権威と権力――いうことをきかせる原理・きく原理 (岩波新書 青版 C-36)

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  • Amazon.co.jp ・本 (242ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004120360

感想・レビュー・書評

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  • 随分前に読んでいたけれど登録するのを忘れていた。
    高校生くらいに向けた本だと紹介されていた通り文章はとても読みやすい構成で会話形式の説明がわかりやすかった。けれどそのとっつきやすさ以上に内容の充実ぶりに驚く。
    虎の威を借るキツネ現象だとか、世間という権威についてなど身の回りでごくごく当たり前に行われていることに対して鋭く切り込んでいる。ある分野の権威者が他の分野にも権威を発揮するなどは日本の芸能界でよくみられる事例だし、広告業界が多用している手法でもある。こういう風に見ていくと世間はおもしろい仕組みなのだと思えてくる。
    あらゆる権威や権力に騙されないため、または自分がそれらを振りかざさないために教訓として書棚に並べておく。

  • さまざまな対話篇を描き続けた なだいなだ であるが、この『権威と権力』はその中でも、ひとつの彼にとっての到達点であるような気がする。
    『民族という名の宗教』や『神、この人間的なもの』『くるい きちがい考』とこれまで読んできたが、特に最後とも言える『神、この人間的なもの』は、わからない、そういうところへの挑戦であったのに対し、この権威と権力は、彼の土俵でどこまでもすっきりとさせようと心がけている。この辺は『くるい きちがい考』でも似ている。
    言うことをきく・きかせる というものを、心理学的な勢力や情報量に基づいて捉えなおしたように見えるのは、後の時代を生きる人間だからなのだと思う。学術的なことばを彼が知っていたかどうかはともかく、彼がそのようなことを考え、そして生きていたということは確かである。
    彼の本に総じて言えるが、そのときそのときの事件を取り上げて、社会はこうなっている、と捉えるのは、売る側だったり、当時の世評の都合に沿わせるものなのではないかと思っている。べつに社会がこうなっている、とあたかも暴き出すように書くのが悪いことではない。ただ、起こったことに対して、説明はかなりいろいろつけられるのは確かである。筆者が思ったように世界は見える。思ったようにしか見えない。それ以上でもそれ以下でもない。だから、どのように説明をつけても、筆者が思ったようにしか説明できないし、そこから外れることはまずない。
    どのように説明をつけても構わないが、彼がどのように考えていたかはわからないが、それをモデルとして提示し、社会やそれを取り巻く問題の予測をしなかったのは非常に悔やまれる。
    それは科学者や宗教家の仕事だから、と言われればそれまでかもしれないが、仮にも医学という科学を生涯の学問として身にまとっていたのだから、余計にそう感じてしまう。
    おそらく、科学では面倒くさいから、文学というやり方をとっているのだろう。未来を「信じる」というのは、科学ではどうしたって扱えないことだから。文学は、書かれたことによって、書かれないことまでひとに感じさせる力があるからだ。だからこそ、調和の未来をあれこれ述べるのではなく、ただ控えめに示すという形で見せるのだ。

  • 「権威には内部的な不安が、権力には外部からの恐怖が対応する」

     権力の源泉について考えたいと思って本書を読んだんですが、多くのページを割いているのは権威についてです。

     ざっくり言うと、権威の失落は権威を持つ側の資質の劣化ではなく、権威を感じる側野得られる知識や情報が豊かになったためだということです。それまでは独占されていたことが一般ピープルに開放されたため相対的に権威の位置づけが低下したということでした。

     権威の構造はわかったのですが、やはり私は権力の源泉について知りたく、そしてあわよくば権力が欲しいと思っています。

     第一次世界大戦までは権力の源泉は暴力でした、それも目に見える身体的な暴力です。そして、権力の目的は人に言うことを聞かせることです。
     第一次大戦後、進歩的と言われたワイマール憲法の下でヒトラーが躍進し第二次大戦が勃発しました。
     大戦の反省から、権力ではなく民主制によって国を統治しようとした結果、ヒトラーという独裁者が誕生してしまいました。

     このプロセスは結構皮肉なことですが、それを見ていた権力者はあることに気づきました。

    「みんなで選んでもヒットラーが出てくるなんて、人間って案外ダメダメじゃね?」

     こう考えた権力者たちは、権力を仕込み始めました。それは暴力ではなく影響力による統治です。暴力は隠蔽されシステムとして設計されてゆきます。
     世界大戦後に帝国主義が折れた結果、暴力を源泉とする旧来の権力構造が引き継がれたのは共産主義であり、よりシステム化された権力構造が引き継がれたのが資本主義でした。そして、ソ連の崩壊とともに共産主義は過去の歴史となってゆきます。

     ファシズムの勃興を激しく嫌悪しながらも所有と経営の分離を見出し、ピーター・ドラッカーはマネジメントという概念を抽出してきました。
     経営学の筋から見ると、マネジメントは株式会社の組織構造から見出されたものと言えます。
     ですが、政治学の筋から見ると、マネジメントとは影響力の操作でもあり、それはまるで、隠蔽された権力構造が名前を変えただけのようにも見えます。

  • 【目次】
    目次 [i-ii]

    はじめに [001-012]
    ある高校生のいらだち/英雄待望の感情
    第一章 失墜した権威 013
    まとまりのなくなった原因/失ったものをとりもどす/個人の権威と組織の権威
    第二章 権威と権力 033
    個人の地位と権力/権威の落ちたあと
    第三章 権威とは何か、権力とは何か 047
    いうことをきく・きかせる/いうことをきかせる
    第四章 いうことをきく心理 065
    依存と権威/不安と恐怖
    第五章 判断と権威 083
    医者という職業/名医の信仰/なぜ、医者のように特別権威的な商売があるか
    第六章 日常の中で 107
    東京都という言葉の重み/現実と私たちをひきはなすもの/賞の権威/個人の判断の停止/小権威者たち
    第七章 説得の方法 147
    さまざまある説得法/暗示による説得と理による説得/暗示と自己暗示/理による説得
    第八章 権威と反権威 181
    理による説得の限界/専制に対する反抗と理想/少数の反抗/正統性の主張
    第九章 まとまりなき社会 207
    まとまりの否定/全体と部分/理想への距離

    おわりに [235-242]

  • 権威の失墜にやけに拘ってて、こちら側の問題意識とずれていたのが残念でした。ゴミ箱行き。

  • 権威、権力など自分にはそう身近でない言葉だと思いきや、読むと自分がただ盲目なだけだったとわかる。

    人が他者に従うとき、その人は何によって従うのか自覚しているだろうか。権威か権力か、それとも理か。
    突き詰めると一人の人間がすべての生きた現実に触れることは実質不可能であるから、一定の権威、権力に付き従うことはやむを得ないように思う。何によって従っているのかを自覚することがまず必要なのだ。逆に、何によって従わせようとしているのかについても同様。

  •  精神科医の筆者・なだを訪れた高校生・Aはまとまりのないクラスの相談を持ち掛ける。なぜまとまりがないのか、どうすればまとまりが取り戻せるのかについて権威と権力をキーワードに、なだとAが議論を展開する。

     ボクは権力や規範などについて扱う教養書を期待していたので、文章がほとんどがなだとAの対話形式である本書を開いた時は面食らった。なぜなら教師と学習者の対話形式を取る本でよく起こる悲劇は学習者が教師の言葉にいささか従順でありすぎるところにあるからであり、この本にも同じ疑いを向けたからだ。しかし、この本がテーマとする権威と権力はメタ的な議論を可能にする装置としてこの問題を見事に回避している故に、この本は優れている。

     また、なだの描くAは批判的思考を欠かず終始議論を動かし続けるが、それはロボットのようなストイックさを持たず、また、恣意性を感じる流れもなく、純粋にな知的欲求を持つ活き活きとしたキャラクターとして顕現する。このようにこの本の対話形式はひとつの表現手段として成立し、魅力を感じながら読了できた。

     内容の妥当性に関しては正直なんとも言えないし、判断の下しようがない。そもそも「権威」「権力」を定義しようとするときも、広辞苑のような辞書の定義を引くのはなぜか、人間の言葉の後にできた辞書になぜ権威を感じられるのかという問題意識から、フルスクラッチで権威と権力を定義している。こういう議論できたらいーよね。

     参考になったし、完成度たけーなと思うので☆5で。

  • 一人の高校生の相談から話が始まる。
    「ぼくのクラスはまとまりがない。どうしたらまとまるのでしょう」
    ここからじゃぁ、なぜまとまりがという状態に陥るのか、という話につながっていき、教師や親の権威がなくなったからだ、となる。権威ならばまだよいが、ルールや規則でしばる権力的な支配もあるという話になる。
    以下は気になるフレーズだ。

    権力は組織に属する人間に、権威はその外側にも働く。
    北大の前身の札幌農学校の初代校長となったクラークは「規則はいらない。規則で教育ができるか。≪紳士たれ≫この一語で充分だ」と言ったらしい。規則で人をしばるのは権力での支配ということになる。個人的な権威の場合には、権威をもった者とそれを感じる者が直接触れ合っていた。地位の権威の場合には、二つの間に権力が割り込んできて、権威を遠ざける。権力は常に権威を背中に背負った形を取る。

    権威も権力も、言うことをきき、聞かせる原理に関係している。権威は、ぼくたちに自発的にいうことをきかせる。しかし、権力は無理に言うことをきかせる。
    権威は決して権威者の内部では自覚されない。だから権威ある人間としてふるまおうとする人間は権力的になる。
    多数の意見は決して常に正しい意見ではない。しかし多数がいつも間にか権威になるのだ。権威をぐらつかせることは、実はそのまわりにある人垣と、たたかうことになる。
    権力を否定するのなら、非権力主義者、あるいは反権力主義者にならねばならない。権力を奪おうとするのは、すでに権力支配を認めていることになる。
    人間はばらばらのままでは生きられないからこそ、ある程度しか、ばらばらになれない。生きられる限度で必ず調和を見つけねばならなくなる。

    --
    個人的には人間はやっぱり、権力をもってしかまとまらないように思う。ルールは多勢の個体を、少なくとも問題を起こさないように設定されるべきものだからだ。そもそもまとまり得ないと思う。
    権力の無い状態でまとまることが、ユートピア的発想といっているが、その通りで現実的にはあり得ないと思う。なぜなら人間は欲望の動物だから、と個人的に思う。

  • 人をまとめる力としての権威と権力の違いについて述べている。対話形式なので、すぐ読める。難しい内容を簡単にするよう筆者が努力したように思えて、このような伝える技術も身につけなきゃなあとしみじみ思った。

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著者プロフィール

なだいなだ:1929-2013年。東京生まれ。精神科医、作家。フランス留学後、東京武蔵野病院などを経て、国立療養所久里浜病院のアルコール依存治療専門病棟に勤務。1965年、『パパのおくりもの』で作家デビュー。著書に『TN君の伝記』『くるいきちがい考』『心の底をのぞいたら』『こころの底に見えたもの』『ふり返る勇気』などがある。

「2023年 『娘の学校』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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