平安王朝 (岩波新書)

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著者 : 保立道久
  • 岩波書店 (1996年11月20日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (251ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004304692

作品紹介

平安時代は従来、藤原氏が専横をきわめる時代として描かれ、天皇は後景に退いていた。だが、その理解は正しいだろうか?著者は、王権の運動と論理こそ時代を動かした力であると捉え、桓武から安徳にいたる32代の「王の年代記」に挑む。鮮やかに浮かび上がる新しい平安時代像とは何か-歴史研究の醍醐味を伝える通史叙述。

平安王朝 (岩波新書)の感想・レビュー・書評

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  • 王朝文化が花開いたとされながら、時代を通じての王権の在り方が研究されてこなかったという平安時代について、「王の年代記」の形で政治史を再編する試み、とのこと。
    確かに平安朝史の一般的イメージは、摂関とか院政とか、天皇の外部の要素で政治史が語られることが多いようには思うので、面白いと思ったのだが、この本の論述自体は、新書という形式ゆえ説明不足なのか、疑問がたくさんわいてくるものだった。

    なぜか著者は、「平安時代の天皇は、王統を安定させたうえで、退位して後見の上皇の位置を占めることを理想としていた。(p.163)というのを自明の理としていて、そんな平安時代の中でもわずかな天皇親政の例である、醍醐天皇についてすら、「~もし時平が死去しなければ、醍醐は機会をみて譲位し、時平が摂政・太政大臣になったことであろう。醍醐は時平の死去によって譲位の条件を失ったのである。ふつうは、醍醐の時期は摂関が置かれていない「親政」の時期であることが強調される。しかし、このような通念は、それが時平の死去によって発生した、醍醐にとっても不本意な突発的事態であったことを忘れている。」(p.72)というが、著者的「自明の理」が自明でない読者にとっては、なぜ不本意な親政だったか、さっぱりわからない。
    そもそも時平死去時醍醐は25歳、それがなぜ既に譲位の機会を窺っていたと考えるのか? そもそもなぜ若年で譲位して敢えて幼帝を立ててまで摂政を置かなければならないのか? 天皇の位にいては実現できないが、上皇となって摂政を置けば実現できる(それがあるだろうからそうしたいのだろう?)こととは何なのか?
    また、醍醐が実際譲位を望んでいたとして(そういう史料があるんだろうか? あったとしてもそれは示されない。)、なぜ時平が死ぬとそれが実現できないことになるのか? 忠平は兄時平より9歳下だが、時平死去時に既に30歳、兄ほど醍醐と親密でなかったとしても、対立していたわけでもなく、実際その後時平路線を継承していくんだし、忠平が摂政でもいいじゃないか。醍醐は時平死後20年以上も生き、在世中に東宮は成人して子供もできていたんだから、その間にいつでも譲位できたんじゃないの? でも実際に譲位したのは結局死の直前。りくつに合わん。
    村上についても同様のことが書かれていて、師輔が早死にしたため、譲位したかったのにできず、仕方なく帝位についたままだったという。「それにもかかわらず、村上「親政」を美化する歴史イデオロギーが生まれた事情は、先に醍醐について述べたのとまったく同じことである。」(p.84)というが、本書の記述を見る限り、天皇は元気なうちに譲位したいと思うものという固定観念(イデオロギー?)nとらわれているのは著者ではないか、と思ってしまう。
    譲位のメリット、なんだろう~~ 自分の目が黒いうちに息子がちゃんとやっていけるか見届けたい、というならわかる。徳川家康とか、今でも、創業社長が会長に退いて息子を社長に据えて社内を仕切る、とかと同じパタンだもんね。でもその場合、特定の人物を摂政にしなければならない、というリクツがわからん。自分が直接仕切ればいいじゃん。腹心の専務を息子につける、みたいなもの? それを自分より15も年上の人物ただ1人に依存するのはおかしいんでは? あるいは後の院政のように、(なぜか)上皇になったほうが権力をふるえる、という発想なのか? だったらそれこそ院政時代のように、東宮が子供のうちに譲位しちゃえばよかったのでは? また、上皇のほうが実権を握れるかどうかは実際にはそのときの関係人物間の力関係によるので、そもそも醍醐は、たぶんそれこそ会長になって若社長がちゃんとやるか(=自分の路線をひきついでちゃんとやるか)を見届けようと思っていたであろう父・宇多を裏切って、父の目が黒いうちにさっさと自分路線に転換しちゃったくらいだから(=昌泰の変)、あてにならないと一番よくわかっていたのではなかろうか。

    円融・花山が、「相互関係を調整する権限をもつ直系尊属を王家・摂関家双方の側にもたないまま、一人が天皇として、一人が皇太子として扱われて成長していく」のが「天皇制の歴史のなかでも異例の事態である。」(p.96)というのもよくわからない。一条と三条(冷泉は存命でも調整とかできる状態ではない。双方の母方の祖父兼家は一条即位後まもなく死去しているから、一条天皇時代はそういう直系尊属不在だった)とか、後冷泉と後三条とか、まさにそのパタンでは。そういう状態だと軋轢が生じるというのはそのとおりだが、別に「異例」とは思えない。

    敦康を立太子させない理由に高階氏が斎宮密通の系譜だからと行成が進言したことを批判するのはともかく(私自身は、一条も実際にはそれが無理だとわかっていて(そんなことをしたら廃太子させられるのがおちなのは、当時においても歴史が示している)、しかし中宮所生の第一皇子をさしおくことを理において決断しがたかったのに、別の理を示すことによって手助けしたのだと思うが)、「紫式部が清少納言を嫌ったのは、清少納言が定子に対して忠義顔をしながら、この行成と親しく、おそらく愛人であったとされることにも関係するのかもしれない。」(p.124)というのは、清少納言に対しアンフェアすぎる。もちろん紫式部はそんなふうには書いていないし、清少納言が行成と親しかった頃は、果たして彰子が皇子を生むことになるかどうかわからず=道長すらその後ここまで権力握れるようになるとはわからず、よって行成がそれに阿るような行動をとるようになるとは予見できるわけないじゃないか。将来そういう行動をとる男と付き合っていたからといって軽蔑しますか? そんな言いがかりつける女と思われたんじゃ紫式部にも失礼だわ。

    とはいえいろいろな示唆にも富んでいた。
    平安初期は廃太子連発だったこと、為平親王が皇位継承からスルーされたのは敦康親王スルーよりももっと異様なこと(同母(中宮)の兄も弟も皇位についたのに!)、後三条以前に、後朱雀が(後一条同様彰子腹で道長一族と密接な関係にあるのに)頼通と緊張関係にあったことなど、通して天皇の身辺に注目することで改めてへ~と思った。特に後朱雀は、後一条即位=摂関政治の頂点と後三条譲位=院政時代の始まりの間でさらっと流されることが多いから。

  • 歴史は一つの見方だけでなく、立場によって多くの見方が可能です。
    平安時代という、手の届かないところを、分かりやすく手軽に読めるのがうれしいです。

    京都の旅行のお供にもよいかもしれません。

  • 9/24 読了。
    再読。

  • 平安時代の新しい情報を知りたくて読書。

    王、天皇制度、王統など使われている言葉は残念な印象。出版年次を考えると致し方ない感じであろうか。

    平安時代を専門的に学んだことないので、皇室を中心とした流れを知ることができる。藤原氏、菅原氏、藤原北家、平氏と表舞台から退場するも絶えることなく続く天皇。現在の天皇に近い祭司王的な存在となるのはもう少し後の話か。

    藤原道真や平清盛が日本の全てを掌握するほどの権力者となっても形式上天皇の一臣下で蟻続けたところが外国の王や皇帝などとの違いだと思う。

    読書時間:約40分

    本書は日本領事館大連出張所で借りました。

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