現象学 (岩波新書 青版 C-11)

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  • Amazon.co.jp ・本 (214ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004120117

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  • 現象学の概説書、1970年。

    □ Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ章

    フッサールの現象学を、彼の思想の変遷に沿って、かなりの駆け足で解説している。

    ①現象学は、その初期において、当時の支配的な思潮であった実証主義(心理学主義、人間学主義、生物学主義など)に対する批判として出発する。実証主義は、数学や論理学などのイデア的な対象を、経験的実在的なもの(レアールなもの)に還元する誤謬を犯しているとして、批判される。実証主義に対いて、学問一般のイデア的なものの可能性を追究する純粋論理学としての現象学が構想される。初期の『論理学研究』(その第一巻は「純粋論理学序説」)では、ブレンターノの心理学主義を批判する。なお、意識の本質的な性質としての「志向性」(対象化作用)の概念は、ブレンターノによる着想。

    ②自然主義や歴史主義を、方法的仮定によって学の対象を予め特定の仕方で規定してしまうことで、学として求められる無仮定性を放棄している、として批判する。こうした誤謬の根底に、認識する主体に対して真の意味では与えられていない対象を素朴に存在すると断定してしまう態度、ひいては世界の存在を無根拠に断定してしまう態度、が見出される。この「自然的態度」を「超越論的還元」(「現象学的還元」)によって判断中止する。還元によって、一切の経験的前提が排除された「純粋意識」(「超越論的意識」「超越論的主観性」)が獲得される。この「純粋意識」の場で、世界や他の経験的な対象がどのように構成されていくか(「超越論的構成」)、を反省する。この絶対的な認識批判である「超越論的現象学」によって、厳密な学の条件を追究し、諸学を基礎づける基礎学の構築を目指す。

    ③「超越論的還元」によって見出される「超越論的意識」が世界そのものをも能動的に構成するのだとすると、この構成的主体それ自体は無世界的で無規定的なものとなってしまう。世界は、「超越論的意識」による能動的な構成に先立って、予め受動的に与えられていなければならない(「受動的総合」)。「超越論的還元」によって判断中止されるべきなのは、「自然主義的態度」(世界が、例えば数学や物理学によって規定された自然科学的世界のように、何らかの理論によって客体化された世界=理念化された世界であるにもかかわらず、そうした恣意的な規定性に無自覚なまま、それを自然な世界であると無反省に見なす態度)であって、「自然的態度」(世界の存在を無根拠に断定するが、その世界に対して「それが存在する」ということ以外の一切の規定を付与しない、則ち如何なる理論によっても客体化しない=理念化しない、則ちそこにおいて一切の主体-客体関係を設定することのない、そのような自然な世界経験)は、世界をその生きられるがままに生きる態度として、寧ろそこに立ち戻るべきものとされる。「自然的態度」によって生きられる「生活世界」は、それ自体は無根拠であるが、それによってあらゆる対象の構成を可能にする根底的な前提条件として、則ち客観的な学を可能ならしめる根源的臆見として、要請される。その「生活世界」において、受動的なしかたで「意味の発生」が起き、能動的な意味付与はこの発生しつつある意味に対して二次的に行われる。

    現象学の解説を読むたびに、中期において高らかに掲げられる厳密学の理念と、世界の存在をも宙吊りにする厳格な現象学的手続きに、この哲学のもつ先鋭的な徹底性を見せつけられるようで、実に魅了されまた厳かな心持ちになるのだが、と同時にそれが後期になると、急に趣が変わるというか、生活世界なるものが根源的臆見などと言い訳がましく導入され、他者の問題も共同主観性という概念でごまかされたような気持ちになり(初めて現象学に触れたとき、それが独我論の問題をどのように扱うのか期待していた)、ヨーロッパ的理性だとかいう如何にも西欧中心主義的な概念が云々され、何とも微温的といおうか、保守化したような印象を拭えず、残念な気持ちになる。超越論的哲学が不可避的にとらざるを得ない、それこそ根源的な矛盾としての、自己関係性の機制を、明るみに出してほしかった。

    フッサールは晩年、「厳密学の夢は見果てた」という覚書を残したという。

    □ Ⅳ章

    フッサールの現象学とハイデガーの存在論は、二人が師弟関係であったにもかかわらず、その趣が全く異なっていることを、予てより奇妙に思っていたのだが、両者がどこまで一致していてどこからその差異が生じたのか、概略的にではあるが分かった気がする。

    中期フッサールは、世界を構成する「超越論的主観」を、事実的な存在としての人間の意識に帰属させることに反対した。なぜなら、世界に属する事実的人間が、自身の前提となる世界そのものの構成に関わることは、不可能であるから。この点を批判しながら、ハイデガーは自身の哲学を展開していく。則ち、「超越論的構成」の可能性を、あくまで事実的な存在である人間(「現存在」)の在り方(「実存」)のうちに、見出そうとする。

    哲学は、存在者を存在者たらしめている存在そのものの意味を問う「存在論」でなければならない。ところで、人間は、「存在とは何か」と問い得る特権的な存在者であり、存在者を通して存在がその意味を自己開示する場であるため、「現存在」と呼びうる。よって「存在論」としての哲学は、この「構成的主体」としての「現存在」の固有の在り方である「実存」を分析すること(「基礎的存在論」)から始めなければならない。この「基礎的存在論」において、「超越論的構成」が「現存在」の「実存」の可能性として捉えられる。こうした「実存」の存在構造を通して、「現存在」によって遂行される、存在一般の意味を問う試みが「現象学的存在論」である。

    こうして、フッサール現象学の主題であった「超越論的主観」は、ハイデガー存在論においては「実存的な現存在」として捉え直される。則ち、フッサールにおいて学の基礎づけとしての現象学の目的とされた「超越論的構成」の解明は、ハイデガーにおいては「現存在」の「実存」の解明として捉えられることになる。ところで、ハイデガーにとって「現存在」とは、あくまで世界の内に事実的に存在するものとされる。こうした謂わば「日常性」に埋没している「現存在」が、存在の自己開示の場としての「実存」に覚醒するために、フッサール的な「現象学的還元」(「自然的態度」から「現象学的態度」へ)を、その上に キルケゴール的な「実存的決断」(「非本来的実存」から「本来的実存」へ)というハイデガー独自の問題意識を重ねながら、遂行していくことになる。

    なお、公刊された『存在と時間』は、「現存在分析」の部分のみで、「存在一般の意味」を論じる部分は未完に終わった。



    Ⅴ章ではサルトル、Ⅵ章ではメルロ=ポンティの思想を、それぞれ取り上げている。

  • 現象学の入門書であり、フッサール、ハイデガー、サルトル、メルロ・ポンティー、レヴィ・ストロースなどの現代思想を学ぶことができる。たいへん為になる本である。また、ヘーゲルやマルクス主義との関係なども興味深くよんだ。どうも現象学運動というのは、結論がないようだが、中国の陽明学に似ている。「意識とはつまり何かに対する意志」というような言い回しは、「意の在る所はすなわち物なり」(『傳習録』)であり、「われわれの身体は世界において、ちょうど生物体における心のような位置を占めている」(152頁)などは、「復はそれ天地の心を見るか」(『易』復)と似ている。

  • 最近、木田元の著書を連続して読んだので何となく分かったような気もするが、やはり専門用語を羅列されるとさっぱり理解できない。しかしながら、理解できないまでも生きていくのにほぼ意味がないような知的探求を味わうだけでも楽しい。質・量ともに薄っぺらい本を読むよりはよほど良い。

  • 著者:木田元(1928-2014、新潟市、哲学)

  • 【要約】


    【ノート】
    ・「小林秀雄に教わった」の中で。

  • 現象学についてフッサールからハイデガーへの流れ、メルローポンティの思想が大まかに書かれてある。
    哲学の歴史や一応の哲学的知識があまりないので読むのが難しかった。

    メルローポンティは全体を一つという考え方でアフォーダンスに繋がっているような気がする。

    最後の6ページは作者の現象学に対する期待と希望が現れていて感銘を受けた。

    一部抜粋する。
    「現象学とは、世界のなか、歴史のなかでのわれわれの経験に問いかけ、その意味を解読しようとする果てしない努力である。いいかえれば、(略)全体的経験の文脈のなかで個々の経験が何を言おうとしているのか、何を意味しようとしているのかを、不断に問いつづけようということである。」


    さて、現象学やその他の哲学に社会的意味は必要なのかと疑問には思ったが。

  • フッサールからメルロ=ポンティに至る現象学の潮流をコンパクトに解説している本です。1970年に刊行されたやや古い本ですが、現象学の形成とその後の変容のおおまかな流れを把握するのに、現在でも十分に役立つ内容だと思います。

    現象学はもちろんフッサールによって創始された哲学のひとつの潮流ですが、著者は「序章」で、「わたしは「フッサールの現象学」と「現象学的運動」を区別し、後者に焦点を合わせて考えてゆきたい」と述べています。また、「極端な言い方をすれば、フッサールの思索のすべてが現象学的だということにはならないし、現象学はフッサールの哲学に尽きるものではない」ともいいます。こうして本論では、中期の『イデーン』において達成された超越論的現象学の構想が、フッサールの晩年の思索の中でしだいに「厳密な学」としての性格を脱する方向へと舵を切られることになり、こうした流れがハイデガーやメルロ=ポンティによってさらに推し進められていったことが解説されています。

    そのほか、サルトルの初期の現象学的心理学の構想や、メルロ=ポンティと構造主義との関係、チャン=デュク・タオによるマルクス主義の立場からの現象学批判など、現在の入門書では扱われることの少ない話題についても簡潔ながらも明晰に解説されています。

  • 2016.10.24
    現象学は一つの哲学でありまた哲学的態度であるが、それはフッサールが提唱してから不断に受け継がれてきたのではなく、少しずつそのエッセンスを改訂しながら現代に受け継がれてきた。その意味では現象「学」というよりは、現象学「運動」であると筆者はいう。現象学とは実証主義に対する批判であり、客観というもの自体を主観から超越したものと考え、この主観と客観という関係を現象学的還元という方法により、確かに向こう側にものが見えることは見えるが、その意味は、認識は、主観が構成しているのだとして、ではいかにしてその認識は、つまり主観=客観となる認識は構成されるのか、を問うことによって、一切の認識の基礎づけを目指した学問である。見えているものは頼りない感覚による知覚像であり、その後ろに真実の姿があるというのが科学の視点ならば、見えている知覚像はなぜそのように見えているのかを問う学問と言える。これにより例えば、もの自体という客観は、実は各々の主観にとって同じように見えているというある主体の確信が生み出したもの、つまり相互主観への確信が客観の正体であることなどを突き止める。フッサールのこの思想はしかし後期になると、超越論的主観こそが一切の意味を構成していると思いきや、それ以前に我々には世界という認識が先に来ていることを突き止める。我々は世界に投げ込まれている存在であり、またその世界の中にいるという感覚があるからこそ、その中でまた主観が対象を構成していける。このような人間の認識の構造を、人間の実存の構造、つまり、Q「人間はいかに認識するか」A「世界経験を背景に超越=対象の意味を構成することで認識する」という問題から、Q「人間とはいかなる存在か」A「世界に投げ込まれている世界内存在であり、そしてそこから世界に自らを投げ込んでいく存在である」という存在論的な方向に持って言ったのがハイデガーである。サルトルにおいてはこの、超越論的主観性に先立つ世界経験という概念が抜け落ちていて、この主観こそが根拠中の根拠、よって意識とは何物かへの意識である以上、意識は何物かがなければ存在できない無である、という。ここまでは、まぁ間違っていてもなんとなく理解はできたんだけど、問題はメルロ=ポンティですねー難しかった。主観以前の世界経験を彼は身体論として捉える。それは意識によって意味を見出した世界ではなく、言語化以前の、体によって見出された世界である。我々は言葉がないと認識できないかと言われるとそうではなく、言葉にできないけど何かある、と言えるような領域、そこに意味をつけることで初めて言葉になるような、意味以前の領域を生きている。この意味以前の世界は、この身体によって、この身体との対応関係によって位置付けられる。また私の右手で左手を掴むと、右手は主体で左手は客体のように感じられるが、その気になれば握られた左手が、右手に触れている、つまり主体と客体の関係を逆転させることもできる。つまり身体とは、主体でありかつ客体である。この主客の作用は、私と物、私とあなたの関係についても成り立つ。意識以前の感覚的な身体的世界にとっては、主客は未分化なのである、これが間身体性である……のか?うーん。私は他者という問題に、特に他者の言語からだけではわからない他者との身体性による関わりに最近興味があったので、ここは特に理解したかったんだが、難しかった。現象学と歴史の関係もまた難しかった。歴史哲学というヘーゲルやマルクスの視点がそもそもないな。最後は構造主義と現象学の関係について書かれていたのだが、やはり私は現代思想が東洋哲学の方向に向かっている気がするというか。ソクラテスが理性による真実を語っていた時、ブッダは諸行無常、一切はその本質はなく諸要素が絡み合っていると言ったわけだし、またダルマ=真理の認識は私=世界となることであると言っていた(多分)わけで、これは前者は構造主義、後者は現象学に通じるところがある気がするわけである。現象学の古典的入門書ではあるが、認識論、存在論、実存主義、歴史哲学など、多少哲学のメインテーマに関する知識、これらの問題を先人はどう考えて来たかを知っていないと、ちょっと難しい本かなと思いました。

  • ハイデガーの存在論を理解する近道は、まずフッサールの現象学を勉強することだと思う。読後にそういう感想を持った。木田元は現象学の勘所を本当に丁寧に説いてくれている。

  • フッサールからハイデガー、サルトル、メルロポンティという現象学の系譜をたどった記述がなされながらも各者の思想が散りばめられており、筆者の現象学の理解の仕方がひしひしと感じられる。メルロポンティへの盲目的なまでの肯定は何故か。

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著者プロフィール

1928年、山形県に生まれる。1953年、東北大学文学部卒業。中央大学名誉教授。2014年歿。著書『現象学』(岩波新書 1970)『メルロ=ポンティの思想』(岩波書店 1984)『哲学と反哲学』(岩波書店 1990/岩波現代文庫 2004)『ハイデガーの思想』(岩波新書 1993)『哲学以外』(みすず書房 1997)『最終講義』(作品社 2000)『ハイデガー『存在と時間』の構築』(岩波現代文庫 2000)『偶然性と運命』(岩波新書 2001)『マッハとニーチェ』(新書館 2002)『闇屋になりそこねた哲学者』(晶文社 2003/ちくま文庫 2010)。共訳 メルロ=ポンティ『行動の構造』『眼と精神』『知覚の現象学』『見えるものと見えないもの』(以上みすず書房)フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(中央公論社)アドルノ『否定弁証法』(作品社)ほか。

「2019年 『大人から見た子ども』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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