日本の思想 (岩波新書)

  • 岩波書店 (1961年11月21日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (214ページ) / ISBN・EAN: 9784004120391

作品紹介・あらすじ

現代日本の思想が当面する問題は何か.その日本的特質はどこにあり,何に由来するものなのか.日本人の内面生活における思想の入りこみかた,それらの相互関係を構造的な視角から追求していくことによって,新しい時代の思想を創造するために,いかなる方法意識が必要であるかを問う.日本の思想のありかたを浮き彫りにした文明論的考察.

みんなの感想まとめ

現代日本の思想に関する深い洞察が展開されており、特に「である」ことと「する」ことの対比が印象的です。前半は難解に感じる部分もありますが、後半ではわかりやすく、興味を引く内容が展開されています。著者は、...

感想・レビュー・書評

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  • 日本の思想という表題に惹かれて手にした書籍です。前半の部分は私には難解に感じ、ページが進みにくかったのですが、Ⅳ章の
    「である」ことと「する」こと
    は、とてもわかりやすく感じたし、興味を持って読み進めることができました。
    前半の部分を理解するには私の読書量が足りておらず、まだまだ修行が足りないのだと感じた次第です。年を重ね本書に登場する方々の書籍を一読したのちに、再び門を叩くような書籍でした。

  • “右にのべたような状況、すなわち一方で、「限界」の意識を知らぬ制度の物神化と、他方で規範意識にまで自己を高めぬ「自然状態」(実感)への密着は、日本の近代化が進行するにしたがって官僚的思考様式と庶民(市民と区別された意味での)的もしくはローファー的(有島武郎の用語による)思考様式とのほとんど架橋しえない対立としてあらわれ、それが「組織と人間」の日本的なパターンをかたちづくっている。(p.52)”

     言わずと知れた、岩波新書を代表する名著である。書名の通り、日本の思想の特質とは何かについて述べており、現在巷間に流布している「日本論」の出典の一つといって良いだろう。2、3年前に夏の古本市で手に入れてからずっと積読していたのだが、今回漸く読み終えられた。

    1 日本の思想
     本書の中心となる小論である。理解できているとは思わないが、概略だけまとめておく。(以下、(?)を付けた箇所は僕の解釈なので、誤っているor言い過ぎている可能性大。)
     まず丸山は、日本的特質は、思想の軸を持たないがゆえに終ぞ内部に連関を持ちえなかった、思想の無秩序な雑居性にあると述べる。
    “…それらがみな雑然と同居し、相互の論理的な関係と占めるべき位置とが一向判然としていない…(p.8)”
    西洋文化ではキリスト教が思想の軸としての役割を果たしていたため、例えばニーチェによる道徳の欺瞞性の指摘がヨーロッパ的伝統に対する強烈なアンチテーゼとして機能した。一方で日本では、仏教にせよ神道にせよ、宗教が思想上の軸として作用するような伝統を形成しなかったため、新しく外からやってきた思想は「伝統」との対決を経ず、なし崩し的に受容される。再びニーチェの思想を例にとると、文脈が大きく異なるにも拘わらず、日本人の生活実感としての無常観の一類型として分かったことにされてしまう(ことがよくある)。
    “いろいろな思想が、ただ精神の内面における空間的配置をかえるだけでいわば無時間的に併存する傾向をもつことによって、却ってそれらは歴史的な構造性を失ってしまう。(p.11)”
    丸山はこのような特質が生まれた原因までは明言していないが、日本の歴史的な後進性・辺境性は一つの要素だろう(?)。つまり日本が、古代から中世においては中国文化を、近代以降においては西洋文化を、と、外からやってくる文化を受容する立場であり続ける立場であったことに由来するのではないだろうか。このようにして外来思想を尊び貪欲に取り入れる一方、その反動・自己防衛として(?)イデオロギー一般を拒否し、直接対象に参入しようとするもう一つの傾向も古くから根強い。その典型が、漢意(からごころ)や仏意(ほとけごころ)を斥け、儒仏以前の「固有信仰」を復元しようとした国学の本居宣長である。明治維新を機に国家として自らを画することになった日本は、上(=外)から注入される官僚的制度と、下から立ち昇る「村」共同体的同化思想が混合することによって、超近代と前近代が歪に同居する事態に陥ったというのが日本社会の問題点である。
    “…合理的な機構化にも徹しえず、さりとて、「人情自然」にだけも依拠できない日本帝国はいわば、不断の崩壊感覚に悩まねばならなかった。(p.49)”
     外山滋比古は“第一次的現実にもとづく思考、知的活動に注目する必要がある(『思考の整理学』p.195)”と述べたが、実は日本ではそれが二重に阻まれていたのである。一つは完成品を有難がり、手ずから思想を作り上げることを相対的に下に見る傾向によって、もう一つは生活実感を抽象化し思想にまで昇華させることを忌避する傾向によって。

    2 近代日本の思想と文学

    3 思想のあり方について
     社会の2類型として「タコ壺」社会と「ササラ」社会という対比を導入し、日本社会は、根底に共通した基盤を持たない「ササラ」社会であると述べる。

    4 「である」ことと「する」こと
     僕が丸山真男を知ったのは高校の国語の教科書だったが、その時に載っていたのがこの文章。或るものの価値は、そのもの自体であることから先天的に生じるとするのが「である」論理で、現実的な機能や効能から生じるのが「する」論理である。文化や学問の分野では「である」論理が、政治(民主主義)の分野では「する」論理が適用されるべきであるが、実際にはそれらが倒錯している点を丸山は問題視する。
    “…「『する』こと」の価値に基づく不断の検証がもっとも必要なところでは、それが著しく欠けているのに、他方さほど切実な必要のない面、あるいは世界的に「する」価値のとめどない侵入が反省されようとしているような部面では、かえって効率と能率原理がおどろくべき速度と規模で進展している…(p.176)”

     特に1,2が難解で、何度か読み直して丸山真男が何を言っているかがやっと分かってきたところであるから、実際にこの本で為された議論が現代社会に対してどの程度当てはまるかということはこれから吟味していかなければならない(このレビューも、大雑把な展開をまとめるだけのものになってしまった)。少なくとも、部分部分として見ると肯けるところが多かったように思う。

  • 高校国語定番教材。
    『「である」ことと「する」こと』所収。
    その身分「である」こと、らしく振る舞うことが重要だった時代から、その身分に応じた仕事を「する」ことを求められるようになった変化。

    なんとなく後者の方がマトモに思えてしまうのだけど、筆者の言うように「する」ことが過剰になりすぎているきらいがある。
    むしろ「しなければならない」プレッシャーが、現代には噴出しているように思う。

    では、「である」ことの価値とは何か。
    筆者はアンドレ・シーグフリードを引用して、「彼によれば芸術や教養は「果実よりは花」なのであり、そのもたらす結果よりもそれ自体に価値があるというわけです。……「古典」というものが何故学問や芸術の世界で意味をもっているかということがまさにこの問題にかかわって来ます。」と述べる。

    どちらか一方に価値があるのではなく、その性質を見極めなくてはならない。

    他、「日本の思想」等が収録されている。
    日本の思想や学問が、地続きではなく蛸壺式であることへの言及。
    岩波新書が改版してくれたおかげで、字面も見やすくなった。ありがとう。

  • 他で日本思想の入門書を読んだので、もう一歩踏み込んでみようかしらと思って手に取った。入門書で感じていた「あれ?そもそも日本に思想てあるのか?」という問いにこの本は応えてくれた気がする。
    ベースとなる知識が必要なので、全てを理解したわけではないが読み取れる部分からは発見と驚きがあり、面白かった。

  • とても良い本なのだろうとは思うのですが難しい。
    気になった、心に残ったところ。
    Ⅰ日本の思想から(p.7)「断片的な思いつきを過度に尊ぶ「オリジナリティー」崇拝」。この本は1961年に出版されているのですが、現代にも通じるように思った。
    Ⅲ思想のあり方についてから(p.138)総合大学について「いろんな学部が、一つの地域に集中しているにすぎない」「総合的な教養が与えられるわけでも、各学部の共同研究が常時組織化されているわけでもない」「ユニヴァーシティという本来の意味からかけ離れている」という当時の大学批判は、現代ではどうだろうか?国立大学が民営化され、個々の大学が独自色を模索し社会とつながろうと様々発信してくれているように、変わってきているのではないか。
    Ⅳ「である」ことと「する」こと。この章は講演を基にしていることもあってか、比較的わかりやすく、心に残った。日本国憲法の十二条に対し(p.155)「国民はいまや主権者となった。しかし主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目覚めてみると、もやは主権者でなくなっているといった事態が起こる」というのは、これまた、まさに現代でもいえることではないか。日本人は政治を論じない、日本は若者が政治を語ることを求めない、勧めない。政府にアクションを取ることもしない、教えない。(p.156)「自由は」「現実の行使によってだけ守られる」「日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうる」ということは自由以外のことに対しても言えるし、何より「自由」であることは、本来他の何より優先し、持つことを意識しないでいると失われてしまいかねない。

  • 〇要約(~71頁)
     日本の民俗信仰である「神道」は、かねてよりその時代に有力な宗教と習合してその教義内容を埋めてきた。このような「神道の無限抱擁性と思想的雑居性」が相互に矛盾し得る哲学や宗教、学問等を平和共存させる思想的寛容の伝統の下に受け入れたため、新思想は無秩序に埋積され、近代日本の精神的雑居性は甚だしいものとなった。また、思想や価値観というのは、他からの刺激があって初めて自覚的で意識的なものとなるが、我が国ではかつてより他との関連の中で、自己を歴史的に位置づけるような思想に乏しかった(あったとしても断片的なものであった)ため、開国後西洋文化と対決することもなく、むしろ、自国の思想的伝統を曖昧なものにしたのである。
     開国後近代化に伴い、日本では、近代社会の必須要請である機能的合理化(ヒエラルキーの成立)と家父長的あるいは情実的人間関係という相互に矛盾し合うバランスを上からの国体教育の注入と下からの共同体的心情の吸い上げによって調整していく統治技術が求められた。そして、上述ように、我が国の確固たる思想や精神が確立されないまま、近代天皇制が精神的機軸としてこの事態に対処しようとしたが、私たちの思想を実質的に整序する原理としてではなく、むしろ否定的な同質化(異端の排除)作用の面だけで強力に働いた。
     すなわち、日本は、基底に共通した伝統的カルチュアのある社会ではなく、最初から専門的に分化した知識集団がそれぞれ閉鎖的な「タコ壺」をなす社会なのである。

     とにかく難解。1度読んでも内容が理解できず、2度目に何が分からないかが分かり、3度目にようやく文章の論理や内容がところどころ理解できるようになるレベルであると感じた。普段用いない用語が多いこともあって、言葉を読めてもその具体的意味が頭に入ってこないことが一つの要因なのかもしれない。
     日本では昔から、他との関連の中で、自己を歴史的に位置づける思想に乏しかったとあるが、その要因として、日本が海洋国であることや特に江戸時代には鎖国体制にあったことが考えられ、そのことが本書には記載されていないが、このようなことはおそらく当然の前提としているのであろう。
     難解な文章ではあったが、「制度」と「精神」の関係(40頁周辺)は勉強になった。政治や経済の制度「それ自体は世界共通であっても、人間関係が介在した制度はすでにカルチュアによって個性的な差を帯びる」ため、何らかの制度を創設、分析する際には、制度における精神(制度下にある人々の精神)を含めた全体構造を検討する必要があるというのは、政策を立案する時には頭の片隅に置いておきたい事項といえるであろう。

  • 日本の思想という、今にも繫がる視点からかかれたもの。
    ヨーロッパが共通の基礎的連帯があるが、日本はない。(昔は國體意識はあったが)なので、ササラ型ではなくタコツボ型なありかたである。そこでは、分化していて相互のコミュニケーションが不足しがちである。そこで、登場するのがマスコミ。マスコミは共通の場を作る一方でその理論を浸透させようとする。だが、マスコミ自体もやはりタコツボであるから共通のコミュニケーションがない。
    タコツボでは、「である」という状態が特に意識される。
    本来「する」領域でも「である」が居座っている。なので、「である」で見てしまい反省できないことがある。
    「である」により、政治も専門家のなかに閉じ込まれてしまう。たこつぼ?国の制度も「である」で判断しがち。とにかく、「する」でみないと民主主義や政治が自己目的してしまいがち。

  • 1961年と戦後10数年の段階で出版された丸山真男による現代日本の思想の特徴などについて書かれたもの。

    古来からの日本人の思想的特徴、開国以来取り入れられた西洋文明、近代天皇制などを踏まえて論じられている。
    日本人の無責任的な思考は、今も変わらないのではないだろうか。

    Ⅲの「タコツボ」型というのも今もあてはまる。
    Ⅳの「である」ことと「する」ことは、Ⅲと並んで、本書の中では読みやすい。

    特にⅠとⅡが内容的には言い回しが難しいのと、文章の一文が長く、一読しただけでは読み取りづらい点も多い。

    Ⅰは、日本人の思想を考えるうえで、避けては通れないもの。

  • 3/24読了!
    2章めっちゃ難しかったです!!!!!
    その分3、4章はスイスイ読めました。
    1章では近代日本の思想がいかに形成されたのか、それが続く2〜4章では社会や生活、芸術分野にどのように影響しているかが書かれていたと感じました。
    3、4章は現代にも通用する事柄も多く、終始頷きながら読みました。

    昔読みかけて訳わからなすぎて断念していたのですが、哲学や思想など他の本を読んだ今ではかなり楽しく読めています。
    世界の思想史や本居宣長の「もののあはれ」について知っていてよかったです(私が)。
    第二章:近代日本の思想と文学 が楽しみすぎます。

  • 丸山真男とか全然知らないのでとりあえず一冊読んでみた。とにかく日本の学問、思想について色々書かれていたけど、特に重要なのは学問は細分化されすぎており蛸壺化しているとの指摘。また、細分化された中でより専門性を高めているがゆえに横の繋がりが全くない、もっと全ての学問を網羅的に見渡す必要があるのではないか。そのために我々は尽力し知恵を出し合わなければならいのではないか、という内容だったけど一切是正されていない今日の状況を鑑みるに理想と現実の厳しさを思うしかないね。

  • 日本の思想史を語るとき丸山眞男の名を外すことはできないという。彼は戦後民主主義の根を日本にどう下ろすかを問い続けた。封建的な上下関係や共同体への従属が近代化を妨げてきたと指摘する。その洞察は今なお社会の至る所に響く。だが七十余年を経た今も私たちは「空気」に縛られ異論を避ける風土から抜け切れていない。丸山の問いかけは過去の学説ではなく未来への宿題として私たちに残されている。



  • 岩波新書 丸山真男 「 日本の思想 」

    新書1冊読むのに、事前に副読本を2冊読むまわり道をしたが、その価値はあった

    近代の批判というより、日本の近代の流入の仕方を批判している。近代日本の精神の雑居と雑種の違いは なるほどと思う。全体を理解するキーワードは「自覚」と解釈した

    著者の全体を通したメッセージは、新思想が無秩序に埋積された「雑居」を、内面的に交わり新たな個性となる「雑種」まで高めるには、著者ら研究者の分野を超えた横断的な対話を通じた伝統の自覚、日本精神の体系化が必要である、と捉えた


    ★日本の思想

    日本の思想の構成
    ・無構造の「伝統」
    ・國體における臣民の無限責任
    ・天皇制における無責任の体系
    ・フィクションとしての制度〜制度の物神化
    ・マルクス主義

    *日本における思想的座標軸の欠如
    あらゆる時代の観念や思想に否応なく相互関連性を与えて〜自己の思想的立場を位置づける思想的伝統は、日本において 形成されなかった

    *開国の意味
    自己を国際社会に開くと同時に、国際社会に対して自己を国(統一国家)として画する

    *無構造の「伝統」
    過去は自覚的に対象化されて現在のなかに止揚されないからこそ、背後から現在のなかにすべり込む〜思想が伝統として蓄積されないことと、伝統思想のズルズルべったりの無関連な潜入は同じ

    *フィクションとしての制度とその限界の自覚
    フィクションとしての制度の自覚は、同時にフィクションと生の現実との間の鋭い分離と緊張の自覚〜もろもろの制度がオートマティックな運転を開始するにあたって〜制度の物神化という「近代の危機」に至る

    *理論における無限責任と無責任
    マルクス的考え方は〜自己の依拠する理論的立場が本来現実をトータルに把握する〜無限の現実に対する無限の責任は、自己の学説に対する理論的無責任となってあらわれる

    *タコツボ社会の日本
    専門的に分化した知識集団が閉鎖的なタコツボをなし、共通の広場が形成されない社会

    ★近代日本の思想と文学
    *政治的及び科学的なトータリズム
    政治=階級闘争の全体性は、現実を全体的に捉える理論を 内面化することによって形象化される建前が貫かれていたこと、政治的トータリズムと科学的トータリズムとが見合った形で作家にのしかかっていたこと、そこにこそ「政治の優位」の原則が猛威をふるった秘密がある

    政治における非合理的要素の切り捨てが、政治的なものと法則的なものをイコールに置いた「政治の優位」の思考が生まれる第一の帰結となる

    *政治過程におけるエモーションの動員
    政治過程において非合理的契機が発生するのは。政治が人間行動を組織化するという要請によって、人間性のなかのエモーショナルな要素を動員しなければならないため

    政治過程における非人間的な契機は、理論の閉鎖性と完璧主義が実践面に翻訳された形態として現れる

    *政治における決断の契機
    政治過程は〜決断の埋積から成り立っている〜やってみなければ分からないという賭けの要素が一つ一つの決断につきまとう

    *思考法としてのトータリズム
    政治における直観と賭けの要素を絶対化し、自己目的化したのがファシズムのイデオロギーである〜例外状態における決断を規範と論理に優越させる点において、ファシズムが政治史上主義である所以がある

    *政治、科学、文学における同盟と対抗の関係〜国策文学へ
    哲学者、文学者、社会科学者が、それぞれの方法が違っていることを前提として、その基底にある知性の自由と普遍性を擁護する途が、双方において見失われた

    ★思想のあり方について
    *人間はイメージを頼りに物事を判断する
    イメージは、人間が自分の環境に対して適応するためにつくる潤滑油の一種〜自分が環境から急激なショックを受けないようにイメージを作り、それを頼りに思考し行動する

    適応しなければならない環境が複雑になるに従い、われわれと現実の環境の間に介在するイメージの層が厚くなる〜潤滑油だったものが固形化して厚い壁を作ってしまう

    *近代日本の学問の受け入れ方
    哲学は 諸科学を関連づけ基礎づけることを任務とするが、近代日本では哲学自身が専門化しタコツボ化した

    *近代的組織体のタコツボ化
    ヨーロッパで機能集団の多元的な分化が起こっても、別次元の集団や組織(教会、クラブ、サロン)が 異なった職能に従事する人々を横断的に結びつけ、コミュニケーションの通路になっているが、明治以後の日本の機能集団は、それぞれ一個の閉鎖的なタコツボになってしまう

    各組織体がタコツボ化すると、その組織体は、属するメンバーをまるごと飲み込んでしまう〜何が内であり何が外か無限に細分化される

    ★「である」ことと「する」こと
    *権利の上にねむる者
    自由は置き物のようにそこにあるのでなく、現実の行使によってだけ守られる〜自由になろうとすることによって初めて自由でありうる

    *近代社会における制度の考え方
    民主主義は、人民が本来制度の自己目的化(物神化)を不断に警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、はじめて生きたものになり得る

    *「する」価値と「である」価値の倒錯
    厄介なのは、「する」価値に基づく不断の検証が必要なところでは、著しく欠けているのに〜「する」価値のとめどない侵入が反省されようとしている部面では、かえって効用と能率原理が進展している点

    レジャーは「する」ことからの解放でなく、有効に時間を組織化するのに苦心する問題

    *学問や芸術における価値の意味
    教養(内面的な精神生活)においては〜自分について知ること、自分と社会の関係や自分と自然の関係について、自覚を持つことが問題である

    芸術や教養は、もたらす結果より、それ自体に価値がある〜文化的な精神活動では、休止は必ずしも怠惰でなく、それ自身が生きた意味を持っている

    *価値倒錯を再転倒するために
    文化の立場から政治に発言し行動することにより「である」価値と「する」価値の倒錯を再転倒する道がひらける



    文学の自律性の欠如
    理論〜思想〜政治といった系列において前提とされる個人の主体性や人間的要素が見落とされる
    *ある理論や思想の立場に立つことが個々の対象の認識作業において一義的な解答を引き出すとは限らない
    *一定の政治的立場を選択したとしても、個々の政治活動をコントロールされるものではない



     

  • 丸山眞男(1914~1996年)氏は、日本政治思想史を専門とする政治学者、思想史家。その学問は「丸山政治学」、「丸山思想史学」と呼ばれ、戦後日本を代表する進歩的知識人の一人。
    本書は、1961年に出版され、累計100万部を超えるロング・ベストセラー。私は50代半ばであるが、高校時代(1980年前後)に、本書は小林秀雄の『考えるヒント』と並ぶ必読書と言われ、教科書や試験問題でもお目にかかったような気がする。
    本書は、「日本の思想」(1957年/岩波講座『現代思想』に発表)、「近代日本の思想と文学」(1959年/岩波講座『日本文学史』に発表)の2本の論文と、「思想のあり方について」(1957年/『図書』に掲載)、「「である」ことと「する」こと」(1959年『毎日新聞』に掲載)の2本の講演文から成っている。
    2つの論文は、それぞれ、日本の思想が持つ「無構造」という構造について、近代日本の文学と思想の関係性とその特徴について、論じているが、必ずしも読みやすい内容ではない。
    一方、2つの講演文は、その文体のお陰もあり読みやすく、かつ、分かりやすい示唆を与えてくれるものである。
    「思想のあり方について」では、社会・文化の型を「ササラ型」と「タコツボ型」に分け、ヨーロッパが前者であるのに対し、近代日本は後者であるとし、その問題性を論じている。そして、その主たる背景として、西洋学問が、ギリシャ-中世-ルネッサンスという長い文化的伝統が根にあって末端が分化している(=ササラ)にもかかわらず、近代日本では、西洋学問の分化した表層のみが移植された(=タコツボ)ことを指摘している。この点については、既に明治維新期に福沢諭吉が『文明論之概略』で警鐘を鳴らしていたが、今日でも日本において学際的な研究が進みにくいなどの状況に繋がっている。
    また、「「である」ことと「する」こと」では、近代社会の制度は、定義や結論(=「である」)よりもプロセス(=「する」)を重視することによって成り立っているにもかかわらず、近代日本ではそれが浸透していないことの問題性を論じている。例えば、「自由」」や「民主主義」とは、そこに「ある」ものではなく、自由になろうと「する」、民主主義的行動を「する」ことによってはじめて、実現し得るものである。ハムレットの時代の人間にとって「to be or not to be」が最大の問題であったとするならば、近代社会の人間はむしろ「to do or not to do」という問いが大きな関心事になっているのだ。
    出版から60年を経た今でも示唆を与えてくれる古典的名著である。
    (2020年4月了)

  • 「である」ことの価値の「強じん」な根付きついて



    ⑴本論の目的と主題
    本論の目的は、丸山眞男の著作『日本の思想』第Ⅳ章に所収の論考「「である」ことと「する」こと」を読み、その内容を批判的に検討したうえで、自分なりの考察を加えることである。具体的には、丸山自身がこの論考内で論じている「である」ことの価値の「強じん」さを主題として取り出して、考察していきたい。

    ⑵本論
    この「「である」ことと「する」こと」という論考は、丸山が、民法学者の末広厳太郎(1888-1951)の民法講義の逸話を題材にしながら、「自由」にも「権利」にも、それが制度的な構築物であるからには、「請求する」、あるいは「実効的に行使する」という積極的な側面があり、それが不可欠だということを強調して始まる。そして、このような積極的側面を忘れて、不断の意識的努力を伴うメンテナンス(維持と点検)の作業を怠ってしまい、にもかかわらず、主権者の地位に安住している者(=「権利の上に眠る者」[註1])は、そのような「自由」や「権利」がいつのまにか骨抜きにされてしまっていても、文句は言えないのだ、という警告が手厳しい表現で繰り返される[註2]。

    そしてついには、この作為性・能動性を重視する考え方を「権利」と「自由」の理解だけではなく、「民主主義」や「近代の思考様式」、「近代社会の制度」、「モラル」、ひいてはそれらを根底で規定している「哲学」にまで拡張してよいと言われるに至る[註3]。

    しかし、こう述べられた直後に、まさしく丸山自身が次のように書いていることを見逃してはならないだろう。私は、次の引用箇所こそ、この論考において極めて重要な箇所だと考える。

    「もちろん、「『である』こと」に基づく組織(たとえば血族関係とか、人種団体とか)や価値判断の仕方は将来とてもなくなるわけではないし、「『する』こと」の原則があらゆる領域で無差別に謳歌されてよいものでもありません。しかし、私たちはこういう二つの図式を想定することによって、そこから具体的な国の政治・経済その他様々の社会的領域での「民主化」の実質的な進展の程度とか、制度と思考習慣のギャップとかいった事柄を測定する一つの基準を得ることができます。そればかりでなく、たとえばある面でははなはだしく非近代的でありながら、他の面ではまたおそろしく過近代的でもある現代日本の問題を、反省する手がかりにもなるのではないでしょうか。」[註4]

    ↑この引用箇所で言われていることのうち、本レポートで私が論じたい主題に照らして取り出したいのは、以下の三点である。まず第一に、丸山は「『である』こと」と「『する』こと」という二項対立図式を、日本近代社会の特異さを分析・測定するための「基準」とするべく、そのための手段として導入したに過ぎず、決して、「『である』こと」から「『する』こと」への移行をどんどん推進すればよい、というような単純な視座には立っていないこと(むしろそのような過激な移行をこそ警戒していること)。

    第二に、「『である』こと」に基づく価値判断が将来的になくなるなどということはない、と述べていること。

    第三に、現代日本の問題点は「『する』こと」の原則によってさきほどから特徴付けられている「近代化」が、ある「部面」では行き過ぎており、またある「部面」では逆に遅れ過ぎている、と指摘されていることである。(この三点のうち、第一点目については、この論考に対するよくある誤解として、複数の解説書が指摘している[註5] [註6])。

    そこで、本論では、第二点目と第三点目の事柄について丸山が論じている箇所に注目してみたい。例えば、日本社会の特異性を論じている次のような箇所である。

    「むしろより厄介なのは、これまで挙げた政治の例が示しているように、「『する』こと」の価値に基づく不断の検証がもっとも必要なところでは、それが著しく欠けているのに、他方さほど切実な必要のない面、あるいは世界的に「する」価値のとめどない侵入が反省されようとしているような部面では、かえって効用と能率原理がおどろくべき速度と規模で進展しているという点なのです。」[註7]

    丸山はこの「「する」価値のとめどない侵入」の具体例として、「住居」、「日本式宿屋」、「閑暇」「学問の在り方」がどんどん機能主義的で効用・実用を追い求めるための形態に変化していっているということを証言している[註8]。この論考が活字になった1959年の時点で、このような変化が既に押し寄せていたらしい。ということは、それから60年が経過した現在、「「する」論理」は日本社会の隅々までいきわたり、浸透し、「「である」論理」はもはや廃れたかといえば、明らかにそうはなっていない。というのも、「「である」ことと「する」こと」の解説書の中で、丸山が自分の論を補強するために使った福沢諭吉[註9]に、丸山とは逆の方向から言及している次のような鋭い指摘がある。以下に引用しておこう。

    「「学問のすすめ」は、福沢において、決して「学校のすすめ」ではありませんでした。まして「学歴のすすめ」でなかったことは明らかです。福沢が今日生きていたとして、どの学校に「所属」しているのか、またどういう「学歴」を「所持」しているのか、といったことに関心を示すことなど、おそらくありえないでしょう。しかし、今日、全国の隅々に至るまで浸透した「学問のすすめ」が、「学歴」という新たな「である価値」の高騰をもたらしたことは否定することができません。「する」論理の先駆者、福沢の「学問のすすめ」が象徴しているこの「である」論理との皮肉な結びつきを想起すれば、われわれがここで考えようとしている「日本近代社会の特質」という問題の複雑さが、少し浮かんでくるのではないでしょうか。」(宮村治雄著『丸山真男 『日本の思想』精読』p61)

    ここで宮村は、まさしく「である」論理の典型である「学歴」という属性を例に、「である」論理が決して日本の近代社会から放逐されたわけではなく、「する論理」のほうを推進させるべきものとして福沢が企図したはずの「学問推奨」が、奇妙にも「学歴重視」として理解され、日本では「である論理」がむしろ回帰している現象を鋭く指摘している。

    この「学歴」(帰属する学校)や、それをもう少し一般化した「肩書き」(帰属する会社)という属性が重視される現象は、丸山がこの論考中に書き記していた次の引用部における日本近代社会の特異性、すなわち、「「する」原理をたてまえとする組織(=学校、会社)が、しばしば「である」社会のモラルによってセメント化されて来た」という記述に合致するのではないだろうか。

    「近代日本のダイナミックな「躍進」の背景には、たしかにこうした「する」価値への転換が作用していたことはうたがいないことです。けれども同時に、日本の近代の宿命的な混乱は、一方で「する」価値が猛烈な勢いで浸透しながら、他方では強じんに「である」価値が根を張り、そのうえ、「する」原理をたてまえとする組織が、しばしば「である」社会のモラルによってセメント化されて来たところに発しているわけなのです。」[註10]

    ここで言われているような、日本近代に強じんな仕方で根を張っているとされる「「である」社会のモラル」が、「する原理をたてまえとする組織」を「セメント化」してしまうということの内実について、先ほども引用した宮村は、非常に興味深い解説を加えている。以下に引用しておく。

    「確かに「業績」への意欲は「する」論理といえます。しかし、その「業績」への激しい動機付けの背後には、自分の所属集団への帰属意識がもたらす他の集団への激しい競争意識が働いていたことに同時に気づかざるをえません。つまりその意味では、「する」論理を実際に活性化しているのは、「である」論理だ、ということになるでしょう。」(宮村治雄著『丸山真男 『日本の思想』精読』p64)

    我々は、ここに至って、「「である」こと」と「「する」こと」という二項対立が日本近代の特異性を浮かびあがらせるとともに、「する論理」の表面的な強調の背後で、丸山が見据えていたと考えることのできる「である論理」の根付きの強靭さを見るのである。そしてその意味で、この二項対立図式は、丸山のもくろみ通り、日本近代社会の分析の役に立つ鋭い視角であったと言える。

    ⑶結論
    この論考(「「である」ことと「する」こと」)は、「である価値」が、「する価値」の強調とその覇権にもかかわらず、再び回帰してくる価値として、いかに「強じん」な仕方で日本社会に根付いているのかということを、丸山自身が自覚的に試みた「する価値」と「である価値」との対比によって、むしろ逆照射した論考と言えるのではないだろうか。そして、この二項対立図式は、日本近代の特徴を捉える視角となることが期待されて導入され、それがある程度成功している。本論が示したことは、このことである。

    ⑷原典
    「「である」ことと「する」こと」(丸山眞男著『日本の思想』、岩波新書、1961年、p153-180に所収)

    ⑸参考文献
    仲正昌樹著『≪日本の思想≫講義 ネット時代に、丸山眞男を熟読する』、作品社、2012年
    宮村治雄著『丸山真男 『日本の思想』精読』、岩波書店、2001年
    (以上、文字数 5562文字)

    [註1] 丸山眞男著『日本の思想』p154

    [註2] 「私たちの社会が自由だ自由だといって、自由であることを祝福している間に、いつの間にかその自由の実質はカラッポになっていないとも限らない。自由は置き物のようにそこにあるのでなく、現実の行使によってだけ守られる、いいかえれば日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうるということなのです。その意味では近代社会の自由とか権利とかいうものは、どうやら生活の惰性を好む者、毎日の生活さえ何とか安全に過せたら、物事の判断などはひとにあずけてもいいと思っている人、あるいはアームチェアから立ち上るよりもそれに深々とよりかかっていたい気性の持主などにとっては、はなはだもって荷厄介なしろ物だと言えましょう。」(丸山眞男著『日本の思想』p155)

    [註3] 「民主主義というものは、人民が本来制度の自己目的化-物神化-を不断に警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、はじめて生きたものとなり得るのです。それは民主主義という名の制度自体についてなによりあてはまる。つまり自由と同じように民主主義も、不断の民主化によって辛うじて民主主義でありうるような、そうした性格を本質的にもっています。民主主義的患考とは、定義や結論よりもプロセスを重規することだといわれることの、もっとも内奥の意味がそこにあるわけです。このように見てくると、債権は行使することによって債権でありうるというロジックは、およそ近代社会の制度やモラル、ないしはものごとの判断の仕方を深く規定している「哲学」にまでひろげて考えられるでしょう。」(丸山眞男著『日本の思想』p156)

    [註4] 丸山眞男著『日本の思想』p158

    [註5] 「この「「である」ことと「する」こと」というエッセイは、最初にも言いましたように、丸山の作品の中でも有名なものに属するのですが、それだけに注意しないと、ごく通念化されてしまった理解に無批判にとらわれる危険性も大きいと思われます。例えば、「「である」ことと「する」こと」という対照性を丸山が強調したということから、直ちに、丸山の「近代」理解は、この「である」論理から「する」論理への一方向的変化として示されると考えるのは、大きな誤りであるように思われます。」(宮村治雄著『丸山真男 『日本の思想』精読』p52)

    [註6] 「丸山は、日本社会が、前近代的な「である」論理をうち破って、「する」論理へと全面移行することを推奨しているようにも見えますが、(中略)単純にそういう二項対立的な考え方をしているわけではないようです。」(仲正昌樹著『≪日本の思想≫講義 ネット時代に、丸山眞男を熟読する』p298)

    [註7] 丸山眞男著『日本の思想』p176

    [註8] 「それはとくに大都市の消費文化においてはなはだしいのです。私たちの住居の変化-「である」原理が象徴している床の間付客間の衰退にかわって「使う」見地からの台所・居間の進出や家具の機能化-とか、日本式宿屋一御承知のようにある室の客であることから食事その他あらゆるサービスの享受権が「流れ出」ます。なじみの客ほどそうです―がホテル化して行く傾向などはまだそれなりの意味もありましょう。しかしたとえば「休日」や「閑暇」の問題になるとどうだろうか。都会の勤人や学生にとって休日はもはや静かな憩と安息の日ではなく、日曜大工から夜行列車のスキーまで、むしろ休日こそおそろしく多化に「する」日と化しています。最近も「レジャーをいかに使うか」というアンケートをもらった事があります。レジャーは「『する』こと」からの解放ではなくて、もっとも有効に時間を組織化するのに苦心する問題になったわけです。それだけでありません。学芸のあり方を見れば、そこには既にとうとうとして大衆的な効果と卑近な「実用」の基準が押しよせてきている。最近もあるアメリカの知人が、アメリカでは研究者の昇進がますます論文著書の内容よりも一定期間にいくら多くのアルバイトを出したかで決められる傾向があるというなげきを私に語っていたことがあります。日本の大学における悪名高い教授の終身制は一面ではたしかに学問的不毛の源泉であり、なんらかの実効的な検証が必要といえます。けれども皮肉なことには、こうした日本の大学の「身分的」要素が、右のような形の「業績主義」の無制限な氾濫に対する防波堤にもなっているのでして、それほど文化の一般芸能化の傾向はすさまじいといわねばなりません。」」丸山眞男著『日本の思想』p176

    [註9] 丸山眞男著『日本の思想』p174

    [註10] 丸山眞男著『日本の思想』p174

  • 前半の二編は論文調で後半の二編は講演調であり、わかりづらい前半を我慢して読み進めると、後半で一息に面白くなった印象がある。日本人の特殊な精神構造を分析した本で、簡単に要約すれば、以下のようになるに違いない。著者のいう「ささら型(共通の伝統から専門に細分化する形)」として思想が発展してきた西欧に比べ、日本は「蛸壺型(没交渉なものが乱立する形)」と言える。というのも、日本が開国し、西欧に追いつくために盛んに西欧の思想や知識を吸収した際に、日本には西欧にあるような確固とした精神的支柱とも呼べるような思想なりが欠如していた。古来からの儒教的思想や仏教、神道的な思想は西欧のもつキリスト教を背後にする思想に比べると弱く、外と内でのせめぎ合いが生じることはなかった。そのため、日本人は外からのものを無批判に受け入れてしまった。戦時中となると、ここに「國體」が創設され、今まで日本人が持っていなかった精神的支柱のようなものが急ごしらえされ、これをもって日本人の思想的統一が試みられた。そしてこのことが日本の戦時中の悲劇を生んだひとつの原因となった。戦後、天皇を頂点とする「國體」が解体されたことで、再び日本人は奇妙な思想的状態にある。そこには古く江戸時代から続く、家柄などでひとを評価する「である」型の思想と、一方で、行動に価値を置く「する」型への思想への発展が混在している。また、共通の思想的流れを持ち合わせないところに、すでに専門化されたものを外から受け入れたため、多くの「蛸壺」を作る結果となり、日本の社会では、学問の世界や企業などにおいても、横のつながりが弱い特徴をもつ。

  • ※第100刷でフォントサイズが大きくなったため、総ページ数も変更。目次も新しい方に変更している。
     1961年11月20日 第1刷発行
     2014年11月13日 第100刷改版発行


    【目次】
    目次 [i-vi]

    I  日本の思想 001
      まえがき
    日本思想史の包括的な研究がなぜ貧弱なのか/日本における思想的座標軸の欠如/自己認識の意味/いわゆる「伝統」思想と「外来」思想/開国の意味したもの
      一  
    無構造の「伝統」その(一)――思想継起の仕方/無構造の「伝統」その(二)――思想受容のパターン/逆接や反語の機能転換/イデオロギー暴露の早熟的登場/無構造の伝統の原型としての固有信仰/思想評価における「進化論」
      二 
    近代国家の基軸としての「國體」の創出/「國體」における臣民の無限責任/「國體」の精神的内面への渗透性
      三
    天皇制における無責任の体型/明治憲法体制における最終的判定権の問題/フィクションとしての制度とその限界の自覚/近代日本における制度と共同体/合理化の下降と共同体的心情の上昇/制度化の進展と「人情」の矛盾
      四
    二つの思考様式の対立/実感信仰の問題/日本におけるマルクス主義の思想的意義/理論信仰の発生/理論における無限責任と無責任
      おわりに

    II 近代日本の思想と文学―― 一つのケース・スタディとして 073
      まえがき
    政治‐科学‐文学
      一 
    明治末年における文学と政治という問題の立てかた/文学の世界をおそった「台風」/「社会」の登場による走路の接近/マルクス主義が文学に与えた「衝撃」/文学者に焼付けられたマルクス主義のイメージ/昭和文学史の光栄と悲惨/政治(=科学)の優位から政治(=文学)の優位まで
      二 
    プロ文学理論における政治的および科学的なタータリズム/政治的と図式的/政治過程におけるエモーションの動員/政治における「決断」の契機/思考法としてのトータリズムと官僚制合理主義/政治の全体像と日常政治との完全対応関係/方法的トータリズムの典型/政治(=科学)像の崩壊―転向の始点と終点/日本の近代文学における国家と個人/「台風」の逆転と作家の対応の諸形態/旧プロ文学者における文学の内面化と個体化/対立物(文学主義)への移行契機
      三
    文化の危機への国際的な対応/各文化領域における「自立性」の模索/政治・科学・文学における同盟と対抗の関係/科学主義の盲点/トータリズムの遺産の否定的継承/「意匠」剝離の後に来るもの
      おわりに

    III 思想のあり方について 137
    人間はイメージを頼りにして物事を判断する/イメージが作り出す新しい現実/新しい形の自己疎外/ササラ型とタコツボ型/近代日本の学問の受け入れかた/共通の基盤がない論争/近代的組織体のタコツボ化/組織における隠語の発生と偏見の沈殿/国内的鎖国と国際的開国/被害者意識の反乱/戦後マス・コミュニケーションの役割/組織の力という通念の盲点/階級別にたたない組織化の意味/多元的なイメージを合成する思考法の必要

    IV 「である」ことと「する」こと 169
    「権利の上にねむる者」/近代社会における制度の考え方 /徳川時代を例にとると/「である」社会と「である」道徳/「する」組織の社会的擡頭/業績本位という意味/経済の世界では/制度の建て前だけからの判断/理想状態の神聖化/政治行動についての考え方/市民生活と政治/日本の急激な「近代化」/「する」価値と「である」価値との倒錯/学問や芸術における価値の意味/価値倒錯を再転倒するために

    あとがき(一九六一年一〇月 丸山眞男) [201-213]

  • 私たちの社会が自由だ自由だといって、自由であることを祝福している間に、いつの間にかその自由の実質はカラッポになっていないとも限らない。自由は置物のようにそこにあるのでなく、現実の行使によってだけ守られる、いいかえれば日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうるということなのです。

  • 本屋で偶然見つけ、100刷以上のベストセラーということで読んでみた。第2章の「近代日本の思想と文学」は難しすぎてチンプンカンプン。ギブアップ。一方で講演体の後半はとっつきやすく、特に最後章「「である」ことと「する」こと」には思わず唸る。この章は現代文の教科書にも掲載されているということだが、これにハラオチする高校1年生が沢山いたら逆に怖い。僕は30歳以降の海外経験と会社経験を経てようやく、自分は日本人なんだなあ、面白いなあ、と実感するようになりましたが。

  • 小論2編と、講演2編。
    タイトルの「日本の思想」はあとがきにもあるが、ちょっと大仰で基本的には近代。マルクス主義が中心主題であり、本書が書かれた1950年代後半の空気が感じられる。
    日本に思想的伝統は存在しないという点と、蛸壺を横串に突き通す初めての思想がマルクス主義だったという点が議論の前提であるが、この前提は疑おうと思えば十分疑えるのではないか。特に前者は、体系的な構成をなしたものがないというのと伝統が存在しないことは別だと思う。

  • 丸山真男を読むのは初。よく内容が難しいと言われる本だが、1と2は元々論文に近い発表だからしゃーない気もする。それにしても一文が長い文章には辟易したが。ただ、後半二章は一気に平易になり、本としては色々問題があるのでは、と思ったりする。
    肝心の中身は、リベラルプラグマティストな個人的な考えとも合うもので好感触。直接言及されてないが、明らかにウェーバーの影響が大きく、価値自由だとか職業としての政治で展開された政治家の倫理性などの考えが下地にある。あとは、一箇所だけ名前が出てきたが、ポパーの影響も大きい気がする。

    日本には西欧的思想がなく、前近代が一気に近代化したとか、その際、空虚だからこそ天皇制がうまく働いたとか、どっかで読んだことあるなーって内容が多いのは、逆に前に読んだ本が丸山を下敷きにしてたということなのだろう。

    個人的に面白かったのは、2章の政治、科学、文学の三角関係。こうした座標での昭和文学史の見方は面白い。最後にSF作家のHGウェルズの引用があって、その終わり方がなんとも爽やかだった。

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著者プロフィール

1914年大阪に生まれる。1937年東京大学法学部卒業。1940年助教授、1950年教授。1961-62年ハーバード大学特別客員教授。1962-63年オックスフォード・セント・アントニーズ・カレッジ客員教授。1971年退官。1975-76年プリンストン高等学術研究所員。1996年8月15日歿。主要著作『政治の世界』(1952)『日本政治思想史研究』(1952)共編『政治学事典』(1954)『日本の思想』(1961)『増補版 現代政治の思想と行動』(1964)『戦中と戦後の間』(1976)『「文明論之概略」を読む』(1986)『忠誠と反逆』(1992)『丸山眞男集』全16巻・別巻1(1995-97)『丸山眞男座談』全9冊(1998)『自己内対話』(1998)『丸山眞男講義録』全7冊(1998-2000)『丸山眞男書簡集』全5巻(2003-04)『丸山眞男回顧談』全2巻(2006)『丸山眞男話文集』全4巻(2008-09)『丸山眞男話文集 続』全4巻(2014-15)『丸山眞男集 別集』全5巻(2014-)『丸山眞男講義録 別冊』全2冊(2017)。

「2018年 『戦中と戦後の間[新装版]』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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