権威と権力――いうことをきかせる原理・きく原理 (岩波新書 青版 C-36)

著者 :
  • 岩波書店
3.83
  • (39)
  • (42)
  • (42)
  • (5)
  • (3)
本棚登録 : 568
感想 : 43
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (242ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004120360

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 先生とA君の対話を通して、現在自分が感じている社会への不安が頭の中を駆け巡った。
    国会の意義、新しい民主主義の形…。どうすれば子どもたちに出来る限り良い形でバトンを繋いでいけるのか。しがない主婦だけれど、子どもらの未来を考えずにはいられない。

    自分にできることは投票。学び続けること。その学びに子どもを巻き込み語り合い、子どもと共に問題意識を持ち続けること。そして身の回りの人たちとの関係や環境を大切にし、動くこと。技を磨き、自分の経済基盤を整えること。そしてその技をもって手を、足を動かし、社会に貢献すること。

    この本の結論は、「権威と権力のもとに成るまとまりではなく、個々人が自由に振舞いながら、自然に秩序がたもたれる世界=ユートピアを目指そうと。それはつまり調和がとれた世界だと。しかしその世界はきっと現実にはやって来ない。だがそれはみちびきの星であり、どんな場合でも目を離してはならない方向を教える星だ、と。見つめるべきものであって、たどりつくべきものでない。」というものだった。

    先生は最後にマルクスと共に専制政府と独占資本の支配に抵抗して戦ったある社会主義者が、マルクスにあてて書いた手紙を引用した。《われわれを、新しい宗教の教祖にしてはならない。その宗教が、論理の宗教、理性の宗教であるにしても》彼はマルクスと共に戦うと同時に自分たちが内部に持っている危険を意識していた。そして、将来のスターリニズムの危険も予期していたと。権威と権力ぬきの社会を夢みた彼やその周りの者な空想家と仲間から批判され、押しつぶされたそうだ。先生は、「彼らの現実の不成功は、ぼくたちを絶望させない。いや、むしろ人間の尊厳を感じさせ、ぼくたちに希望を与えるんじゃないかね」と、A君に説いた。

    p8〜10で、高校生のA君が、英雄としてあげた人物の1人に毛沢東を挙げていたのに驚く。1974年発行の本書。文革は1966〜1976年、終結宣言は1977年。なるほど。「私」ではなく「A君」の発言なのだけれど。

    p221で先生が発した「人間は、はたして、ばらばらのまま、生きられないものなんだろうか」という一言は、最近自分も考えることがあるテーマだったので、文字になっているのを見てハッとした。この本が発行されたのは1974年3月。45年前。先生の言う調和のとれた世界はやはり理想で、でも、現在とこれから発達していくテクノロジーを元に、小さいまとまりからでも何とか形にできないか。そんなことを考えた。時折読み返したい本。2019/10/8火

  • 自分の無知は、相手の全知全能の証明ではない。しびれた。

  • http://t-tanaka.blogspot.jp/2014/04/blog-post.html

    ある日のことである。一人の高校生が私を訪ねて来た。そして、私に、こんな質問をした。

    から始まる高校生と医者のやり取り。

    高校生は学校でクラス委員をしているが、みんなまとまりがない。まとめるにはどうしたらいいのか。と医者に相談する。なんで、学校の先生じゃないんだ?ま、いいか。

    クラスでまとまりがない状況。ちょっと目線を外に向けた時、まとまりがないのはクラスだけじゃなく、大人の世界だって、社会全体だってそうだという話になる。そして、その原因は
    さまざまな点で、これまであった権威が失われたこと、そこに問題があるのではないでしょうか。
    という仮説から、権威だの権力だのという話が広がっていく。とーっても面白い。

    この本の副題は「いうことを聞かせる原理・きく原理」となっている。

    個人が生きていく上での姿勢、そしてそれらが折り重なって出来上がる社会がみえる。

    「あー、あの人の言っていたことはこれか」と思うシーンもしばしば。僕自身は権威も権力もあんまり気にしていない人間なんだなぁとか、根本的には権威を感じてほしがる人や権力を振りかざす人間をうさんくさいと思っている自分と、でもたまーにそれを使ってしまいたくなる自分もいて、その理由がわかりました。あーあ、知っちゃった…って感じ。まぁ、そんな程度のことしか思い浮かばない。

    この本は1974年初版のもの。40年も前の本。そんなことみじんも感じさせない本。読み終わって、とても重たい気持ちになれるのは、根本的に40年前も今も、社会の構造も人も変わってないんだなぁってことが感じられたから。もっと言えば、人類が集団をつくり営むことが生まれてから、根本は変わっていないんじゃないか…とすら感じられて…。時は流れ、人も変わり、環境も変わり、、、、しかし、それらが変わっているだけで、根本はまったく変わっていないのだな、と。その構造の中で、クルックルックルックルッ、回っているだけなのか?という。それが、いいのか悪いのかもよくわからん。。。

    もし、それが世の常なんだとすれば、自分が学校教育で子供たちに何をどう教えていくのがいいのか、とっても複雑で考えさせられる部分がでてくるなぁ。悩む、悩む。

    「まとまる」ことと「調和する」ことの違いが、議論が展開されていく中で明らかになってくるんだけど、北星余市で展開されているクラス集団作り、学校集団作りというのは、「調和」なんだな…と思えたな。過程の中で、ときに権力を振りかざして「まとまろう」としているように見える部分があるけれど。

    うーん、5年後、また読んでみよう〜。

  •  筆者とある高校生Aの対談形式。話が効率的できれいにまとまっているため実際にあったのではなく創作だろう。初版は1974年。
     権威とは強制せずにいうことをきかせるもので規則を必要としない。一方で権力は強制力をもっていうことをきかせるもので規則を必要とする。最近権威が失われて権力がむきだしになっている。権力は権威が二重うつしのイメージになっている。権威が失われたのは権威を感じていたものが成長して権威を持っていたものと対等な関係になってきたからではないか。権威が生まれるのは人が知らないことの判断をそれについて詳しい人にゆだねることから生じる。現実に自分で接して判断すればいい。または知らないものは知らないままでもいい。そうすることで権威を遠ざけられる。
     私たちは「まとまりもなくなり、調和も得られないという、宙ぶらりんなところで生きていかなければならない。ユートピアはみちびきの星のようなもの。みつめるべきものでたどりつくべきものではない。

  • 最近身の回りで、何らかの権威の存在を感じることが多かったために読んだ。著者と高校生A君の対話という形式で、身近な話題から、権威・権力・説得などについて議論が繰り広げられていく。難解な言葉を使わずして、ここまで思考を刺激する文章が書けるものなのだな、と感嘆した。

    つまるところ権威というのは人々に「いうことをきかせる」力であって、権力というのは、それでもいうことをきいてくれない場合に、何らかの制度的な措置で無理やりいうことをきかせる力であるという。

    また、権威というのは、権威を有するとされる側が特別何かを持っているというよりは、いうことをきかせられる側が抱いてる不安に立脚していることが多く、自分たちが判断するのをあきらめて、誰かに判断を委ねると、権威が入ってくる隙が生まれるという指摘はその通りだと感じる。

    また、本文ではそう明示されていないが、最近の社会(この本は1974年に出版されている)では目に見える危険は少なくなったけれども「ひそむ危険」が大きくなっており、これが一層、権威主義を加速させているのでは、ということが述べられている。これはまさしく、(公害問題等が発生した直後という時代背景から考えても)いわゆる「リスク社会」を意味しているように思われた。

    そもそも、絶対的な判断を求めてしまうからこそ権威主義的になってしまって、わからないことに対してのある程度の諦めの気持ちを持っておくことが大事だというのは本当に納得できる。

    「まとまりのある社会」ではなく、みんなが好き勝手やっているけれどある程度「調和がとれる社会」が理想だとしつつ、その理想は必ずしも実現すると考えないで、永遠の彼方にあり、我々の進路を教える導きの星である、としている。ここが個人的には一番感動した部分で、嘘偽りを言っているでもなく、それでいて冷ややかさも感じない、ちょうどいい温度の優しさを感じる。

  • 筆者と高校生の対談形式。

    権威 : 強制せずにいうことをきかせるもの。規則を必要としない。
    権力 : 強制力をもっていうことをきかせるもの。規則を必要とする。

  • リーダーシップにもつながるし、政治権力ともつながる話。
    集団生活をおくる上で避けて通れない問題に真正面から取り組んで、かなり本質的で明確な指標を示している。

    権威は他人が喜んで従う力、権力は他人を無理やり従わせる力。
    当初は権威と権力が結びつくことが多いが、権威が失墜したときには人は自ら進んでは従わなくなって、権力の強制力のみが残る。両者は初めは渾然一体となっている。
    札幌農学校のクラーク博士は、「紳士タレ」の一言で規則はいらないとしていたが、彼がいなくなった後、農学校は規則を作らざるを得なかった。
    逆に、自分がいなくなっても困らないように、と簡単に変えられない「しくみ」を作る人もいるが、権威のない権力構造に従わざるをえない後輩には、重荷でしかないかもしれない。

    親の権威、学校の権威、会社の外部に対する権威、内部の権威、政府の権威、いずれもそれに従う者の意識によって、喜んで従う権威にも、いやいや従う権力にもなりうる。権威は人格に結びついたものから発生し易いが、例えば大学教授らしくない人が多くなれば、大学教授全体の権威も失墜する。まさに、ブランディングと同じだ。権威を失った地位のみに基づく権力は慣習的な圧力として存在する場合もあれば、法的拘束力を伴っている場合もある。
    権威は自然発生的で個人の人格と深く結びついており、組織の外部にも影響を及ぼすが、権力は一定のまとまりを持った組織の内部にのみ影響する。

    一方、いうことを聞く側の心理を考えると、権威に対して従う心理とは依存心であり、これは親に依存して成長する子供を経験するすべての人が持っている心情である。→この解釈が秀逸だ。
    この関係は、その延長線上に親子関係に類似した様々な関係を持ち、究極的には神と人間との関係で現れる。この依存心を形成するのが、不安や恐怖であるという。
    子供も自覚を持つようになれば、無条件の従順から脱皮して反抗するようになる。そうなると、親の地位に基づいた権力を振るわざるをえない。
    不安→内部の安心(権威)・恐怖→外部からの罰(権力)という関係。

    権威(ブランディング)は世の中を簡略にわかりやすくしている。ノーベル賞や芥川賞にはじまり、学歴、一流企業(大企業)の信用などは、その代表例だ。
    一方、それを利用する者も後を絶たない。有名人を利用したコマーシャルはまさに人格に伴う権威を利用しているものだし、昔よくあった、外国(アメリカ)ではこうですよ、他社はこうしています、という説得方法も、権威を利用している。
    権威・権力による働きかけは、説得もあれば、権力による命令、罰や報酬をチラつかせる脅迫もある。また、最も怖いのは「暗示」で、コマーシャルを繰り返し見せられるような手法が、ナチスでは政治的に利用されたこともある。
    いずれにしても、行き過ぎた依存心は権威に付け入るスキを与えるし、依存心の強い人は、不安が強くなると英雄を待望することになる。

    筆者は、社会主義の立場から、いろいろ問題提起をしたかったようだが、世の中が「まとまりを持ちたい」、「・・・らしくさせたい」という傾向が強くなってきたら、権力主義的にならざるをえないという指摘は的を得ているし、今まさに世界的にそんな空気が流れていると思った。

  • 権威主義や権力主義に対する批判としてもっともな指摘をしている。特に、過去のあらゆる革命が、結局のところ権力奪取のための闘争に過ぎず、旧体制と同じ穴のムジナであったという点は納得。揉み消され、潰された少数派の声に こそ傾聴すべきと納得した。

    しかし、著者の提唱する「反権威主義的」生き方には、全面的には賛同できない。親に対する「孝」の心情、目上の者に対する「忠」の心情や、より大きなもののために生きるということ。それらを完全に無くして生きていくことが、どうしても美しい生き方とは思えないのだ。(こう感じている時点で、著者からしたら私は「権威主義」に毒されているのだろうな)

    家庭の価値や格位を抜きにした社会が本当に良い社会とは思えない。人間が自由にふるまいながら、自然に秩序が保たれる世界とは、すなわち野生動物たちの世界と何が違うのだろう。

  •  なだいなたが権威や権力とは何かについて対話形式で紐解いていく。

     最近は色んなものの権威が弱くなって駄目だという若者との対話を通して権威というものを考えていく。権威とは相手側にある意見に従う方向性である。それは相対的なものであり、絶対的な権威も絶対的に正しいこともない。私達は絶対的な正しさを求めるのではなく、絶対的な正しさがないながらも繋がっていく調和が必要なのだと説いていく。
     30年前に書かれた本だが、普遍的なテーマで時代や組織を選ばず参考になる。

  • 私にとって、対話形式であることがより分かりやすく読み進められるポイントとなりました。実はこの本は、大学一年の時課題図書として他の本と一括購入したものです。当時は『権威と権力』というタイトルだけで”難しい”と決めつけて、おもしろそうな章のみ読んで感想文を書いたのですが、その章が殊の外忘れられずにいて、10年後に読み返したらスラスラと読めました。そしてなにより多くの気づきと視点を与えてくれたと思います。1974年初版ということですが、30年以上たった今でもまた読みたいと思わせてくれる一冊です。

全43件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

なだいなだ:1929-2013年。東京生まれ。精神科医、作家。フランス留学後、東京武蔵野病院などを経て、国立療養所久里浜病院のアルコール依存治療専門病棟に勤務。1965年、『パパのおくりもの』で作家デビュー。著書に『TN君の伝記』『くるいきちがい考』『心の底をのぞいたら』『こころの底に見えたもの』『ふり返る勇気』などがある。

「2023年 『娘の学校』 で使われていた紹介文から引用しています。」

なだいなだの作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
ヴィクトール・E...
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×