権力は自分の力のゴリ押しに「公」の大義名分をつけ加える。人びともなんとなくそんなふうな気になる。
こうした権力を民主的につくり出したのは誰か。私たちみんなではないか。
みんなに責任があるということは、ひとりひとりには大して責任がないということです。(p.82)
市井三郎さんは、歴史の進歩の基準はただひとつ、自分の責任のないことでその結果を負わされる度合がいかに減じているかということにあると説いています(『歴史の進歩とはなにか』)(p.148)
私は、自分のことは自分できめることのできる度合おが大きければ大きいほど歴史は進歩しているのだというふうに考えたいのです。その前提として、どれだけ「タダの人」の根源的平等が達成されているか。(p.174)
ここで、労働者の団結権、ストライキ権について書いたことを思い出して下さい。社会主義国の労働者にそうしたものが許されていないのではないかという批判は、自分が十二分にその権利を実際に使っていないかぎり、身銭を切ってそうしないかぎり、何の力ももたない。
トーシャ版でビラを刷ってくばらないかぎり、自分でデモ行進に出かけないかぎり、社会主義国の今のありようをまともに批判することはできないし、社会主義国の問題は、何ひとつ、自分の問題としてとらえることはできない。(p.188)
いくら憲法にみごとに書かれていても、すべては、こちらが積極的にうって出ないかぎり、たたかいとならないかぎり、絵に描いたモチに終るということです。たとえば、言論の自由を保証するものは、実は憲法ではない。私たち自身です。
言論の自由のために私たちがあるのではない、私たちをまもるために、私たちの「人間の都合」にうらうちされたくらしをまもるために言論の自由があるのです。
ということは、言論の自由そのものを床の間の日本刀のようにかざって、あれはいいものですな、と「鑑賞」していては困るということです。(p.190)