日本人の法意識 (岩波新書)

  • 岩波書店 (1967年5月20日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (234ページ) / ISBN・EAN: 9784004100430

感想・レビュー・書評

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  •  日本の伝統的な法意識は、権利・義務は「あるような・ないようなもの」であり、それが明確化され、確定的なものとされることを好まない、という著者の主題を、権利・法律・契約・民事訴訟の観点から明らかにする。
     著者は一流の民法学者であり、その手による本書は法社会学の名著であって、実例も交えていることもあって非常に説得力に富む。
     
     それでも最後は、日本人もやがて権利をつよく意識して主張するようになる、対個人、対政府でも法的関係を意識するようになる、歴史の進行はその方向に進む、と予言されている。この昭和40年代初めになされた予言が当たっているかどうかがすごく気になる。
     むしろ、現在は、著者のいう権利・義務は「あるような・ないようなもの」という法意識はなお根底にありつつも、中途半端に「権利」のみが主張されて、世の中ギスギスしている気もする…。

     一般の読み物としても面白いが、最後の「民事訴訟の法意識」の章は少し論文チックかもしれない。

  • 【エッセイ】『日本人の法意識』に思う - 山下晴代の「そして現代思想」(2024-11-25)
    https://kumogakure.hatenablog.com/entry/2024/11/25/051750

    日本人に見る「法意識」の独自性、なぜ権利の主張や訴訟に消極的なのか | 名著で読み解く新常態 | ダイヤモンド・オンライン(2022.1.21 会員限定)
    https://diamond.jp/articles/-/293625

    川島 武宜著『日本人の法意識』 | 甲南大学図書館ブログ(2013年5月29日)
    https://www.konan-u.ac.jp/lib/blog/archives/728

    267夜 『日本人の法意識』 川島武宜 − 松岡正剛の千夜千冊(2001年4月10日)
    https://1000ya.isis.ne.jp/0267.html

    日本人の法意識 - 岩波書店
    https://www.iwanami.co.jp/book/b267072.html

  • 例示を厚く記載してくれているので、とても読みやすい本だった。
    集団の和を重視し法を曖昧にゆとりを持って解釈しようとする日本の法意識と、個人の権利を重視し法を明確・厳格に解釈しようとする欧米の法意識の差異がよく分かった。
    現代法の概念は欧米で生まれたものなので、欧米の法意識の方が適切に思える一方で、曖昧さやゆとりを持つ日本の法意識から生じているメリットも間違いなくあるのではないかなと思う(自身の仮説ではあるけれど、日本の犯罪率の低さの要因の一つもここにあるのではないかなと思う)。
    必要な場面(特に国際的なビジネスの場面など)では、信頼獲得などのために法意識を変えていく必要があるとは思う一方、日本人同士の争いについてまでも西欧のような法意識への転換を図る必要はないよなと思った。

  • 前近代的な法意識は(この本が書かれた時代はもとより)現代でもかなり有効なのではないかと感じた。

  • 『日本人の法意識』と題しているのでひろーい考察かと思いきや、

    「この調停事件の経験 - 西洋的法思想に立脚する私の法意識にショックをあたえた……(中略)……調停委員の発言 - は、私をして、調停制度の歴史やそれを支える法意識の探究にむかわせた……(後略)。」(p.192)

    この一文から明らかなように、日本に蔓延る調停至上主義を解明するのが本書の狙い。多分。

    --雑な要約--

    明治以前から日本には仲裁と調停とが未分化の方法で紛争を解決することがあったらしい。調停と仲裁とはともに第三者の介入がある点で似ているものの、調停はあくまでも紛争当事者双方を最終的に相互合意させることが目的であるのに対し、仲裁は当事者の合意関係なく第三者が決定を下してしまうことに一番の違いがある。筆者のゆう仲裁的調停の定義は正直よくわからないが、恐らくは、第三者が決定を下すものの、当事者も空気を読んで最終的に合意する、とゆうことが言いたいのかと思う。
    さて、仲裁的調停は徐々に調停的性質に傾き、明治8年に「勧解」とゆう名で調停が制度化されると、14年には勧解が最下級の裁判所である「治安裁判所」の業務として定められ、関聯規則などが制定された。
    23年に民事訴訟法が制定されたことに伴い、裁判所の業務から勧解すなわち調停は除かれ、裁判所はより西洋的な、白黒つける場としての性格を強めた。しかし、大正期にかけて社会体系に変化が起こり、協同体から個人主義へと社会が変容したことで、日本国民の間に自己の権利をもとめる動きがひろまると、それまで紛争を丸く収めてきた有力者(名主や地主)の存在を以てしても国民の権利要求を抑えられなくなり、これを国家の根幹を揺るがす事態と受けとった政府は、種々の調停法を定めて再び調停を制度化した。
    大正11年から陸続と出てきたこれらの調停法の狙いは、紛争を権利義務の観念から切り離す、つまり法に依らない解決を図ることであり、したがって、双方の言い分に白黒つけるのではなく、丸く収めるのが目的であった。それを有力者の代わりに、調停委員会に委ねることで、調停は再び裁判所の管轄となった。

    ところで、明治憲法が狙いとしたのは日本人の頭に法治主義を植えつけることではなく、列強に対抗するために治外法権と関税自主権の恢復を図ることであり、憲法や民法などの制定もあくまでも西洋の法治国家の体裁を身につけることを狙いとしたため、法治主義はひろく農民や労働者に普及しなかっただけでなく、立法の立場にある為政者の中にも法を蔑ろにする者が少なからずいたそうな。そもそも当時の日本はスメラミコトを頂く体制であり、裁判もスメラミコトの名の下に行われていた。
    明治政府が手本とした西洋では、法は法、現実は現実として、あくまでも法の絶対を支持し、また権利と法とはコインの表裏のような関係で、権利を守ることは法に従うことであった。しかし日本ではそもそも協同体の一部としての生き方が強制されていたために自己の権利を要求することは社会から白眼視される行為であり、権利を求めることが社会的に許されない以上、法ももはやあれども無きが如きであった。それゆえに、日本では白黒つける裁判も有名無実となり、調停が制度化されるに至る。

    そうした日本の紛争解決への姿勢は現代にも引き継がれた。優先道路を走っていた車と脇道からでてきた車とが衝突したとある事故で、裁判官がくだした判決は痛み分けともいえる内容であった。西洋の裁判では、優先と定めている以上は優先であり、脇道から出てきた車が悪いとゆうことになるが、日本では、優先道路を走っていた車にも、速度を落とすなど、し得ることがあったのにしなかった点で責任があるとしてしまう。
    契約書の約款は細かければ細かいほどよいとされるのが西洋流だが、日本では「誠実協議円満解決条項」とゆう風刺の効いた条項が必ず契約書に盛り込まれ、それ以外の条項にかかわらず、いざとなったら話し合って丸く収めましょう!とゆうことで締めてしまう。
    こういった種々の日本独自の紛争解決観念を筆者は「法意識」と呼んでいるらしい。(知らんけど。)

    ただ、個人主義も長くやっていると板についてくるものなのか、最近は国民の間にも調停によらず裁判でケリをつけたり、契約書に米粒大の字でびっしりと約款を書いた契約書が増えてきたりと、少しずつ西洋化の傾向がみられるとゆう。

    --要約おわり--

    鉤括弧(「」)、長い横線(---)、傍点(文字の上につける点)などが頻繁に使われすぎていて、赤線やマーカーで線を引きすぎた教科書みたいになっている。非常に読みにくい。

    「二. 近代法の『私所有権』の特質」(p.68-78)の所有権の話は色々とひっかかった。地代を徴収する権利を所有する者と、地代を払って耕作する権利を所有する者と、というように一つの耕作地に何層にも何重にも所有権が成立し得るのが中世であったという例を引いて、筆者は昔はいまほど所有権が独占排他的でなかったと説くが、少なくとも後者のは現代では耕作権と呼ぶのでは……。権利を所有するから所有権と呼ぶとゆうのなら、この世の権利は全て所有権になってしまうのでは……。
    更に、その所有権は当時の中央や幕府によって制限を受けていたのではなく、本来的に制限されていたのであるから、すなわち所有権の性質がそもそも違うと説くが、本来的にどうして制限されていたのかが説明されていない。

    「三. わが国における所有権の法意識」(p.78-94)に紹介されている修学旅行の例も、学生が旅行先でタダ飯を食ったり、土産物をパクッたりしたという事例を引き合いに出して、これを窃盗とは思っていないところに、窃盗に対する心理抵抗がみられないと括っているが、引率の先生がそれをやったとゆうのならともかく、学生がやったこと(引率とは別行動中)をその例に挙げるのもどうかと思う。それとも、フランスやドイツの学生にはそうゆう手合いはいないのか。全体にもやもやする事例と、「……と思う」ばっかりで、歯切れが悪い。

  • 日本社会の、前近代的な法意識を事例をもとに示し、その上で日本社会における法意識も近代化しつつあると論じている。
    法意識という観点から日本社会を見るというのが新鮮で面白かった。
    法律の実効性などを考える上で、法意識という観点も重要だと感じた。

  • 明治期に10年足らずで急いで西洋由来で形成された法は、西洋的な法意識とは異なっていて、日本人の生活の実態とかけ離れていた。権利や裁判という基本的な概念さえ、西洋人の意識や感覚とは異なっている、というのが趣旨。前半は読みやすく後半で具体例を説明する感じだが、今日の日本人の感覚を考えても全く古びないところがすごい本。

    西洋的な文書文化ではなくて、契約書も必要なときに話し合って解決しようとしたり、和の精神を大事にしようとしたりするのが日本人で、西洋的な厳格さが言語のレベルで日本人と違うというところも論点にあって、とても興味深い。

  • 第1章は言い回しが読みづらいのですが、第2章以降だんだん読みやすくなってきます。

    第2章~第4章は、権利、所有権、契約について扱っています。
    西洋的な権利義務関係では、権利の有無をはっきりさせて、裁判で白黒付けようとします。
    この点、日本の法律は西洋に倣っているため、法文上は西洋と同じです。
    しかし、前近代的な権力関係から引き継がれた法意識が、権利を内容不確定・未確定なものとして扱おうとするため、実際の運用においては法文とのズレが生じてしまう。

    1967年刊行の本なので、現代よりも前近代的な法意識を前提としています。
    とはいえ、何か争いがあって落とし所を探すとき、本書にいうような法意識を幾分用いているときもあるので、全く無用というわけでもない。
    むしろ、自分の考え方のルーツを分類するのに、役に立つかもしれません。

    第5章は、民事訴訟とりわけ調停の話。
    民事訴訟法を勉強する際に調停についても習うわけですが、民事訴訟法自体が眠くなりがちなのに、調停はなおさら興味を持てなかった記憶があります。
    それは訴訟自体よく分からないのに、調停はもっとよく分からないからで。
    本書では、この調停について戦前からの来歴を学ぶ上ことができるので、社会学寄りな視点で興味を持つことができるようになると思います。

  • 法学者にとって必読だと言われていたので読んだ。

    日本人の法意識は外国のそれとは違う。その文化的背景に触れつつ、日本人にとってふさわしい紛争解決手段について述べられている。

    確かに、私たちは道徳的な観点から法律と疎遠になることが多い。しかし、その事に漬け込んで、日本人の価値観が介入できないように細かく定められた法律もある。それは日本人の特性を無視したものである。それはまた、法律制定者の利益にのみとらわれてしまっている。個人的には、権利義務の話が面白かった。日本人には、その意識が薄い。

  • 日本人の法意識

    これまで70刷を誇る名著。大学時代からの積読で常々読みたいと思っていたが、なかなか読む機会がなく、やっと読むことができた。
    日本は開国以降、不平等条約改正のため、近代国家として当時の列強諸国に認められる必要があった。日本における法制度は、土着的なルールから端を発するものではなく、近代化の要請において、急速に取り入れられたものである。そのような歴史的は背景から、日本人を語るうえで、法制度を仔細につまびらかにする以前に、日本人がそもそも持っている法というものへの意識を考察することが、第一義ではないかという問題意識をもとに、所有権や契約などの考え方について、西洋的な法の概念と日本における法意識を対比して述べられていく。
     まず、そもそも、法の言葉というものは元来確定的・固定的であり、一義的にとらえられる必要があるが、そもそも日本語の言語体系として「明確に限界づけられた意味内容を伝達するのではなく、伝達使用する内容の中の中心的な部分を表明することばを用いることにより、それに伴う他の種々の意味内容はそのことばによって示唆され、その結果伝達される意味内容の周辺は不確実なものとなり、伝達の受け手によって変化しうる」ものである。これをして日本語の含蓄という場合もある。
    日本における法の言語が不確定的かつ流動的であると同時に、日本人のルールに対する意識も当初の西洋的な法意識とは異なる。日本人は理想と現実についての境界をそれほど厳密にとらえていない。法が現実にあっていない場合、現実へのなしくずし的な妥協が公然と行われ、もはやそれをもって融通が利くという美徳になっている部分がある。
    根本として、日本人は権利と権力に対する誤認識がある。本来、権力はもともと立場の強い人間が持つ、他者への強制力であり、権利とは権力に対抗するために、立場の弱い人間が持つ力である。権利に対してなしくずし的に妥協にしてしまえば、元の立場の強弱が支配している空間に逆戻りしてしまう。ゆえに、西洋においては一度得た権利を、権利を得た側がなし崩し的に妥協するということは絶対にない。しかしながら、日本では権利と権力はしばしば混同され、同一視すらされている場合がある。典型的な例が、雇用における権利である。従業員を雇っている人(≒社長、役員)は従業員に対して、権力を持っている。一方、従業員は社長や役員に対して権利を持っているのである。日本における雇用概念もまた、丁稚奉公のような形より始まっており、従業員の権利意識は極めて低い。具体的な例も出したが、このように、日本における権利意識や法への意識というものは、法や権利を最初に定義されたときのような切迫感などはまるでなく、極めて曖昧にとらえられている。
    こうした考え方が、しばしば政治意識にもむずびつく、日本人は政治行動においても従順すぎる。未だに、政府のことを「お上」と言う人がいるが、これは政府に対して、我々が選挙で選び、そしていつでも政府に対して抗議し、変えることができるという意識の欠如を明確に物語っている。
    日本人の法意識を物語る最たるものは契約意識である。日本人は契約に関しても、もはやネガティブなイメージすらある。のらりくらりと関係性を保つことを美徳として考え、契約書面を取り交わしたいというだけで不機嫌になる人もいる。さらに、仮に契約を締結したとしても、契約を軽視した言動もすくなくない。「それは契約上の話であって、実際には、、」と言う文句はしばしば使われるが、この言葉が日本人の契約観を如実に物語っているだろう。さらに、日本人は契約を軽視することと表裏一体であり、契約以上のことを当然の如く期待している場合がある。こちらも非常に奇妙なことであり、契約になくてもやってもらって当たり前と考えている次元があることは、日本人の特色であるだろう。

    上記の法意識に関する考察は、私のように保険を扱う者であれば強く共感する部分があるのではないか。保険は万能であり、保険はお守りであるという感覚は、実際には一般的である。ただ、保険は何よりもまず契約であるがゆえに、保険契約にない場合の事故や事象には保険金は払われない。これは保険募集人の説明不足の問題も実際にはあるが、保険金支払いで揉めるのは基本的に上記のような契約意識が契約者側に極めて希薄だからである。さらに、よく地場代理店などでは、保険会社に対して「融通が利く」ことを求める傾向にある。法への意識をなし崩し的に考えているからこその姿勢である。昨今では、海外ともやり取りも増えたが、日本人が契約締結後、特に事故時にネゴシエーションするのに対して、当たり前ではあるが、海外は契約締結前の最もネゴシエーションする。いかに権利を守り、有利に契約するかということを極めて重視する。だからこそ、一度契約が成立すれば、契約は絶対に守る。この契約を遵守するという意識が全く異なるのである。一方、これも重要な点であるが、彼らは契約を守ると同時に、契約の範疇以外であれば言葉通り「なんでもやる」。ここが怖いところでもある。

  • 平成が終わろうとしている今でも、あまり変わらないかも。

  • 735円購入2010-10-22

  • 【由来】


    【期待したもの】

    ※「それは何か」を意識する、つまり、とりあえずの速読用か、テーマに関連していて、何を掴みたいのか、などを明確にする習慣を身につける訓練。

    【要約】


    【ノート】

  • 【メモ】
    ・長寿な新書。私の手持ちの奥付には「2012.12.5 第65刷発行」とある。
    ・二時間探してもweb 上には本書の簡易目次すら見当たらなかった。ということで刊行から50年と5ヵ月を経て、ついに本書の詳細な目次が世に! 

    【抜き書き】
     “わが国では、西洋ならば当然であるような場合に訴訟をおこす者は、「かわり者」「けんか好き」「訴訟きちがい」等々のことばで烙印をおされる。訴訟を忌避する態度は、ふかくわれわれの心の奥底に沈着しているのである”
    (pp. 141-142)

    【書誌情報】
    著者:川島武宜(1909-1992) 民法、法社会学。
    価格:本体740円+税
    通し番号:青版 A-43
    刊行日:1967/05/20
    ISBN:9784004100430
    新書 並製 カバー

    西欧諸国の法律にならって作られた明治の法体系と,現実の国民生活とのあいだには,大きなずれがあった.このずれが今日までに,いかに変化し,あるいは消滅しつつあるのか.これらの問題を,法に関連して国民の多くがどのような「意識」をもって社会生活を営んできたかという観点から,興味深い実例をあげて追求する.
    https://www.iwanami.co.jp/smp/book/b267072.html


    【目次】
    はしがき(一九六七年三月一日 川島武宜/追記 一九八六年十二月 著者) [i-iv]
    目次 [v-vii]

    第一章 問題 001

    第二章 権利および法律についての意識 015
    一 「権利」の意識 015
    二 「法律」についての意識 037
      (1) 「法律」の規定内容の不確実性 037
      (2) 「法律」の規範性そのものの不確定性 043
    三 憲法と権利意識 048

    第三章 所有権についての意識 061
    一 問題 061
    二 近代法の「私所有権」の特質 062
    三 わが国における所有権の法意識 071

    第四章 契約についての法意識 087
    一 問題 087
    二 わが国における契約の法意識 089

    第五章 民事訴訟の法意識 125
    一 裁判 125
      (1) 裁判ということばの意味 125
      (2) 問題 127
      (3) 民事訴訟に関する法意識 137
      (4) 民事訴訟裁判への反映 143
    二 調停 154
      (1) 意味――仲裁とのちがい 154
      (2) 「仲裁的調停」――仲裁と調停との未分化的型態 155
      (3) 日本人の法意識と調停 162
      (4) 調停制度の導入 166
      (5) 「和の精神」の昂揚と調停制度の強化 170
      (6) 戦後の変化 178
        (イ) 戦後の変化
        (ロ) 人々の法意識
        (ハ) 法意識の変化と、調停制度の変化

    第六章 むすび 197

    別表 [1-5]
      別表1 民事訴訟事件の処理に要する期間 
      別表2 (東南アジア諸国の弁護士数) 
      別表3 訴受理・取下・和解(裁判上)の数 
      別表4 勧解事件数 
      別表5 裁判所を経由する離婚 

  • 昔の人もタチの悪いのは結構いたんだねぇ。民度低いのは今もいるけど…。

  • 丸山真男の日本の思想と並び、日本人という未開の土人について学べる良書。

    他の見方も出来そうな部分もあるが、まるっきり的外れな事は書かれていない。

  •  行政法の教授に勧められて読んでみた本。
     我が国の制定法が想定する社会規範と日本人特有の法意識からくる社会規範のズレを深い考察をもとに端的に指摘している。
     「一般の人向けに書かれているため、堅苦しすぎず読みやすい」という評価が多かったのに、読み始めはすっごい読みづらかった。途中からリズムをつかんだのかスラスラ読めるようになったから、ただ単に自分が堅苦しい本を読みなれていないだけかもしれないけれど。
     法律の役割は主なものとして、トラブル時における解決の基準と、トラブルを防ぐための人々の行動規範がある。本書は後者に焦点を当て、日本人特有の法意識から必ずしもそのような機能が十分に果たしているとはいえない現状を指摘する。例えば、自分の権利を主張するために裁判に持ちこもうとするなら「融通のきかないやつ」として白い目で見られることはあると思う。この本が書かれて50年は経つが、未だに当てはまる部分が多いことに驚かされた。
     また、日本人にはもともと「権利」意識が無いという指摘にはまさに目から鱗だった。法学を学ぶ者はとにかく法の想定する社会規範のみを意識しがちだが、実際の法の捉えられ方を再認識するのに本書はとても意義あるものだと思う。

  • 近代社会と伝統的社会のエートスの違いに眼を向け、単なる法制度を論じているだけでは見えてこない、日本人の法に関する意識について、多くの実例をあげながら考察をおこなっています。

    著者自身は近代主義の立場を取っていると思われますが、そうした著者の立場に賛同できない読者にとっても、法制度の背後にあるエートスについて考えるための手がかりとして読みなおすことができるのではないかと思います。

  • 昭和の法社会学の泰斗・川島武宜の1967年の著作。岩波新書のロングセラーの一冊。
    本書の問題意識は、「前近代的な法意識」の克服である。
    著者は、日本人の歴史的な国民性を、聖徳太子の十七条憲法の第一条「以和為貴(=和を以って貴(とうと)しと為す)」から連綿と続くもので、「日本社会の基本原理・基本精神は、「理性から出発し、互いに独立した平等な個人」のそれではなく、「全体の中に和を以て存在し、・・・一体を保つところの大和」であり、それは「渾然たる一如一体の和」」だといい、それが「前近代的な法意識」の背景にあるという。
    そして、所有権、契約、民事訴訟などの具体的な事例を引きながら、西洋諸国の法体系に倣って作られた大日本帝国憲法下では「権力」関係であった(=国民が国を訴えることは事実上できなかった)国と国民の関係が、日本国憲法によって「権利」の関係に転換したものの、日常の暮らしの中では旧憲法的発想は生きており、国民が憲法上の権利を知り、それを守り、維持していく努力をしなくてはならないと説いている。
    本書発刊後50年経ち、日本人の法意識は変化しつつあるとは思うものの、瀬木比呂志が近著『ニッポンの裁判』(2015年)で書いているような裁判(所)の問題の根本は、本書で指摘されている前近代的な考え方が依然として残っていることにあると強く感じさせる。
    (2005年12月了)

  •  書かれた法と実生活でいきる法のズレを指摘する本。出版されたのは1967年なので多少の古さがあり、そこから今に至るまでにますます近代法的意識が浸透したとはいえ、完全にはなくならない日本人の義理の感情。私自身はそういった日本的な感情は割と好きなのだけど、その感情が全ての法律行為に適するわけではもちろんないし、グローバル社会とのすり合わせという課題があることも考えさせられる。

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