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Amazon.co.jp ・本 (226ページ) / ISBN・EAN: 9784004302056
感想・レビュー・書評
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ゴールデンウイーク中に民博でウメサオタダオ展を見た。手書きのカードに感動した。鼎談のビデオを見ているとそこから離れられなくなった。しばらくは、あこがれの人の世界に入り浸った。さて、本書は「ご要望にお答えしてのアンコール復刊」とのこと(写真文庫とかもっと復刊してほしいものはあるのだが)。しかし、よくもまあこれだけの言語を、必要に迫られてということだろうけれど、楽しんでいるというのか、言語オタクというのか。私にはちょっと無理だけれど、それはそれ。いろいろな言語や文化にそのさわりだけでもふれることができる。日本語についての思いは最後の章に書かれている。これだけでも読む価値はある。さて、民博でこの本を買ったら、梅棹先生オリジナルのブックカバーを付けていただけた。私の宝物だ。
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梅棹さん学生時代からいろいろな他国言語とどいろいろ接してきたかのエッセイ。 彼の勉強に対する姿勢とか、 他文化に接するうえでの言葉の道具としての役割とかかなり中身濃い。 さすがだ。
言語の学習というと大変だとふつう言われるけども、もっと楽しみながら、気軽なのもありえると彼は言う。 これをこの人は小鳥草花言語学といい、 方法さえ良きれば語学というものは1月ぐらいでものになるというのを、 この人はスペイン語やイタリア語や、アフリカ、アジアなどの奥地の言葉で、経験して、確信したといいいきる。 これは大変すごいことだと思う。 おれのように英語だけで何十年も苦労した人間とは全く違う。
この人の正しい方法というのはこの本によると、
1個人レッスン 耳と口の口頭練習と
2語彙を集めるということと
3動詞や名詞の格や変化の文法的な概要をつかむということだろう。
この人が英語を初めて中学校の時に習ったというのがまず音声記号から入ったというもうなずける。 それにより初めて聞く音をフリガナをふらずにきっちり分類することができるし、 クリックランゲージなどのそういった音声記号にない新しい音を新しい音として認識できる。 自分独自の人類学の研究をやって そういった言語学習作業をずっと一生やってきて、 それを楽しみながら気軽にやると言い切るのはすごいことだと思う。
そうした彼の体験談を嫌味なく、 旅行エッセイのような形でしかもある程度年代順にまとめ上げているこの本はすばらしいものだ。
最後の日本語ローマ字化も文法活用学習からと、日本語海外普及という観点からだと当然の結論だろうし、 文学志向の国語の先生が、 日本の国語教育の中心で、国語の授業を言語学志向の日本語の先生と教えていないということが日本の国語の授業をたまらなくつまらないものにしているというのもその通りの卓見だとおもうし、そこが多分日本語ローマ字化の最大の反対勢力となるのだろう。 -
民族学者で、牧畜の研究?を主にやっている著者が、世界各地をめぐって出会った言語や人々について語るエッセイ。この本の根底には「小鳥草花言語学」(p.122)という、「どうせ外国語を完全にマスターするなどということは不可能」(p.123)なのだから、その言語を楽しみ、「ゆくさきざきで自然の風景をめでるように、文化的背景としての言語をめで」(p.122)るような言語の学習を大事にするという姿勢がある。つまり、言葉を教養として学ぶのではなく、その土地の人々についてもっとよく知るための「実戦」として学ぶ、ということで、フィールドワーク的な学者の営みというものを学ぶことができる。
著者は言語学者ではないので、基本的な「音韻論をはじめとする記述言語学の知識と、言語系統論に関する知識」(p.123)のほかは、言語に関しては著者の学習歴や印象(北京語は「まるで鳥のさえずりのようにきこえる。わたしは北京をおとずれるたびに、街頭をゆきかうひとの会話に聞きほれるのである。しかし、最近は北京でも他省出身のひとがおおいらしく、うつくしい発音の北京語の会話を耳にすることがすくなくなった。」(p.75)とか、「タイ語は発音がうつくしいことばである。女性がこのことばを口にするときは、まことにあまいものにきこえる。男性には多少につかわしくないとおもうこともある。」(p.106))のようなことが中心に書かれている。
上の「印象」の話で「美しい」とか「女性が話すと…」のような、おそらくこの著者の感覚では何ともないのだろうが、すっかり現代人のおれにはこういうところでどぎまぎしてしまう。とにかく、古い。1920年生まれの人が92年に出した本、ということだけど、「当時日本領であったカラフトにいった」(p.12)、「『樺太ギリヤク語』というりっぱな本がでた。この本は「大東亜語学叢刊」の一冊として朝日出版社からでたもので、その叢書としてはつぎつぎとさまざまな言語のものがだされる計画だったようである。予告をみると満州語、北京語、蘇州語、厦門語、広東語、蒙古語、チベット語、安南語、タイ語、タガログ語、チャモロ語、マレー語、ジャワ語、ビルマ語、インド語、ペルシャ語、アラビア語、トルコ語、ウズベク語、キルギス語」(p.14)という、なんか頭を戦時中や戦前の状況にしないと、内容以前のところで引っかかってしまう。とても興味深いことではあるのだけれど。「わたしはポー川の橋のうえで車をとめて、ここで単語カードをすてようとおもった。ビニール袋にいっぱいつまったカードを橋の欄干からぶちまけた。わたしは数千枚のカードがひらひらと紙吹雪のように散ってゆく場面を想像していた。ところが、カードの大部分はかたまりになって、ドサッとポー川の水面におちた。」(p.178)とか、川にゴミをドサーっと捨てるなんてありえん、とか、そういうことに引っ掛かってしまった。
あとは単純に知らなかった事実は面白いと思った。「上流カーストのブラーマンの過程では、少数ながら日常的にサンスクリットがはなされているという」(p.102)、とかスウェーデン、ノルウェー、デンマークのスカンジナビアの「三国はSASという航空会社を共同で経営している。従業員、乗組員はその三国からきている。かれらのあいだでは、自然におたがいにわかる共通語が形成されているという。それをサスペラントというのだそうだ。」(pp.172-3)といった事実は面白い。あと、言語によって色の数とか、雨の数とか、コメの数とか、雪の数とか、文化の特徴に応じて世界の切り分け方が違うから単語も違う、とかは有名な話だが、その例として「モンゴル語はさすがに遊牧民の言語だけあって、家畜に課する語彙は膨大だった」(p.53)というのは聞いたことがない例だった。
ところで著者は「一九八六年の春にわたしは両眼の視力を失った」(p.73)ということが急に明らかにされ、そののちは盲目の民族学者ということで仕事をしていたことになる。ほんと、人生は何が起こるか分からない。
言語そのものへの興味を掻き立てられる面もあるが、それ以上に著者の生きた時代状況に思いを馳せてしまう本。(19/08/27) -
民族学者・生態学者・探検家として知られる著者が、世界中をめぐる中で触れてきたさまざまな言語について語った本です。
もっとも印象的なのは、イタリアでの仕事が終わったときにポー川にイタリア語の語彙を記した数千枚のカードを流したというエピソードです。著者は、イタリア語を専門にするつもりも、またイタリアの文学や歴史を学ぶつもりもなく、ただイタリアで調査するのに必要な日常会話を身に着けることが必要だったので、仕事が終わってしまえばもうイタリア語は必要ないのだと語っています。こうした外国語との付き合い方もあるのかと感心しました。
それにしても、英語一つままならない身としては、これほど多くの外国語を学び用いるということは、まったく思いもよらないことだと感じます。 -
漢語やモンゴル語にはじまり、ヒンディー語にスワヒリ語等々。それぞれの個性的な文法、発音に特殊性を感じるが、ご多分に漏れず、十分日本語も特殊な言語。漢字かなみたいな異なった文字を併用するのはかなりレア。
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民俗学者として世界各地を巡つた著者。
それぞれの土地で現地の言葉を学び研究してきた記録であります。
梅棹氏の外国語との付き合ひ方は、趣味でも教養でもなく、現地の民族をより深く理解するための手段のやうです。したがつて目的を達すればたちまち忘れてしまふ。まあそんな訳で「実戦」なる単語が書名に付されてゐるのでした。
関はつた言語はおほよそ50くらゐでせうか。
ひとつの外国語さへモノにできぬくせに、いくつもの言葉に同時に手を出すのはいかがなものか、といふ声もあります。
しかし梅棹氏は、小鳥の習性を理解できなくてもさへづりは楽しめるし、草花の栽培は難しくてもその姿をめでることはできる、と語ります。
そしてさういふ言語学習法を「小鳥草花言語学」と命名しました。
む。確かに専門家でもない立場ならそれでいいぢやないか、とわたくしは大いに賛同するものであります。
ところが最終章の「世界のなかの日本語」では、従前の日本語ローマ字化論を繰返してゐます。今ではもう流行らないのではないでせうかね。
根底には「日本語は諸外国語に比べて不完全な言語」「日本語は非論理的」などといふ認識があるのでは。複数の正書法があつたつていいぢやないか、とわたくしは思ひますがね。
...と、文句を言ひながら、それでもなほ本書全体の存在価値は大きいと申せませう。民俗学や語学に関心のある人なら必ず愉しめることでせう。
http://ameblo.jp/genjigawa/entry-11140034307.html -
みんぱくのウメサオタダオ展を見に行くにあたって、予習のために読みました。
なぜ、「実践」ではなく、「実戦」なのかは、読めばわかります(笑) -
とても読みやすい。
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言語をどう捉え、どう接するか
現地で接する梅棹先生のそのフィールドの豊かさに圧倒されました。1940年代の朝鮮半島北部、モンゴルの草原、まだ緑豊かであったろうアフガニスタン。
アジアの国々の多様さに目を見張りながら読みました。
はたして、言葉とは、いったいなんなのでしょうか、、。 -
梅棹忠夫の本は読み出すととまらなくなってしまう。外国語の勉強っておもしろいんだと思わせられる一冊。
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タイトルが「実践〜」ではなく「実戦〜」となっていることが、著者の語学への心意気を示している。そこには外国語を極めようとか、言葉を通じて外国文化を汲み取ろうというような教養や愉しみは見えない。フィールドワークに費やされた彼の生涯において、外国語というものは、商売道具に過ぎなかったらしく、研究に必要な言語を必要なレベルだけ次から次へと会得してしまう。実際は、簡単に会得しているわけではなく、音韻論や言語系統学など言語学の基礎知識をフル活用しているのだが....さらには、不要になった言語を忘却してしまうというのが面白い(イタリアでは橋から数千枚の単語カードを投げ捨ててしまう)。全7章の大半を、こうした実戦体験を紹介してくれているが、最終章のみ趣が異なり、我が日本語の将来を語っている。著者に言わせれば、日本語=母国語という思い入れは少なく、日本語だって"One of a 言語" だし、強いて言えば、日本語に対しては左翼的といえるだろう。特に、漢字かな混じり表記という特殊性には批判的な態度で、アルファベットによる表音表記を提唱している。当然浮上してくる同音異義語の問題に対しては、表意文字の利用により、逆に日本語から同音異義語が淘汰されていくという理屈を述べている。かなり違和感を覚えたが、これには、執筆時点で、本人が視力を失い、音声や点字に頼らざるを得ないという事情が影響しているのだろう。漢字を読めなくなった盲人にとっては、表音文字しか存在しえないのだ。
それしても、よくもまぁこれだけの言葉を操れるものだと感心してしまう。
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