ヌード写真 (岩波新書 新赤版 209)

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  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (207ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004302094

感想・レビュー・書評

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  • 高校生の頃に古書店で、タイトルのまんまさに駆られて購入しました。ただ写真以外さして目を引かなかったので、思い切って本文まで今回はしっかり読んでみました。

    うん。ヌード写真を見ながら、また読者に見せながら、あれやこれやを印象論で語っているだけに見えて、決して読み心地は良くない。明確に「分析手法はこうした」とも必ずしも書かれていない。そう書くと、まるで悪書のように思われますが、そのことはこの本では重要ではないんですよ。「ヌード写真における性の扱われ方は、ある特殊な政治性を持っていて、それは絵画におけるヌードとは区別されるものだ」、これが筆者の主張だし、これ以上を伝える意図をこの本に感じないからです。

    ヌード写真家にどういう人がいるかを一部だけでも知るキッカケにはいいかのしれません。ただし、この本に書いてあるヌード写真の見方はそこまでクールでも何でもないですよ。あぁ、芸術科出たおじさんがダラダラ喋ってるな以上でも以下でもない。 というのも、本文中で度々自分の関心内容を絞ってここからは「興味が無い」と言ったり、文章表現として「それはどうでもいい」を多用しているからです。 更に何か汲み取るとしても、「性の政治学」っていうアプローチもあるんだね(もしくは、「出来そうだね」)程度ですね。
    そういう研究は、この本が出版されて約20年経つ今だから、ありそうなものですがどうなんでしょう。逆に、そういう研究書一冊持っていればこれは読む価値無いですね。

  • ヌード写真を題材に、性にまつわる政治学的な意味について考察をしている本です。

    「おわりに」で著者は、本書の議論が二つの方向から進められていると述べています。一つは「ヌード写真における女性のあつかわれ方」、もう一つは「現代社会におけるヌード写真の氾濫ぶり」です。そのうえで著者は、「こうしたふたつの線がさらに分岐し、いくどか複雑に交差して生み出していく諸問題をとりあげてきた」と述べているのですが、個人的にはその交差のありようについて十分に論じられていないように感じました。とくに著者のいう第二の方向である、「現代社会におけるヌード写真の氾濫ぶり」が、性にまつわる政治的な権力構造を一方では強化しつつ、他方で性を空虚なものにしていくということへの目配りが、荒木経惟についての考察など一部を除いては、十分になされているとはいいがたいように思います。

    もちろん著者は、現代におけるヌード写真のそうした意味を見落としているのではなく、むしろ性という現象をひたすら不毛なものにしてしまう傾向に対して内側から抵抗する可能性をもつ、一部の写真家たちの仕事を救い出そうとしているということはできるでしょう。こうした試みは、芸術の記号論のような観点からなされているのですが、ヌード写真の社会学的な側面について踏み込んだ議論がなされておらず、高尚な議論にとどまっているところに不満を感じてしまいました。

  • ヌード写真を芸術の観点からではなく社会性の観点から論じた本。

    男性主体の女性のモノ化を反映する従来のヌード写真から、性的身体の価値観に疑問を呈するようなヌード写真への変化を読み解く。

    全体的に興味深いのではあるが、著者の男/女という2元論的な論じ方やヌード写真の主な被写体が女ということについての偏った解釈、家族のヌード写真が撮られたことがフロイトの提唱したエディプス・コンプレックスが歴史的に過去のものとなった証拠であるとする論理の飛躍など、疑問を感じる論調も多かった。
    また、所々重要な論を抽象的な表現で通り過ぎる嫌いがあり、もやもや感が残る。

    しかし、ナチス時代におけるヌーディスト的なヌード写真の出現に関する考察は明快であり非常に面白く、その章だけでも読む価値があると思う。

  • 都市学とか、まあ、現代社会学(?)について強い興味を抱いていたときに読んだ本。

    岩波新書でこのタイトルかよ! という衝撃に負けて購入(笑

    ヌード写真の歴史、存在について、見る側、撮る側、撮られる側の意識など様々な視点から語られており、社会が性をどう取り扱ってきたかということも再考させられました。

  • [ 内容 ]
    夥しい数の「ヌード写真」が溢れ、さまざまな話題を呼んでいる。
    芸術性の高いものから俗悪なものまで、この過剰な氾濫をどのように考えればよいのだろうか。
    ここでは、「ヌード写真」の歴史をたどることによって社会が性をどのように扱ってきたかを明らかにし、「ヌード写真」を読みとくことによって現代における性や身体の意味をさぐる。

    [ 目次 ]
    1 性の政治学―ヌード写真をどう論じるか
    2 秘匿された情熱―ダゲレオタイプのヌード写真
    3 写真が性をよこぎるとき―ヌード写真の社会学
    4 ヌード写真の氾濫―ゲームのパラドクス
    5 無性化する身体―性的衝動の排除
    6 私的な視線によるヌード写真―ひとつの歴史のおわり
    7 ヌード写真の変容―神話の誕生

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    [ 関連図書 ]


    [ 参考となる書評 ]

  • Ⅰ 性の政治学
    Ⅱ 秘匿された情熱
    Ⅲ 写真が性をよこぎるとき
    Ⅳ ヌード写真の氾濫
    Ⅴ 無性化する身体
    Ⅵ 私的な視線によるヌード写真
    Ⅶ ヌード写真の変容
    おわりに
    (目次より)

  • 本書は,決してヌード写真の歴史を丹念に辿ったものでもないし,現代のヌード写真ですら網羅しているものではない。ましてや,一般論でもない。

    むしろ,これまであったヌード写真に関する議論で論じられなかったことを論じるのだと息巻いている。しかし,どうなのだろうか,この本は。多木氏にしてはキレの悪いような感じがする。読み終わってみると大したことが書いていないような気がする。同じ主題ならば,下記の笠原氏の著作の方が明快だ。といっても,笠原氏の著作も,ヌード写真全般というよりは,副題にあるように女性が女性の,あるいは男性のヌードを撮影するという行為に焦点をおいている。
    また,本書の後半で検討される,シンディー・シャーマンの作品についての解釈は,既に下記のウィリアムスンが展開しているにもかかわらず(ちなみに,原著は1986年に出版),この本について多木氏は言及していない。なお,笠原氏も本書にはごく一部で言及しているに過ぎない。

    笠原美智子 1998. 『ヌードのポリティクス――女性写真家の仕事』筑摩書房.
    ジュディス・ウィリアムスン著,半田 結・松村美土・山本 啓訳 1993. 『消費の欲望――大衆文化のダイナミズム』大村書店.

    さて,それでもなお,やはり多木氏はすごいと思う。本書は,確かに明快な形では何かを示せていないが,やはり何か一筋縄ではいかないような主題を扱っているように思われてならないのだ。恐らく,多木氏自身は本書の続編を書くことはないだろうが,後世の人に残された課題かもしれない。

    そのこととは直接関係しないが,多木氏は今日,ありきたりな女性のヌードは時代遅れで何の意味もないのに,いまだにこれだけ氾濫していることの意味を問おうとしている。

  • 『ヌード写真は、「性」の内容はともかく、その社会が政治的、文化的、経済的等々の諸力のなかで、性的現象をどのように示すかを把握するにはきわめて好都合な素材』

  • 風俗にあらわれている写真=覗き見と同質、クリッシェ(決まり文句)の反復を特徴⇔優れたヌード写真=時代の変貌、感受性の変化、新しい「性」領域についての写真独特の語り方 の二項対立。
    「性」という根源的だが触れにくい主題に関する言説をかくも大量かつ安易に産出している社会的、政治的メカニズムとは?
    「19世紀の絵画ヌードの形式/公開性」⇔「ダゲレオタイプのヌードの形式/非公開性」
    西欧の裸体表現の様式=それぞれの時代の羞恥心の大枠の中で理解しなければならない。羞恥心=not本能的なものbut文化的に形成された制御や節度の社会心理的メカニズム。

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著者プロフィール

1928〜2011年。哲学者。旧制第三高等学校を経て、東京大学文学部美学科を卒業。千葉大学教授、神戸芸術工科大学客員教授などを歴任。1960年代半ばから、建築・写真・現代美術を対象とする先鋭的な批評活動を開始。1968年、中平卓馬らと写真表現を焦点とした「思想のための挑発的資料」である雑誌『プロヴォーク』を創刊。翌年第3号で廃刊するも、その実験的試みの軌跡を編著『まずたしからしさの世界を捨てろ』(田畑書店、1970)にまとめる。思考と表現の目まぐるしい変貌の経験をみずから相対化し、写真・建築・空間・家具・書物・映像を包括的に論じた評論集『ことばのない思考』(田畑書店、1972)によって批評家としての第一歩をしるす。現象学と記号論を駆使して人間の生と居住空間の複雑なかかわりを考察した『生きられた家』(田畑書店、1976/岩波現代文庫、2001/青土社、2019)が最初の主著となった。この本は多木の日常経験の深まりに応じて、二度の重要な改訂が後に行われている。視線という概念を立てて芸術や文化を読み解く歴史哲学的作業を『眼の隠喩』(青土社、1982/ちくま学芸文庫、2008)にて本格的に開始。この思考の系列は、身体論や政治美学的考察と相俟って『欲望の修辞学』(1987)、『もし世界の声が聴こえたら』(2002)、『死の鏡』(2004)、『進歩とカタストロフィ』(2005、以上青土社)、『「もの」の詩学』、『神話なき世界の芸術家』(1994)、『シジフォスの笑い』(1997、以上岩波書店)などの著作に結晶した。日本や西欧の近代精神史を図像学的な方法で鮮かに分析した『天皇の肖像』(岩波新書、1988)やキャプテン・クック三部作『船がゆく』、『船とともに』、『最後の航海』(新書館、1998〜2003)などもある。1990年代半ば以降は、新書という形で諸事象の哲学的意味を論じた『ヌード写真』、『都市の政治学』、『戦争論』、『肖像写真』(以上岩波新書)、『スポーツを考える』(ちくま新書)などを次々と著した。生前最後の著作は、敬愛する4人の現代芸術家を論じた小著『表象の多面体』(青土社、2009)。没後出版として『トリノ 夢とカタストロフィーの彼方へ』(BEARLIN、2012)、『視線とテクスト』(青土社、2013)、『映像の歴史哲学』(みすず書房、2013)がある。2020年に初の建築写真集『建築のことばを探す 多木浩二の建築写真』を刊行した。

「2021年 『未来派 百年後を羨望した芸術家たち』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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