日本語の文法を考える (岩波新書 黄版 53)

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  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004200536

感想・レビュー・書評

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  • 「不幸な学問」と題された第1章の言葉にハッとさせられる。

    「国語を教える先生に、文法の好きな先生が非常に少ない。一般に国語の先生は文学が好きで語学は好きではない。ことに文法は好きでない。それは先生が文法をよく習っていないせいかもしれない。」(p.1)

    確かに、教科書の作品について夢中で語ってくれた先生は少数ながらいたが、文法について暗記術に熱心な先生はいても、その面白さなり理屈については教わった覚えがない。さらに続く指摘は手厳しい。

    「好きでない先生には、それを自分で勉強しようという意欲があまりない。教える人がわからないままで教壇に立つ。その授業が生徒におもしろいはずはない。」(p.1)

    これは国語の教師に限らず、広く人にものを教える者が心しておくべきように思える指摘である。

    本題に入ってからも母語だけにあまり意識してこなかったことが多く示され、好奇心を刺激される。日本語では未知のことを伝えればよいから述語だけで文が成り立ってしまう(それどころか主語を書けば不自然となる例も示される)。一方でヨーロッパの言語では主語がなければ述語動詞の語形が決められない。

    「ガ」と「ハ」の使い分けは「ガ」が未知のこと、「ハ」が既知のこと。これは目新しい説明ではないが、「ハ」の上に疑問詞は来ないという指摘は確かにそうだ。「誰がいるか」であって「誰はいるか」はあり得ない。こうした例を示せば文法学習も面白みを持てるだろう。「ハ」は題目を示して既知扱いするのだ。

    あるいは、漱石の『明暗』には「ハ」が多く、鷗外の『雁』には「ガ」が多い点への考察には唸らされる(pp.43〜44)。

    また、形容動詞がなぜ形容動詞と呼ばれ(p.96)、なぜ形容詞とは別に形容動詞が必要とされたのか(pp.96〜97)など考えたこともなかった。

    更には、なぜ現代語では終止形と連体形が同じ形なのかを係り結びの法則と関連づけて説明する箇所など圧巻と言ってもいい。そもそも係り結びの法則について覚えろという以外に何も教わった記憶がないし、自ら学ぼうと思ったこともなかった。結論はp.114に書かれているが、こればかりはp.107あたりから繰り返し読みたい。

    長くなってきたが、他にも「ル・ラル」に自発・可能・受身・尊敬という一見関連の薄そうな意味がある理由など、これを読めば文法を面白いと思えなかった生徒の中にも、そして教師にも学ぶ意欲をかき立てられる者が出て来るのではないか。ちなみに「出来る」の語源は「出て来る」であり、これにより可能と自発がつながる。

    日本語に興味のある人もだが、これはぜひ国語教師を目指す人や現役の先生方にも読んでほしいと思ってしまう。

  • いやぁ、これは面白い。目からウロコの連続。日本語のベースにウチとソトの区別があるとか、そもそも日本語はウチの内部でしか使われてこなかったため主語を省略するとか、抽象名詞が少なく日本人は抽象概念を理解するのが苦手とか、もはや日本語文法の範疇を超え日本文明論になっている。そりゃそうだよね、思考は母語を介してしかできないんだから。どんな規則にも理由がある、ということを思い出させてくれる良書。

  • 学生時代

  • 日本語の文法にかんする著者の考えが比較的わかりやすく説明されている本です。

    著者はまず、助詞の「は」と「が」のちがいという問題に取り組み、「既知」と「未知」という枠組みによって両者を区別するという意見を提出します。従来の研究では、「は」と「が」のそれぞれが一つの文のなかでどのような機能をもっているのかということに焦点があてられてきました。これに対して著者は、その文が置かれている文脈のみならず、話し手と聞き手のあいだに成立している了解といった状況をも含めて、それぞれのことばの機能が解明される必要があると主張します。

    こうした著者の発想は、一般的に語用論においてあつかわれている内容を「文法」の研究に取り入れるものであり、ここだけ読むと議論がかぎりなく拡散していってしまうのではないかと心配してしまいますが、他方で著者は言語の歴史的形成過程についての議論によって上述のような主張を側面からサポートしており、恣意的な議論という印象はあまり受けず、おもしろく読みました。

    「ウチ」と「ソト」の区別といった文化的な要素にかんする社会言語学的な議論から、日本語の文法を説明するというアプローチは、ややアクロバティックな議論のようにも思えますが、刺激的な内容の本であることはまちがいないと思います。

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  • 2018/03/30 17:59:04

  • 「は」と「が」の違い。係り結びはなぜ発生して、また消滅したか。日本人は過去・現在・未来と直線的にはとらえていない。どうして活用形が発生したのか。などの興味のある話題が述べられている。

  • いくつか納得のいかない説明はあるものの、ほとんどが目から鱗。日本語を勉強し始めて、インターネット検索に行き詰りを感じていたところだっただけに、今回の巡り合わせはおおいにありがたい。

  • 日本語文法の本、好きです。大野先生は言わずと知れた日本語研究の大家ですが、文調は硬すぎず、するするっと読める本をたくさん出されてます。

    面白かったポイントを挙げるとキリがないですが、いくつか列挙してみます。

    ・「は」と「が」は、その前後の情報が未知のものなのか、既知のものなのかによって自然と使い分けることができる。よく「は」は主格(俗に言う主語)を示すといわれるが、実際には主格にも目的格にも使える。ここを誤解すると日本語の「主格」の捉え方で混乱する。
    ・日本人は親しいか、疎遠化によってコソアドや相手の呼び方を変える。一人称を相手を呼ぶことに使う(子ども相手の「ぼく」や、関西弁の「自分」など)ことがあるが、これは相手が自分にとって利害相反する者ではなく、自分との隔たりが薄い者であると考えるためである。
    ・日本語の「できる」は「出て来る」ということで、「可能なこと」を獲得したのではなく、自然の成り行きで可能になったと考える。英語のCanは「知る」という意味のゲルマン語「kann」と同根で、獲得して可能になった、という意味を持つ。

    上に挙げたもののうち、一つでも詳しく知りたいと思ったら、この本を手に取ってみるのをお勧めします。ただ、岩波のかなり古い版なので、見つけるのがちょっと大変かも…。

  • 大野先生の興味深く、分かりやすい文法の解説書。文法がどのように成立して来たのかを解明する過程は推理小説を読むかのようで、知的好奇心を掻き立てられます。

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著者プロフィール

1919-2008年。東京生まれ。国語学者。著書に『日本語の起源 新版』『日本語練習帳』『日本語と私』『日本語の年輪』『係り結びの研究』『日本語の形成』他。編著に『岩波古語辞典』『古典基礎語辞典』他。

「2015年 『日本語と私』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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