日本の思想 (岩波新書)

著者 :
  • 岩波書店
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感想 : 203
  • Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004120391

作品紹介・あらすじ

現代日本の思想が当面する問題は何か。その日本的特質はどこにあり、何に由来するものなのか。日本人の内面生活における思想の入りこみかた、それらの相互関係を構造的な視角から追究していくことによって、新しい時代の思想を創造するために、いかなる方法意識が必要であるかを問う。日本の思想のありかたを浮き彫りにした文明論的考察。

感想・レビュー・書評

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  • “右にのべたような状況、すなわち一方で、「限界」の意識を知らぬ制度の物神化と、他方で規範意識にまで自己を高めぬ「自然状態」(実感)への密着は、日本の近代化が進行するにしたがって官僚的思考様式と庶民(市民と区別された意味での)的もしくはローファー的(有島武郎の用語による)思考様式とのほとんど架橋しえない対立としてあらわれ、それが「組織と人間」の日本的なパターンをかたちづくっている。(p.52)”

     言わずと知れた、岩波新書を代表する名著である。書名の通り、日本の思想の特質とは何かについて述べており、現在巷間に流布している「日本論」の出典の一つといって良いだろう。2、3年前に夏の古本市で手に入れてからずっと積読していたのだが、今回漸く読み終えられた。

    1 日本の思想
     本書の中心となる小論である。理解できているとは思わないが、概略だけまとめておく。(以下、(?)を付けた箇所は僕の解釈なので、誤っているor言い過ぎている可能性大。)
     まず丸山は、日本的特質は、思想の軸を持たないがゆえに終ぞ内部に連関を持ちえなかった、思想の無秩序な雑居性にあると述べる。“…それらがみな雑然と同居し、相互の論理的な関係と占めるべき位置とが一向判然としていない…(p.8)” 西洋文化ではキリスト教が思想の軸としての役割を果たしていたため、例えばニーチェによる道徳の欺瞞性の指摘がヨーロッパ的伝統に対する強烈なアンチテーゼとして機能した。一方で日本では、仏教にせよ神道にせよ、宗教が思想上の軸として作用するような伝統を形成しなかったため、新しく外からやってきた思想は「伝統」との対決を経ず、なし崩し的に受容される。再びニーチェの思想を例にとると、文脈が大きく異なるにも拘わらず、日本人の生活実感としての無常観の一類型として分かったことにされてしまう(ことがよくある)。“いろいろな思想が、ただ精神の内面における空間的配置をかえるだけでいわば無時間的に併存する傾向をもつことによって、却ってそれらは歴史的な構造性を失ってしまう。(p.11)” 丸山はこのような特質が生まれた原因までは明言していないが、日本の歴史的な後進性・辺境性は一つの要素だろう(?)。つまり日本が、古代から中世においては中国文化を、近代以降においては西洋文化を、と、外からやってくる文化を受容する立場であり続ける立場であったことに由来するのではないだろうか。このようにして外来思想を尊び貪欲に取り入れる一方、その反動・自己防衛として(?)イデオロギー一般を拒否し、直接対象に参入しようとするもう一つの傾向も古くから根強い。その典型が、漢意(からごころ)や仏意(ほとけごころ)を斥け、儒仏以前の「固有信仰」を復元しようとした国学の本居宣長である。明治維新を機に国家として自らを画することになった日本は、上(=外)から注入される官僚的制度と、下から立ち昇る「村」共同体的同化思想が混合することによって、超近代と前近代が歪に同居する事態に陥ったというのが日本社会の問題点である。“…合理的な機構化にも徹しえず、さりとて、「人情自然」にだけも依拠できない日本帝国はいわば、不断の崩壊感覚に悩まねばならなかった。(p.49)”
     外山滋比古は“第一次的現実にもとづく思考、知的活動に注目する必要がある(『思考の整理学』p.195)”と述べたが、実は日本ではそれが二重に阻まれていたのである。一つは完成品を有難がり、手ずから思想を作り上げることを相対的に下に見る傾向によって、もう一つは生活実感を抽象化し思想にまで昇華させることを忌避する傾向によって。

    2 近代日本の思想と文学

    3 思想のあり方について
     社会の2類型として「タコ壺」社会と「ササラ」社会という対比を導入し、日本社会は、根底に共通した基盤を持たない「ササラ」社会であると述べる。

    4 「である」ことと「する」こと
     僕が丸山真男を知ったのは高校の国語の教科書だったが、その時に載っていたのがこの文章。或るものの価値は、そのもの自体であることから先天的に生じるとするのが「である」論理で、現実的な機能や効能から生じるのが「する」論理である。文化や学問の分野では「である」論理が、政治(民主主義)の分野では「する」論理が適用されるべきであるが、実際にはそれらが倒錯している点を丸山は問題視する。“…「『する』こと」の価値に基づく不断の検証がもっとも必要なところでは、それが著しく欠けているのに、他方さほど切実な必要のない面、あるいは世界的に「する」価値のとめどない侵入が反省されようとしているような部面では、かえって効率と能率原理がおどろくべき速度と規模で進展している…(p.176)”

     特に1,2が難解で、何度か読み直して丸山真男が何を言っているかがやっと分かってきたところであるから、実際にこの本で為された議論が現代社会に対してどの程度当てはまるかということはこれから吟味していかなければならない(このレビューも、大雑把な展開をまとめるだけのものになってしまった)。部分部分として見ると肯けるところも多かったように思う。

  • 高校国語定番教材。
    『「である」ことと「する」こと』所収。
    その身分「である」こと、らしく振る舞うことが重要だった時代から、その身分に応じた仕事を「する」ことを求められるようになった変化。

    なんとなく後者の方がマトモに思えてしまうのだけど、筆者の言うように「する」ことが過剰になりすぎているきらいがある。
    むしろ「しなければならない」プレッシャーが、現代には噴出しているように思う。

    では、「である」ことの価値とは何か。
    筆者はアンドレ・シーグフリードを引用して、「彼によれば芸術や教養は「果実よりは花」なのであり、そのもたらす結果よりもそれ自体に価値があるというわけです。……「古典」というものが何故学問や芸術の世界で意味をもっているかということがまさにこの問題にかかわって来ます。」と述べる。

    どちらか一方に価値があるのではなく、その性質を見極めなくてはならない。

    他、「日本の思想」等が収録されている。
    日本の思想や学問が、地続きではなく蛸壺式であることへの言及。
    岩波新書が改版してくれたおかげで、字面も見やすくなった。ありがとう。

  • 日本の思想という、今にも繫がる視点からかかれたもの。
    ヨーロッパが共通の基礎的連帯があるが、日本はない。(昔は國體意識はあったが)なので、ササラ型ではなくタコツボ型なありかたである。そこでは、分化していて相互のコミュニケーションが不足しがちである。そこで、登場するのがマスコミ。マスコミは共通の場を作る一方でその理論を浸透させようとする。だが、マスコミ自体もやはりタコツボであるから共通のコミュニケーションがない。
    タコツボでは、「である」という状態が特に意識される。
    本来「する」領域でも「である」が居座っている。なので、「である」で見てしまい反省できないことがある。
    「である」により、政治も専門家のなかに閉じ込まれてしまう。たこつぼ?国の制度も「である」で判断しがち。とにかく、「する」でみないと民主主義や政治が自己目的してしまいがち。

  • とても良い本なのだろうとは思うのですが難しい。
    気になった、心に残ったところ。
    Ⅰ日本の思想から(p.7)「断片的な思いつきを過度に尊ぶ「オリジナリティー」崇拝」。この本は1961年に出版されているのですが、現代にも通じるように思った。
    Ⅲ思想のあり方についてから(p.138)総合大学について「いろんな学部が、一つの地域に集中しているにすぎない」「総合的な教養が与えられるわけでも、各学部の共同研究が常時組織化されているわけでもない」「ユニヴァーシティという本来の意味からかけ離れている」という当時の大学批判は、現代ではどうだろうか?国立大学が民営化され、個々の大学が独自色を模索し社会とつながろうと様々発信してくれているように、変わってきているのではないか。
    Ⅳ「である」ことと「する」こと。この章は講演を基にしていることもあってか、比較的わかりやすく、心に残った。日本国憲法の十二条に対し(p.155)「国民はいまや主権者となった。しかし主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目覚めてみると、もやは主権者でなくなっているといった事態が起こる」というのは、これまた、まさに現代でもいえることではないか。日本人は政治を論じない、日本は若者が政治を語ることを求めない、勧めない。政府にアクションを取ることもしない、教えない。(p.156)「自由は」「現実の行使によってだけ守られる」「日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうる」ということは自由以外のことに対しても言えるし、何より「自由」であることは、本来他の何より優先し、持つことを意識しないでいると失われてしまいかねない。

  • 〇要約(~71頁)
     日本の民俗信仰である「神道」は、かねてよりその時代に有力な宗教と習合してその教義内容を埋めてきた。このような「神道の無限抱擁性と思想的雑居性」が相互に矛盾し得る哲学や宗教、学問等を平和共存させる思想的寛容の伝統の下に受け入れたため、新思想は無秩序に埋積され、近代日本の精神的雑居性は甚だしいものとなった。また、思想や価値観というのは、他からの刺激があって初めて自覚的で意識的なものとなるが、我が国ではかつてより他との関連の中で、自己を歴史的に位置づけるような思想に乏しかった(あったとしても断片的なものであった)ため、開国後西洋文化と対決することもなく、むしろ、自国の思想的伝統を曖昧なものにしたのである。
     開国後近代化に伴い、日本では、近代社会の必須要請である機能的合理化(ヒエラルキーの成立)と家父長的あるいは情実的人間関係という相互に矛盾し合うバランスを上からの国体教育の注入と下からの共同体的心情の吸い上げによって調整していく統治技術が求められた。そして、上述ように、我が国の確固たる思想や精神が確立されないまま、近代天皇制が精神的機軸としてこの事態に対処しようとしたが、私たちの思想を実質的に整序する原理としてではなく、むしろ否定的な同質化(異端の排除)作用の面だけで強力に働いた。
     すなわち、日本は、基底に共通した伝統的カルチュアのある社会ではなく、最初から専門的に分化した知識集団がそれぞれ閉鎖的な「タコ壺」をなす社会なのである。

     とにかく難解。1度読んでも内容が理解できず、2度目に何が分からないかが分かり、3度目にようやく文章の論理や内容がところどころ理解できるようになるレベルであると感じた。普段用いない用語が多いこともあって、言葉を読めてもその具体的意味が頭に入ってこないことが一つの要因なのかもしれない。
     日本では昔から、他との関連の中で、自己を歴史的に位置づける思想に乏しかったとあるが、その要因として、日本が海洋国であることや特に江戸時代には鎖国体制にあったことが考えられ、そのことが本書には記載されていないが、このようなことはおそらく当然の前提としているのであろう。
     難解な文章ではあったが、「制度」と「精神」の関係(40頁周辺)は勉強になった。政治や経済の制度「それ自体は世界共通であっても、人間関係が介在した制度はすでにカルチュアによって個性的な差を帯びる」ため、何らかの制度を創設、分析する際には、制度における精神(制度下にある人々の精神)を含めた全体構造を検討する必要があるというのは、政策を立案する時には頭の片隅に置いておきたい事項といえるであろう。

  • 私たちの社会が自由だ自由だといって、自由であることを祝福している間に、いつの間にかその自由の実質はカラッポになっていないとも限らない。自由は置物のようにそこにあるのでなく、現実の行使によってだけ守られる、いいかえれば日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうるということなのです。

  • 本屋で偶然見つけ、100刷以上のベストセラーということで読んでみた。第2章の「近代日本の思想と文学」は難しすぎてチンプンカンプン。ギブアップ。一方で講演体の後半はとっつきやすく、特に最後章「「である」ことと「する」こと」には思わず唸る。この章は現代文の教科書にも掲載されているということだが、これにハラオチする高校1年生が沢山いたら逆に怖い。僕は30歳以降の海外経験と会社経験を経てようやく、自分は日本人なんだなあ、面白いなあ、と実感するようになりましたが。

  • 小論2編と、講演2編。
    タイトルの「日本の思想」はあとがきにもあるが、ちょっと大仰で基本的には近代。マルクス主義が中心主題であり、本書が書かれた1950年代後半の空気が感じられる。
    日本に思想的伝統は存在しないという点と、蛸壺を横串に突き通す初めての思想がマルクス主義だったという点が議論の前提であるが、この前提は疑おうと思えば十分疑えるのではないか。特に前者は、体系的な構成をなしたものがないというのと伝統が存在しないことは別だと思う。

  • 丸山真男を読むのは初。よく内容が難しいと言われる本だが、1と2は元々論文に近い発表だからしゃーない気もする。それにしても一文が長い文章には辟易したが。ただ、後半二章は一気に平易になり、本としては色々問題があるのでは、と思ったりする。
    肝心の中身は、リベラルプラグマティストな個人的な考えとも合うもので好感触。直接言及されてないが、明らかにウェーバーの影響が大きく、価値自由だとか職業としての政治で展開された政治家の倫理性などの考えが下地にある。あとは、一箇所だけ名前が出てきたが、ポパーの影響も大きい気がする。

    日本には西欧的思想がなく、前近代が一気に近代化したとか、その際、空虚だからこそ天皇制がうまく働いたとか、どっかで読んだことあるなーって内容が多いのは、逆に前に読んだ本が丸山を下敷きにしてたということなのだろう。

    個人的に面白かったのは、2章の政治、科学、文学の三角関係。こうした座標での昭和文学史の見方は面白い。最後にSF作家のHGウェルズの引用があって、その終わり方がなんとも爽やかだった。

  • 「海外から入ってきた思想は日本で受容される」ということが書いてある。
    前半は難解だが、後半は前半のことを平易に解説していて面白い。

    特に、たこつぼ型とささら型の例えは「そうかもしれない」と思えた。

    日本ではたこつぼ型と云って、海外で発展した思想がぶつ切りになって入ってくる現象が見られるという。「互いの交流が希薄で、これはあらゆる分野、たとえば文化活動、経済活動、政治活動、あらゆる側面で見られる。」という。
    これは日本の「である」型の身分制の残滓である、とする。その考え方は民主主義の国家になっても同様だ、と喝破する。

    日本は曲がりなりにも先進国の仲間入りをしたが、明治維新が必ずしもいままでの体系をすべて粉砕したわけではないし、戦後改革も同様である。それは社会の随所に見られる、とする。

    「日本の特異性・独特性」を見事に表現した本であろう。もう出版から50年以上経っているが、まだ色あせていないのではないだろうか。

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著者プロフィール

1914年大阪に生まれる。1937年東京大学法学部卒業。1940年助教授、1950年教授。1961-62年ハーバード大学特別客員教授。1962-63年オックスフォード・セント・アントニーズ・カレッジ客員教授。1971年退官。1975-76年プリンストン高等学術研究所員。1996年8月15日歿。主要著作『政治の世界』(1952)『日本政治思想史研究』(1952)共編『政治学事典』(1954)『日本の思想』(1961)『増補版 現代政治の思想と行動』(1964)『戦中と戦後の間』(1976)『「文明論之概略」を読む』(1986)『忠誠と反逆』(1992)『丸山眞男集』全16巻・別巻1(1995-97)『丸山眞男座談』全9冊(1998)『自己内対話』(1998)『丸山眞男講義録』全7冊(1998-2000)『丸山眞男書簡集』全5巻(2003-04)『丸山眞男回顧談』全2巻(2006)『丸山眞男話文集』全4巻(2008-09)『丸山眞男話文集 続』全4巻(2014-15)『丸山眞男集 別集』全5巻(2014-)『丸山眞男講義録 別冊』全2冊(2017)。

「2018年 『戦中と戦後の間[新装版]』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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