- Amazon.co.jp ・本 (228ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004201199
感想・レビュー・書評
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イスラーム思想が「存在」というものをどのように捉えてきたのかを論じている。筆者の講演を再構成したものであるため、語り口調で分かりやすく書かれているが、内容としてはかなり馴染みのない領域であるため、初めて知ることが多かった。
イスラーム哲学自体は長く多岐にわたる歴史を持っているが、中でもその思惟の根源にあたるものの一つとして、本書はイブン・アラビーが体系化した「存在一性論」に注目している。
哲学的な問いにおいて「存在」とは、そして存在一性論者が問題とした存在とは、我々が日常において言う「〇〇がある」といった具体的な物や事の存在ではなく、それらすべての存在者を存在者たらしめている、「存在そのもの」のことである。
この意味での存在はある種のエネルギーのようなものであり、例えば具体的な存在物としての「花」があるのは、本来は存在とは関係ない「花の本質」に「存在」的エネルギーが外から生起することで、具体的な花の存在が顕現することになる。
このようなエネルギー、もしくは働きはどのようにして把握することができるのかということを考え続けたのが、存在一性論者達である。
イブン・アラビーはこの存在一性論の創始者ともいえる人物であり、この問いに対して、スーフィズムと呼ばれるイスラーム神秘主義が体系化した深層意識の世界に哲学的な論理的思考を組み合わせることで答えを導き出そうとした。
スーフィズムでは、意識の深層を5つの層に分けて説明している。意識の最も表面には、ナフス・アンマーラと呼ばれる、我々の感覚・知覚の世界がある。その下には、ナフス・ラウワーマと呼ばれる理性の世界があり、続いてその下にナフス・ムトマインナと呼ばれる、観想的に集中し、静謐の状態に入った世界がある。
ここまではいわゆる意識が存在する層である。そしてその下の第4層にルーフという領域がある。この世界はスーフィズムの体験世界では宇宙的な光の世界、エネルギーの世界である。そしてこの世界を通過した最深部にシッルと呼ばれる世界がある。シッルは自我意識が完全に無に帰し、主観、客観の無い絶対無の世界である。
このような意識の深層構造を理解した上で、この意識の深層に一度降りてそこから徐々に表層へと戻りながら、存在が顕現してくるプロセスを体系化したのが、存在一性論である。意識の深層へと降りていくプロセスが「ファナー」と呼ばれ、存在の無い「無」の状態から徐々に無の意識、さらにはそれが徐々に現象として存在へと分節していくプロセスが「バカー」と呼ばれる。
興味深かったのは、この存在一性論においては、最深部のシッルは絶対無の状態であるため、神自体も顕現していないという考え方を取っているという点である。つまり、イスラームを始め絶対一神教においては「存在=神」であるため、この存在が顕現する前の状態においては神もまた存在していない状態になる。このような形で神学を超えて哲学的な存在論に至っているという点は、この時代のイスラーム哲学の徹底ぶりが感じられ、驚いた。
また、本書ではスーフィズムを仏教や道教における存在論や深層意識概念とも対比させながら説明している。それらの間には比較的多くの共通点があるように感じられ、いわゆる西洋思想とは異なり、イスラーム哲学と東洋思想の間の共通点が見られ、興味深かった。
一方で、イスラーム哲学における存在論から生じてくるのはやはり人格的絶対一神教であり、その点は、このような存在論が東洋の多神教の世界とも西洋の一神教の世界とも接続するという意味で、非常にグローバルな思想の潮流であったということを感じた。
全く馴染みのない分野の本ではあったが、存在論哲学を通じてさまざまな宗教、哲学を比較しながら考えることのできる、面白い内容であったと思う。 -
イスラム哲学の一つのピークとしての「存在一性論」を探求しつつ、その考えを「東洋的」な思想の一つの底流?として捉えようとする試み、かな?
井筒俊彦さんの本は、テーマが馴染みがなくて、かなり難しいものが多いのだが、講演をベースとしたものなので、比較的、近づきやすい本かな?
イスラム哲学以前に、神秘主義の一般的な説明の部分で、かなり驚いた。おお、たしかにそういう考え方のものって、キリスト教でも、仏教でも、ある種の心理療法などでもあるあるだな〜と思った。
で、イスラム特有の思考として、イブン・アラビーの「存在一性論」が紹介されるのかなと思っていると、スーフィーの修行とそのプロセスでどんな状態にいたるのかという説明が結構、つづき、後半でようやくイブン・アラビーの話しになってくる。
が、これがなかなか分からなくて、なるほど、いきなり哲学の説明をしても分からないので、スーフィーの修行の話がつづいていたのだな〜とわかってくる。
分からないなりに、読んでいくと、荘子とか、老子となんか近いんだな〜、あと仏教とかも近そうなことがわかってくる。イスラムは人格神の一神教なんだけど、それが無とか、道とか、空とかと両立するのか〜と感心。
そして、最後のほうで到達する境地は、なんか突き抜けている。これはすごいインパクト。
けど、結構、難しかったので、イブン・アラビーをもうちょっと深めてみようということにはならないかな?
それにしても、井筒さんの学識の広さと深さは、とんでもないな〜と改めて思う。 -
おもしろかった。
イスラムにこのような、仏教とも共有するところのある存在論があることを初めて知った。存在一性論の形而上学は存在顕現の構造学であると結論している。存在のゼロポイントにどう向き合うのかは宗教によって異なる。そこに様々な宗教を学ぶ意味があると思う。 -
イスラーム哲学においては、神秘主義的な実在体験と哲学的思惟の根源的な結びつきがあることを紹介してくれている本。読みやすくてなかなか興味深かったです。
神秘主義というと、なんともアヤシゲなイメージがありますが、この本のように理路整然と解説されると、そういうアヤシゲは雲散霧消してしまいます。実際のところ、どうなんでしょうね。
神秘主義のアヤシゲは、その理論構築にあるのではなく、秘儀的実践にあるということなのかもしれません。では、神秘主義において、構築された理論と秘儀的実践は必然的に結びついているのか? そこは、部外者たる我々には知りえない部分なのでしょうか…。
あるいは、私のもっている神秘主義のアヤシゲなイメージは、単にインディ・ジョーンズによってうえつけられただけかもしれません。
それはそうと、こうした神秘主義的な理論構築の枠組みは、大小の異同はあれ、後期ハイデガーの思索と通ずるところがあるなあと感じながら読みました。(2018年7月7日読了) -
イスラーム哲学関連の本は初めて読んだが、面白かった。もっと早く読むべきだった。
「イスラーム哲学」や「神秘主義」という単語にはかなり近寄りがたい雰囲気があるけれど、仏教や老荘思想、ウパニシャッドといった東洋思想と共通する部分も多く、むしろそれらを理解する助けになるようなものだ。この本ではそうした東洋思想との比較も豊富なので、とても参考になった。
この本でおもに取り上げられているのはイブン・アラビーの「存在一性論」という考え方である。これがイスラームの中心思想というわけでは決してないということに注意が必要だ。それでも、東洋思想に通底するものについて考えるときにとても役立つものだと思う。膨大な文献からこの思想を取り上げ、他の東洋思想の術語を用いて比較しつつ、わかりやすくまとめているのはほんとうにすごい。
以下は内容についてのメモ。
イスラームと聞くと「唯一神アッラーへの絶対的帰依」というイメージがまず浮かぶ。しかし、神秘主義哲学では「絶対一者」と「統合的一者」を区別し、後者をいわゆる「アッラー」と考えるなど、複雑でダイナミックな存在論が展開されている。
イスラーム哲学の特徴として、「この世」に対する考え方が肯定的であるということが挙げられる。修行によって「無の境地」にたどり着くというプロセスは多くの他の東洋哲学と共通している。しかし、悟りに至ったあと、この世を虚無ととらえるのではなく、むしろ神の「慈愛の息吹き」による現象だととらえる。こういうところにウパニシャッドや仏教との大きな違いがあり、一神教らしさがある。 -
タイトルはあまりあってないと思うが、12,3世紀のイスラム神秘主義的哲学、主にイブン・アラビーの存在一性論についての1970年代後半の講演録。
井筒俊彦の本は読んでるときは分かった気になるが閉じるとすぐ分からなくなる。神秘主義という言葉にしがたいものを言語化して分析してしまう世界的碩学の圧倒的な力量にも畏れ入るが、イブン・アラビー同様、絶対無分節な純粋存在を直接無媒介に把握すると言う究極的な経験をこの人は持っているんだと思う。 -
一般的にイスラムは魂というものを非常に重視する。人間を肉体と魂との結合と考え、魂の救済にその宗教性の全てをかける。この考えでは肉体は物質的なもの、つまり汁朝敵な実態であり、魂は非物質的なもの、つまり非物質的なものとしての魂はそれ独自の1つの構造を持つと考える。
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再刊を喜びたい。この本はイスラーム哲学全体を把握するための本ではない。
イスラーム教神秘主義、なかでもイブンアラビーの存在一性論について、哲学的思惟と形而上学的体験がぶつかり合い思想の生起する場を、新書とは思えないほど集中的に、生々しい臨在感をもって訴えかける。