術語集: 気になることば (岩波新書 黄版 276)

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  • / ISBN・EAN: 9784004202769

感想・レビュー・書評

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  • 哲学的に重要な用語から、当時主流であったと思しき用語などを広く取り入れている。そういう意味では非常に、有用な用語集なのであるけれども、基本的には雄二郎が定義する言葉であるので、それをわかった上で読まねばならない。例えば、雄二郎は身体性を重視する。それは、視覚優位の世界の中で触覚などの体性感覚がないがしろにされてきたからであるし、体性感覚を基にすれば、「共通感覚」にたどりつけると考えているからである。そして、共通感覚に到達すれば、自ずと、「心身二元論」を克服できると考えているわけである。しかし、それは弁証法的な克服とは異なる。弁証法というのは、相反する事柄をより高次の概念へと引き上げる手法であるが、実際は、非常にあいまいなものである。そこにおいては結局のところ、ぼかされるだけであるので、弁証法的超越とは異なり、著者は「体性感覚」によって統合すればよいと考えるのである。だから、精神の身体性といったことも考えられるのである。著者が唱える臨床の知なる概念も、診断的なものとは異なり、実際に体性感覚つまり身体性を通して、相手の精神をも理解していくことであり、そこにおいて河合隼雄の箱庭療法とも接近するし、精神の身体性において木村瓶による分裂病の把握とも接近するのである。

    前者は、箱庭という限られた枠の中に、自分の体性感覚を通して内的世界が表現されるのであり、後者においては、分裂病者とはつまり、自分を収納する場所を失ったものである、とされるのである。後者をもう少しわかりやすく言えば、たいていの人間は、「私は~」「私はー」といった具合に、この「私」がまず第一にあると考えているが、実際は「~」や「-」の部分に含まれるものの集積である場所がありそこに「私」が収納されるという考えである。これはトポス論とも関係が深い。トポス論によっても、理念といったものはどこかに収納されておりそこから引き出されるのだと考えられたが、これはいってしまえばプラトンのイデアではあるまいか?ということで、雄二郎は最終的には、この体性感覚へと持っていきたがるのである。また、ここには能動性と受動性の両方が含まれる。つまり両者をかねそろえたパフォーマンスであり、両者をそろえるためには体性感覚が必要となるわけであり、それを通して共通感覚に到達する。そして、共通感覚こそが、心身二元論を超越した姿なのであるが、なんだか、すごくあいまいなのである。意外とね。だから、ここで雄二郎は終わってしまっている気がするし、この先は一体?と疑問符がわくのである。

  •  著者の博識さが伝わるエッセイ。文化人類学の用語にかたよっているのは、当時の流行りを反映してるのだろうか。あと、マルクスや構造主義も強めに出ている。

     有名な本だが、受験勉強には役立たない。
     つまり古くてクセがあるから駄目だという点ではなく、そもそもこの本は、下記目次にある用語の基本的意味をこれから勉強する人に向けて書いているわけではない(=既に相当知識のある人がさらに深掘りするために読むことを想定している)。想定読者はある学問の入口に向かう人であるという点で、受験勉強用ではない。

     本書が「現代文の評論問題の素材」にされた場合は、高校生が目にするシチュエーションとしては自然かもしれないが、その場合は今度は内容の古さが問題になる。


    【目次】
       術語――知の仕掛けとしての

    01 アイデンティティ  存在証明/自同律/相補的アイデンティティ 001

    02 遊び  真面目/演劇/祝祭 006

    03 アナロギア  アイデンティティ拡散/性自認/免疫 011

    04 暗黙知  パタン認識/棲み込み/共通感覚 016

    05 異常  正常/理性・狂気/根源的自然 021

    06 エロス  タナトス/セックス/ジェンダー 026

    07 エントロピー  永久機関/ネゲントロピー/開放定常系 031

    08 仮面  霊力/神話的形象/素顔 036

    09 記号  フェティシズム/シンボル/隠喩・換喩 041

    10 狂気  譲渡/疎外/監禁 046

    11 共同主観  相互主観性/間身体性/共同幻想 051

    12 劇場国家  ヌガラ/模範的な中心/中空構造 056

    13 交換  交通/象徴交換/過剰 061

    14 構造論  イメージ的全体性/弁証法/言述の論理 066

    15 コスモロジー  ブラック・ホール/存存の大いなる連鎖/現実との生命的接触 071

    16 子供  深層的人間/小さい大人/異文化 076

    17 コモン・センス  常識/共通感覚/共感覚 081

    18 差異  同一性/反復/差別 086

    19 女性原理  阿闇世コンプレックス/母権制/グレート・マザー 091

    20 身体  歴史的身体/社会的身体/精神としての身体 096

    21 神話  箱庭療法/原初の時との接触/ブリコラージュ 101

    22 スケープ・ゴート  王殺し/中心と周縁/ヴァルネラピリティ 106

    23 制度  第二の自然/見えない制度/リゾーム 111

    24 聖なるもの  宇宙樹/聖・俗・穢/自然 116

    25 ダブル・バインド  小さな哲学者/象徴的相互行為/禅の公案 121

    26 通過儀礼  死と再生/永遠の少年/リミナリティ 121

    27 道化  はじまりの不在/ヘルメス/反対の一致 126

    28 都市  メディオ・コスモス/深層都市/脱形而上学 136

    29 トポス  土地の精霊/決まり文句/場所の論理 141

    30 パトス  パトロギー/イデオロギー/情動・情念・感情 146

    31 パフォーマンス  コンピテンス/パトス的行動/演劇的知 151

    32 パラダイム   理論負荷性/共約不可能性/学問母型 156

    33 プラクシス  クオリティ/パフォーマンス/動的な感覚 161

    34 分裂病  うつ病/アンテ・フェストゥムとポスト・フェストゥム/反エディプス 166

    35 弁証法  問答法/論証法/絶対弁証法 171

    36 暴力  供犠/法体系/呪われた部分 176

    37 病い  健康幻想/特定病因説/痛みの抹殺 181

    38 臨床の知  科学の知/パトスの知/生きられる経験 186

    39 レトリック  パイディアー/政治的動物/レトリックの知 191

    40 ロゴス中心主義  反哲学/脱構築(ディコンストラクション)/天皇制 196

    参考文献 201
    あとがき 217
    人名索引・辞項索引 

  • どういう本なのかと端的に説明すると、「遊び」「記号」「身体」「神話」「都市」など、40の言葉について、その言葉の意味を解説している本である。

    だが、その解説文が実に豊かだった。

    自分のブクログカテゴリとして敢えて、辞書・図鑑の中に入れたが、どちらかと言えば、小説を読んでいるような気分になった。

    また、解説に際して、著者の知識の多さや思慮の深さにも感服する。

    手元に置いておきたい一冊。

  • 「ランダ考」が面白かったから流れで借りてみた。

    個人的見解による辞書風エッセイ…とでも言うのかな…。
    とっても面白い企画。

    すげー!!って項目と、退屈に感じる項目があるのは、きっと自分の理解と興味の範疇かどうかが問題なんだんだな。

  • 目次:
    術語―知の仕掛けとしての
    1 アイデンティティ―存在証明/自同律/相補的アイデンティティ
    2 遊 び―真面目/演劇/祝祭
    3 アナロギア―アイデンティティ拡散/性自認/免疫
    4 暗 黙 知―パタン認識/棲み込み/共通感覚
    5 異 常―正常/理性・狂気/根源的自然
    6 エ ロ ス―タナトス/セックス/ジェンダー
    7 エントロピー―永久機関/ネゲントロピー/開放定常性
    8 仮 面―霊力/神話的形象/素顔
    9 記 号―フェティシズム/シンボル/隠喩・換喩
    10 狂 気―譲渡/疎外/監禁
    11 共同主観―相互主観性/間身体性/共同幻想
    12 劇場国家―ヌガラ/模範的な中心/中空構造
    13 交 換―交通/象徴交換/過剰
    14 構 造 論―イメージ的全体像/弁証法/言述の論理
    15 コスモロジー―ブラック・ホール/存在の大いなる連鎖/現実との生命的接触
    16 子 供―深層的人間/小さい大人/異文化
    17 コモン・センス―常識/共通感覚/共感覚
    28 差 異―同一性/反復/差別
    19 女性原理―阿闍世コンプレックス/母権制/グレート・マザー
    20 身 体―歴史的身体/社会的身体/精神としての身体
    21 神 話―箱庭療法/原初の時との接触/ブリコラージュ
    22 スケープ・ゴート―王殺し/中心と周縁/ヴァルネラビリティ
    23 制 度―第二の自然/見えない制度/リゾーム
    24 聖なるもの―宇宙樹/聖・俗・穢/自然
    25 ダブル・バインド―小さな哲学者/象徴的相互行為/禅の公案
    26 通過儀礼―死と再生/永遠の少年/リミナリティ
    27 道 化―はじまりの不在/ヘルメス/反対の一致
    28 都 市―メディオ・コスモス/深層都市/脱形而上学
    29 ト ポ ス―土地の精霊/決まり文句/場所の論理
    30 パ ト ス―パトロギー/イデオロギー/情動・情念・感情
    31 パフォーマンス―コンピテンス/パトス的行為/演劇的知
    32 パラダイム―理論負荷性/共約不可能性/学問母型
    33 プラクシス―クオリティ/パフォーマンス/動的な感覚
    34 分 裂 症(スキゾフレニア)―うつ病/アンテ・フェストゥムとポスト・フェストゥム/反エディプス
    35 弁 証 法―問答法/論証法/絶対弁証法
    36 暴 力―供犠/法体系/呪われた部分
    37 病 い―健康幻想/特定病因説/痛みの抹殺
    38 臨床の知―科学の知/パトスの知/生きられる経験
    39 レトリック―パイデイアー/政治的動物/レトリックの知
    40 ロゴス中心主義―反哲学/脱構築(ディコンストラクション)/天皇制
    文 献/あとがき/人名索引・事項索引

  • 友達に貸してから3年経っているのに、帰って来ず、再購入した一冊。
    理系の領域に身を置くとなかなか体験することのない「他分野の関連付けて思考する」という思考方法を垣間見ることが出来る。
    文系の方々を心より尊敬してしまうかっこいい論調。
    私の中では最高にオシャレな一冊です。

  • 述語は観念を示すと思う。主語が主体であって、私やあなたなどのある程度の固有の範囲を示すが、述語は範囲と同時に行為、状態など、同じ言語を使っているもの同士でも齟齬が生じることが多い。
    何気なく使っている言葉の意味は相手と共有できているのだろうか
    。「コモンセンス」「狂気」「記号」「レトリック」・・本書は何気なく使っている言葉のなかに深い意味があることを知らないで使うより知って使うほうがいい、そしてその言葉を深く考えて使うほうがもっといい、ということを教えてくれる。でも知ってるを表に出すと嫌われる、ってことは書いてない。(^0^;)

    日本語の意味がわからないことが最近多い。興味のない分野の情報は全く記憶に残らないためか、新語、流行語はもとより、以前使われて今では意味が変わった言葉(ヤバイ)などを頻繁に使われると外国語以上に理解に苦しむ。時たま、それどんな意味?と聞くと話してはなんとなく使っているだけで深く意味など考え使っていないことなどが多い。これはヤバイぞ・・・

  • ポストモダンな雰囲気が横溢している84年刊の本。従来哲学の仕事であった問いを発して「定義する」固定から、「表現する」開放へという姿勢、チョイスされた40のことばの学際性、リゾーム性がさっそくポストモダンである。
    ギリシャ哲学からデカルト以降の近代哲学、もちろん先端だったフランス現代思想、それに東洋、西田、三木、親中村だった栗本慎一郎、上野千鶴子まで引用され縦横無尽。とりわけ心理学、精神医学の領域への関心が広く取り入れられていることも象徴的である。
    ではこの時代思潮とはなんであったか?
    ルソーや白樺派の素朴自然主義を超えて、堅固に構築された科学的近代知の世界を解体し過激に自然回帰すること。その知のラディカリズムは、より具体的に演劇的知、臨床の知、パトスの知といった中村が追求し続けた鍵概念として提示される。そしてそれを現出させるパフォーマンス。
    それからほぼ30年。いま直面しているのはその相対化の果ての拡散、秩序を失った多様化ではないか。脱構築がなしえたものをまた脱構築するという循環が内在していた陥穽。絶対や中心を否定した反動は、例えば固定した目的(ヴィジョン)を定めない政権を支持し、また批判する。小泉や橋下への簡単ななびき。天皇制や原子力への対処的議論。
    カイヨワを引いて、「聖なるもの」とは汚損したり汚染されたりせずにはふれることのできない人間あるいは事物であるとし、未開民族の間でも祝福されたものは呪われたものでもあり人々が遠ざけておくものというアンビバレントを示す。
    これを踏まえて科学的技術や政治経済システムが根源的にはらんでいる「暴力」に脅かされる時代と言われれば、まさに今の日本および世界そのものである。技術やシステムの媒介=間接化が著しく進み、有用性=合目的性が貫徹され、物の超越(バタイユ)の徹底支配が世界をそんな風にした。生の過剰(呪われた部分)が物質化され抽象化されて手が届かなくなってしまった地点から人間を脅かし侵犯するのである。それは供犠と呼ばれる、プリミティブな儀式、祝祭性の喪失に端を発するものと考えると、その復権が回復への契機になりはしないかという議論につながるがはたして可能かどうかはわからない。
    中心の喪失は文化の領域にも著しい。いまカルチャーとは=サブカルである。サブカルの対抗文化をさがすという倒錯。翻訳書や洋楽の衰退は海外のパワーも衰えていることをにおわせる。
    問題意識を持ってさえいればあらゆるところにヒントは見いだせる。そして優れた論考は多角的な読み込みを可能にしてくれる。優れた知性が現実社会に生かされないことが何より恐ろしいジレンマだ。本書をガイドブックとして(巻末に付された参考文献リストもあわせて)思索を広げてゆければよいと思う。
    「直線ハ最短距離カ?」

  • [ 内容 ]
    現実や世界を読み解いていくためのキー・ワード=術語。
    現在の〈知の組みかえ〉の時代にあって、著者は、記号、コスモロジー、パラダイム等、さまざまな知の領域で使われている代表的な四〇の術語と関連語について、概念の明晰化を試みながらそれを表現の場で生かそうとする。
    現代思想の本質が把握できる、〈気になることば〉の私家版辞典。

    [ 目次 ]
    アイデンティティ―存在証明/自同律/相補的アイデンティティ
    遊び―真面目/演劇/祝祭
    アナロギア―アイデンティティ拡散/性自認/免疫
    暗黙知―パタン認識/棲み込み/共通感覚
    異常―正常/理性・狂気/根源的自然
    エロス―タナトス/セックス/ジェンダー
    エントロピー―永久機関/ネゲントロピー/開放定常系
    仮面―霊力/神話的形象/素顔
    記号―フェティシズム/シンボル/隠喩・換喩
    狂気―譲渡/疎外/監禁〔ほか〕

    [ POP ]


    [ おすすめ度 ]

    ☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
    ☆☆☆☆☆☆☆ 文章
    ☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
    ☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
    ☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
    ☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
    共感度(空振り三振・一部・参った!)
    読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)

    [ 関連図書 ]


    [ 参考となる書評 ]

  • 858

    中村雄二郎
    1925年東京に生まれる。1950年東京大学文学部卒業。哲学者・明治大学名誉教授

    1  アイデンティティ──存在証明/自同律/相補的アイデンティティ
    2  遊び──真面目/演劇/祝祭
    3  アナロギア──アイデンティティ拡散/性自認/免疫
    4  暗黙知──パタン認識/棲み込み/共通感覚
    5  異常──正常/理性・狂気/根源的自然
    6  エロス──タナトス/セックス/ジェンダー
    7  エントロピー──永久機関/ネゲントロピー/開放定常系
    8  仮面──霊力/神話的形象/素顔
    9  記号──フェティシズム/シンボル/隠喩・換喩
    10  狂気──譲渡/疎外/監禁
    11  共同主観──相互主観性/間身体性/共同幻想
    12  劇場国家──ヌガラ/模範的な中心/中空構造
    13  交換──交通/象徴交換/過剰
    14  構造論──イメージ的全体性/弁証法/言述の論理
    15  コスモロジー──ブラック・ホール/存在の大いなる連鎖/現実との生命的接触
    16  子供──深層的人間/小さい大人/異文化
    17  コモン・センス──常識/共通感覚/共感覚
    18  差異──同一性/反復/差別
    19  女性原理──阿闍世コンプレックス/母権制/グレート・マザー
    20  身体──歴史的身体/社会的身体/精神としての身体
    21  神話──箱庭療法/原初の時との接触/ブリコラージュ
    22  スケープ・ゴート──王殺し/中心と周縁/ヴァルネラビリティ
    23  制度──第二の自然/見えない制度/リゾーム
    24  聖なるもの──宇宙樹/聖・俗・穢/自然
    25  ダブル・バインド──小さな哲学者/象徴的相互行為/禅の公案
    26  通過儀礼──死と再生/永遠の少年/リミナリティ
    27  道化──はじまりの不在/ヘルメス/反対の一致
    28  都市──メディオ・コスモス/深層都市/脱形而上学
    29  トポス──土地の精霊/決まり文句/場所の論理
    30  パトス──パトロギー/イデオロギー/情動・情念・感情
    31  パフォーマンス──コンピテンス/パトス的行動/演劇的知
    32  パラダイム──理論負荷性/共約不可能性/学問母型
    33  プラクシス──クオリティ/パフォーマンス/動的な感覚
    34  分裂病──うつ病/アンテ・フェストゥムとポスト・フェストゥム/反エディプス
    35  弁証法──問答法/論証法/絶対弁証法
    36  暴力──供犠/法体系/呪われた部分
    37  病い──健康幻想/特定病因説/痛みの抹殺
    38  臨床の知──科学の知/パトスの知/生きられる経験
    39  レトリック──パイデイアー/政治的動物/レトリックの知
    40  ロゴス中心主義──反哲学/脱構築(ディコンストラクション)/天皇制

    このアイデンティティということばを特別な意味をこめた術語として最初に使った──あるいはむしろ拡めた──のはE・H・エリクソンである。彼はそのときこれを、まさに 人格的同一性 と 歴史的連続性 の両方の意味を表わすために使っている。彼は述べている。《〈アイデンティティの危機〉という用語を私がはじめに用いたのは、もしも私の記憶が正しければ、第二次大戦中、「ユダヤ系退役軍人復帰診療所」での特殊な臨床的目的のためであった。(……)当時われわれの診断では、患者の大部分は〈弾丸衝撃〉症でもなければ仮病でもなくて、戦争という切迫した危険な状況のために、人格的同一性と歴史的連続性との感覚を失っていたと思われた。》(『アイデンティティ──青年と危機』一九六八年)

    日本人が日本の社会に住んでいて、あまり身分証明書のたぐいが要らないのは、どうしてだろうか。思うにそれは、日本の社会が身分や身元をなにかの証明書によって──それだけによって──証明しないでも、いろいろな社会関係の網の目がそれをおのずと示してくれる共同性のつよい社会だからであろう。それだけにパスポートをもって国外を旅行したり外地に滞在したりするとき、《自分が自分であること》の証明が──少なくとも形式的に、また正式には── 国家 によってしかなされないことに奇異な感じを受ける。そして、見ず知らずの人間しかいない諸外国で《自分が自分であること》をパスポートなしに証明するのがどんなに難しいか、思い知らされる。《自分が自分であること》は自分がいちばんよく知っているにしても、他人に対してはそれを自分では証明できない。そういうパラドックスがある。

    アイデンティティ〉にはすべて、他者が必要である。誰か他者との関係において、また、関係を通して、自己というアイデンティティは現実化されるのである。》この考え方によって、アイデンティティの問題は 役割 の問題にも結びつくのである。

    アウグスティヌスは、現実の世界、人間の世界での自同律の貫徹に疑いを抱き、自同律の《AはAである》を神にのみふさわしい在り様とした。彼によれば《被造物では、単に あった とか あろう とかのみがいえ、決して ある とはいえない。》なぜなら、それが存在する以前にはそれはあらず、それが存在するときにはそれは去り行くからである。自同律は ある(存在)の世界での、思惟と存在の基本原理であった。そのことを思えば、このアウグスティヌスによる ある の否定のもつ意味は甚だ大きい。 ある の原理の否定によって、現実の世界、その人間や事物が存在の根拠と自己同一性を失うことになるからである。

    存在根拠の喪失は、現に ある私 を、 私でなく ならせる。 私 は 私であった し、 私であるだろう ことはできる。けれども、 私である ことはできなくなってしまう。このような状況に立ち到ったとき、現実によりよく合致した考え方としてどのような考え方が生み出されたであろうか。それは、《私は私である》や《AはAである》にもとづく自同律の考え方とは反対に、《私は私でない》や《AはAでない》ということから出発し、それをとおして 関係 のうちに、 ある と 同一性 とを回復する考え方である。

     《およそ語られうるものは、明らかに語られうるものである。そして論じえぬことについては沈黙しなくてはならない。》  また、  《哲学は、語られうるものを明らかに叙述することによって、語られえぬものを意味することがあるであろう。》

     〈プラトニック・ラヴ〉ということばがある。ふつうそれは、もっぱら精神的な恋愛、清浄な恋という意味に解され、またそういう意味で使われている。ところがH・ケルゼン(『プラトニック・ラヴ』一九三三年) が明らかにしたように、それは──少なくとも元来は──なんと、〈同性愛〉、〈男同士の性愛〉、とくに〈少年愛〉のことであった。そして、ケルゼンは、《このプラトンのエロスは、かつて哲学への衝迫についての譬え話に過ぎないと解されていた。人々がこのカマトト的解釈の誤りをはっきり指摘する勇気をもつに至ったのは、ごく最近のことである》と言っている。このことばが書かれたのは、いまから五十年もまえのことであるけれど、それでもこの話は私たちを驚かし、〈エロス〉の問題の見えにくさを痛感させる。

    ところで、右にエロスとの対比で捉えられた〈性〉、英語ではセクシャリティを、〈セックス〉と〈ジェンダー〉とに分ける考え方が最近では強まってきている。そのちがいを簡単に述べておけば、セックスとは出生前に分化する 生物学的な 性であり、性器の解剖学的な構造、生殖の仕組み、性行為など、身体的な部分やそれにかかわる行動を指す。それに対してジェンダーのほうは、出生後に分化する 心理・社会的な 性のことである。つまり、セックスが先天的なものであるのに対して、ジェンダーは後天的に、身近な家族をとおして加えられる社会的要因によってつくり上げられる。だから、たとえば、変性者(トランス・セクシャル)とは先天的なセックスと後天的なジェンダーとの不一致に悩む人であり、性転換手術とはセックスを変えてジェンダーを確立させることになるのである。

    もしこのような考え方が正しいとすれば、変性者、異性装者、同性愛者などは、まったくの出来そこないになるだろうが、果たしてそうなのか。必ずしもそうとはいえない。マネー/タッカーによれば、現在の性科学では、もう少しちがった捉え方がされている。すなわち、二本の道があるのではなくて、実はわれわれの一人一人がやがて男性かあるいは女性のどちらかの方向に分かれて進む、いくつかの分岐点をもった一本の道があるだけである。つまり、分岐点がいくつもあって、ほとんどの人はそれぞれの分岐点でためらわずに同じ性の方向に進む。しかし、なかには道にそれる人たちもいるのである。

    そこでいま、仮面の働きをふりかえってみると、そこには四つほどの重要な霊力がみとめられる。まず第一には、それは私たち人間を日常の空間からふたたび有機的宇宙のなかに位置づける。一般に生ま身の人間や生物学的な人間というのは、どうしてもシンボル性が弱かったり、欠けたりしているから、コスモスのうちにはっきりした位置をもちえない。それに対して仮面は、人間の深層の現実をアクセントのつよいかたちでシンボル化し、神話的形象として示すのである。このことはとくに南アジアのヒンドゥ文化圏の仮面について顕著である。そこでは、『ラーマーヤナ』や『マハーバーラタ』という古代叙事詩に関する話を祭りの舞踊で演ずるのに使われることが多いためであろう。神話的形象の在り様はきわめて直截である。神々、英雄、王女、魔神、魔女、悪鬼、怪獣などが原色も鮮やかに立ち現われる。それらにくらべると日本の能面やコンメディア・デラルテの仮面では、神話的形象の在り様が地味になり見えにくくなっているが、根本的には同じである(たとえば、コンメディア・デラルテのアルレッキーノの仮面の右の額にある直径一センチほどの赤い丸は、 角 の名残りである)。

    このような〈劇場国家〉のあり方は、誰しも容易に気づくように、祭祀性が国家の中枢部分でいまなお大きな意味をもっている〈天皇制〉の問題と大きくふれ合っている。〈天皇制〉が中心の不在あるいは 空 の中空的な権力構造をもっていることとの関連はとくに重要であろう。かつて或るシンポジウムにおいて三島由紀夫(『日本は国家か』一九六九年) は、統治機構としての国家ないし政治をとことんまでつきつめていけば、抽象的技術的な体系になるはずであり、それはほとんど道義性というものを脱却してしまうだろうと言い、祭祀の機能としての政治のほうにこそ 道義性 があると述べて、日本が国家として 道義性 を回復するためには天皇制本来の祭祀性を重んじなければならないと説いた。

    どの文明でも、はじめは身のまわりの もの や こと をすべて擬人化した。人間の感情の動きをその振舞いに投入して解釈し、みずからの行動を律した。しかし、人類は次第にそれらの説明を体系的な物語に発展させ、神話という一つの形而上学をつくってきた。その意味では、各々の文明がもつ神話こそ宇宙論のはじまりであった。このように何かを体系化しようとするときに必要となる枠組みが宇宙論であったともいえる。そして『ビッグバンの発見』で扱おうとする宇宙論は、現代の自然科学という枠組みを通して捉えられた宇宙像であって、あくまで一つの宇宙論である、と佐藤氏は言っている。

    とくに興味深いのはフロイトの場合である。彼は 女性原理 の支配する無意識的世界の発見者でありながら、そのような対象領域がそれを扱う思考方法──つまりは〈知〉──の転換を要求することに気づいていなかったのである。フロイトは、ヒルダ・ドゥーリトルが治療してくれる彼のうちに女性的なるものを感じると言ったとき、色をなして抗弁したという話はよく知られている。事実、彼には、男性こそが人類の理想の形態であり、それを示すのは男根の存在であるとの考えがつよかった。  このようなわけで、フロイトでは 女性原理 の支配する 無意識界 の発見がなされながら、〈女性原理〉そのものの積極的な評価も、またその立ち入った解明も、彼およびフロイト学派のなかではほとんど見られなかった。ただし、その例外的な存在としては、乳児と母親との怖るべき関係に着目したメラニー・クラインと、フロイト的な父親殺しならぬ 母親殺し のテーマによる論文「 阿闍世 コンプレックス」を引っさげてフロイトの門をたたいた日本の 古 沢 平作がいる。古沢の弟子、小此木啓吾氏(『日本人の阿闍世コンプレックス』一九八二年) が新しく照明をあてているように、阿闍世とは母 韋提希 を殺そうとしたインドの王子の名であり、〈阿闍世コンプレックス〉とは、自分の生命の根源たる母親の愛欲への子の怨みにもとづく根源的葛藤のことである。この古沢の提出した問題はフロイトの受けいれるところとはならなかったけれど、女性原理や母性原理を考える上での先駆的な着眼として注目に値する。

    第二次大戦後(さらには明治維新後)このかた、私たち日本人はほとんどいつでも、外部に追いつくべき目標や見倣うべきモデルを求めてきた。ところが近年に至って事情がかなり変わってきた。一所懸命、外国を目標やモデルにして追いつくための努力をしてきたところ、そういうものとしてこれまで熱いまなざしのそそがれてきた外的な諸権威がさまざまなかたちで次々に失墜するようになった。そのことは国家目標のような問題だけでなく、思想や文化の次元の問題にまで及んでいる。つまり、世界的にこれまで権威をもって人々を惹きつけてきた既成のイデオロギーをはじめ諸理論、諸価値が、問いなおされるようになった。

    各民族や各文化はそれぞれに昔から伝わり受け継ぐ〈神話〉をもっているだけではなく、その時代その時代に新しい〈神話〉を形づくっていく。そのように新しく形づくられる神話は、昔から伝わる神話のように必ずしもずうっと後世まで伝えられるわけではないが、神話というものがどのようにして形成されるか、私たち現代人の生活ととくにどういうところで結びついているかを知るにはいい手掛りになる。

    一、神話は超自然的存在の振舞いの話というかたちをとる。二、この話は、実在にかかわるから絶対に 真実 であり、超自然的存在の荷なった業であるから 神聖 であると見なされている。三、神話はいつでも 創造 にかかわっており、それがいかにつくられたか、存在しはじめたかを物語る。(神話があらゆる重要な人間的行動の模範とされるのは、そのためである。)四、神話を知ることによって人は物事の起源を知るが、これはただ概念的な知識ではなく、儀礼をとおして 体験される 知識である。五、さらに神話において、人は想起されたり再演されたりする出来事の聖なる、高揚させる力によって捉えられるので、神話を 生きる ことになるのである。

    これらの五つの点についてひとことコメントをつけておけば、一、神話が超自然的存在の振舞いの話になるのは、すべてが宇宙論的に説明し尽くされなければならないからであり、二、その話が真実かつ神聖であるのは、意味と価値の源泉にほかならないからである。また神話が、三、いつでも 創造 にかかわり、四、起源の知識が儀礼をとおして 体験 された知識であるのは、すぐれて象徴論的だからである。最後に、五、神話が 生きられる のは、ミュトス(神話のことば)とはロゴスとちがって、語ることが演ずることであり、演ずることが 生きる ことであるようなことばだからである。

     〈スケープ・ゴート〉つまり 贖罪の山羊 あるいはむしろ広く 生贄えらび の問題は、子供たちの間の いじめられっ子 から、マスコミが好んで袋叩きにする魅力的な 悪役、本来の、また比喩的な意味でのさまざまな 魔女狩り、ナチズムによるユダヤ人迫害、等々、人間生活のいろいろな局面に見られる。ところがこれを正当に論じにくい。残酷な、いまわしいこととして直視したくないからだろうか。むろんそれもあるだろうが、それだけではなくて、私たちが不用意に加害者の側に立ってサディスティックなよろこびを味わうことが多いからであろう。

    症候群としては、〈永遠の少年〉とは、母親離れができず、大人になりたがらない少年、思いつきや感受性の点ではすぐれているが、ねばりづよい実行力を欠いた少年のことである。河合隼雄氏(講座『精神の科学』第六巻『ライフ・サイクル』、「概説」一九八三年) によれば、たとえば〈ある大学生〉──彼は知能は高いのだが、どうもその能力を出しきれていない。友人がいろいろ誘いをかけるが、屁理屈をいうだけでやろうとしない。ところがあるとき突然、なにかの運動に賛成して行動しはじめる。言うことも鋭いし行動力もあるが、論理が一面的だし、もろいところがある。そのうち熱がさめたり、失敗したりすると、たちまちもとの無為の状態に逆もどりしてしまう。そうかと思うと、また新しいアイディアや運動に熱中する。こんなことの繰りかえしが行なわれるだけである。このような〈永遠の少年〉願望は、すべての人の心の深層にひそんでおり、働き次第によっては人々に創造性をもたらすけれど、自己のうちに十分統合されずに独走するとき、症候群となるのである。

     他方、ヤクザっぽい〈暴走族〉の跳梁は、現在、成人式がまったく形骸化したなかで──裏返しのかたちながら──加入儀礼が本来もつべき、日常性からの隔離と特権的な秘儀への参加を、期せずして体現することになっている。 深夜 の街中を ものすごい爆音 を立てて 疾走 するとは、まさに現代の秘教的儀式といえるのではなかろうか。また、このような非日常的な集団行動は、あたかもV・ターナーのいう〈コミュニタス〉の概念にそっくりそのままあてはまる。

    というのも、ターナーのいうコミュニタス(communitas)とは、制度化された日常のコミュニティから自由、かつそれに対立する、非日常的で感性的な共同体のことであり、さらにその典型的なものとして、通過儀礼、〈千年王国〉運動、僧院、カウンター・カルチャーなどが考えられているからである(『象徴と社会』一九七四年)。それだけではない。この…

     近年、〈都市〉あるいは〈都市〉論が広く人々の関心を惹くようになった。かつては 都市 というと 農村 と相対立するもの、農村が共同体的、停滞的であるのに対して都市は自由で活動的なものとして考えられることが多かった。現在でも都市についてその面がまったく無視されているわけではないけれど、それが考えられる場合も、新しい観点をとおしての上のことである。

    棲み家としての都市といえば、ハイデガーの人間の規定に〈世界-内-存在〉というのがあることはよく知られている。この規定の意味するところは決して単純ではないが、とにかくそれは、人間が根本的な存在の在り様として、世界のなかで世界と密接な関係をもって存在していることを示している。ただ単に空間的に世界の中に在るとか、世界を意識の対象としているとかというだけにつきない。しかし、このような場合に使われる 世界 という用語は著しく具体性を欠いている。

    都市の深層を構成する諸要素として重要なのは、東西南北、上下(天地)などの有意味的な方向性であり、聖なる場所・俗なる場所・穢れた場所(→「聖なるもの」) の配置であり、坂・橋・川・境界などのもつ記号論的な意味である。それらは実用的な観点から都市を捉え、都市に接するときにはいわば眠ったままだが、そのなかに私たちが身体性を帯びた存在として生き、棲み、歩きまわるとき、つまり私のいうパフォーマンス(→「パフォーマンス」) がなされるとき、シンボリズム(象徴表現)やコスモロジー(有機的宇宙論)の次元をとおして、それらのかたちで浮かび上がり、捉えられるのである。

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著者プロフィール

1925年、東京都出身。哲学者。明治大学名誉教授。東京大学文学部卒業後、文化放送に入社。その後、明治大学法学部教授を長く務めた。西洋哲学をはじめ日本文化・言語・科学・芸術などに目を向けた現代思想に関する著書が多数あり、主要著作は『中村雄二郎著作集』(岩波書店、第1期全10巻・第2期全10巻)に収められている。山口昌男と共に1970年代初めから雑誌『現代思想』などで活躍、1984年から1994年まで「へるめす」で磯崎新、大江健三郎、大岡信、武満徹、山口昌男とともに編集同人として活躍した。

「2017年 『新 新装版 トポスの知 箱庭療法の世界』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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