自動車の世紀 (岩波新書)

著者 :
  • 岩波書店
3.40
  • (2)
  • (1)
  • (6)
  • (1)
  • (0)
本棚登録 : 46
感想 : 5
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (242ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004305231

作品紹介・あらすじ

20世紀は自動車の世紀であり、人間が歴史を通じて初めて時速百キロを超える世界を知った時代であった。また大量生産の始まったばかりの自動車、さらにその延長線上に開発された航空機を使って二度の世界大戦を体験することになる。フォード、ポルシェらの天才たち、ヒトラー、スターリンなどの権力者像を織りまぜてこの百年を回顧する。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  •  ピーターホール(著)の『都市と文明Ⅱ』で、デトロイトとフォーディズムを学んだ。自動車についていくつかの疑問点があったので、自動車の発展史のなかで、自動車産業の創世期を知りたいと思って、本書を読んだ。本書は、自動車の始まりからの100年の歴史を編集されている。

     1885年 ドイツのカール・ベンツが3輪ガソリン自動車を完成した。自動車の始まりだ。ドイツでは、自動車の開始を1886年としている。その理由は、ベンツの3輪自動車の特許の申請をしたのが1886年である。ダイムラーが4輪自動車を1886年に完成した。実用的自動車の発明がドイツでなされたことは、歴史的事実である。蒸気機関の発明での産業革命を起こした先進国のイギリスでなく、後進国のドイツだったのか?このことが一つの疑問だった。
     イギリスは、1865年に「赤旗法(交通法規)」を施行した。馬車業者が既存の利益を守るため、蒸気バスや自動車を締め出す目的で、速度を郊外で時速4マイル(6.4キロ)、市街地では時速2マイル(3.2キロ)に制限し三人の乗務員が必要とした。1896年に時速19キロに引き上げられた。1903年に時速32キロとなった。イギリスの自動車の発展を阻害したのは、制限速度の法律だった。

     長距離運転をしたのは、ベルタ・ベンツ(カールベンツの妻)は、ベンツ第1号で1888年マンハイムからフォルツハイムの行程は約100キロを走行した。最高時速は13キロだった。平均で10キロだった。その頃最も早い駅馬車は9.5キロだった。また、史上初の交通違反だった。1887年には、ドイツでは自動車は午後2時から4時までしか、公道で走れなかった。その時間制限が撤廃されたのが1893年だった。それでも制限があり、時速は11.5キロ、市街地では5.6キロだった。フランスでは、その走行制限がなかった。フランスは、ナポレオンボナパルトによって道路が作られていた。その道路を使って自動車レースがなされた。そしてクルマの生産が進み、1905年まではフランスが自動車の生産では1位だった。

     1895年には、パリとルーアンの126キロの自動車レースが行われた。21台が参加して、1位は蒸気トラクターで所要時間6時間48分、平均時速18.7キロ。2位、3位はプジョーだった。1898年のパリとアムステルダム自動車レース(1485キロ)では、1位が時速43.2キロ、1900年のパリトゥールーズ自動車レース(1347キロ)では、1位が時速64.7キロだった。急激に時速が上がっている。
     1890年にローネル・ポルシェ社は、4輪電気自動車を作った。時速は40キロだった。その頃に電気自動車があったのは驚きだ。1901年には、ドイツのダイムラー社は、マイバッハ設計のメルセデスを発表した。時速100キロを超えた。1909年、ブリツェン・ベンツ(排気量2万1504cc)はイギリスのサーキットで、始めて時速202キロを出した。ライト兄弟の初飛行は、1903年で時速は48キロだった。自動車の方が、飛行機より早かった。
      エミールゾラは、「未来は自動車のものだ。それは人間を解放するからだ」といった。
     20世紀初頭の自動車技術者3巨頭は、ヘンリー・フォード、ヘンリー・ロイス(ロールスロイス)、そしてフェルディナント・ポルシェであった。

     アメリカは、自動車保有台数は、1897年、90台。1900年で4129台。1893年オールズが3輪蒸気自動車を作った。1897年にオールズモーターヴィーグル社が設立されたが、1900年には8万ドルの赤字となり、その財政危機を救ったのが、カーヴドダッシュを作り、1901年420台が売れた。1902年には、2500台つくった。デトロイトからニューヨーク間1300キロの耐久走行に成功、ニューヨークの五番街で、カーヴドダッシュで自転車に乗る警官にわざとぶつけて転倒させ、スピード出し過ぎで警官に逮捕されるという事件を新聞が報道したことで、750台売れたという。マスコミを使っての宣伝である。

     1904年にロールスロイス社ができ、1906年に自動車レースで優勝した。質の高い車作りを目指し、シャーシーにはニッケル鋼を使用して軽量化をはかった。「設計よりも工作を優先させた」。品質管理を重視した。1906年、40/50馬力はシャーシーに銀色に塗装したボディを載せて、シルヴァーゴーストと言われた。アラビアのロレンスの映画で、この世で1番欲しいものは、「ロールズ・ロイスだ。シルヴァーゴーストだ」と言った。

     ダイムラーとベンツを自動車の父とすれば、ヘンリーフォードは自動車産業の世紀の育ての親だった。1896年にフォード第1号車の完成。1903年フォード・モーター・カンパニー設立。1908年10月1日、T型フォードのデビュー。フォードは、安い、軽量で頑丈、誰でも簡単に取り扱いできる車作りを目指した。フレームにはヴァナジウム鋼、4気筒エンジンの一体鋳造、エンジンのオーバーホールをより容易にした。そして、T型フォードだけ生産するハイランドパーク工場を作った。
     1909年1万3825台(850ドル)、1910年2万739台、1915年には41万8100台(490ドル)、1917年84万台、1924年、199万1520台(380ドル)。1925年には290ドル。「T型フォードは追い越すことができない、なぜなら1台抜いてもその先には必ずT型がいるから」そして、1927年6月5日に生産停止となった。累計生産台数1500万7033台だった。フォードは、大量生産、大量消費を車で実現した。
     1920年代には、禁酒法時代であり、アルカポネは、防弾が施されたキャデラックに乗り、酒を運ぶにはトラックや自動車だった。アメリカは消費社会で、フーバー大統領は「スープ鍋に一羽のチキンを、一家に2台の自動車を」を公約した。そして、1929年10月24日に暗い木曜日に始まる大不況が始まる。

     ドイツは、自動車の戦略的価値に着目して、1908年自動車保護法を作り、自動車産業に補助金を出し、トラックを作らせ、1914年にはドイツ軍は5万台の自動車すぐさま調達した。
     イギリスでは、1919年から1930年をヴィンテージ時代といわれ、アストンマーティン、ベントレー、MGが作られた。イタリアでも、アルファロメオ、フランスのブガッティ、スペインのイスパノスイザができた。アメリカでは、世界恐慌以後、整理統合されて、ビッグスリー(フォード、ゼネラルモータース、クライスラー)の時代となった。
     1933年3月23日、ヒットラーに全権を委任する授権法が国会を通過すると、独裁を確立して、アウトバーンを作った。そして国民のための自動車づくりに、フェルナンドポルシェに設計させ、フォルクスワーゲンを作った。
     自動車デザインが大きく変化して、流線形(ストリームライニング)となった。1934年クライスラーエアフロー、フェルナンド・ポルシェは「形の美しいものは性能も優れている」と言った。1936年リンカーン・ゼファー。
     ドイツで自動車を発明し、フランスで自動車が走り回り、そしてアメリカで、誰でも乗れるような自動車とした。その後高度経済成長の中で、日本の自動車が世界を走り回るようになった。
    現代は、テスラをはじめとする電気自動車が登場し、内燃機関を使わない時代に突入している。
     現在、自動車の生産は、中国がトップである。2021年の生産台数は2,608万台。電気自動車は、2021年で世界で約650万台。中国では、293万台だった。中国は、急速に電気自動車が作られ始めている。

  • 自動車開発、人類の夢と芸術だったことを改めて感じました。スピードは人の深層心理をくすぐるんですね。

  •  「自動車」=「20世紀の恋人」とは初めて聞いた言葉のような気がする。しかしなるほど、この本を読んでみて自動車とその歴史をみてみると20世紀という時代は、自動車と人が恋人同士のように強い影響を与えあってきたんだなと感じることができた。
     僕は自動車にはあまり興味がないので、特にあの車がどうだとか、こうだとかいった話にはあまり興味がわかなかったが、それに携わった技術者の話には興味がもてた。「科学技術に国境はない」という言葉は、僕はとても好きだ。他にポルシェの「形の美しいものは性能にもすぐれている……。」という言葉も納得できる。
     最終章の20世紀の恋人で、欧米には日本では余り無い車種によるイメージの違いがあるということが述べられていたが、この項の中でディズニーが車を擬人化したが、その車がフォルクスワーゲン・ビートルだということはなるほど納得できた。ロールス・ロイスを擬人化したらちょっとタカビーな奴になちゃうんだろうな、とか。

  • 折口透著「自動車の世紀」岩波新書(1997)
    * 近代的に実用に耐えうるガソリン自動車の誕生は一般的には1885年とされている。ドイツのカールベンツが発明した3輪自動車の完成が、85年の秋であったためだ。そして、それを記念する企画が各国の多くの自動車専門誌に取り上げあげられた。しかし、それは日本やイギリスなどのことで、少なくともドイツとフランスは別の見解をもっていた。ドイツは86年を誕生の年としている。なぜなら、ベンツが3輪自動車の特許の申請をしたのが86年であったためだ。また、ダイムラーのもトールワーゲン(4輪)の完成が1886年であったためだ。つまり、ダイムラーとベンツの両人に華をもたせるためにあえて86年を選んでいる。だが、フランスは84年としている。フランス自動車工業会の主催で100年前に大々的に現在の24時間レースで知られるルマンの町を走ったとされる4輪自動車のオリジナルの設計図に基づく精巧なレプリカが製作されたためである。
    * フォード第1号車の完成は彼がエジソン電気会社の技師長時代(1891年~99年)の1896年であるが、フォードモーターカンパニーの設立は1903年6月そしてあの伝説的なT型フォードのデビューは1908年10月1日であった。
    * ミニの場合にも、T型フォード、VWビートルと同様に、ある1人の人間がその誕生に深いかかわりをしている。この3車はすべて現代のように集団指導体制で車が作り出されるのとは異なり、1人の個人のはっきりとした責任のもとに生み出された。
    * ミニの独特のサスペンションは文字通り足が地についた走りを可能にした。そのためミニは、日常的な車であると同時にモータースポーツでも活躍した。レーシングカーで有名なクーパー社は自らチューニングを買って、1961年にミニクーパーがデビューした。
    * 完成し市販されたスバル360に対する識者の評判は高かった。日本車といえば欧米のイミテーションの域を一歩も出ないといった先入観をもった欧米の専門家のなかいも、スバル360の独創性(特にサスペンション)に敬意を表する評論を加える人が出ていた。それは日本車として史上はじめてのことであり、日本車あなどり難し、と感じた人もいたに違いない。そういう意味で、スバル360は日本車としてはじめて世界に向かって窓を開いた車であった。

  • ディーゼルが暗殺されていたらしいことを知りませんでした。
    戦争時に、イギリスとドイツの両方から依頼があったこと。

    1985年から1986年にかけて、自動車の特許、製造がドイツでおこなわれたとのこと。
    それから100年経過し、自動車は新しい世紀を迎えるべきだろう。
    その方向性を考えるのによい書籍だ。
    ポルシェが、ソビエトから招待されたというのは貴重な教訓を含むかもしれない。
    ヒットラーのVW計画にもポルシェが招待されたという。
    日本でも国民者構想があり、スバル360、トヨタのパブリカなどが関連機種とのこと。

    いろいろな情報が詰まっている。
    トヨタ財団の研究成果紹介の位置付けもあるとのこと。

全5件中 1 - 5件を表示

折口透の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×