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Amazon.co.jp ・本 (224ページ) / ISBN・EAN: 9784004305033
みんなの感想まとめ
専門的な内容が多く、読み応えのある本書は、著者独自の深い主張を展開し、従来の理解を覆す画期的な視点を提供しています。ウェーバーの思想に対する疑問から始まり、近代化の本質や歴史の不確実性について考察が進...
感想・レビュー・書評
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マックス・ヴェーバー入門
著:山之内 靖
紙版
岩波新書 新赤版503
本書は、「マックス・ヴェーバー」の入門書であるかもしれないが、社会学の入門書ではない
19世紀のドイツでは、マルクスとニーチェという知の怪人が足跡を残していました。
マックス・ヴェーバーは、近代と現代のはざまに立つ、知の巨人である
あまりにも、時代に先行する彼がみたものは、「近代知の限界点」であった
アダム・スミスや、マルクスが経済を人間の心をもたない外的なモノとして捉えたが、マックス・ヴェーバーは、それに加えて、内的な倫理的・道徳的な動機付けを加えた
ニーチェの思想を引き継いだ、マックス・ヴェーバーは、経済の拡大を発展とは捉えていない。
ギリシアを頂点として、世界の文明は、荒廃の一途をたどっている。それを意味するのは、「神の死」だ
私がとらえたラインは、3つ
①アダム・スミス⇒マルクスという経済学に対する、内的動機を加味した社会学
②ニーチェが語る、神の死と、逆行する人間の精神史
③西洋文化が持つ合理性の外の文化への浸透
です。他にもたくさんあるのでしょうが、幹はこれだと思っています。
気になるのは、以下です
■ヴェーバの思想
・アダム・スミスや、マルクスとは異なって、市場メカニズムという外的な枠組みが強制する客観的な力にだけ注目するのでなく、宗教的救済を約束する「合理化された、世界像」と、それが持つ観念の力に注目したわけである。
・神の死とそれによるニヒリズムの蔓延は、ニーチェにとって、必ずしも失望すべき状態ではない
近代精神のこの危機こそは、人類がギリシア古代に生きた人々の精神を取り戻し、一切の確実なものの喪失ー神と真理の喪失ーの中で再生を果たするための絶好のチャンスであるとニーチェは考えました
・ヴェーバは、神の死という事態を、異常なこととしてでなく、日常的な事、として理解する必要を語っている
■「プロタンティズムの倫理と資本主義の精神」
・「プロタンティズムの倫理と資本主義の精神」という作品は、あたかもシンフォニーのような複雑な構成をもっています
・我々が精神的に所属している世界は、マルクスとニーチェの刻印を大幅に受けた世界なのだ
・ベンジャミン・フランクリンの助言を読んでいくと、そこには、一切の幸福主義や快楽主義には、目もくれずに生涯を職業的な労働に捧げるのだ、という観点が、徹底して終始一貫、あたかも、それが自己目的であるかのように貫かれています
幸福や快楽こそが人生の目的だとすれば、それを追求するという意味での合理性とは著しくかけ離れた性格をフランクリンのパンフレットは、もっているのです
その意味で、著しく非合理的な性格を帯びていると言わざるをえません
・宗教改革における文化革命と、それによる伝統主義的で帰属主義的なきずなからの人間の解放こそが、ヴェーバーが「鉄の檻」とよんだ、近代の官僚制的秩序をもたらしたところの「倫理的基礎」なのです
・ヨーロッパで生まれた、合理化は、普遍性を有しているので、その合理化にであった他の諸文化も、それに巻き込まれて、この機能的合理化の道を歩まざるを得なくなる、そして、もはや、引き返す道はなくなるのです
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(1844年10月15日 - 1900年8月25日)
カール・マルクス(1818年5月5日 - 1883年3月14日)
マックス・ヴェーバー(1864年4月21日 - 1920年6月14日)
目次
プロローグ―近代知の限界点に立って
第1章 神なき時代の社会科学
第2章 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』再訪―悲劇の精神
第3章 精神の病―死と再生のドラマ
第4章 古代史再発見―回帰する時間の社会学
終章 受苦者の連帯に向けて
文献案内
あとがき
マックス・ヴェーバ略年譜
ISBN:9784004305033
出版社:岩波書店
判型:新書
ページ数:224ページ
定価:880円(本体)
1997年05月
1997年05月20日第1刷
2012年06月25日第23刷詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
内容が専門的であり、読み応えがありました。
また、正統派を紹介するのではなくむしろ否定し、本著者の独自の主張をしていて、その主張がとても深いもので画期的である点で、新書の「入門」の域を超えた大作であると思いました。
前半を読み進めたときは「なぜそこまでウェーバーにこだわるんだろう?」 と、ウェーバー主義とでもいうべき立場に懐疑的でしたが、だんだんと近代化についてのウェーバーの本当の思想が伝わってきて、最後は生き方を示唆してくれている点で、著者の理解する仕方でのウェーバーの思想そのものに僕自身、とても大きな意味を見いだすことができたのでした。
社会学や思想を学ぶ方には、是非おすすめの1冊です。
僕自身は、さらに「職業としての政治」やニーチェを読みたいという気持ちになりました。
語り出すと興味の尽きない内容ですので、
ここではこの辺で。 -
社会学の基礎知識を浚いたい人には向いてない。思想の考証?ウケる人にはウケる
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入門とタイトルにあるが、事前にある程度の知識がないと読みこなせない。キリスト教やニーチェの思想についての理解を前提としている。入門と銘打っていいのだろうか。。。正直、私は半分も理解できていないと思うが、苦しみながらなんとか一通り読み通した(目を通しただけと言った方がいいのかもしれない)。
ヴェーバーは西欧のキリスト教近代的合理主義を賛美していると捉えられがちだが、晩年はむしろ歴史における不確実性と向き合っていた。主観的な宗教的救済への欲求が、意図せざる形で客観的に社会的・経済的・政治的な秩序の形成に向かう。このズレは避けることができない不確実性であり、運命的なものなのだ。このようなヴェーバー観を筆者は主張している(と思う)。
私にはこれが現在の通説的理解なのかもよく分からないが、1997年の本書の初版時点では画期的な視点だったのだろうか。 -
第1章 神なき時代の社会科学
p.11 市場においては、社会的公共性への奉仕にかかわる道徳心は消え失せてしまいます。けれども、自己の利益を最大化しようと努力することを通して、人々は「見えざる手」の働きによって、結果として社会公共の利益に奉仕するのです。
p.26 ヨーロッパ近代文化の普遍性というとき、ヴェーバーはそれについて価値判断的に善だとする評価を与えたのでは決してありません。資本主義にせよ、民主主義にせよ、あるいは科学の発達にせよ、合理的な技法による芸術にせよ、それらはいずれも人類にとって「運命的な力」として作用しているのだということ、これがウェーバーが伝えたかった事柄の真意なのです。
p.49 距離の間隔という言葉は、ニーチェやウェーバーによが示そうとしたこと、それは、我々は現代という時代に所属してるし、また、自分が所属している社会集団の枠の中で生きていること、他らならぬこの事実をどう自覚化するかということでした。
第3章
第4章 古代史再発見
p.154 古代社会は、近代社会と違って市場関係-つまり自由で独立の生産者たちが取り交わす商品交換-を基礎とする社会とは全く異なった世界となり、さらにまた、発達した都市経済をもつヨーロッパとも決定的に異なる社会ということになります。
p.194 近代社会の形成に際して、非合理的な呪術から脱却して現実世界の合理的改造に向かう心理的態度が生み出せられること、ここにウェーバーの研究の重点がおかれました。非合理的な瞑想から脱出することにより、宗教倫理に導かれつつ、合理的な世界改造に向かって時間が絶えず向上的に進行していくことそうした意味において、世界史は普遍的な発展傾向をたどってきたということ。 -
杉田俊介著『橋川文三とその浪曼』第三章「柳田國男と日本ナショナリズム」中に、橋川がマリアンネ夫人の『マックス・ヴェーバー』を引きながら、「戦争はその極限的な暴力を通して、日常の社会秩序から切り離された特別な共同性を作り出す」と述べていると指摘している。
杉田は続けてこう述べている。
戦争が終わってから戦争責任を問う道徳家や平和主義者どもには品位がない、とウェーバーが軽蔑的に罵倒したことは有名である。
この「有名」なことを知らず、心底驚いた。
杉田が巻末に挙げている参考文献中に、山之内の本書があったので読み始めたのだが、ウェーバーの道徳家や平和主義者に対する嫌悪の根拠の一部を理解できたように思う。
山之内はいう。
本書の中で、私は第二期以降のヴェーバーの多くの作品に流れているこの騎士的・戦士的市民層の精神への共感を発見しようと努めてきたのであり、この見失われた観点の復元に努めてきました。
………………
しかし、これらいずれの道をとるにせよ、現代の社会科学は、近代の「呪われた運命」というヴェーバー合理化論の「頭を狂わせる」問題から簡単に逃れることはできないでしょう。現代社会は、近代が設定した合理化の方向を今後も進みつづけるでしょうし、また、そうする他に道はないでしょう。しかし、すでに明らかになったように、このヨーロッパ近代に始まる合理化の道は、人類の歴史を価値的にみてさらに高度なレヴェルに引き上げることを保証するものではないのです。
本書が出版された1997年時点での見事な予言であると思う。
本書の眼目は、従来のウェーバー研究者、例えば『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の訳者である大塚久雄や、『古代ユダヤ教』の訳者、内田芳明らの単なる近代化論者としてウェーバーをとらえる理解の一面性を批判して、近代合理主義に対するデモーニッシュな批判者としてのウェーバーを浮かび上がらせること、ニーチェとの親近性やさらにはニーチェをも乗り越える視点をウェーバーから救い出すことにある。
余談だが、山之内自らの研究の先駆者として内田義彦を挙げていることを記しておこう。
山之内には中期マルクスを検討した『マルクス・エンゲルスの世界史像』(未来社、1969年)がある。
本書の最後の方で、「受苦者の連帯」という、現代における宗教的な救済と背中合わせのような「生の態度」について言及している。そして、この問題は「実は、若きマルクスの『経済学・哲学草稿』(一八四四年)に見出されるのであり、フォイエルバッハに由来するテーマです」と、初期マルクスとウェーバーの関連性について述べているのである。
おそらくは、ここらあたりに橋川文三がウェーバーから感得した、いわば<死の共同性>(渡辺京二「戦争と基層民」)という宗教性を帯びた問題が潜んでいるような気がするのである。
いろいろな意味で考えさせられる本であった。 -
ヴェーバーはスミスやマルクスと違い、客観的強制的法則よりも、内面的な動機づけに重きを置いた。
彼は宗教的救済を約束する「合理化された『世界像』とそれが持つ観念の力」に着目した。
彼は、近代ヨーロッパの成功の理由を探っていった。
その原因となったルターとカルヴァンだが、そもそも説教者の意図を超えている。
終末論であるキリスト教には、もともと「職業」を「天命」とする解釈はなかったが、宗教改革以降、プロテスタントは日常労働の中に宗教的で救済的な意味を見出した。
禁欲的な労働を「救われている自覚を得るためのもの」とした。
救済を求める宗教的な情熱が、意図せざる形で、社会、経済、政治の秩序の形成に向かっていった。
しかし、ヴェーバーは何をしても、救われるか救われないかはあらかじめ決まっているというカルヴァンの予定説に潜む、個人的な孤立に着目し、組織を作る場合、感情的情緒的なつながりではなく、数値的な結果が社会への貢献とされる、功利主義的で効率優先の組織になるとした。
これは個人を圧倒し、閉じ込める合理化という「檻」と表現した。
ヴェーバーは3期に分けられる。
厳格なプロテスタントの母親に育てられた一方で、父親を追放し、その罪悪感から重い神経症に罹患した1期
ロシアなどを訪問し、精力的に執筆活動を行った2期
イタリア旅行を繰り返し、神経症が快癒した3期
イタリアを旅行し、開放的なギリシャ世界に触れることで、厳格なプロテスタントの世界を相対化することができた。
「古代農業時代」の執筆にあたって、マイヤーからの影響が大きかった。
その中でも、マイヤーはペルシャとギリシャの戦争当時、ギリシャ側であったデルフォイ神殿が身内のギリシャに対し、ペルシャへ降伏をすすめた件に触れていた。
これはペルシャが征服した土地の宗教を手厚く保護した帝国だったからとされている。
これの逆は単一宗教のみを認めるローマ帝国や日本である。
ヴェーバーはまず、
1 東アジア、オリエント、古代アメリカの封建制
2 古代西洋(地中海)のポリス文化
3 中世ヨーロッパの封建制
と分けた。
そして、マイヤーから受けた影響をもとに、さらに自論を推し進め、1の古代オリエントにおける祭司階級による政治的イニシアチブの掌握に着目した。
対して、2の古代ギリシャをオリエントと対抗する世俗型とした。
しかし、1にせよ、2にせよ、最終的にはどの国家も「ライトゥルギー(対国家奉仕)」に飲み込まれてしまう。エジプトの王権も、祭司の権力が確立し、戦士層が消滅することで、そうなり、ローマ帝国もキリスト教を国教とした瞬間、キリスト教はローマ帝国のライトゥルギー国家化と相補するようになり、世界宗教としての政治的、権力的地位を確立した。
けして、キリスト教が市民社会を用意したわけではない。
そして、現代社会もまた…
<span style="color:#0000ff;"><i>P196
現代社会もまた、ライトゥルギー国家に移行しつつある。一般自由民の記述から始まったイスレエルの歴史像がライテゥルギー国家の記述で終わったように、あるいは、ペルシャに対抗して質実剛健名ポリス市民文化を守ったギリシアが、ヘレニズムのライトゥルギー体制へと収斂していったように、プロテスタント的禁欲の精神に燃えた西欧市民文化もまた、とどめがたい官僚文化とともに全面的秩序化とシステム化の軌道へと吸い込まれてゆこうとしている。</i></span>
ヴェーバーは支配を3類型とした。
合法的支配、カリスマ的支配、伝統的支配。
現代の合法的支配の礎は、キリスト教による徹底的な合理化である。
それは、カルヴィニズムで頂点に達したとした。
P<i><span style="color:#0000ff;">213
この(近代ヨーロッパの)普遍性は、それが持つ独特の形式性、計算可能性、機能性といった性格により、人間から社会的ないし文化的な属性に即した差異を剥奪し、人間を同質的な原始へと還元する力として働きます。合法的支配が持つ平等主義の原理および高度な規律にもとづく効率性は、逆らいがたい力としてすべての文化諸類型を圧倒してゆくことになる、というのです。(略)いったんそこにひきこまれてしまうと、いかなる特性を帯びた文化といえども、この機械的合理化の道を歩むほかはなくなってしまいます。もはや引き返す道はないのです。
</span></i>
苦難にも価値があるとする考え方から救済への希求が始まる。
その救済には2方向あり、瞑想を通して、”神”にいたる神秘主義的な方向(インドなど)と、世俗内の勤労にはげむことで、「神の道具」となり「神の意に沿う」生活をすることが救済につながるとするキリスト教の方向である(ヨーロッパ)。
ヴェーバーはキリスト教が内包する合理化の普遍性を一貫して強調した。
その普遍性にこそ、恐るべき運命的な力が宿っていることを警告した。
それは、「死の無意味化」である。
近代以前は、何らかの文化的含意が死にあったが、徹底的に合理化された近代ではたんなる生物学的な終焉となる。
救済を求めてはじまった、合理化が、最終的には死を無意味化することで決着してしまうことに、ヴェーバーは強い危機感をいだいていた。
<span style="color:#0000ff;"><i>P224
このようなパラドキシカルな過程が近代の運命として自覚された場合、近代科学を根拠づけてきた客観主義がもはや維持できないとされるのは必然でした。(略)対象としての実態を客観的に正しく認識することに科学の価値があるとする信念は「近代の呪われた運命」を自覚してしまったものからすれば、あまりに素朴な進化主義だとされざるをえません。客観的に存在する対象について、その客観的な実態を明らかにする作業は、それだけで、無意識のうちに「近代の呪われた運命」に加担することにならざるを得ず、結果としてその運命に流されることを意味するほかないからです。</i></span> -
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の記述だけ抜き出して、伝記的な箇所は流し読み。
西欧近代社会に始まる合理主義への根本的な懐疑というヴェーバーの姿勢について書かれたあたりと、「読解のための補助線」としての背景の解説は役に立ちそうだが、もう少し『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に絞った内容であると自分にとってはよかったのかも。
入門とするには少し踏み込んだ内容で自分にはよかったが、実際に本書で入門しようとすると挫折する気も。
https://twitter.com/prigt23/status/1062674080762015745 -
●マックス・ウェーバーの著書について、少しだけ理解を深められたように思う。
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2017年2月12日紹介されました!
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ヨブ記
内田樹の日本辺境論に出てきた? -
入門ではない。彼が歴史学者でもあったことも含め、様々な時代や経済の知識がないと難しい
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マックスウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」については前から耳にはしていたが、なぜプロテスタントの気質と資本主義が結びつくのかいまいちピンとこなかった。この入門書でそのあたりの事情が少し明確にはなったが、だからといってそういう議論がそれほど意義深いものとは未だに実感できない。ニーチェが古代を通して近代を批判したのと同様に、マックスウェーバーも古代史研究によって近代をもう一度見つめ直した。マックスウェーバーは脳天気に歴史の進化の法則を唱えていたのではなく、社会の官僚制化に普遍性を見いだしこれを危惧した。マックスウェーバーはやはり偉大だった、しかしこれが正統に評価されてこなかったというとがこの著書の主旨のように思えた。
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「冷たい骸骨の手が温かい生命を掴む」20
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営利機械としての人間93
合理化された支配秩序の形成、つまり近代官僚制度の形成にいたる過程を明らかにしてそのフィナーレを迎えるのです。95
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ギリシャ民族はこの信託に従うべきか否かをめぐって運命的な岐路に立たされましたが、周知のように、アテネとスパルタを中心とするギリシャの都市連合は、この信託にもかかわらず、ペルシャと戦うことを決断し、奇跡的大勝利を得ました。160
「祭司と騎士」という対抗関係の理念型が、ここに成立します。166
普遍的救済に向かうのではなく、運命的な不確実性に立ち向かおうとする社会層としての騎士的・戦士的市民層の対抗、という図式なのです。167
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前半はウェーバーが実は資本主義の精神を運命的な力として批判していたという内容、後半はウェーバーの実際の人生の変遷と対照しながら前半の論の根拠づけを行っている。ウェーバーは『プロ倫』『客観性』『職業としての~』で有名だが、古代宗教論にも軸を置いているということがよく分かる。
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マックス・ヴェーバーという人がどんな考え方を持つ人かを考察した本。
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」が大変有名ですが、なぜ、中国ではなく西洋で資本主義が生まれたのかなど、一見、白人主義者のようにも見えるといいますが、仏教やそのほか、芸術、文化にも精通して、多角的な角度から考えることができる人だったようです。「宗教」と「経済」は高度に発展した現代社会にあっては、切り離された関係であると「プロテスタントと~」では述べている箇所があったと思いましたが、複雑化する社会にあって宗教はますます根本的な行動理念としてあるようにも思えます。
精神病に苦しんだり、「ニーチェ」に影響を受けたりと新たな一面を知ることができました。 -
いや、「入門」にしては全然わからなすぎる
宗教の世界と、資本主義の精神の齟齬の分析みたいな感じでしょうか・・・。
そこらへんを歴史的にうじゃうじゃ考えておるようです。
ニーチェとの親近性もあるみたいです。 -
久しぶりに本を読了した。
すごい間隔を空けてダラダラと読んでしまったので、全体的に内容をあまり覚えていない。
最後の方に書いてある文章で少しなるほどと思った文を以下に書いておこう。
宗教における救いの欲求は、現実の組織的・実践的な合理化の試みとして生まれてきた。キリスト教の「現世内的禁欲」は合理化を目指したものだが、皮肉なことに自己破壊的結末を招くことになった。
合理化に成功した結果が、政治、芸術、エロス、科学などと対立することになり、それらの理念などを生み出してしまった。
まぁこの本難しかったよね(笑) -
ヴェーバー入門としながらも書いてある事は結構難しいと感じます。それは、本書がヴェーバーにおける社会学の基本的な考え方や「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(以下、プロ倫)」を読み解くのに必要な考え方(世界像、理念型、支配の類型、官僚制など)を教えてくれる一方で、ヴェーバーと言う人物像に対して迫るものでもあるからです。
ヴェーバーの学問の方法、またその人物像を理解するためには、ヴェーバーが生きた時代の様々なモノ、コト、ヒトを押さえておかないといけません。本書を一読して「あーなるほど」と思えるとすれば、それはもはや”ヴェーバー入門者”ではありません。
つまり、本書は”入門レベル”ではないのですが、入門者がじっくり読み返して、ヴェーバーへの理解を出発点に様々な方向へ進んで学習してゆくのがよいのではないでしょうか。
私は「プロ倫」を読む前にと思って本書を読みましたが、本書で印象に残ったのは、「プロ倫」において強調されているのは「意図せざる帰結」、歴史の偶然性にあるということです。
この点、「歴史は一定の段階を踏まえながら発展してゆく」とするような見方に基づけば、資本主義はなぜ西洋においてのみ成立したかと言う問題設定自体が、西洋を(さらに言えば近代的合理化)を賛美するようなニュアンスを持ってしまいかねません。
ところが、実際はまったくそうではない。歴史の偶然性を強調するとともに、合理化を批判する。この点を意識して、たびたび読み直してゆきたいと思います。
分からない点は、さておきました(恥
しかし、社会学を学ぼうとする人にとっては必読すべきだと言えるのではないでしょうか。 -
ヴェーバーの解説書としては分かりやすい部類に入るのだろうが、それでもこれで入門書と題されると辛い。大塚久雄でヴェーバーを読んでから出直そうと思う。
山之内靖の作品
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