十字軍―その非神話化 (岩波新書 青版 D-18)

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  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (230ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004130185

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  • 前兆と胎動
    勧説とその反響
    東方遠征
    聖地の解放
    十字軍の理想と現実
    凋落と破局

    著者:橋口倫介(1921-2002、東京都、西洋史学者)

  • 「できるだけ紙幅をさいて原典に語らせる形式」と著者自らが、あとがきで書く通り、十字軍を研究した文献からの豊富な引用が特徴となっている。1974年の本なので、十字軍を語るにおいて、人類史において肯定せざるべき、「戦争」について考えるというスタンスである様に見受けられた。

  • 橋口倫介『十字軍』岩波新書,1974年:イエズス会を調べていると大航海時代の精神にはやはり十字軍の名残があるような記述にであうので、手に取った。
     十字軍(1095年〜1291年)は200年の歴史があって、なかなか理解するのがむずかしい。
     経済的側面からいうと、12世紀には気候が温暖化し農業生産が回復している。6世紀から10世紀は気候や黒死病の影響もあり、西ヨーロッパの人口密度は1km2あたり2〜5人の極端な過疎だったが、12世紀末に「大開墾」時代にはいり、人口増加が起こる。これにともない領地をもたない騎士や「商業の復活」による商人層の発生した。奴隷は概ね消滅し、下層農民が農業労働力となり、富農が出現する。つまり、社会構造の変化して、こうした封建社会からの集団的脱出があらわれた。また、人口増加から建設ブームもおき、11世紀から300年の間に全ヨーロッパのどこかで3日に一つの聖堂が建てられた。城砦も多く建設され、木造土壁から石造建築へと変化した。
     十字軍の歴史は一応、第7回までが数えられ、ナンバー付きでない現象も重要である。
     1095年、ウルバヌス二世がビザンツ帝国の軍事支援の要請をこえて、異教徒に占領された聖地エルサレムを取りもどすこと思いつき、これを「キリスト教徒の義務である」とフランスで演説した。ウルバヌスはもとフランス貴族でクリュニー会にはいり、「カノッサの恥辱」(1077年)のグレゴリウス7世を補佐した人であった。要するに教皇権強化の路線を継承した人で、演説の才能があった。聖職売買根絶・聖職者独身制の推奨・聖職叙任権問題・私闘抑止(神の休戦)などの「改革教令」を発し、教会刷新を行った。教会のために異教徒と戦い落命した場合は罪の許しが得られるという「赦免」も定めた。ウルバヌス二世は南フランスで精力的に十字軍を勧説し、熱狂的反応をえた。結局、ル=ピュイの司教アデマールを法王代理とし、南仏最大諸侯レーモン・ド・トゥールーズが司令官となり、ロレーヌ軍団・フランドル軍団・ノルマン人部隊が加わった。こうした「正規軍」のほかに「隠者ピエール」が勧説した「民衆十字軍」があり、貧乏騎士・富農・子供・女性・盗賊・売春婦などが、位置も距離も知らず、とにかくエルサレムへと旅にでた。多様な人々が、出陣の景気づけにユダヤ人を血祭りにあげながら、一旦、コンスタンティノーブルに集結する。ビザンツ皇帝は十字軍に臣従をちかわせ、てばやく送りだした。戦闘員6万の軍勢はボスフォラス海峡をわたり、小アジアへいく。隠者ピエールの部隊が先発し、愚かにもトルコ人を掠奪して報復をうけ、数千人が死んだ。正規軍はその後からゆき、セルジューク・トルコの都市ニケーアを攻略、1097年10月20日、アンティオキアを包囲し、翌年に陥落させた。このとき隠者ピエールは戦闘がはじまると逃げ出した。民衆にとって十字軍は「聖地巡礼」で、戦闘ではなかったのである。アンティオキア陥落後に虐殺・掠奪が起こる。その後、チフスが蔓延し、今度は占領軍の多数が死亡、法王代理のアデマールも死んだ。法王代理が死んだことで、十字軍は空中分解しかけた。諸侯は聖地解放もわすれ、勝手に領地の切り取りをはじめた。このとき、エルサレムに行くことを主張したのが民衆十字軍で、諸侯をつきあげ、なんとか。1099年エルサレムについた。3年間をかけ、3000キロを旅したのだ。攻撃の前に聖祭を行い、7月13日にエルサレム解放が開始、騎士1500、歩卒2万、1万以上の男女の非戦闘員が作戦を準備した。当時の戦いは城壁にハシゴをかけてよじ登るというもので、守備側は「ギリシアの火」(火薬)をつかい応戦するが、15日落城し、ゴドフロワが一番乗りを果たす。落城後はやはり大虐殺が起こる。占領後は、法王代理が死去したことから、誰が支配者になるかということでもめ、結局、教会国家ではなく世俗国家をエルサレムに建設するということになり、一番乗りのゴドフロワが選ばれる。ゴドフロワは黄金の王冠を辞退し、「聖墳墓の守護者」と自称する(後継者のボードワン一世は「エルサレム王」となのる)。ゴドフロワはもともと伯爵の次男で所領がなかったが、暗殺で死んだ叔父の領土を手に入れるために、ハインリヒ四世の軍に加わり、グレゴリウス7世の敵であった。プロレスラーのような体格だったらしい。第一次十字軍が陸路エルサレムに到着できたのは、当時のイスラム勢力が分裂していたからだが、1100年までにエルサレム・ベツレヘム・ヤッファが王の直轄地になり、アンチオキア侯領、エデッサ伯領、トリポリ侯領などが成立する。
     ヨーロッパではエルサレム陥落の報を聞かずにウルバヌス二世は死んでいたが、後継者のパスカリス二世が大動員をかけ、20万の大軍が組織されるが、トルコのゲリラ戦術などで、小アジアで殲滅され、1%ほどしか聖地にたどり着けなかった。「フランク人のいたましい第2回巡礼行」とか「一一〇一年の十字軍」と呼ばれる。この失敗のあと、セルジューク・トルコの分国モスールの宰相モドゥードとダマスクスのトゥギティギンなどが同盟(1113年)などがあり、イスラム勢力の結集がはじまり、ゼンギのエデッサ伯領奪回(1144年)につながる。また、聖地では「聖ヨハネ騎士団」(1113年)、「テンプル騎士団」(1128)など、騎士修道会が巡礼の警護のために発足し、ヨーロッパではシトー会修道院が成立(1115)、その代表的人物クレルヴォーのベルナールは、1147年第二回十字軍の勧説をおこなうことになる。また、ベルナールはテンプル騎士団の創始者ユーグ・ド・バイヤンの主であるシャンパーニュ伯爵と無二の親友で、テンプル騎士団の公認に力をつくした。テンプル騎士団などの騎士修道会は騎士と修道士の側面をあわせもつ理想的「キリストの戦士」という新しい人間像を生みだし、これはベルナールによって第二回十字軍の理想とされる。ベルナールは真のキリスト教徒となるための試練として異教徒の世界との接触をもとめたが、この理想は共有されず、相変わらずユダヤ人虐殺で景気をつけて、コンスタンティノーブルにいき、小アジアを突破しようとするが、コンラート三世のドイツ軍団はトルコに奇襲をうけ、ルイ七世のフランス軍も山越えの強行軍で兵力の大半を失った。彼らはエルサレムにつくが、エデッサ伯領に再奪取などせず、身一つでキリストと会うためにたどり着いただけであった。結局、第二回十字軍はフランス王の贖罪のため(不倫をしていた妻を離婚しようとしたこと)のためといわれる。第二回十字軍は結局、巡礼で終わった。のちに巡礼だけならば軍は必要ないということになっていく。イスラームはダマスクスにヌーレディンがでて、トルコと同盟、反攻がはじまる。ヌーレディンの宮廷官吏だったのがサラディンで、1171年、エジプトの政権はサラディンに移り、全イスラムはサラディンを最高司令官に仰ぐことになる。1187年、サラディンによるエルサレム再陥落、これに対して同年、獅子心王リチャード一世、赤ひげ帝フリードリヒ一世、尊厳王フィリップ二世など英・独・仏の君主によって、第3回十字軍が結成される。15万の兵力で出陣したドイツ軍団は、サラディンの要請でビザンツや小アジアで補給がうけられず、フリードリッヒも小アジアで溺死してしまい、息子は率いてアンティオキアについたときには兵力は4万になっていた。イギリス・フランスの軍団は海路をとった。リチャードは船酔いの体質らしくシチリアまで陸路をたどり、軍団と合流、嵐で漂着したキプロスを征服し、11ヶ月かかって到着した。フィリップは半月で十字軍の港ティルスに入港した。英・仏・独・伊の十字軍、テンプル・聖ヨハネ騎士団、現地諸侯軍などは、サラディンが奪回したアッコンを包囲したが、全イスラム軍は包囲軍を包囲し、二重包囲戦となった。リチャードは塹壕で城兵と戦い、騎士団で背後の包囲軍と戦った。結局、アッコンが降伏し、これを材料にサラディンと交渉、身代金とエルサレムにあった「真の十字架」の返還をもとめ停戦する。リチャードはその後もアッコンを万全にするためにサラディンと戦うが、1192年、三年間の休戦条約(リチャード=サラディン協定)を結んで帰国した。
     1202年、「世界の光」といわれたイノセント三世が十字軍を提唱するが、この第4回十字軍は、司教以上の聖職者に10分の1税、修道院にも40分の1税を要求してはじめ、騎士4500、歩卒2万の大軍勢が登録されたが、出航日には半分以下にへっており、渡航費が不足するはめになったので、ヴェネチアに借金するかわりにダマルチアのザラ港をハンガリア王から奪い返す作戦に雇われ、さらにザラにきていたビザンツの亡命皇帝の王子アレクシウスの依頼によってコンスタンティノーブルを攻撃することになった。1204年、十字軍はコンスタンティノーブルを焼き払い、フランドル伯が帝位につき、ラテン帝国を建国する(1261年滅亡)。
     1212年、少年十字軍がおこる。フランスのロワール中流の牧童エティエンヌと、ライン川のケルンの少年ニコラスは何の連絡もなく、それぞれ数千から数万の子供(や大人)をひきつれ、聖地を解放するために巡礼に出発した。エティエンヌはキリストの幻をみたそうで、王のもとにいき、その意図をあかした。王は許可せず、大部分は家へ帰されたが、一部はマルセイユにきて7隻の船にのった。2隻は沈んで、のこりの船にのっていた少年らはアルジェリアやエジプトで奴隷として売られた。ニコラスのほうは、アルプスをこえ、夏で暑さと渇きのため多数が死んだが、イタリアにはいり、ジェノバについた。ジェノバ人は男女が混在の浮浪少年たち7000名に驚き、宿舎も食料も与えず、退去を命じた。少年たちは自然に解散したが、一部はローマの法王庁に訴えたが相手にされなかった。
     1217年、ホノリウス三世は、スペイン人枢機卿ベラギウスを法王代理とし、ノルウェー・ハンガリー・オーストリアなどもくわえて大軍を組織した。このころ、アッコンのエルサレム王国は老騎王ジャンがいて、エジプトに侵攻していた。エジプトのスルタンは負けそうなので、エルサレム返還の準備までしていた。そこにベラギウスの十字軍が到着、カイロを攻めて、エジプトともども聖地も奪い返すと強硬策を命ずるが、結局、膠着状態になり、ナイルの洪水で作戦は頓挫し、エジプトの反攻にあい、ベラギウス以下全員が捕虜になった。欲張って失敗したのが第5回十字軍である。このころフランシスコ会(1209年公認)、ドミニコ会(1216年)などの托鉢修道会が成立する。
     1227年、「フリードリッヒの十字軍」、ドイツ皇帝フリードリヒ二世は四度も十字軍の出発を延期して法王から破門されているが、これは「最初の近代人」とされるフリードリヒが国際情勢を分析し、政情を判断していたからで、ベラギウスに荷担するのは意味がないと考えていたし、ドイツ騎士団を通じて聖地の情勢も分析していた。そんなときカイロからフリードリヒに同盟の申しいれがあった。ホラズムとシリアが同盟して、カイロを奪おうとしていると考えたのであった。カイロの提起した同盟の条件にはエルサレムと海岸都市を十字軍に譲渡するというものがあった。1229年、ヤッファ協定でエルサレムは十字軍にもどる。イスラム教の聖地やイスラム教徒居住区は治外法権とされ、相互に安全通行権を保障した。
     フリードリヒ二世を破門したグレゴリウス9世はヤッファ協定を屈辱と感じ、正統的十字軍の復興をはかり、1239年、フランスの詩人諸侯シャンパーニュ伯チボーなど名士がマルセイユをたち、アッコンへ、このときイスラム側とは休戦中で、チボーは貴婦人に詩を送って暇をつぶした。ダマスクスとエジプトの対立を利用して、両者から土地の割譲をうけ、敗戦以前の国境を回復した。この第6回十字軍は「ただ来ただけ」といわれる。
     1244年、ホラズム傭兵隊が、ほとんど無防備だったエルサレムを蹂躙する。モンゴルに追われて彷徨っていた精鋭をエジプトのアイユーブ朝がやといいれたのだった。当時、エジプトへ報復できたのは「聖王」といわれるフランス王九世だけだった。1249年出発、2万5千くらいの兵力だったが、一日でエジプトのダミエッタを攻略し、洪水期をやりすごしているうちに、スルタンからエルサレムなどのシリア領土の譲渡が提案されるが、「蛇を殺す最良の方法はその頭をうつこと」とし、エジプトを攻略するが、戦線が膠着したまま、陣中にチフスが蔓延、十字軍の降伏となった。ルイも捕虜となり、身代金を契約させられる。しかし、奴隷兵士軍団マムルークが反乱、スルタンを暗殺した。マムルークはルイを殺そうとしたが、軍団の指導者にたすけられ、1250年、身代金をはらってエジプトを去り、シリアにいく。ルイはシリアの無政府状態を改善し、キリスト教徒内の和解につとめた。また、1253年にモンゴルのカラコルムにフランシスコ会士ルブルクを派遣した。ルブルクは二年後に帰還し、1260年、ダマスクス攻略戦にモンゴル・十字軍共同作戦が実現した。1270年、ルイはフランスからチュニスを征服にでかけるが、戦地でチフスにより死んだ。なんの意図でカルタゴに行ったのかは謎である。
     1260年から1291年まではトルコ系マムルークとの戦いとなった。この軍団は戦闘訓練をうけた奴隷で近代の「常備軍」的性質をもっていた。十字軍の中世的封建軍はこれに敵することができず負け続けた。マムルークに匹敵しえたのは「常備軍」的特徴をもつ修道騎士団だけであった。最後に残ったアッコンも1291年6月17日に陥落した。退却した少数の十字軍敗残者はリチャード獅子心王が征服したキプロス島にたどりついた。イスラムは「フランク人を掃き清めた」のであった。

  • [ 内容 ]
    異教徒からの聖地エルサレム奪回の名の下に、十一世紀末から十三世紀後半にかけて、キリスト教徒による遠征がくり返し行なわれた。
    その実態はどんなものであったか。
    彼らはいかなる動機でどのような過程をへて東方に向ったのか。
    イスラム側はそれに対してどう反応したか。
    その理想と現実の姿を明らかにし、従来の聖戦観の打破を試みる。

    [ 目次 ]


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