・一芸の熟達に必要なあらゆる実際的な技術や方法論的詳細の底には、自分のいわゆる「宇宙的無意識」に直接到達するある直覚が存し、各種芸術に属するこれらの諸直覚はすべてみな、個々無関連な、相互に無関係なものとみなすべきものではなく、一つの根本的な直覚から生ずるものと、見なすべきものだ

    ・最大の芸術品は、それが絵であれ、音楽であれ、彫刻であれ、詩であれ、間違いなくかかる性質を、すなわち、なにか神の仕事に近いものを持つものである。

    ・禅が日本人に教えた多くの事柄のなかで、芸術と生活に関連して注目すべき一事は、すでに示唆したように、悟りの体験を強調していることだが、これによって「宇宙的無意識」が具現化して現れるのである。

  •  禅と日本の文化がいかに深くつながっているか、美術、武士、剣道、儒教、茶道、俳句などの分野にわたり元は日本以外へ向けてかかられた論文を日本語に訳された本。俳句から感じるわびとさび、武士や剣道が禅の考えの中に見出した心の平静を保つために如何にすべきかを述べているあたり、非常に日本の文化を改めて見直すよいきっかけになった。わびと寂の世界感を他国の人に伝える言葉をおそらくは持ちえないが、少し知り直しまた自分の子供にはせめて伝えられるようにはなりたい。

  • わび、さび、無意識。余分なものを省く。
    難しい。分かったようで分からない…。
    この概念を英語で書くこと自体もすごいと思う。

  • 禅は日本人の性格と文化にどのような影響をおよぼしているか? そもそも禅とは何か? 著者が欧米人のために行った講演をもとにして英文で著わされたものである。1940年の翻訳刊行以来今日まで,禅そのものへの比類なき入門書として読みつがれる古典的名著。マインドフルネスが流行る今、一読しておきたい書籍。

    第1章 禅の予備知識
    第2章 禅と美術
    第3章 禅と武士
    第4章 禅と剣道
    第5章 禅と儒教
    第6章 禅と茶道
    第7章 禅と俳句

  • 禅とは、日本人とは何か。日本人なのに答えられない自分を問題視して、手に取った本。
    本著では、禅を茶道、俳句や武士といった様々な関係性で論じ、その中で日本文化と核心とは何かに迫る。特にp155,156の日本人の心の捉え方は必見。著者によれば、日本人の心の強味は、最深の真理を直覚的につかみ、表象を借りてこれをまざまざと現実的に表現することにある。
    今の教育システムは、こうした日本人の心の強味を活かせるものになっているか?欧米の影響を過度に受け、強味を失いかけていないか、考えさせられた。

  • 書かれた時代から考えると結構考えさせるところある本かもしれんです。実際、国家主義とは無関係とは言いつつ、あらゆる思想・政治・社会に結びつくとも言及しているところを見るに、著者は禅という一つのフィルターを通して日本の柔軟性とも、無私の志向とも、節操の無さとも、危うげさ等々全てを見通していたんだろうなと推察。
    必ずしも禅礼賛に見えないところがこの時代の足枷に対する著者の必死の抵抗とも思えるところが哀しくもあり。

  •  禅はど応徳的および哲学的二つの方面から武士を支持した。道徳的というのは、禅は、一たびその進路を決定した以上は、振返らぬことを教える宗教だからで、哲学的というのは生と死とを無差別的に取扱うからである。この振返らないということは、結局、哲学的確信からくるのであるが、元来、禅は意志の宗教であるから哲学的より道徳的に武士精神に訴えるのである。哲学的見地からは、禅は知性主義に対立して直覚を重んじる。直覚の方が真理に到達するチョコ右折的な道であるからだ。それゆえ、道徳的にも哲学的にも、禅は部門階級にとって非常に魅力がある。(pp.35-36)

     仏教徒の修行も(剣道と)同じことである。その最高の段階に到達すれば、仏陀のことも、法のことも、なにも知らぬ無邪気な子供と同じようになれよう。自己欺瞞からも、偽善からも、自由になる。しかるときは、不動智は、結局、無智であり―両者は二ならず、一である。(p.74)

     利休は教えている。
     茶の湯とは只湯をわかし茶をたてて呑むばかりなるものと知るべし
     これはどこまでも簡単である。人生とは要するに生れて、食い、飲み、働き、眠り、結婚し、子供を生み、ついに誰も知らないところに逝ってしまうことだ。そう考えるとこの人生を送るくらい簡単なことはないようである。が、この種の、神を絶対に信頼する以外に望みを抱かず悔いを残さず、ありのままの、というよりむしろ神に心酔せる生活を送りうる者がはたして幾人かありえようか。(p.132)

     悟りが芸術的に表現されると、精神的あるいは神性的リズムの振動する妙、または神秘的というべきものを展示する不可測なるものの瞥見、すなわち幽玄を与えるところの作品を製出する。禅はかくして、日本人があらゆる芸術の部門における神秘的な創造本能の存在に接触し会得するのを大いに助けた。
     この神秘的なるものは知的分析や体系化をもってしては捕えられぬし、働かしえぬものであり、それゆえ、悟りは神徳の所行、芸術的天才の独占となるはずだと結論してもよい。しかし、禅は悟りを普通の心の達しうる範囲にもたらすために、それを実現する独自の方法を工夫している。これは禅が他の仏教と区別されるところである。(pp.153-154)

     聖書に「門を叩け、さらば開かれん」という言葉がある。人はたいていこの叩くという意味を解せぬ。拳をもって軽く戸を叩くことぐらいにしか思っていない。しかし、精神的にいえば、ここにいう叩くはまったく普通の叩くではない。その存在を組成する肉体的・知的・道徳的・精神的のいっさいをもって、自我を創造の門に叩きつけることである。人間の全存在が、まったく力つき、身内の最後の一滴の力を使ってこの(創造の)門に投げつけられるとき、はじめてそれは衝撃を生じて彼を不可思議の領域に突き進めるのである。(pp.161-162)

     芭蕉にしたがえば、ここで「永遠的孤絶」の精神が指示したものは「風雅」の精神である。風雅は一般に「生活の洗練」という意味であるが、これは生活標準の向上という現代的な意味ではない。それは生活と自然のきよらかな享楽であり、さびやわびに対する憧れである。物質的慰安や感覚主義の追求ではない。風雅の精神は自我と自然の創造的・芸術的精神とが一体となるところから発する。(p.189)

  • 釣り鐘に
    とまりて眠る
    胡蝶哉

    「宇宙的無意識」を意識すること。

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著者プロフィール

本名、貞太郎。1870年、金沢市生まれ。東京帝国大学在学中に、円覚寺にて参禅し、大拙の道号を受ける。97年、渡米。帰国後、東京帝国大学、学習院、大谷大学で教鞭を執るほか、英文雑誌を創刊し、海外に仏教や禅思想を発信した。1936年、世界信仰大会に日本代表として出席。イギリス、アメリカの諸大学で教壇に立った。66年没。著書に、『無心ということ』『禅とは何か』『日本的霊性』などがある。

「2017年 『東洋的な見方』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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