現象学 (岩波新書 青版 C-11)

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  • Amazon.co.jp ・本 (214ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004120117

感想・レビュー・書評

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  • 現象学の入門書であり、フッサール、ハイデガー、サルトル、メルロ・ポンティー、レヴィ・ストロースなどの現代思想を学ぶことができる。たいへん為になる本である。また、ヘーゲルやマルクス主義との関係なども興味深くよんだ。どうも現象学運動というのは、結論がないようだが、中国の陽明学に似ている。「意識とはつまり何かに対する意志」というような言い回しは、「意の在る所はすなわち物なり」(『傳習録』)であり、「われわれの身体は世界において、ちょうど生物体における心のような位置を占めている」(152頁)などは、「復はそれ天地の心を見るか」(『易』復)と似ている。

  • 現象学についてフッサールからハイデガーへの流れ、メルローポンティの思想が大まかに書かれてある。
    哲学の歴史や一応の哲学的知識があまりないので読むのが難しかった。

    メルローポンティは全体を一つという考え方でアフォーダンスに繋がっているような気がする。

    最後の6ページは作者の現象学に対する期待と希望が現れていて感銘を受けた。

    一部抜粋する。
    「現象学とは、世界のなか、歴史のなかでのわれわれの経験に問いかけ、その意味を解読しようとする果てしない努力である。いいかえれば、(略)全体的経験の文脈のなかで個々の経験が何を言おうとしているのか、何を意味しようとしているのかを、不断に問いつづけようということである。」


    さて、現象学やその他の哲学に社会的意味は必要なのかと疑問には思ったが。

  • フッサールからメルロ=ポンティに至る現象学の潮流をコンパクトに解説している本です。1970年に刊行されたやや古い本ですが、現象学の形成とその後の変容のおおまかな流れを把握するのに、現在でも十分に役立つ内容だと思います。

    現象学はもちろんフッサールによって創始された哲学のひとつの潮流ですが、著者は「序章」で、「わたしは「フッサールの現象学」と「現象学的運動」を区別し、後者に焦点を合わせて考えてゆきたい」と述べています。また、「極端な言い方をすれば、フッサールの思索のすべてが現象学的だということにはならないし、現象学はフッサールの哲学に尽きるものではない」ともいいます。こうして本論では、中期の『イデーン』において達成された超越論的現象学の構想が、フッサールの晩年の思索の中でしだいに「厳密な学」としての性格を脱する方向へと舵を切られることになり、こうした流れがハイデガーやメルロ=ポンティによってさらに推し進められていったことが解説されています。

    そのほか、サルトルの初期の現象学的心理学の構想や、メルロ=ポンティと構造主義との関係、チャン=デュク・タオによるマルクス主義の立場からの現象学批判など、現在の入門書では扱われることの少ない話題についても簡潔ながらも明晰に解説されています。

  • 2016.10.24
    現象学は一つの哲学でありまた哲学的態度であるが、それはフッサールが提唱してから不断に受け継がれてきたのではなく、少しずつそのエッセンスを改訂しながら現代に受け継がれてきた。その意味では現象「学」というよりは、現象学「運動」であると筆者はいう。現象学とは実証主義に対する批判であり、客観というもの自体を主観から超越したものと考え、この主観と客観という関係を現象学的還元という方法により、確かに向こう側にものが見えることは見えるが、その意味は、認識は、主観が構成しているのだとして、ではいかにしてその認識は、つまり主観=客観となる認識は構成されるのか、を問うことによって、一切の認識の基礎づけを目指した学問である。見えているものは頼りない感覚による知覚像であり、その後ろに真実の姿があるというのが科学の視点ならば、見えている知覚像はなぜそのように見えているのかを問う学問と言える。これにより例えば、もの自体という客観は、実は各々の主観にとって同じように見えているというある主体の確信が生み出したもの、つまり相互主観への確信が客観の正体であることなどを突き止める。フッサールのこの思想はしかし後期になると、超越論的主観こそが一切の意味を構成していると思いきや、それ以前に我々には世界という認識が先に来ていることを突き止める。我々は世界に投げ込まれている存在であり、またその世界の中にいるという感覚があるからこそ、その中でまた主観が対象を構成していける。このような人間の認識の構造を、人間の実存の構造、つまり、Q「人間はいかに認識するか」A「世界経験を背景に超越=対象の意味を構成することで認識する」という問題から、Q「人間とはいかなる存在か」A「世界に投げ込まれている世界内存在であり、そしてそこから世界に自らを投げ込んでいく存在である」という存在論的な方向に持って言ったのがハイデガーである。サルトルにおいてはこの、超越論的主観性に先立つ世界経験という概念が抜け落ちていて、この主観こそが根拠中の根拠、よって意識とは何物かへの意識である以上、意識は何物かがなければ存在できない無である、という。ここまでは、まぁ間違っていてもなんとなく理解はできたんだけど、問題はメルロ=ポンティですねー難しかった。主観以前の世界経験を彼は身体論として捉える。それは意識によって意味を見出した世界ではなく、言語化以前の、体によって見出された世界である。我々は言葉がないと認識できないかと言われるとそうではなく、言葉にできないけど何かある、と言えるような領域、そこに意味をつけることで初めて言葉になるような、意味以前の領域を生きている。この意味以前の世界は、この身体によって、この身体との対応関係によって位置付けられる。また私の右手で左手を掴むと、右手は主体で左手は客体のように感じられるが、その気になれば握られた左手が、右手に触れている、つまり主体と客体の関係を逆転させることもできる。つまり身体とは、主体でありかつ客体である。この主客の作用は、私と物、私とあなたの関係についても成り立つ。意識以前の感覚的な身体的世界にとっては、主客は未分化なのである、これが間身体性である……のか?うーん。私は他者という問題に、特に他者の言語からだけではわからない他者との身体性による関わりに最近興味があったので、ここは特に理解したかったんだが、難しかった。現象学と歴史の関係もまた難しかった。歴史哲学というヘーゲルやマルクスの視点がそもそもないな。最後は構造主義と現象学の関係について書かれていたのだが、やはり私は現代思想が東洋哲学の方向に向かっている気がするというか。ソクラテスが理性による真実を語っていた時、ブッダは諸行無常、一切はその本質はなく諸要素が絡み合っていると言ったわけだし、またダルマ=真理の認識は私=世界となることであると言っていた(多分)わけで、これは前者は構造主義、後者は現象学に通じるところがある気がするわけである。現象学の古典的入門書ではあるが、認識論、存在論、実存主義、歴史哲学など、多少哲学のメインテーマに関する知識、これらの問題を先人はどう考えて来たかを知っていないと、ちょっと難しい本かなと思いました。

  • ハイデガーの存在論を理解する近道は、まずフッサールの現象学を勉強することだと思う。読後にそういう感想を持った。木田元は現象学の勘所を本当に丁寧に説いてくれている。

  • フッサールからハイデガー、サルトル、メルロポンティという現象学の系譜をたどった記述がなされながらも各者の思想が散りばめられており、筆者の現象学の理解の仕方がひしひしと感じられる。メルロポンティへの盲目的なまでの肯定は何故か。

  • 他の入門本より少し難しい表現の多い内容ではあるものの、非常に精細な検証によってフッサール現象学からハイデッガー、サルトル、メルロ=ポンティの現象学を概説している。
    特にメルロ=ポンティにおける検証では身体論への展開を論理立てて説明していて分かりやすい。思想だけでなく社会背景や生い立ちなども含めながら説明していて理解しやすい内容である。

  • 前半はよくわかったが、後半は難しすぎて消化不良

  • 1970年の刊行以来、ロングセラーとなっている現象学の入門書。(今でも読まれてるかしら?)フッサール,ハイデガー,サルトル,メルロ=ポンティに至るまで、読み易い文体で現象学の変遷を解説しています。

  • フッサールvsハイデッガー、サルトルvsメルロ・ポンティ。知の巨人たちの人間臭いドラマは思想の生成過程に直結する。哲学は人間からはなれてなどいない。読み手が勝手に先入見で離しているだけだ。などと考えるのもちょっとは現象学のおかげかもしれない。
    テーブルの上のコップについてずっと話していられる。こういうのはとても性に合う。

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