都市の政治学 (岩波新書 新赤版 366)

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  • Amazon.co.jp ・本 (195ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004303664

感想・レビュー・書評

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  • かつて記号論ブームと呼ばれる現象があったころには、記号論の手法にもとづく都市論が華々しく展開されていました。それらの議論を踏まえつつも、新たな展開の可能性が示されているのではないかと思って手に取ったのですが、個人的にはやや期待外れに感じました。

    ベンヤミンの思想にも造詣の深い著者は、かつて『「もの」の詩学―家具、建築、都市のレトリック』(岩波現代文庫)において、記号論的分析を思わせる考察からはじめて、ラディカルな意味における唯物論的な視座へと歩みを進めていく興味深い議論を展開しています。しかし本書には、そうした啓発的な発想はあまり見られず、前時代的な都市論の枠組みのなかでの議論に終始しているような印象を受けます。

  • (01)
    政治学というタイトルについては、新書にしては一般の読者が取り付きにくくしている面もあるだろう。しかし、本書は正しく政治学であり、政治学は本来、都市についての議論(*02)を含むものでなければならない。
    しかし、驚くべきは現在から遡ること20年余、95年の阪神の震災やオウムの一連の事件(*03)が発生し発覚する前夜ともいえる、あの時点で、その後数十年の都市の姿をおぼろげながらも捉えていることである。あるいは19世紀に続く20世紀という都市の世紀を、世紀末に総ざらえした画期的な内容ともなっている。

    (02)
    都市の経済的な原理として、商業や消費(*04)の考察は欠かせない。ベンヤミンを応用し、パサージュ、デパート、スーパーマーケット、ショッピングセンター、コンビニエンスストアと変遷する、個別店舗と店舗群の構成を捉え、都市のキャラクターを分析している。また、都市を基盤とする国家と国家群の関係性からも都市を性格づけている。そうすれば、鉄道と航空のハブ機能やツーリズムが浮かび上がるし、流通や情報のネットワーク、イベントやテーマパークも現象として視界に現れてくる。死と廃墟と廃棄物を指向する機械としてのユートピアは、かつてあった都市のコスモロジーと対比されなければならない。

    (03)
    犯罪、暴力、災害を都市の必然ともしている。こうした都市問題を政治学として、正統な権力の行使とセットで語るには、やはりフーコーが援用されている。監視社会の現われついて著者の分析は的確である。

    (04)
    都市のバックヤードとしての郊外、新興住宅地、ニュータウンにおいて性愛の寓意や徴候が現れていることを著者は見逃していない。欲望やプライベートの文脈で核家族の住宅に性愛を読むセンスは卓抜といえるだろう。

  • 94年に出版された新書。少し読み飛ばしたけど、読みやすい文章で分かりやすかった。でもどうして都市論の文章って詩的表現が多いんでしょう。好みだから別にいいんだけど少し気になる。古さを感じたのはコンビニ分析と情報通信の象徴がファックスだったことくらいで、「世界化する都市」や「Jリーグと都市の結びつき」は割と今っぽい話だなぁと思った(あと空港も今はちょっと違うんじゃないかなぁと思ったけど詳しくないので分からない)。

  • 落ち穂拾いのようなつもりで読んだが,格別に収穫は無し.

  • バブル崩壊後の時点で、パリやらコンビニやらテーマパークやらについて、ベンヤミンやらフーコーやらボードリアールやらに寄りかかって論じると聞いて想定される範囲内の内容。引用されるに足るものを書こうとする姿勢は見事なまでに欠如しているが、ひょっとしてそれが戦略のつもりなのか。参考文献表なし。

  • とくに東京に当てはまる性質であるが、現代の都市は単一の(超越的な)計画者によるものではない。『都市の政治学』というタイトルが示すとおり、無数かつ多種の人間がそれぞれの利害にもとづいて発する諸力の錯綜体として、現代の都市は存在している。それは著者の言葉を使えば、「記号はたえず別の記号に逸脱し、それらの構成する関係には実数的な根底がない」状態、「ゼロ」である。(「このゼロとはなにもないことではなく、記号が関係しあう場の表象にほかならないのである」)言葉の違いこそあれ、このような認識は自明のこととして現在、語られている。もしかしたら80年代の「都市論ブーム」を通り過ぎた時点ですでに語りつくされていたかもしれない。本書は1994年に書かれている。なぜ、多木浩二は都市論をなおも書こうとしたのか。結局、読み終えても漠然とした印象しか残らない。とくに、都市とはネーションステート(国民国家)の登場によって作られたものである、という論が中盤に語られるのだが、何を言いたいのか、理解に苦しむ。論証しているようには思われないし、天才による飛躍があるのかと言えばそうでもなく、ただ「みんなが思っているような都市っていうのは、近代に生まれた歴史的に限定性のもつものなんだよ」と言っているだけに過ぎない。そもそも古代、中世の都市とちゃんとした比較をしていないし、思いつきで語っているのだろう。「子供という概念は近代に生まれた」などのいわゆる「あらゆる概念は近代に生まれた=近代発明論」の都市バージョンでしかない、と言っては言い過ぎか。ちなみに「子供」という概念が近代に生まれたと言ったのはフィリップ・アリエスだが、今ではしっかり反証されている。

     *

    ひとつこの本に価値を付与するものとして、消費社会から情報社会への変化をコンビニエンス・ストアというビルディング・タイプで描き出したことがあげられる。というのも、90年代中ごろからコンビには都市の主役へ躍り出たからである。経験的にも統計学的にもこれは間違いないようだ。いまではコンビニなき都市論は考えられない。この点を考慮すると、80年代都市論と現代都市論の中間として、本書の価値は明確になってくる。


    ■ コンビニはどのように発展してきたか(http://japan.cnet.com/blog/geetstate/2006/12/01/entry_post_8/

    「コンビニエンスストア」は、主に食料雑貨を扱い、売り場面積30平方メートル以上250平方メートル未満の小売店舗のことです。平均面積は110平方メートルです。

    コンビニの発祥は、1927年、アメリカ・テキサス州のオーククリフという町のちいさな氷小売販売店までさかのぼります。日本では、1969年にマミー豊中店が開店しました。1974年にはセブンイレブン豊洲店がオープン、1975年にはローソン豊中店がオープンします。日本のコンビニ第1号店には諸説あるのですが、ここでは、コンビニという業種が拡大する発端となったセブンイレブンを元祖として話を進めます。

    1974年にスタートした日本のコンビニですが、1988年に10,000店を突破、1992年には20,000、1996年に30,000、2002年に40,000店を突破しました(フランチャイズ店のみのデータ)。10,000店増えるのにかかった年数は、それぞれ、14年、4年、4年、8年で、1990年代中盤がコンビニがもっとも増えた時期だったことがわかります。コンビニは、新規出店するだけでなく、日本各地にある効率の悪い個人商店をフランチャイズ化して傘下に収める形で勢力を拡大していきました。誕生から30年を過ぎた現在、日本の6割の地域で500メートル以内にコンビニがあると言われており、さすがに店舗数の伸びは鈍化しています。

    スーパーなどに比べると、コンビニは、店舗スペースに比較して商品の品種数が多いです。また、POSシステムで収集した売り上げデータによって、その地域特有の売れ筋商品を集中して置くのも特徴です。それは、「よく売れる」というだけではなく、家庭に常備されていない商品をストックしているのだとも言います。慶弔に必要なものや文具、すぐに食べる弁当なども、家庭にはストックされていません。顧客の要求に合わせるため、弁当やおにぎりなどは1日3回の配送に合わせて3回生産します。こうしたきめ細やかな顧客の需要への対応は、日本のコンビニで生まれたものです。日本のコンビニでは、その地域の顧客のニーズによって商品陳列棚が形成されるようになったのです。

    1990年代、不況により他の業種が低迷する中、コンビニは業績を伸ばしつづけました。しかし、2000年代以降、コンビニの店舗数は飽和状態に近づいているといい、競争が激化しています。また、スーパーやドラッグストアの営業時間の延長や100円ショップの台頭などの理由から、利益が上がらず閉店する例も増えるようになりました。コンビニはスーパーを駆逐しませんでした。多くの人々は、利用目的に応じてスーパーも使うしコンビニも使います。

    コンビニの小売業全体に対する売上高のパーセンテージは、現在0.5割です。小さい数字に見えますが、これは小売全体に対する数字です。車や電化製品の販売も小売です。食料雑貨売上高は小売全体の約2割程度らしいですから、たいへんに乱暴な言いかたをすれば、食料雑貨の1/4がコンビニで売られていることになります。

    これは十分に大きな数字です。

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著者プロフィール

1928〜2011年。哲学者。旧制第三高等学校を経て、東京大学文学部美学科を卒業。千葉大学教授、神戸芸術工科大学客員教授などを歴任。1960年代半ばから、建築・写真・現代美術を対象とする先鋭的な批評活動を開始。1968年、中平卓馬らと写真表現を焦点とした「思想のための挑発的資料」である雑誌『プロヴォーク』を創刊。翌年第3号で廃刊するも、その実験的試みの軌跡を編著『まずたしからしさの世界を捨てろ』(田畑書店、1970)にまとめる。思考と表現の目まぐるしい変貌の経験をみずから相対化し、写真・建築・空間・家具・書物・映像を包括的に論じた評論集『ことばのない思考』(田畑書店、1972)によって批評家としての第一歩をしるす。現象学と記号論を駆使して人間の生と居住空間の複雑なかかわりを考察した『生きられた家』(田畑書店、1976/岩波現代文庫、2001/青土社、2019)が最初の主著となった。この本は多木の日常経験の深まりに応じて、二度の重要な改訂が後に行われている。視線という概念を立てて芸術や文化を読み解く歴史哲学的作業を『眼の隠喩』(青土社、1982/ちくま学芸文庫、2008)にて本格的に開始。この思考の系列は、身体論や政治美学的考察と相俟って『欲望の修辞学』(1987)、『もし世界の声が聴こえたら』(2002)、『死の鏡』(2004)、『進歩とカタストロフィ』(2005、以上青土社)、『「もの」の詩学』、『神話なき世界の芸術家』(1994)、『シジフォスの笑い』(1997、以上岩波書店)などの著作に結晶した。日本や西欧の近代精神史を図像学的な方法で鮮かに分析した『天皇の肖像』(岩波新書、1988)やキャプテン・クック三部作『船がゆく』、『船とともに』、『最後の航海』(新書館、1998〜2003)などもある。1990年代半ば以降は、新書という形で諸事象の哲学的意味を論じた『ヌード写真』、『都市の政治学』、『戦争論』、『肖像写真』(以上岩波新書)、『スポーツを考える』(ちくま新書)などを次々と著した。生前最後の著作は、敬愛する4人の現代芸術家を論じた小著『表象の多面体』(青土社、2009)。没後出版として『トリノ 夢とカタストロフィーの彼方へ』(BEARLIN、2012)、『視線とテクスト』(青土社、2013)、『映像の歴史哲学』(みすず書房、2013)がある。2020年に初の建築写真集『建築のことばを探す 多木浩二の建築写真』を刊行した。

「2021年 『未来派 百年後を羨望した芸術家たち』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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