魔女狩り (岩波新書 青版 742)

著者 :
  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (207ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004130208

作品紹介・あらすじ

西欧キリスト教国を「魔女狩り」が荒れ狂ったのは、ルネサンスの華ひらく十五‐十七世紀のことであった。密告、拷問、強いられた自白、まことしやかな証拠、残酷な処刑。しかもこれを煽り立てたのが法皇・国王・貴族および大学者・文化人であった。狂信と政治が結びついたときに現出する世にも恐ろしい光景をここに見る。

感想・レビュー・書評

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  • 15~17世紀の中世ヨーロッパで、「魔女狩り」の嵐が吹き荒れた。
    それは、異端審問(inquisitio pravitatis hereticae)ともっともらしく呼ばれながらも、実のところ「狩り」というのがふさわしい、野蛮で残酷な狂気の沙汰であった。

    「魔女」と見なされたのは、女性ばかりではない。男性も「魔女」として裁かれることがあった。年齢も問わず、幼児から老人まで、まさに老若男女、さまざまな人々が「魔女」の疑いをかけられた。身分階層も関係なく、昨日は学識ある紳士・純潔な乙女と呼ばれても、今日「魔女」にされることもあった。彼らの多くは、いやすべてと言ってよいのだろうが、もちろん「魔女」ではなかった。得てして「神」に背く気などさらさらない善良な人々が「魔女」として捉えられ、猛火に焼かれた。
    記録も不十分なことから、いったいどれほどの人がその犠牲になったかは定かではないが、数十万から数百万の無実の人々が処刑されたと見られている。

    なぜそのようなことが起こりえたのか。
    1つの背景として、当時、「魔女はいる」ことは大前提であった。教会の大きな権威の元、神に背く「魔女」が必ずどこかに潜んでいるとなれば、人々はそれを探そうと躍起になるだろう。少しでも怪しいことがあれば、「あれは魔女だ」と告発される。よしんばそれに疑いを抱く者があっても「お前は神を疑うのか、魔女をかばうのか、お前も魔女なのか」と言われかねないのなら口をつぐんでしまうだろう。

    「魔女」と目されたものは連行され、尋問される。尋問と言っても、裸にして鞭打ったり、指を木ねじで締めつけたり(時には骨も砕ける)、体を横たえて四肢を四方に引っ張ったり、と身体的苦痛を与えるものである。これはすでに拷問だろうと思うわけだが、「公式」にはこれは「予備尋問」であって拷問とは呼ばれなかった。この段階で「自白」が得られれば、「拷問なしに自白した」ことになる。
    これでも自白しない場合には(魔女ではないのだから、普通に考えれば「自白」などできないわけなのだが)、本格的な拷問が待っている。体を吊り上げ、吊り落とし、水責めにし、ありとあらゆる残酷な方法が取られる。

    「魔女」ではなく、「自白」しようもない事柄を、無実の人々はどうやって自白したのだろうか。
    当時は明確な「魔女像」があった。秘密の集会に行く。悪魔との淫行にふける。体のどこかに魔女のあざを持つ。黒犬にまたがって夜空を飛ぶ。
    拷問を受けながら、「お前は魔女だろう、これをやっただろう」と言われれば、苦痛のあまりに、身に覚えのないことであっても「自白」してしまうだろう。
    魔女狩りに遭った人々は、いずれにしろ「魔女」だと決めつけられているので、どのみち逃げ道はない。「自白」するまで拷問されるか、拷問の果てに死んでしまうかということになる。自白をしない場合には、唆す悪魔の力が強いということになるのだ。酷い例では、手足を縛って池に投げ込むという「判別法」がある。浮かべば魔女の証明となり処刑される。沈めば魔女ではないが結局のところは溺れ死んでしまう。酷い話である。

    尋問では、「共犯者」についてもしつこく聴かれる。拷問の厳しさから、心ならずも友人・知人の名前を挙げてしまう。後悔して取り消そうとしても一度口から出たものは取り返しがつかない。それらの人々も連行されて処刑される。

    処刑される前に自白を取り消す例もなくはなかったが、多くはなかった。
    大抵の処刑は火刑である。だが自白した場合には、火刑の前に絞殺されるのが常であった。生きながら焼かれるよりはましと絞殺を選ぶ者が多かったのである。

    審問の際にかかった費用(拷問の費用や、裁判官・処刑人の日当、火刑の薪代等も含む)は、魔女本人が支払うべきものとされた。処刑の後、財産が没収されてその費用に充てられた。「魔女」が裕福であれば、得られる財産も多い。
    宗教の名のもとに行われた魔女裁判だが、「金になる」側面が隆盛を助長した面も否定はできないだろう。

    いやはや、怖ろしいことである。
    パスカルは
    人間は宗教的信念をもってするときほど、喜び勇んで、徹底的に、悪を行なうことはない(「パンセ」)
    と言ったという。
    自らが「正しい」と信じたとき、それが「権威」と結びついたとき、どれほどのことが起こるのか、心に留めておくべきだろう。

    魔女狩りの歴史をコンパクトにまとめた啓蒙の書、一読の価値ありである。

  • 魔女狩りといえば、冤罪によりたくさんの人間が拷問処刑された暗黒の歴史、という漠然とした印象を抱いていたが、まさにその極悪非道ぶりに寒気を覚えた。
    密告という形で進められた意図的な吊るし上げが、被告の豊かな財産の没収目当てであるとか、自白させる際の留意点を細かく書いた文書だとか、汚濁した聖職者たちの狂気的な意識の犠牲になった人々の苦しみや無念は相当なものだろう。
    ここに書かれているようなやり方で自白を強要あるいは誘導されれば、どんなに潔白であっても、きっと最後は拷問の辛さから逃れようと罪を認めてしまうに違いない。人間の弱さは同じ人間が一番よく知っているという、いやらしさの最たる事例だと思う。
    神の名のもとであれば、人間はこれほどまで傍若無人になれるのか。理性とは何か、を考えずにはいられない。

  • 中世キリスト教国に疫病のごとく蔓延した魔女狩り。
    人間固有の残酷性を除去するよう努め続けない限り、必要に応じて大勢の「魔女」が再び作られ、不条理に葬られるおそれがあるということを歴史が教えてくれる。
    何時の時代においても、世情不安によって民衆はスケープゴートとされた被告人への極刑を望む一方で、「今度は自分が被告人になる番かもしれない」という裁かれる恐れも同時に脳裡を過ったのではないだろうか。
    このような不条理な裁判に対する恐怖は、最後の審判やバスティーユ襲撃などにも象徴されているように思う。

  • [ 内容 ]
    西欧キリスト教国を「魔女狩り」が荒れ狂ったのは、ルネサンスの華ひらく十五‐十七世紀のことであった。
    密告、拷問、強いられた自白、まことしやかな証拠、残酷な処刑。
    しかもこれを煽り立てたのが法皇・国王・貴族および大学者・文化人であった。
    狂信と政治が結びついたときに現出する世にも恐ろしい光景をここに見る。

    [ 目次 ]
    1 平穏だった「古い魔女」の時代(魔女の歴史 寛容な魔女対策)
    2 険悪な「新しい魔女」の時代(ローマ・カトリック教会と異端運動 異端審問制の成立とその発展 ほか)
    3 魔女裁判(魔女は何をしたのか 救いなき暗黒裁判 ほか)
    4 裁判のあとで(魔女の「真実の自白」 「新しい錬金術」―財産没収 ほか)

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    [ 参考となる書評 ]

  • これはまじですごい
    おもろいし、わかりやすい
    1970年の本とは思えない
    キリスト教やべぇー
    宗教くそこえぇー

  • 中性からルネッサンスにかけて、ヨーロッパで荒れ狂った魔女狩りの実態を解説している本です。

    ローマ・カトリック教会は、南フランスで展開された異端運動に対してアルビジョワ十字軍を送り込み、鎮圧します。そしてこの事件を機に、教会は異端審問にまつわる制度を整えますが、その制度のもとで残虐な魔女狩りがおこなわれ、無実の人びとが魔女の烙印を押されて、拷問を受け、処刑され、財産をうばわれることになりました。本書は、そうした魔女狩りの実態を明らかにするとともに、それがもっとも激しくおこなわれたのが、近代の曙とされるルネッサンス時代であったことに目を向け、光に満ちた近代へ向けての進歩という、一般に広く受け入れられているヨーロッパの歴史の見かたの背後に存在していた事実をえがき出しています。

    著者は、「人間は宗教的信念をもってするときほど、喜び勇んで、徹底的に、悪を行うことはない」というパスカルのことばを引用していますが、本書に記されているような非道なおこないが、信仰の名のもとにおこなわれたことを知ると、人間性そのものに対する絶望感にとらわれてしまいます。

  • 参照:
    (『ヨーロッパとはなにか』増田四郎, 岩波新書)
    「ルネサンスは、文字通り復興であり、再生である。何の復興または再生かといえば、教会中心の神学的世界観に対する人間中心の文化の復興にほかならない。 」
    「ヨーロッパ人が……キリスト教圏だと自任するようになるのは、歴史的にはよほど後世のことで、イベリア半島のイスラム支配をはねかえしてゆく過程、とりわけ十字軍の永い遠征の時期からではなかったろうか……。もしそうだとするならば、8、9世紀でなく、12、13世紀という時代が、意識の面でのヨーロッパの成立期だともいえぬことはない。」

    引用:
    (『魔女狩り』岩波新書 p.178)
    「魔女裁判は、中世前期の暗黒時代にではなく、中世末期、ルネサンスの動きとともに始まり、1600年を中心とする一世紀間は、魔女狩りのピークであるとともにまた、ルネサンス運動のピークでもあった。」

    要約:
    宗教裁判で金蔓からあらかた金を巻き上げてしまい、搾りかすだけでは教会の経済が成り立たなくなると、今度は異端者ではなく魔女に焦点を向けるようになり、そこに更にルネサンスによる宗教改革でプロテスタントが誕生すると、その運動と並行して魔女狩りは大いに盛り上がりをみせる。

  • 3.71/519
    内容(「BOOK」データベースより)
    『西欧キリスト教国を「魔女狩り」が荒れ狂ったのは、ルネサンスの華ひらく十五‐十七世紀のことであった。密告、拷問、強いられた自白、まことしやかな証拠、残酷な処刑。しかもこれを煽り立てたのが法皇・国王・貴族および大学者・文化人であった。狂信と政治が結びついたときに現出する世にも恐ろしい光景をここに見る。』

    『魔女狩り』
    著者:森島 恒雄(もりしま つねお)
    出版社 ‏: ‎岩波書店
    新書 ‏: ‎207ページ

  • 魔女狩りとは、異端を排除するためのものだったのだ。
    最初は教会も自分達の教えにそぐわないものに対してもおおよそ慣用であった。
    しかし、自分達の地位を脅かすと判断したとたん、強硬的な姿勢を露にした。
    疑わしいものは罰する。そのような姿勢のもと、残虐な魔女狩りが中世の時代には行われていたのである。
    恐ろしいものだ。人は自らの地位を脅かすものや思いどおりにならないものに対して、時と場合によってはこんなにも残虐になれるのだ。
    中世ヨーロッパと比較すると認識が弱いかもしれないが、今でもあらゆる領域において魔女狩りは行われているのだろう。これからもずっと。

  • 興味深く読んだが、70年代以降の研究でこの本における「教会・施政者主導で数十〜数百万人を虐殺」といった主張は否定されてきているようだ。
    新しめの本も読まなければならないとは思うが、最近この手の本を読み過ぎた。人間不信が加速する。

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