- Amazon.co.jp ・本 (199ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004305088
作品紹介・あらすじ
コンピュータの学校導入が急速に進むなか、現場は混乱し、新しいテクノロジーへの対応・適応にのみ追われているのが現状である。人間教育の立場からコンピュータを論じることを主眼に、「道具」とは何か、「学びを支援する道具」とは何かを検討し、インターネット利用についても「学びの共同体をつくる」視点から問題点と可能性を指摘する。
感想・レビュー・書評
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前著ほどのインパクトはないが、後半、他者意識概念が出てくるあたりから、がぜん、面白くなる。日本人に一番欠けている部分だからだ。
・道具の3条件 (1)道具は人間の代用物ではないし、人間に「かくあるべし」とか「こうするべきだ」という価値判断の基準を示すものであってはならない(非・規範性)。 (2)道具は人が何かの作業を達成しようとしたとき、その達成を支援する道具として有効に機能してくれるものでなければならない(手段性) 。(3)道具はしばらく使っているうちに「使っている」という意識がなくなり、それを使って実行している作業そのものに集中できるものでなければならない(透明性)。
・手順主義の弊害
・基礎学力というものを「・・・ができる」というような、子どもに何がなんでも身につけさせるべき能力のリストだとみなすのではなく、私たちの「文字や数の文化」の豊かさに出会う「入り口」なのだというように考え直してみる。
・そろばんのように、道具を使うと道具がうらなくなる道具。頭に入る道具。内化、略図性。
・思考を外に出す道具。推敲。鏡のような道具。
・学びとは、人が文化的実践に参加するための、自分らしい自己と世界との関係づくりの模索であり、展開である。
・CSILE・・・1.人間の知というのは、個人の頭の中の情報処理ではなく、本質的に他者や人工物と分かちもたれたもの。2.学習者中心主義。
・「学び合う共同体」のためのコミュニケーションの教育にどうしても必要なのが、「他者」意識の教育である。そもそも、「言葉を発する」という行為は、「誰か」に聞いてもらいたいから行う行為である。
・コミュニケーションを通して、「自分」がどこまで見直せるようになるか、ということが決定的に大切なこと。自分が勝手に持っていた暗黙の前提、自分を取り巻く社会の「社会」の常識、いつのまにか当然視していた価値観などを反省し、それを問い直す傍ら、相手にもこちらを「理解」してもらうべく、語りかけていく、というときに、コミュニケーションは「心の通い合い」であると同時に「もっとほんとうのこと」をめざす真摯な「知的探求」の協同的営みとなっていくのである。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
[ 内容 ]
コンピュータの学校導入が急速に進むなか、現場は混乱し、新しいテクノロジーへの対応・適応にのみ追われているのが現状である。
人間教育の立場からコンピュータを論じることを主眼に、「道具」とは何か、「学びを支援する道具」とは何かを検討し、インターネット利用についても「学びの共同体をつくる」視点から問題点と可能性を指摘する。
[ 目次 ]
序 コンピュータ教育の混迷
1 人のしごとを支援する
2 人の学びを支援する
3 学びの共同体をつくる
[ POP ]
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☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
「調べ学習」という授業は僕らの時代にもあった。
先生がやれというからやっていたが、今考えると
本当に一方通行で、巨大データベースをあさってるだけだった。
この本を読むとコンピュータのツールとしての使い方。
「コンピュータに振り回されている」ことに気づかされる。 -
『コンピュータと教育』の続編である。
内容を一新し、より現代社会に合うように精査されている。
コンピュータが学校に入ってくることで、学びはどのように変化するのか?どのような影響があるのか?そんなことを述べている。
しかし、『コンピュータと教育』と比較するとテンションが下がり気味なのが残念である。