仏教 第2版 (岩波新書)

著者 :
  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (204ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004121503

作品紹介・あらすじ

死ねば戒名をもらい、葬儀や法事は仏式で営まれることが多い。私たちの生活の中に仏教は広く深く入りこんでいる。それでいて、私たちは、仏教についてどれほど知っているだろうか。仏教を生んだインドの精神風土、仏陀とその弟子たちの生活と思想を明らかにし、その後の流れの根源と展開を追って、仏教理解に必要な基礎知識を提供する。

感想・レビュー・書評

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  • 仏陀が説いた仏教とはそもそもなんぞやというお話と、日本に特化しない全般的な仏教の歴史。

  • 小難しい。参考資料としてはよい。

  • 名だたる先人たちが、仏教とは?について記してきた。
    この本は、新書サイズで、インド・仏教学の萌芽から、仏教の重要概念や歴史的展開を抑える。当時のインドの思想風土(ヴェーダを基にするバラモン哲学)の中で仏教の”何が違ったのか”を知るのにも、初心者には最適。
    この後に、インド仏教の詳細な内容を知りたければ、『インド仏教史』平川彰に進むと良い。

  • さらっと仏教を学ぶにいい本。

  • 中国で言えば東周(戦国時代)の頃に生まれたシャーキャ族ゴータマ氏のシッダールタ(釈尊)が、仏教の実質的始祖となる前より、ブッダと呼ばれる者(過去仏)は存在していた。仏教は釈尊の教えだけでなく、博くその過去仏をもその教理の中に含み、更に広大な地域に拡散したことで、複雑に枝分かれし多数の宗派を生んだ。

    そんな複雑な宗教を薄い新書に全部詰め込もうとするから一つ一つの内容がペラペラになり、ほとんど用語の解説におわっている。序盤の仏教研究史のくだりや、釈尊の弟子のくだりなどは箇条書きを無理やり文章にしたような内容でしかも長い。そのため全体的に教科書のような体裁で、正直書籍全体としては面白くはない。

    また、書籍冒頭で散々、漢訳経典とか中国仏教の紛い物さに言い及んでいながら、肝心の仏陀について触れる段になると出てくるのは漢訳語ばかり。著者は原典にあたるだけの教養も知識ももちあわせているのでは。それとも、たまたまその漢訳語のもとになったインドの原典が散佚したのか。

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    出家修行者は、出家と書くだけに帰るべき家がないため、あくまでも木の下や岩の蔭で夜を明かすことを理想としたらしいが、現実的には中々難しかったようで、信者により寄進された建造物の中で修行に励んだらしい。その建造物を後にはサムガーラーマと呼びならわし、僧伽藍摩と漢訳された。僧伽がサムガーにあたり、仏教修行者の集団(サンガ)を指す。僧はさらにそれを略したもの。後には僧伽藍摩の真ん中二字だけとって、伽藍で修行のための静かな場所の意味となり、それが今日の寺院に発展した。なお、一説には寺の訓みであるテラは所謂大和言葉ではなく朝鮮語らしい。日本の坊主が世帯をもって寺に出勤するのは滑稽の極み。
    古代インドでは偉人の骨などをうめて土饅頭を築き、それを墓としていたが、後に上に傘蓋を置き、柵を儲けたものがストゥーパとして発展した。ストゥーパはその後さらに変化して二階建てとなり、土饅頭が小さくなって鉄柱の尖端の装飾となり、遂には所謂何重の塔の形式にまで発展する。ストゥーパは卒塔婆と漢訳され、やはり真ん中の字だけとって塔と呼ばれるようになった。アショーカ王などはストゥーパを沢山建てたらしいが、その頃にはもはや記念塔くらいの意味しかなく、中に遺骨などはなかったらしい。或いは偉人(釈尊)の霊をそこに籠めたというようなものかも知れない。

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    加地伸行『儒教とは何か』(中公新書)にも書かれているが、日本の仏教は実は仏教ではない。インドやネパールの仏僧をみて日本の坊主をみると、違いが大きすぎて驚かされる。思えば、日本の坊主の袈裟などは平安貴族のお召し物だと言われても違和感がない。
    加地氏曰く、中国民族にとっては現世で楽しく暮らすことが人生の目的で、仏教という宗教を受け容れたものの、来世思想を説く点はどうしても受け容れられなかったらしい。そこで当時の中国民族は仏教の教理を中国風に改変した。
    仏壇や位牌のごときは完全に儒教の風習で、本場の仏教では死ねばただの物体であり、霊魂は転生するため、死者を祀ることをそもそもしないらしい。ストゥーパのような墓の類は偉人を祀るものであり、日本の古墳に近い。
    解脱のためには仏国土へ行き、更にそこで精神修行をしなければいけないが、中国民族は解脱ではなく仏国土への往生、特に極楽浄土への往生を最終目的としてしまった。この時点でもはや仏教の根本から外れてしまっている。ここからうまれた浄土教が日本に伝わり浄土宗、浄土真宗に繋がる。日本の仏教信者も無宗教者も大概は浄土真宗で、浄土真宗は実際日本で一番大きな宗教団体なので、日本の仏教もやはりもはや仏教ではない。
    中国仏教の創始者は有頂天になり、インドからきた僧侶を逐い返して自分の天下を築こうとした。仏陀の教えを重視する本場の仏教とは違い、中国仏教は、インドから持ち込まれ漢訳された漢字の経典を至宝とし、結局は漢籍崇拝に陥った。そして日本人が読んでいるのもただの漢籍。浄土真宗の場合はそれに加えて親鸞が書いた正信偈など和文のお経も使う(大谷派)。ここまで来るともはや中国仏教でもない、ただの親鸞崇拝、親鸞教。
    釈尊に帰依し、信仰し、心に釈尊を思い浮かべて一心に念じることで、より成道に近づけるというのを、中国ではお経を声に出して読むことで仏になれると勝手な解釈をし、しまいには南無妙法蓮華経や南無阿弥陀仏と唱えるだけで成仏できるとさえ言い出した。釈尊は過酷な修行を否定し、在家信者に対しては、仏教に帰依して出家修行者を支えることで成道できると説いていたらしいが、中国も日本も、普段の生活を普段通り送り、行事の時だけ坊主に布施として金を渡し、経をあげさせたらそれでおわりで、自分は経を覚えず、況して理解もせず、ただ呪文のように南無南無と唱えるだけ。それで成道できるなら仏陀の悟りは大したことないということになってしまう。

    そこで、それでは仏陀こと釈尊の教えとは何ぞというくだりが本書にもあるが、漢訳語のオンパレードで、読む気がしない上に、仏陀の教えを解説するというよりは、あの弟子はあれを重視していて、この弟子はこれを重視していて、あの宗派はあれを信仰の中心に添えていて、という事実の列挙だけが延々と続く。

  • 遠回りをした。

    中村元の「バウッダ」を読んで以来、上座部の解説本を中心に何冊もの本で読んで集めた仏教に関する見識が、
    ほぼこの本1冊にまとめられてる。

    瞑想に関する知識は弱いが、逆に瞑想をするための知識の補強には良いと思われる。

    ともあれ、理のサイドとしてこの本と、混沌サイドとして「蝉丸Pのつれづれ仏教講座」を読めば、仏教の基礎知識は十分そう。

  • 仏教入門と合わせて読みたい。理解が深まります。

  • 20111105

  • 本書の続編が、「お経の話」とのこと。
    仏教について理解する上での基礎的なことが書かれている。

    仏陀について、仏陀以前のインド、仏陀の弟子、聖典の成立など、段階を追っている。
    細かい情報を記載しているが、深入りしすぎることなく、均衡が取れた情報のようだ。

    岩波新書の「お経の話」「日本の仏教」と合わせて3冊読むとよいかもしれない。

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著者プロフィール

1907年、東京市生まれ。1935年、東京帝国大学大学院修了。智山専門学校(現大正大学)教授、東洋大学文学部教授、成田山仏教研究所参与・理事・主席研究所員等を歴任。1977年、没。
【主要著書】『日本の仏教』(岩波新書、1958年)、『仏教 第二版』(岩波新書、1974年)、『渡辺照宏著作集』全8巻(筑摩書房、1982年)


「2022年 『不動明王』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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