ガリレオ・ガリレイ (岩波新書 青版 576)

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  • Amazon.co.jp ・本 (206ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004160526

感想・レビュー・書評

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  • 青木靖三『ガリレオ・ガリレイ』岩波新書,1965年:『天文対話』の訳者によるガリレオの評伝であり、手紙を通してガリレオの生涯を再現しており、史料に語らせるたいへん手堅い著作だと思う。およそ半世紀前の著作だが、優れている。ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)は、トスカナ大公領ピサで生まれ、父親はヴィンチェンチオ、母親はジュリア・アマナティ、10歳まで母とともにピサに残り、フィレンツェに移った。ガリレオは長男、妹はヴィルジニア、弟はミケランジェロ、妹はリヴィアである。1574年からフィレンツェ郊外の聖マリア修道院で学ぶ。1579年、15歳で修道院を去り、1581年ピサ大学の医学部に入るため、技芸過程に登録した。しかし、医学に興味をもてず、レオナルド以来の職人の系譜をひく技術に憧れた。1583年ピサのドームで揺れているランプをみて「振り子の等時性」の着想を得たとされる。1584年、ピサ大学を中退し、家族のもとに戻った。フィレンツェでガリレイはオスティリオ・リッチ(1540-)に数学の手ほどきをうけた。リッチはタルターリアの弟子である。タルターリアは街の計算家でありながら、三次方程式の解法など数学史に業績がある人物である。リッチは1586年ごろ、トスカナ大公の数学者になり、アカデミア・デル・ディセニォー(Academy of design;高等技芸学校)の数学教授でもあった。ガリレオはリッチの影響のもとに『流体静力学的はかり』や『固体の重心についての定理』を書いた。1587年、はじめてローマに旅し、イエズス会のクラヴィウスに激励された。1588年には『ダンテの地獄界の形、位置、大いさについて』を書き、アルキメデスの円錐曲線論によって地獄界の構造を明らかにしようとしている。「トスカナのアルキメデス」といわれたグィドバルド・デル・モンテ侯はガリレオの才能を認め、彼の庇護のもと就職活動をし、ボローニャの大学に推薦されたが失敗し、1589年にピサ大学の数学教授に任命される。ピサ大学の年俸は60フロリンの薄給(1965年当時の日本円で10万円程度)であった。ヴィヴィアーニ(ガリレオ晩年の弟子)の伝記によれば、ピサで「落体の実験」をしたとされるが、これは青木氏も「公開実験は一度もしていない」としている。1590年には『運動について』を書いた。トスカナ大公の子弟の一人が河川浚渫機械を考案したとき、ガリレオだけがその欠点を指摘し、賛意を示さず、このためにピサ大学で契約更新はできなかったとされる。1591年に父が死に、弟のミケランジェロは音楽家になろうとしていたが自活できず、妹ヴィルジニアの結婚持参金も残っていた。そこで、デル・モンテ侯爵とフランシスコ枢機卿の兄弟に頼み、パドヴァ大学に就職することになった。年俸は180フロリンであった。パドヴァはヴェネチアの西、共和国に属する。パドヴァ大学は実証医学で有名で、当時の大学のなかでも変わっていた。『ファブリカ』を書いたヴェサリウスが解剖をおこなったのもパドヴァ大学である。ガリレオの同僚には静脈弁を発見したファブリチオがいた。血液循環論を書いたハーヴェイの師である。ヴェネチアでは貴族サグレドと友になり(『天文対話』にも登場)、造船所の職工らと話したりしている。また、マリナ・ガンバと親密な関係となり、ヴィルジニア(1600-、後のマリア・チェレステ修道女、ガリレオの裁判中に父を精神的に慰めた)、リヴィア(1601-、後のアルカンジョラ修道女)、ヴィンチェンツィオ(1606-、結婚後独立するが父の手伝いをした)の三子をもうけた。また、このころサグレド邸で睡眠中湿った風にあたり、しびれたことから生涯不快感が残った(通風とされる)。生計をたてるため、家庭教師・教科書執筆・計算コンパス(職工用計算尺)の製造販売、下宿屋などもおこなっていた。パドヴァにうつるまえに『アリオスト傍注』と『タソー考』という詩論をかいている。パドヴァに移ってからはユーグリッドやプトレマイオスの注釈をやった。当時書いていた教科書『天球論あるいは宇宙誌』をみても、アリストテレスから逸脱してはいなかった。科学研究の面では『加速運動について』を1604年にあらわしており、のちの『新科学対話』に再録されることになる。ガリレオと地動説の関係は、1597年のピサ大学マッゾーニ宛の手紙で表明しており、7歳年下のケプラーと文通を始めるのも1597年である。ガリレオが就任する直前にパドヴァで捕らわれたブルーノが1600年焚刑になっていることもあり、イタリアは地動説の公開に不向きであった。ケプラーは新教徒の国で発表してはどうかと打診している。1609年8月21日、のちにヴェネチアのドージェ(統領)となるプリウリによると、ガリレオは望遠鏡をもってサン・マルコの鐘楼に上り、街を観察した。この望遠鏡は倍率を9倍にして大学に贈られた。望遠鏡はガリレオの発明ではないが、その改良を透視画法から発想し、天体の観測にもちい、『星界の報告』(1610年)を書いたのはガリレオの業績である。月の山谷、金星の満欠、火星が大きさの変化、銀河が星であることなどが観測された。とくに木星の四衛星は木星が軌道中心となることを示し、地動説の根拠になった。また、その星を「メディチ星」となづけ、フィレンツェの支援を要請した。のちに「トスカナ大公付数学者兼哲学者」となり、大学で教える仕事から解放されるのに役立った。土星については「三つに見える」としており、いわゆる「土星の輪」はみていない。『星界の報告』は彼の名声をたかめたが、同時に異端の嫌疑も萌していた。ベラルミーノはこのころからガリレオの研究に異端の端緒がないか探りをいれていた。しかし、ケプラーも追認し、クラヴィウスらイエズス会も自ら作った望遠鏡で観測を行い、『ローマ学院の星界の報告』をだしてガリレオの観測を追認している。1611年ガリレオは第二次ローマ旅行をし、教皇パウルス五世の足に接吻し、ローマの名家チェージ公爵が設立したリンチェイ学士院となった。1610年9月12日、ガリレオはフィレンツェに帰った。ガリレオにとって、ヴェネチアでは「大衆に仕える」ことをしなければ俸給がもらえないが、絶対君主に仕えれば時間の余裕ができると思ったのである。サグレドは旅行からかえった後にガリレオの帰郷を知ったが、「宮廷は嵐の海」であると警告している。以後、地動説の擁護でローマを旅しているが、基本的にフィレンツェに住んだ。1616年のベラルミーノ枢機卿によって地動説をすてるように穏やかに訓告され(第一次ガリレオ裁判)、1633年第二次裁判で「救済措置」(拷問)をちらつかせながら地動説を誓絶させられた。この本には当時の判決文もついている。青木氏はレオナルドの流れをくむ技術者としてガリレオを描いた。「それでも地球は動く」という言葉については現代では「伝説」とされている。この書物の本文にも書かれていないが、新書の帯には「それでも地球は動く」とあり、カバーの見返しにも「それでも地球は動くという言葉にこめられた無限の想いを伝える」と書いているが、惹句にしても問題があるのではないかと思う。

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