歴史とは何か (岩波新書 青版 447)

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  • Amazon.co.jp ・本 (252ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004130017

作品紹介・あらすじ

歴史とは現在と過去との対話である。現在に生きる私たちは、過去を主体的にとらえることなしに未来への展望をたてることはできない。複雑な諸要素がからみ合って動いていく現代では、過去を見る新しい眼が切実に求められている。歴史的事実とは、法則とは、個人の役割は、など歴史における主要な問題について明快に論じる。

感想・レビュー・書評

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  • 初めて手に取ったのは、大学生時代(1990年代)での最初の概論でのテキストにて、
    確か、1961年のカー氏の、ケンブリッジ大学での講演録を基調にしていて、

    日本での初版が1962年ですから、訳語としての言い回しはやや古めで、
    正直とっつきにくい部分もありますが、内容としてはよくまとまっているかと。

     - 歴史家の機能は、(中略)現在を理解する鍵として過去を征服し理解すること

    その上で、、

     - 歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、
      現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話

    との点は、私にとって非常に肚落ちのする内容で、今でも(2020年代)、
    各種の物事に対しての考え方とか、立ち位置への基礎になっていると思います。

    自分なりに解釈すると、歴史とは、一つの「事実」と、その「事実」に対する解析や、
    議論の積み重ねの結果としての、様々な「真実」の集合体、であって、

    その事実とは人の行為の積み重ねで、真実とはその行為への、
    「真の動機(原因)」に直結するもので、多様性が前提となる、くらいでしょうか。

    そういった意味では、とある寄稿のなかで塩野七生さんが述べられていた、、

     - 歴史とは学ぶだけの対象ではない。知識を得るだけならば、歴史をあつかった書物を読めば済みます。
      そうではなくて歴史には、現代社会で直面する諸問題に判断を下す指針があるのです。

    なんてことも思い出しながら、、「知識」を集約しただけでは生きていく上ではさして役に立たない、
    「生きた学問」として活用していくためには、今現在への「社会的有用性」の模索も必要、なんて風にも。

    そしてこれは何も「歴史学」に限った話ではなく、
    科学するを前提とする学問すべてに求められていくのかな、とも思います。

    そう思うと「歴史的な事実(事象)を今の価値観で裁断する」のには懐疑的で、

     - 今日、カール大帝やナポレオンの罪を糾弾したら、
      誰かがどんな利益を受けるというのでしょうか

    との感覚も非常に納得できます、、法治でいう「法の不遡及」とも通じるかと、、
    日本であれば織田信長による比叡山焼き討ちとかが、一例になりますかね。
    (個人的には、信長時代の価値観でいえば、焼き討ちも妥当、と思っています)。

    なんてことを、ここ最近のANTIFA(アンティファ)なる無政府主義のテロ集団が、
    銅像破壊、言論統制などで過去の歴史を“無かったこと”にしようとしてるな、と見ながら、

    これは「人の営みとしての歴史に対する冒とくであり、挑戦である」と、怒りを禁じえません。

    たびたびに、歴史学とは私にとっての基礎学問だなと、
    そんなことを思い出させてくれる一冊です。

  • クラシックな名著であり、読み下すのにはちょっと労力がいりました。

    序盤にまず、「歴史とは何か」についての著者としての最初の答えが示されます。歴史とは、現在と過去の対話である、と。相互的なのです。今が変われば、過去も変わるし、そうやって過去が変わると、今にも影響が出てくる。そういうインタラクティブなものだというとらえ方は、たとえば僕が学生の頃の社会科の授業ではまったくでてこなかったです、本書が世に出てしばらく後の時期だったのに。

    ともすれば、歴史とはゆるぎない事実について、その真実をつきとめるもの、ととらえてしまいます。絶対不変の真実があって、それをつきとめるのが歴史なのだ、と。しかし、著者が説得力をもって解説する歴史とは、そういうものではない。可変的なものであるし、どうしても歴史家の主観が混ざりこむものなんで、完璧であることはありえないのでした。

    だからこそ、著者は微に入り細を穿つような事実収集による歴史考察を否定しています。しかしながら、ちょっと脱線して考えたのは、この事実収集の方法論って、事件の捜査では奨励されることであり、歴史の方法論とは真逆だったりするのではないか、ということ。分野によって違ってくるわけで、「これはこうだったからあれもこうでいけるに違いない」という不注意な類推はいけない、ペケなんだ、ってことが学べます。本書でも、歴史から学ぶ点などについて、不注意な類推は避けるように、と注意喚起されていました。

    考えさせられながら肯いたのは、「巨大な非個人的な諸力」つまり、諸個人の力についてのところ。名の知れぬ数百万の人たちこそが諸個人の力といわれる力で、そういう大きな数になったときに、政治力となる、といいます。フランス革命しかり、です。そうであってこそ歴史となるわけで、歴史とは数である、と著者は主張している。また、諸個人の力が、彼らが誰ひとりとして欲していなかった結果を招くことは珍しくない、とも解説しています。というか、歴史をねじまげる力がある、と。二度の世界大戦や世界恐慌などがそうだと著者はさまざまな歴史家の主張を引きながら述べています。

    また、「社会」vs「個人」という対比、つまり「社会」か「個人」か、という見方ですけれども、そういった見方はナンセンスだ、とあります。社会に反抗する叛逆者であっても、社会に対する個人としてとらえるよりかは、社会の産物であり反映である、と著者は考えている。このあたりも、納得しました。著者は、歴史についての絶対がない、ということでもそうでしたが、ある領域の「外」を設定することの間違いを何度も説いている。歴史についての絶対的で客観的な「外」はないし、社会についても社会に対するその社会の「外」に位置する個人というものはない、とします。この発想というか、発想を考え抜いたひとつの強い知見が、本書のひとつの強靭な柱になっているようにも読み受けられました。

    あと、おもしろいのはp46にあった以下のような内容のところです。自分に有利な施策は推進しようとし、不利益な施策は阻止しようと努力するのは、当たり前のこと、というのがそれでした。欧州的な、闘争の世界観ですね。こういった世界観が常識として根付いている。スポーツの世界でのルール変更が、力のある欧州有利に働くことは多々ありますけども、その考え方の根っこはこういうところにあるのでしょう。

    脱線した箇所になりますがもうひとつ、ちょっとおもしろいところを。
    _______

    「時代が下り坂だと、すべての傾向が主観的になるが、現実が新しい時代へ向かって成長している時は、すべての傾向が客観的になるものだ」(p185にてゲーテの引用)
    _______

    いろいろと考えさせられるところのある言葉です。僕は創造性にとって客観性は外せない要素だと思っていて、たとえばこれからつくるまだ目には見えないものをイメージする段階においても、それが主観的だとすぐに現実から逸れたりずれたりしがち。人間の主観は、客観が手綱をひいて操縦しないと意図しない方向へ走り出してしまう感じがある。時代が新しい時代へ成長しているときに、客観が手綱をひいてやらなければそのせっかくのかけがえのない創造はバランスを欠いたり、崩れたりしてしまう。創造への本気の態度は、必ず構築を達成する、という態度ではないでしょうか。そのための客観。時代が下り坂だと主観的傾向になる、というのは、下りの時代的なネガティブな気分に押し流されて自分を見失ってしまわないために、自分を自分のなかに繋ぎとめて下り坂を転がっていくのを防ぐための主観なのではないでしょうか。時代との同期を断ち切るための、主観。人間って、時代の隆盛と衰微を意識的にとらえると、それが無意識に落ちていくとそこで主観や客観の使用度合いを変えるくらいのことを自動的にやると思うんですよ。そんな具合に、人間ってできていますよね、たぶん。

    最後に、「理性」についての考察の部分を。たとえば、精神分析を作り上げたフロイトを、その仕事の成果から、「理性」を拡張した人物と著者は位置付けています。フロイトに限らず、新たな知の発見は、「理性」を拡張するのです。「理性」の拡張、という言葉の使い方、そういった把握の仕方は、60年以上前の論説でもいまなお新しく、僕にとっては新鮮な風のようでした。

    実践的なものや具体的なものを挙げて、それを賞賛し、他方で理想や綱領のような抽象的で観念的なものを非難する、そういったあり方が保守主義。保守主義は、「理性」を現存秩序という前提に従属するものと位置づけてしまいます。つまり、現存の秩序は絶対で、揺るぎないものとし、誰によっても揺るがせてはならない、とする。しかしながら、保守主義と相対する自由主義は、「理性」の名において現存制度などの秩序に挑んでいくもの、社会の基礎をなす前提に向かって、根本的挑戦を試みる、という大胆な覚悟を通して生まれてきたものだ、と著者は述べています。そのうえで、著者の立場として、歴史家、社会学者、政治思想家がこの仕事に進む勇気を取り戻す日を待ち望んでいる、と言い切っていました。そして、自由主義のほうが、大きなクリエイティブという感じがしました。

    というところですが、内容がぎゅっとみっしり詰まっていますし、わかりにくい論理展開だと思う部分もたくさんありました。読み切れていないところ、誤読しているところもあるでしょう。だとしても、よい出合いでした。著者とぶつかりあいながら、でもときに肩を組みながら、読み終えたような読書です。しゃべり言葉といえど、骨太です。著者の頭脳の強大で強靭で柔軟なさまをみてとれると思います。そういった人物がいること、こんなに考えることができる人間っているんだ、と知ることは、本書の内容を知ることとは別に、人生の糧となるものだと思いました。

  • 歴史学の名著。

    内容は表題のとおり「歴史とは何か?」に対する問いである。
    19世紀にマルクスは「世界は合理的な自然法則によって支配されている」という立場から歴史を語ったが、本書ではそのような立場はとらない。
    歴史が神学化する事の危険性を次の言葉で批判「歴史的事実の意味を探るにあたり、歴史上の問題に対してトランプのジョーカーを差し出すように宗教で決着をつける」。
    又、歴史が文学化する例としては、意図も意味もないストーリーや伝説の話に歴史が堕落させてしまう「歴史学者の姿勢」そのものを批判している。
    本書は「歴史とはなにか?」という率直な問いに対して、様々な学説を交えながらその究極の問いに対する答えを極めた一冊といえる。

    二十世紀に入り歴史学は、現在の眼を通して現在の問題に照らすことによって、過去を見るところに成り立つという視点を得るようになった。
    そこで歴史家には、記録する事よりも、歴史的事実をどう評価するかということが重要になる。

    「すべての歴史は現代史である」クローチェ(イタリア 哲学者)

    「歴史上の事実というものは、歴史家がこれを創造するまでは、どの歴史家にとっても存在するものではない」
    カールペッカー(アメリカ 歴史家)

    「歴史哲学は相互関係における両者を扱うもので、すべての歴史は思想の歴史である」
    コリンウッド(イギリス 哲学者)

    これらは歴史の重心が過去にあるか?それとも歴史の重心は現在にあるか?という見解に対する答えである。
    歴史家は現在の一部であり、歴史的事実は過去に属しているために、過去と現在の相互関係というのがクローズアップされたのである。

    これらを踏まえて、本の著者であるE.H.カーの「歴史とはなにか?」に対する答えが紹介される。

    その、あまりにも有名なその一節はこうだ。

    「歴史とは歴史家と事実との相互作用の不断の家庭であり、
    現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話である」


    また、本書では歴史学を科学的なアプローチで追求する方法も紹介されている。
    「歴史的事実というのは、それ自体が特殊性を帯びた事実である。この特殊な事実に対して歴史家は一般性を見いだすことによって科学となりうる」と。この手法によって歴史的事実から解釈をうみ出すのは他の科学的手法と何らかわらないと説いている。

    この考え方は、自己意識の発展を説いたデカルトの言葉になぞられる。
    「人間というものを、ただ考える事が出来るだけではなく、自分自身の考えについて考える事ができる存在として、観察の動きをしている自分を観察し得る存在」

    歴史が神学・文学にならないためにも、歴史と自己に対する二重の客観性が求められるのが歴史学といえる。
    そして、歴史が過去と未来との間に一貫した関係を打ち樹てる時にのみ、歴史は意味と客観性とをもつことにり、過去の諸事件と次第に現れて来る未来の諸目的との間の対話へと発展させることができるという。

    私たちがどこから来たのかという信仰は、わたしたちがどこへ行くのかという信仰と離れがたく結ばれており、これこそが歴史に問い続ける我々の究極的目的なのではないだろうか?
    本書でE.H.カーは、「未来に向かって進歩するという能力に自信を失った社会は、やがて過去におけるみずからの進歩にも無関心になってしまう」と歴史を学ぶ意義を逆説的に説く事で、歴史という遺産が未来へどう活かされるかを端的な言葉で表わしている。

    最後に、本書で印象深かったクローチェの言葉を引用しておく。
    「非難する時に我々が忘れてしまうのは、我々の法廷は現在活動している危険な人々のために設けられた法廷であるのに、被告たちは既に当時の法廷で審されて、二度も有罪とか無罪とかの判決をうけることはできないという大きな違いである。〜中略〜歴史の物語するという口実で裁判官のように一方に向かっては罪を問い、他方に向かっては無罪を言い渡して騒ぎ廻り、これこそ歴史の使命であると考えているひとたちは、一般に歴史的感覚のないものと認められている。」

    本旨とは関係ないのだが、大衆の非合理性を理解し利用して目的を達成する場合の方法として、オスカーワイルドが名づけた「知性より下のところを狙う」は非常に興味深かったです。

  • 極端に傾かない、穏当な、中庸な結論を紡ぎ続ける。これが教養であり、健全な懐疑主義であろう。

    とりわけ偉人と歴史の関係、科学なかんずく物理学と歴史学のアナロジー、善悪の判断についても歴史的という議論は興味深い。

  • 本書で述べられた内容をカー自身に当てはめるなら、やはり二度の大戦という悲劇の経験こそが彼の主張を形成していったのだろう。つまり、歴史とは絶えざる進歩と理性の向上だろ思われていた20世紀以前の認識から、時代を経てもなお人間は過ちを続けるのだという反省と認識への転換が求められたのが彼の生きた時代であったのだ。「言葉を使うこと自体が彼に中立的であるということを禁じているのです」とは歴史学に関わらず重く響く言葉である。例え世界が絶えざる恣意的な解釈の集合体であっても、せめてそれを自覚することはできるのだから。

  • 今年読んでいた本の中で1番興奮し共感した本なので記す。

    この本はE・H・カーが1961年の1月から3月にかけてにケンブリッジ大学で行った連続講義をまとめ出版したものである。

    本書はまず歴史的事実とはそれぞれの時代の歴史家が選択してきた事実という点から始まる。

    そしてその選択にはその歴史家が下した価値判断があり、その判断を見ればその歴史家がどのような歴史家であるかが解るとし、同時に歴史家もまた時代や思想・社会環境に制約されているので、歴史家を学ぶ前にそれらを知る必要があると説く。


    従って優れた歴史家とはその自らが置かれた被制約性を認識しているものであり、ジョルジュ・ソレルから

    「われわれは自分の方法を意識しながら進んで行かねばならない。われわれは蓋然的で部分的な仮説を徹底的に検査して、いつも今後の訂正の余地を残すような暫定的な近似値で満足しなければならない」

    と引用し、ミスティズム(神学、終末論)やシニシズム(全部意味ない or 意味がある or 好きなように意味を与える)になる事を避け、過去に対する建設的な見解という態度を採用する。


    また歴史における進歩とは、広い意味での環境に対する人間の支配力の増大を指すとし下記のように説く。

    「人間が先輩たちの経験から利益を得ることが出来る、-必ず利益を得るというのではありません- ということ、それから、歴史における進歩とは、自然における進化とは違って、獲得された資産の伝達を基礎とすること、これが歴史というものの前提である」

    そして第1章で歴史とは何かに対して

    「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります」

    と述べたものを

    「歴史とは過去の諸事件と次第に現れて来る未来の諸目的との間の対話と呼ぶべきであったかもしれません」

    と若干修正し、歴史における進歩を肯定する。


    最終章では現代について述べており、その中で現代は上記した環境が人間自身に適用された時代であり、人間は人間自身の理性を用いて自分を変化させているとし

    「恐らく、産業革命が生んだもっとも広汎な社会的結果は考えることを知った人たち、自分の理性を使うことを知った人たちの漸次的増加ということだったでしょう」

    と歴史的解釈を述べる。しかし同時に英語使用世界、特にイギリスの相対的地位の低下に対して悲観的になるばかりにノスタルジーに浸り、理性への信頼が低下する事に強い危惧もまた同時に述べる。


    全体を通して著者の知・歴史に対する真摯な姿勢を伺う事ができるだろう。耳触りが良かったり解ったつもりになる超越論的なものや超経験的なものは避け、建設的な態度をとり続ける姿に本当の大人を見ることができる。

    基本的にあまり強くは書かず、柔らかい言葉を使うのは、本書の中であったように自身を取り囲んでいる制約に自覚的であるからである。しかしだからこそ口調がきつめになる点は相当程度の確信があってこそだろうと読む事ができる。

    また本書でも何度か繰り返される今の自分が思う解釈というのは時間や社会空間に制約されており、それらは当然未来において解釈し直されるという態度には深い共感を覚える。

    そこには未来の歴史家に対する明示的には書かないが温かい信頼のようなものがあるように思える。

    そしてこの歴史という言葉を我々自身に置き換える事ができるならば、本書は現代に生きる我々に対して非常に多くのものを、彼の言葉を使えば「最も役に立つもの」を提供してくれているのかもしれない。


    なにはともあれ、E・H・カーという人物の物事に対する真摯であるが故の控えめな態度に是非触れて欲しい。

  • 歴史とは、歴史家と事実との相互作用の不断の過程であると説く本。
    今の歴史観は今の社会感を反映している。現代文の問題っぽい。

  • 歴史=過去の事実(と思われしもの)の蓄積で、史料に裏付けられた客観的なもの・個人の解釈から独立したもの、と思っていたけど、真逆だったのか〜と納得した。
    同業者に対する切れ味鋭い皮肉に笑ってしまう、、

  • この本を読んで、山内昌之先生の本を研究しようと思いました。
     

  • ビジネス本の読書会にて

    「 歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります。」

    深い言葉だ。歴史的事実一つをとっても「現在の歴史家」というフィルタを通してみるしかなく、歴史家の数だけ事実が存在し得る。

    実はこの本、昭和30年台に父が購入したもので所々に鉛筆の線が引いてあり、冒頭紹介した語句にも引いてあった。さらに言えば、この本は大学で哲学を学んでいる息子が祖父のところにいったときにもらってきたものだが、存在を知らず、今回の読書会に行こうとしていたときに息子から存在を知らされたもの。親子3代に渡って同じ本を読むことになり感慨深い。

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