- Amazon.co.jp ・本 (247ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004302773
感想・レビュー・書評
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兎に角「西行」という人物は分からない。今から800年も前の人物だから、なおさら想像しにくいのかもしれない。芭蕉なら何となくイメージ出来るのだが・・・(これも実体とは違って、自分本位のイメージですが)
政治とも関わらず、和歌の本流からも外れ、だけど時の天皇や上皇、最大の権力者の平清盛とも近く、更には源頼朝ともサシで話をする。また全国各地に西行伝説があり、歴史に名を留めている。
西行から500年後の芭蕉は、西行を理想として「おくのほそ道」に旅立った。一介の歌人が何故こうまで、後世に影響を与えているのかが分からず、この本を手にした次第ですが、やはり「西行」のイメージは湧いてきませんでした。
この5月から「西行」の勉強会が始まったので、じっくりと時間をかけて私なりの「西行」のイメージを作って行くつもりです。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
西行の生涯と歌、さらにかずかずの西行伝説なども参照して、西行の「心」について考察をおこなっている本です。
著者はまず、西行の桜についての歌を参照して、「散る桜」において悲しさと明るさが融合していることをたしかめ、「桜」と「心」のあいだに成り立っている関係に目を向けています。そして、藤原俊成と定家の父子とは異なり、花の「美」のもとへ「心」が消え去っていくのではなく、花の「美」へと「心」が吸い寄せられつつもその「心」を凝視しつづける自意識が、西行の歌を特徴づけていると論じられます。また著者は、西行伝説のなかに登場する西行像や、能のさまざまな演目で西行にはつねにワキの役が割りあてられていることにも注目して、「見る人」としての西行のありかたを明らかにしています。
これらの議論を踏まえて、西行の「心」がさまざまに移ろいゆく世の中に寄り添いつつも、それらから自由であると著者は考えます。こうした西行の態度は、彼の仏教へのかかわりかたにおいても見られると著者は論じています。
最後に著者は、西行と芭蕉の関係についても考察をおこない、西行の歌が「動」と「静」の一致を五七五七七の形式で表現していたのに対して、芭蕉がよりいっそう「静」の表現に傾いているところに、五七五の形式の本質が発見されることになったという主張が展開されています。 -
願わくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月のころ・・・の西行。
フォトリーディング&高速リーディング。 -
西行。
俗名、佐藤義清(のりきよ)。
辞世の歌「願はくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月のころ」(「山家集」)が殊によく知られる、漂泊と桜の歌人である。
北面の武士として仕え(平清盛とは同僚に当たる)、武芸に優れ、文もよくし、なおかつ眉目秀麗。現世に不満もないはずであったが、出家の道を選ぶ。不可解とも言える出家の理由としては、友人が若くして死んだことから世の儚さを感じたとの説も、ただただ仏門に深く帰依する「道心」をなぜともなしに発したとの説もあるが、おそらくは人に最も好まれているのは、高貴な女人への道ならぬ恋に落ちたためとの説だろう。さらに、この女人とは鳥羽天皇の后、待賢門院璋子であるとするのが最も「好まれる」説と言ってよいだろう。璋子は、鳥羽天皇の祖父にあたる白河院による寵愛も囁かれ、息子である崇徳帝は鳥羽天皇の子ではなく、白河院の落胤ではないかとも言われていた。ある意味、後の保元の乱の布石を作った人物とも言えるが、何にせよ、教養深く魅力ある女性であったようである。
このほか、西行出家の際には、出家を心に決め、家に帰った父に、喜んでまとわりついてきた幼女を縁先から蹴落とし、俗世を振り捨てたという、なかなか強烈なエピソードもある。
但し、こうしたエピソードを含め、西行に関わる物語には、後から付け足された伝説・創作も多いという。
本書は、西行の生涯をざっと見渡し、数々残された歌の心を読み解き、伝説の向こう側にある「人間」西行の実像に迫ろうとする1冊である。
西行がなぜ人々に愛され、さまざまな伝説を生んだか、なかなか難しいところではあるが、本書の著者は1つに、そこに人間くささがあったのではないかという。出家でありながら、俗世間や政治とも関わり、そして出家の後も元武士としての気概が残されている。そんな像が文献のはしばしに偲ばれるようである。その気性を、著者は「たてだてしさ」「圭角」と呼んでいる。いずれも「尖った」部分を持つ気質を指す。どこか生々しく、どこか悟りきっていない、ごつごつとした塊のようなもの。それを感じさせる人物だから、俗世の人々も物語を重ねやすかったのではないかということだが、実際、どうだったのかは別として、興味深く拝読した。
もう一歩深い部分に関しては、歌人・西行が理解できないと、つまり和歌の心が汲めないと近づきがたいものがありそうだ。
1つは「心」の発見。例として著者が挙げているのは「春風の花を散らすと見る夢はさめても胸のさわぐなりけり」(山家集)である。夢の中で見た桜であるが、その桜という「もの」に揺るがされた「心」は、夢が覚めてもなお、胸さわぎとして残っている。「もの」と衝突して揺るがされた「心」とは、自身の「存在」にも通じるものなのかもしれない。
今ひとつは、「無」。西行が晩年に詠んだ歌、「にほてるやなぎたる朝に見わたせば漕ぎゆく跡の浪だにもなし」(拾玉集)。「にほ」の海とは琵琶湖のことである。凪いだ琵琶湖を舟が行く、航跡もなく静かに去っていく。「無」に向かい、「浄土」へ向かう、西行の心境であったものか。花鳥風月を詠んでいても、西行は対象を「虚妄」と見ていたという。存在はことごとく「仮」である。しかし、「仮」であるがゆえに「真」であるという。「虚無」の中の「美」。「美」の中の「虚無」。それは仏道と歌道との融合とも言える境地であったのかもしれない。
本書では、その他、能因-西行-芭蕉の系譜、高山寺開祖である明恵との関連、同性愛的ともいえる西住との関係など、興味深いトピックも多く紹介されている。
十全に、「たてだてし」く生き、やがて無我の境地に到る。
人間くさい一方で、聖者としての側面も持つ西行は、人々の思いの中で、なおも漂泊し続け、桜を眺め、歌を詠じ、生き続ける。
西行とは、そんな象徴としての存在なのかもしれない。
*本書の善し悪しとは別に、知識が少ないこともあって、自分ではあまり西行を掴めたとは思えず(^^;)。また機会があれば別の本にも触れてみたいと思っています。いつか別の線がつながることもあるかもしれません。
*西行の小説はいろいろ出ているのでしょうが、自分でこれまでに読んだのは『西行花伝』(辻邦生)と『宿神』(夢枕獏)。前者は美しく、後者は物語的におもしろく、といった作でした。
*能に「西行桜」という演目があるそうでして。これは機会があればいずれ見てみたいです。
*西行は、百足退治や平将門追討で知られる『田原藤太』(藤原秀郷)の子孫と言います。奥州藤原氏も秀郷の子孫に当たります。西行はみちのくにも二度足を運び、遠縁にあたる秀衡とも会っているようです(東大寺への寄進を頼んだ模様)。ここで、西行と同時代に生き、同じく多くの伝説を生んだ義経が思い浮かぶわけですが、西行と義経の接点があったかどうかはちょっとよくわかりませんでした。歴史のロマン、というところでしょうか。
*西行は文覚上人(遠藤盛遠)とも接点があり、2人はぶつかり合う間柄だったようです。文覚上人といえば、こんな話もありました→『ナメクジの言い分』。
いずれも道ならぬ恋に身を焦がしたという伝承が真実であるならば、似たもの同士の熱さを持つ2人だったのかもしれません。これもまた歴史のロマンですかね。 -
冬休みの年越し本。白洲正子さんなど数多くの著名人に愛される西行だけど、昨年の「平清盛」で狂言回しとして登場した時には、どー考えても「なぜそこで出る?つーか見てるだけで何もしないのか、このいるだけでモテるイケメソ美坊主は」などとツッコミをいれたくなる存在であった(笑。意見には個人差があります)。彼の歌や出自から民間伝承までを参考資料にして考察されたこの本を読み、西行の人間くささを垣間見ることができたのはよかった。そして清盛で描かれた西行像がこれとあまりズレてなかったのに感心した(こらこら)。西行が人骨を集めて人間を作ろうとして失敗する逸話を大河スピンオフとしていつか作って欲しい(苦笑)。
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(2012.05.14読了)(2012.03.03購入)
NHK大河ドラマ「平清盛」に佐藤義清が登場します。北面の武士で、歌が堪能です。御所で問題を起こし、出家して西行と名乗ります。
この本は、その西行についての本です。武士としての部分よりは、歌詠みとしての部分に重点があります。東北に三度ぐらい足を運んでいるようで、芭蕉の奥の細道は、西行の歩いた道をたどった感があるようです。西行は、短歌で芭蕉は俳句や連歌という違いはありますが、四季や花鳥風月や景色、場所を読み込む短詩としては、似たところがあります。
詩はあまり得意ではないので、収録されている短歌を十分味わうことはできないのが残念ですが、著者が、解説を入れてくれているので、助かります。
古語や詩的表現について、自分で味わえ、とばかりに説明をあまり入れてくれない本が結構ありますが、この本では、比較的説明が入っているのでありがたかったです。
【目次】
第一章 桜に生き、桜に死す…
第二章 武門からの出立―略伝(一)
第三章 円寂への旅路―略伝(二)
第四章 西行伝説
第五章 同質性を求めて
第六章 晩年と無
第七章 西行以後
あとがき
西行年譜
『山家集』
『御裳濯河歌合』
『宮河歌合』
『西行上人集』
『聞書集』
『西行物語絵巻』
藤原頼長『台記』(漢文体の日記)
『撰集抄』
『西行物語』
鴨長明『発心集』
蓮阿『西行上人談抄』
●待賢門院璋子(39頁)
西行は出家以前も以後も、待賢門院璋子や門院に仕えている女房たちと、浅からぬえにしで結ばれていた。
待賢門院は鳥羽天皇の皇后で崇徳天皇を生んだ。西行は崇徳天皇とは年齢も近く、関係が深かったが、鳥羽・崇徳の対立に発した保元の乱を西行は経験している。
●出家(42頁)
佐藤義清が出家をとげたのは1140年、23歳のときである。月の美しい夜だったとされている。
●出家の原因(45頁)
西行は恐れ多い高貴の女人と深い仲となったが、「ただ一度だけ」という女人の仰せがあったために、重ねての逢瀬をあきらめて出家してしまったのだ、という
(道心説、人生無常説、というのもあります)
●待賢門院璋子(50頁)
待賢門院璋子は権大納言藤原公実の女、西行と縁がふかい徳大寺家の人である。鳥羽後宮に入って、崇徳、後白河のほか覚正法親王、上西門院統子の生母となった。
彼女は養女のころから白河上皇に鐘愛されてその身辺で育っており、のちに鳥羽上皇の中宮となったものの、彼女の生んだ崇徳の実際の父は白河上皇であろう、とされていた。このため鳥羽上皇は長男崇徳を「叔父子」と呼んでうとんじた。形式上は自分の子供ではあるが、実父は自分の祖父の白河上皇なのだから、自分にとっては叔父にあたるというわけである。こうして「治天の君」といわれていた権力者白河上皇の性的放恣から発した鳥羽・崇徳の対立、冷たい関係が保元の乱への重大な伏線を形づくるのである。
●陸奥への旅(63頁)
出家直後は京の内外、近傍に起居した西行は、やがて1144年、27歳ごろ陸奥、出羽の旅に出た。直接の目的としては、西行よりもおよそ二百年前の歌人能因法師の旅路のあとを自らも辿って、歌枕探訪の修業をすることにあったと見られている。
●芭蕉(68頁)
芭蕉も西行の足跡を慕ってみちのくに向かい、例えば象潟のように、本当に西行がここを訪れたと信じて感慨に耽っている。
●高野山での活動(74頁)
高野山での活動ないし行動は大略三つがあった。第一には、真言行者としての修業がなされた筈だが、学問僧ではなかった西行は東密の奥儀を一意専心めざすというのではなかっただろう。
第二には、高野山の整備、設営のための活動が挙げられるが、その大半は勧進活動である。
第三には、数寄者としての作歌をはじめとするさまざまな動静がある。
●保元の乱(81頁)
鳥羽法皇の死をきっかけとして、かねて鳥羽法皇と軋轢状態にあった崇徳上皇が動いた。摂関家の人々が一方は忠道、他方は忠実・頼長父子と別れて対立していたのに乗せられた形で、崇徳上皇は保元の乱に突っ走るのである。上皇側は頼長、教長、源為義、平忠正らを擁して白河殿に立てこもったが、朝廷方は源義朝が白河殿夜襲をかけて火を放ち、あっけなく勝ちを収めた。上皇は逃れて都の北方の山中を彷徨したのち、髪を下して仁和寺に身を寄せた。上皇は讃岐に配流されて政治生命を絶たれてしまう。頼長は敗走中に死に、為義、忠正はそれぞれ斬られた。
●頼朝と西行(183頁)
頼朝は鶴岡八幡の鳥居のあたりにうろついていた西行を召して、和歌と弓馬のことを談じ合ったのだった。
●友人知人との別れ(200頁)
待賢門院は早くも1145年、西行28歳の年に世を去り、鳥羽院は1156年、西行39歳のときに、崇徳院は1164年、西行47歳のときに薨じている。待賢門院の女房で、歌を通じて親しい交わりのあった堀河、兵衛(堀河の妹)なども、没年は知れないが、西行よりかなり年長だったから、西行の晩年にはもういなかっただろう。
●芭蕉と西行(213頁)
芭蕉の西行への傾倒の深さはよく知られている。
●『笈の小文』冒頭(215頁)
西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫道する物は一なり。
☆関連図書(既読)
「清盛」三田誠広著、集英社、2000.12.20
「平清盛-「武家の世」を切り開いた政治家-」上杉和彦著、山川出版社、2011.05.20
「平清盛 1」藤本有紀作・青木邦子著、NHK出版、2011.11.25
「平清盛 2」藤本有紀原作・青木邦子著、NHK出版、2012.03.30
(2012年5月15日・記) -
「草子ブックガイド」つながりで。西行の歌を紹介しつつ、桜へのこだわり、略伝、西行にまつわる伝説・伝承を平易に解説してくれる一書。
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生涯。