マックス・ヴェーバー入門 (岩波新書 新赤版 503)

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  • Amazon.co.jp ・本 (248ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004305033

感想・レビュー・書評

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  • 内容が専門的であり、読み応えがありました。
    また、正統派を紹介するのではなく、
    むしろ否定し、筆者の独自の主張をしていて、
    その主張が、とても深いもので、画期的である点で、
    新書の「入門」の域を超えた大作であると思いました。

    前半を読み進めたときは、
    「なぜそこまでウェーバーにこだわるんだろう?」
    と、ウェーバー主義とでもいうべき立場に懐疑的でしたが、
    だんだんと、近代化についてのウェーバーの本当の思想が
    伝わってきて、最後は、生き方を示唆してくれている点で、
    筆者の理解する仕方でのウェーバーの思想そのものに、
    僕自身、とても大きな意味を
    見いだすことができたのでした。

    社会学や思想を学ぶ方には、是非おすすめの1冊です。
    僕自身は、さらに、「職業としての政治」やニーチェを
    読みたいという気持ちになりました。

    語り出すと興味の尽きない内容ですので、
    ここではこの辺で。

  • 名著『ニーチェとウェーバー』(未来社)で知られる著者自身の解釈に基づくマックス・ウェーバーの入門書。ヨーロッパ近代の「合理化」を賛美した社会学者としてではなく、合理化の進展がゆきつくことになる問題を見据えた上で、その帰趨を引き受ける人間像への展望を開こうとした思想家としてウェーバーを解釈している。

    著者は本書の第1章で、これまでの社会学を二つに類型化している。第一の類型は「構造論的アプローチ」と呼ばれており、スミスとマルクスに代表される。第二の類型は「行為論的アプローチ」と呼ばれ、ウェーバーの社会学はこれに属する。第一の構造論的アプローチが、社会の客観的構造の解明をめざすものであるのに対して、ウェーバーの立場は倫理や道徳、さらには感情といった個人の意識の内側に入り込むことで、社会的行為の内面的動機づけを解明するものだという。

    著者はこうした観点から、まずはウェーバーの主著である『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の解説をおこなう。そこでは、宗教的信仰が大衆に受け入れられてゆく非合理的なプロセスの中で、ウェーバーの考える合理的なエートスが育まれていったということが説明されている。

    続いて、ウェーバーがヨーロッパの合理化にひそむ問題を捉えていたという著者の見解が論じられる。著者はまず、ウェーバーが精神に変調をきたした時期にキリスト教的倫理への反逆をおこない、人間の「生」の根底にひそむコントロールできない無意識の力を認める方向に歩みだしたと主張する。このような発想はニーチェやフロイトと響きあうものである。だがウェーバーは初め、ニーチェやフロイトが「生」の基盤を生物学的なところに求めたことに同意せず、カント的な自律の立場に近い考えを抱いていた。本書ではその後のウェーバーが、人間の奥底にひそむ非合理的な力は意味解釈や動機の探究によっては説明できないという立場に転じていったことを明らかにするとともに、ウェーバーはそうした運命を引き受ける「受苦者の連帯」という展望を切り開こうとしていたのではないかと論じている。

  • 杉田俊介著『橋川文三とその浪曼』第三章「柳田國男と日本ナショナリズム」中に、橋川がマリアンネ夫人の『マックス・ヴェーバー』を引きながら、「戦争はその極限的な暴力を通して、日常の社会秩序から切り離された特別な共同性を作り出す」と述べていると指摘している。
    杉田は続けてこう述べている。

    戦争が終わってから戦争責任を問う道徳家や平和主義者どもには品位がない、とウェーバーが軽蔑的に罵倒したことは有名である。

    この「有名」なことを知らず、心底驚いた。
    杉田が巻末に挙げている参考文献中に、山之内の本書があったので読み始めたのだが、ウェーバーの道徳家や平和主義者に対する嫌悪の根拠の一部を理解できたように思う。
    山之内はいう。

    本書の中で、私は第二期以降のヴェーバーの多くの作品に流れているこの騎士的・戦士的市民層の精神への共感を発見しようと努めてきたのであり、この見失われた観点の復元に努めてきました。
    ………………
    しかし、これらいずれの道をとるにせよ、現代の社会科学は、近代の「呪われた運命」というヴェーバー合理化論の「頭を狂わせる」問題から簡単に逃れることはできないでしょう。現代社会は、近代が設定した合理化の方向を今後も進みつづけるでしょうし、また、そうする他に道はないでしょう。しかし、すでに明らかになったように、このヨーロッパ近代に始まる合理化の道は、人類の歴史を価値的にみてさらに高度なレヴェルに引き上げることを保証するものではないのです。

    本書が出版された1997年時点での見事な予言であると思う。
    本書の眼目は、従来のウェーバー研究者、例えば『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の訳者である大塚久雄や、『古代ユダヤ教』の訳者、内田芳明らの単なる近代化論者としてウェーバーをとらえる理解の一面性を批判して、近代合理主義に対するデモーニッシュな批判者としてのウェーバーを浮かび上がらせること、ニーチェとの親近性やさらにはニーチェをも乗り越える視点をウェーバーから救い出すことにある。
    余談だが、山之内自らの研究の先駆者として内田義彦を挙げていることを記しておこう。
    山之内には中期マルクスを検討した『マルクス・エンゲルスの世界史像』(未来社、1969年)がある。
    本書の最後の方で、「受苦者の連帯」という、現代における宗教的な救済と背中合わせのような「生の態度」について言及している。そして、この問題は「実は、若きマルクスの『経済学・哲学草稿』(一八四四年)に見出されるのであり、フォイエルバッハに由来するテーマです」と、初期マルクスとウェーバーの関連性について述べているのである。
    おそらくは、ここらあたりに橋川文三がウェーバーから感得した、いわば<死の共同性>(渡辺京二「戦争と基層民」)という宗教性を帯びた問題が潜んでいるような気がするのである。
    いろいろな意味で考えさせられる本であった。

  •  ヴェーバーはスミスやマルクスと違い、客観的強制的法則よりも、内面的な動機づけに重きを置いた。
     彼は宗教的救済を約束する「合理化された『世界像』とそれが持つ観念の力」に着目した。

     彼は、近代ヨーロッパの成功の理由を探っていった。
     その原因となったルターとカルヴァンだが、そもそも説教者の意図を超えている。
     終末論であるキリスト教には、もともと「職業」を「天命」とする解釈はなかったが、宗教改革以降、プロテスタントは日常労働の中に宗教的で救済的な意味を見出した。
     禁欲的な労働を「救われている自覚を得るためのもの」とした。
     救済を求める宗教的な情熱が、意図せざる形で、社会、経済、政治の秩序の形成に向かっていった。

     しかし、ヴェーバーは何をしても、救われるか救われないかはあらかじめ決まっているというカルヴァンの予定説に潜む、個人的な孤立に着目し、組織を作る場合、感情的情緒的なつながりではなく、数値的な結果が社会への貢献とされる、功利主義的で効率優先の組織になるとした。
     これは個人を圧倒し、閉じ込める合理化という「檻」と表現した。

     ヴェーバーは3期に分けられる。
     厳格なプロテスタントの母親に育てられた一方で、父親を追放し、その罪悪感から重い神経症に罹患した1期
     ロシアなどを訪問し、精力的に執筆活動を行った2期
     イタリア旅行を繰り返し、神経症が快癒した3期
     イタリアを旅行し、開放的なギリシャ世界に触れることで、厳格なプロテスタントの世界を相対化することができた。

     「古代農業時代」の執筆にあたって、マイヤーからの影響が大きかった。
     その中でも、マイヤーはペルシャとギリシャの戦争当時、ギリシャ側であったデルフォイ神殿が身内のギリシャに対し、ペルシャへ降伏をすすめた件に触れていた。
     これはペルシャが征服した土地の宗教を手厚く保護した帝国だったからとされている。
     これの逆は単一宗教のみを認めるローマ帝国や日本である。

     ヴェーバーはまず、
    1 東アジア、オリエント、古代アメリカの封建制
    2 古代西洋(地中海)のポリス文化
    3 中世ヨーロッパの封建制

     と分けた。
     そして、マイヤーから受けた影響をもとに、さらに自論を推し進め、1の古代オリエントにおける祭司階級による政治的イニシアチブの掌握に着目した。
     対して、2の古代ギリシャをオリエントと対抗する世俗型とした。

     しかし、1にせよ、2にせよ、最終的にはどの国家も「ライトゥルギー(対国家奉仕)」に飲み込まれてしまう。エジプトの王権も、祭司の権力が確立し、戦士層が消滅することで、そうなり、ローマ帝国もキリスト教を国教とした瞬間、キリスト教はローマ帝国のライトゥルギー国家化と相補するようになり、世界宗教としての政治的、権力的地位を確立した。
     けして、キリスト教が市民社会を用意したわけではない。
     そして、現代社会もまた…

    <span style="color:#0000ff;"><i>P196
     現代社会もまた、ライトゥルギー国家に移行しつつある。一般自由民の記述から始まったイスレエルの歴史像がライテゥルギー国家の記述で終わったように、あるいは、ペルシャに対抗して質実剛健名ポリス市民文化を守ったギリシアが、ヘレニズムのライトゥルギー体制へと収斂していったように、プロテスタント的禁欲の精神に燃えた西欧市民文化もまた、とどめがたい官僚文化とともに全面的秩序化とシステム化の軌道へと吸い込まれてゆこうとしている。</i></span>



     ヴェーバーは支配を3類型とした。
     合法的支配、カリスマ的支配、伝統的支配。

     現代の合法的支配の礎は、キリスト教による徹底的な合理化である。
     それは、カルヴィニズムで頂点に達したとした。

    P<i><span style="color:#0000ff;">213
     この(近代ヨーロッパの)普遍性は、それが持つ独特の形式性、計算可能性、機能性といった性格により、人間から社会的ないし文化的な属性に即した差異を剥奪し、人間を同質的な原始へと還元する力として働きます。合法的支配が持つ平等主義の原理および高度な規律にもとづく効率性は、逆らいがたい力としてすべての文化諸類型を圧倒してゆくことになる、というのです。(略)いったんそこにひきこまれてしまうと、いかなる特性を帯びた文化といえども、この機械的合理化の道を歩むほかはなくなってしまいます。もはや引き返す道はないのです。
    </span></i>
     苦難にも価値があるとする考え方から救済への希求が始まる。
     その救済には2方向あり、瞑想を通して、”神”にいたる神秘主義的な方向(インドなど)と、世俗内の勤労にはげむことで、「神の道具」となり「神の意に沿う」生活をすることが救済につながるとするキリスト教の方向である(ヨーロッパ)。

     ヴェーバーはキリスト教が内包する合理化の普遍性を一貫して強調した。
     その普遍性にこそ、恐るべき運命的な力が宿っていることを警告した。
     それは、「死の無意味化」である。
     近代以前は、何らかの文化的含意が死にあったが、徹底的に合理化された近代ではたんなる生物学的な終焉となる。
     救済を求めてはじまった、合理化が、最終的には死を無意味化することで決着してしまうことに、ヴェーバーは強い危機感をいだいていた。
     
    <span style="color:#0000ff;"><i>P224
     このようなパラドキシカルな過程が近代の運命として自覚された場合、近代科学を根拠づけてきた客観主義がもはや維持できないとされるのは必然でした。(略)対象としての実態を客観的に正しく認識することに科学の価値があるとする信念は「近代の呪われた運命」を自覚してしまったものからすれば、あまりに素朴な進化主義だとされざるをえません。客観的に存在する対象について、その客観的な実態を明らかにする作業は、それだけで、無意識のうちに「近代の呪われた運命」に加担することにならざるを得ず、結果としてその運命に流されることを意味するほかないからです。</i></span>

  • 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の記述だけ抜き出して、伝記的な箇所は流し読み。

    西欧近代社会に始まる合理主義への根本的な懐疑というヴェーバーの姿勢について書かれたあたりと、「読解のための補助線」としての背景の解説は役に立ちそうだが、もう少し『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に絞った内容であると自分にとってはよかったのかも。

    入門とするには少し踏み込んだ内容で自分にはよかったが、実際に本書で入門しようとすると挫折する気も。

    https://twitter.com/prigt23/status/1062674080762015745

  • ●マックス・ウェーバーの著書について、少しだけ理解を深められたように思う。

  • 2017年2月12日紹介されました!

  • ヨブ記
    内田樹の日本辺境論に出てきた?

  • 入門ではない。彼が歴史学者でもあったことも含め、様々な時代や経済の知識がないと難しい

  • マックスウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」については前から耳にはしていたが、なぜプロテスタントの気質と資本主義が結びつくのかいまいちピンとこなかった。この入門書でそのあたりの事情が少し明確にはなったが、だからといってそういう議論がそれほど意義深いものとは未だに実感できない。ニーチェが古代を通して近代を批判したのと同様に、マックスウェーバーも古代史研究によって近代をもう一度見つめ直した。マックスウェーバーは脳天気に歴史の進化の法則を唱えていたのではなく、社会の官僚制化に普遍性を見いだしこれを危惧した。マックスウェーバーはやはり偉大だった、しかしこれが正統に評価されてこなかったというとがこの著書の主旨のように思えた。

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