- Amazon.co.jp ・本 (207ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004302094
感想・レビュー・書評
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高校生の頃に古書店で、タイトルのまんまさに駆られて購入しました。ただ写真以外さして目を引かなかったので、思い切って本文まで今回はしっかり読んでみました。
うん。ヌード写真を見ながら、また読者に見せながら、あれやこれやを印象論で語っているだけに見えて、決して読み心地は良くない。明確に「分析手法はこうした」とも必ずしも書かれていない。そう書くと、まるで悪書のように思われますが、そのことはこの本では重要ではないんですよ。「ヌード写真における性の扱われ方は、ある特殊な政治性を持っていて、それは絵画におけるヌードとは区別されるものだ」、これが筆者の主張だし、これ以上を伝える意図をこの本に感じないからです。
ヌード写真家にどういう人がいるかを一部だけでも知るキッカケにはいいかのしれません。ただし、この本に書いてあるヌード写真の見方はそこまでクールでも何でもないですよ。あぁ、芸術科出たおじさんがダラダラ喋ってるな以上でも以下でもない。 というのも、本文中で度々自分の関心内容を絞ってここからは「興味が無い」と言ったり、文章表現として「それはどうでもいい」を多用しているからです。 更に何か汲み取るとしても、「性の政治学」っていうアプローチもあるんだね(もしくは、「出来そうだね」)程度ですね。
そういう研究は、この本が出版されて約20年経つ今だから、ありそうなものですがどうなんでしょう。逆に、そういう研究書一冊持っていればこれは読む価値無いですね。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ヌード写真を題材に、性にまつわる政治学的な意味について考察をしている本です。
「おわりに」で著者は、本書の議論が二つの方向から進められていると述べています。一つは「ヌード写真における女性のあつかわれ方」、もう一つは「現代社会におけるヌード写真の氾濫ぶり」です。そのうえで著者は、「こうしたふたつの線がさらに分岐し、いくどか複雑に交差して生み出していく諸問題をとりあげてきた」と述べているのですが、個人的にはその交差のありようについて十分に論じられていないように感じました。とくに著者のいう第二の方向である、「現代社会におけるヌード写真の氾濫ぶり」が、性にまつわる政治的な権力構造を一方では強化しつつ、他方で性を空虚なものにしていくということへの目配りが、荒木経惟についての考察など一部を除いては、十分になされているとはいいがたいように思います。
もちろん著者は、現代におけるヌード写真のそうした意味を見落としているのではなく、むしろ性という現象をひたすら不毛なものにしてしまう傾向に対して内側から抵抗する可能性をもつ、一部の写真家たちの仕事を救い出そうとしているということはできるでしょう。こうした試みは、芸術の記号論のような観点からなされているのですが、ヌード写真の社会学的な側面について踏み込んだ議論がなされておらず、高尚な議論にとどまっているところに不満を感じてしまいました。 -
ヌード写真を芸術の観点からではなく社会性の観点から論じた本。
男性主体の女性のモノ化を反映する従来のヌード写真から、性的身体の価値観に疑問を呈するようなヌード写真への変化を読み解く。
全体的に興味深いのではあるが、著者の男/女という2元論的な論じ方やヌード写真の主な被写体が女ということについての偏った解釈、家族のヌード写真が撮られたことがフロイトの提唱したエディプス・コンプレックスが歴史的に過去のものとなった証拠であるとする論理の飛躍など、疑問を感じる論調も多かった。
また、所々重要な論を抽象的な表現で通り過ぎる嫌いがあり、もやもや感が残る。
しかし、ナチス時代におけるヌーディスト的なヌード写真の出現に関する考察は明快であり非常に面白く、その章だけでも読む価値があると思う。 -
都市学とか、まあ、現代社会学(?)について強い興味を抱いていたときに読んだ本。
岩波新書でこのタイトルかよ! という衝撃に負けて購入(笑
ヌード写真の歴史、存在について、見る側、撮る側、撮られる側の意識など様々な視点から語られており、社会が性をどう取り扱ってきたかということも再考させられました。 -
Ⅰ 性の政治学
Ⅱ 秘匿された情熱
Ⅲ 写真が性をよこぎるとき
Ⅳ ヌード写真の氾濫
Ⅴ 無性化する身体
Ⅵ 私的な視線によるヌード写真
Ⅶ ヌード写真の変容
おわりに
(目次より) -
本書は,決してヌード写真の歴史を丹念に辿ったものでもないし,現代のヌード写真ですら網羅しているものではない。ましてや,一般論でもない。
むしろ,これまであったヌード写真に関する議論で論じられなかったことを論じるのだと息巻いている。しかし,どうなのだろうか,この本は。多木氏にしてはキレの悪いような感じがする。読み終わってみると大したことが書いていないような気がする。同じ主題ならば,下記の笠原氏の著作の方が明快だ。といっても,笠原氏の著作も,ヌード写真全般というよりは,副題にあるように女性が女性の,あるいは男性のヌードを撮影するという行為に焦点をおいている。
また,本書の後半で検討される,シンディー・シャーマンの作品についての解釈は,既に下記のウィリアムスンが展開しているにもかかわらず(ちなみに,原著は1986年に出版),この本について多木氏は言及していない。なお,笠原氏も本書にはごく一部で言及しているに過ぎない。
笠原美智子 1998. 『ヌードのポリティクス――女性写真家の仕事』筑摩書房.
ジュディス・ウィリアムスン著,半田 結・松村美土・山本 啓訳 1993. 『消費の欲望――大衆文化のダイナミズム』大村書店.
さて,それでもなお,やはり多木氏はすごいと思う。本書は,確かに明快な形では何かを示せていないが,やはり何か一筋縄ではいかないような主題を扱っているように思われてならないのだ。恐らく,多木氏自身は本書の続編を書くことはないだろうが,後世の人に残された課題かもしれない。
そのこととは直接関係しないが,多木氏は今日,ありきたりな女性のヌードは時代遅れで何の意味もないのに,いまだにこれだけ氾濫していることの意味を問おうとしている。 -
『ヌード写真は、「性」の内容はともかく、その社会が政治的、文化的、経済的等々の諸力のなかで、性的現象をどのように示すかを把握するにはきわめて好都合な素材』
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風俗にあらわれている写真=覗き見と同質、クリッシェ(決まり文句)の反復を特徴⇔優れたヌード写真=時代の変貌、感受性の変化、新しい「性」領域についての写真独特の語り方 の二項対立。
「性」という根源的だが触れにくい主題に関する言説をかくも大量かつ安易に産出している社会的、政治的メカニズムとは?
「19世紀の絵画ヌードの形式/公開性」⇔「ダゲレオタイプのヌードの形式/非公開性」
西欧の裸体表現の様式=それぞれの時代の羞恥心の大枠の中で理解しなければならない。羞恥心=not本能的なものbut文化的に形成された制御や節度の社会心理的メカニズム。