臨床の知とは何か (岩波新書 新赤版 203)

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  • Amazon.co.jp ・本 (229ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004302032

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  • <普遍性><論理性><客観性>という三つの原理を擁する「近代科学」は、この2、300年来文句なしに人間の役に立ってきた。それ故に我々はほとんどそれを通さずに<現実>を見ることができなくなってしまった。
    しかし、近代科学によって捉えられる<現実>がすべてなのだろうか。近年の社会問題、環境問題等、それだけでは解決し得ぬ状況、現実とのズレが顕在化しているが、その原因は、近代科学が<生命現象><関係の相互性>を無視しているため。
    筆者は近代科学が排除した<現実>の側面を捉え直す重要な要素として、<コスモロジー(固有世界)><シンボリズム(事物の多様性)><パフォーマンス(身体性をそなえた行為)>をあげ、それらを体現したものを「臨床の知」としている。


  • 経験論哲学
    →合理論と対立するものとして扱われている

    実践に積極的な2つの立場
    ❶マルクス主義 
    理論のもつ空理空論化という落とし穴を批判して、実践を積極的に取り入れようとした。
    ※主張がイデオロギーの枠内のことであり、実践のすべてか非日常的な政治的実践に帰着させられたため、本来個々人の具体的な行為である実践そのものの働きに立ち入ることがなおざりに
    ❷プラグマティズム 
    現実に有効に対処しようと、主知主義的な立場を超えた実践哲学を目指した。
    ※基本的に、環境への生物的な適応という考え方がつよく、一般に経験について科学の方法を直裁に生かそうとしたため、その主流からは行動科学のような、実践を単純化した理論が生み出されることになった

    経験や実践は、日常生活と結びついて身近だが、いざ有り様を考えようとすると、曖昧なところが多く、捉えにくくて、困惑させられる。それだけ経験や実践が複雑に、深く現実と関わっていると言える。

    ____

    経験の捉え方
    ▶︎活動する身体をそなえた主体が行う他者との間の相互行為として、考えること

    身体を備えた主体として存在するとき、
    能動的であると同時に他者からの働きかけを受ける受動的な存在であることになる。≒パトス的、受苦的な存在にもなる。

    ・西田幾多郎 純粋経験
    経験するとは、
    事実をそのままに知ることであり、まったく技巧や細工を廃して、事実そのものに従うことである。
    純粋とは、
    ふつうの経験中に混ざっている夾雑物を取り去って、真に経験そのままの状態であることである。

    個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである。『善の研究』

    p.68
    言語あるいはことばは、むろん一方ではコミュニケーションの媒体として社会に開かれているが、同時にそれは、さまざまな物事を各人それぞれの身体性を帯びた自己と結びつけ、内面化する働きをもっている。このような言語の働きが、実践ということの、現実との重層的なかかわりを捉え、示すのである。

    冬休みもうひと読みだな

  • 実は難しくて、よく分からなかったのが本当だが、かろうしで、以下の文章を記憶できた。

    つまり、医学はサイエンスの面を持つだけではなく、具体的な場面・事物の多義性・相互行為に対応する知恵に充ちた技芸・アートである。
    自己をカッコに入れて、責任を回避する客観主義や普遍主義の落とし穴におちいらない。

  • 105円購入2011-10-30

  • 本書で注目したい点は、平易な言葉によって、日々の中で人が生き、自然に感じる言語まで至らない、非言語的な現象を捉え、言語化している事実にある。もし本書を読み、その内容があまり記憶に残らなったとしても、それらは既に自分の中に前々から無自覚に自覚されていた現象であっただけとも考えられ、全く不思議ではないように思える。それゆえ、本書の内容は近代科学が苦手としてきた日々の生活の場を、学問体系の水準まで高める際に十分な指針となってくれるであろう一冊である。

  • IV 臨床の知の発見 を読むと、分厚い雲の隙間から「臨床の知」が少しだけ垣間見れる気がします。でもよくわからない。とてももどかしい、もう一度読み直そうかと思います。

  • 2016.10.9
    んー難しい。ただ大まかに言ってしまうなら、近代科学すなわち普遍主義、論理主義、客観主義では見落とされてしまった個体性、多義性、相互的経験を、見直すための新たな知のあり方が臨床の知で、それはコスモロジー、シンボリズム、パフォーマンスという3要素で成り立っている、というところか。
    我々は科学に対しての疑いの目を持たなすぎているなというのは確かにその通しであると思った。普遍主義によって、いつどんなときにでも通用する理論が生まれるが、それは個別具体性というものを捨象するということに他ならない。論理主義は因果関係によって物事を一義的に説明することで問題の予測と解決を可能にするが、それはまた物事の多面性を捨象している。客観主義は主観を完全に排除することで誰の目から見ても正しいものとしてのものを生み出すが、それもやはり主観を排除しているし、それは自然なことではない。主観を排除するということは物事と主体との関わりを断ち切るということであるが、現実には我々は物事に対し関わり、そしてその反作用として影響を受けるという、身体による受動的能動としての行為によって現実と関わっているからである。このように、普遍、論理、客観という3原則は、我々にとってそれは真理であるという確信を与えるに十分な機能を持った科学というものを育んできて、そしてそれはおそらく正しいのであるが、それは全て条件付き、限定範囲内での真理であるということである。曲線で描かれている現実には数学は当てはまらないが、それを直線で切り取った後でなら数式で体積なり面積なり求められる、そういう話である。
    著者はこのような科学の知によって捨てられてきたものに目を向けようと、臨床の知を提案する。わかる、わかるんだけども、それでどうなるの?という疑問がうまく解決しなかった。まぁ最後まで読んでないからかも知らんけども。それが純粋な知的好奇心からなのであれば、なるほど臨床の知は科学の知では対象にできなかった、捨象された現実への知となりうるのかもしれない。いやなりうるなら、それを使うこともできるということか、知ることと、有効活用することは別か。
    科学が切り取ってきた、科学的でないもの、普遍でなく論理でなく客観でないもの、特殊で直感で主観なもの、そういうものに目を向けられることはいいなと思う、けど、科学の3要素はそれによって人々に共通了解を育んできたのであるから、主観的で感覚的なものを重視し、その存在を当の本人が確かにつかむことができたとしても、それをうまく説明できなければわかってはもらえない。わからないことを無理やり押し付けるならそれはやはり宗教チックになってしまう(オカルトも然り)。またそれをわかりやすく説明するということは科学の語法を使ってしまうということであり、それはすなわち切り取るということにはならないだろうか。なるほど科学とは違う方法により科学では対象にできなかったことを探求し何かを得たとする、しかしそれを他者に伝えるためにはやはり科学の語法に翻訳する必要があり、その段階でその内容は一部捨象されてしまうのではないだろうか。こう考えうと科学ってのは、共通了解を育む方法としては最強のようにも思えるし、しかしその科学をはみ出した方法は、共通了解は育めない、少なくともわかりやすくはないが、科学では手が出せなかった、切り取ってしまった現実を探求できる、ということか。科学の外側の視点も持ちつつ、その曖昧さの領域、個別的で多義的で相互的なもの、それらをいかなるコードに置き換えれば共有できるのか、言語以外の経験や概念の共有の方法があるか、そんなことも考えてみたい。テレパシーとか?いやそれも言葉か。

  •  すべての学問分野において、研究の目標が普遍的な真理の獲得であるのは言うまでもないが、その追及の過程で捨てられる例外にこそ生きた現実がある――知的な職業を志す者が等しく忘れてはいけない視点がここにある。
    (選定年度:2016~2018)

  • ・臨床の知の構成原理
    1コスモロジー(⇔普遍主義)
    時空間は質的である

    2シンボリズム(⇔論理主義)
    現象は多義的である

    3パフォーマンス(⇔客観主義)
    我々の生きる世界は、主観ときりはなされた観察や操作の対象でなく、行為する人格どおしの関わりの場


    ・臨床における判断において、普遍主義、論理主義、客観主義を要請することは、臨床にいるものの決断を不要にし、責任性から回避させる

    ・プライマリケア(全科医療)
    全科ソーシャルワークという道

    ・受苦の人間的意味 VS 生存そのものを目的とする形骸化された価値

  • 2007/6/27

    <臨床の知>ということで,現在の近代科学の不完全さを問うてられます.
    近代科学の方法論は物質科学の上では,
    普遍性と論理性と客観性を併せ持つシステムとして対象を捉える事で異例の力を発揮して進展してきました.
    しかし,それが勢いづいて社会科学,人間科学,生命科学とひろめられる中で,
    系がそのような一貫性を持った形でモデル化出来ないので頓挫する.
    それに気付けって話でしょうか?

    ”臨床”ということで,後半は生命倫理の話にもっていかはるんですが,議論を哲学者らしく整理はできても結局の所,
    何もブレークスルーは出来ていないように思いましたのです.


    自然科学の科学的方法論を批判すると,
    「社会構成主義だ」
    だとか
    「でも代替案無いじゃん」
    という事を言われてしまいますが,
    モデル化やアブダクションを除いた純粋に科学的な実験検証の営みってのは結局は統計学の上に乗っかってて,
    システム同定や統計的学習理論の話で抽象化できるように思われる.

    科学哲学での批判でなされる「グルーのパラドックス」
    なんてのも,究極的に時変なシステムを同定する事なんて出来ないって話と被る面がある.あとは,
    言語的な形式的議論と実世界の現象との間のマッピング関係が如何に普遍的に維持されるかってこと.

    このあたりを考えると結局「キレる」仕組みを脳科学で理解する(by NHKスペシャル)ってのは自然科学者の営為としてはヤバイわけですね.

    そんな話がこの本に書いてあったわけではないのですが・・・.
    そういうことを考えさせられました.

    自分が扱いたかった対象「人間」に対する科学的アプローチの裏を支える学問の構造が混沌とするというか,
    どうしようもなく成立しないのを感じる今となっては,対立軸を打ち立てなくてはならない焦燥感に駆られます.

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著者プロフィール

1925年、東京都出身。哲学者。明治大学名誉教授。東京大学文学部卒業後、文化放送に入社。その後、明治大学法学部教授を長く務めた。西洋哲学をはじめ日本文化・言語・科学・芸術などに目を向けた現代思想に関する著書が多数あり、主要著作は『中村雄二郎著作集』(岩波書店、第1期全10巻・第2期全10巻)に収められている。山口昌男と共に1970年代初めから雑誌『現代思想』などで活躍、1984年から1994年まで「へるめす」で磯崎新、大江健三郎、大岡信、武満徹、山口昌男とともに編集同人として活躍した。

「2017年 『新 新装版 トポスの知 箱庭療法の世界』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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