市民科学者として生きる (岩波新書 新赤版 631)

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  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (260ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004306313

感想・レビュー・書評

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  • 著者は兄と同じ高校に入学しました。東大に進学した兄とは入れ違いでしたが、現役で東大に入学した兄と何かにつけ比べられることになりました。しかし、その頃には、子どものときに感じていた対抗心は消えていたそうです。兄が「学問」という言葉に魅せられたように、弟も兄の影響を受けました。当時はまだ、「東京に出て学問を志す」ことに、特別な重みを感じることのできた時代でした。そして、勉強を始めた。それは典型的な受験勉強でしたが、本人は「学問事始め」のつもりでいたと言います。

    兄から数学の手ほどきを受けた著者は、「1つの問題を解くのに、何時間かけてもよいから考えて、自分で答えに到達しろ」と言うアドバイスを忠実に守り、毎日、何時間も数学の問題ばかり解いていたそうです。そうして、受験勉強にはまっていった著者は周囲から「受験優等生」と呼ばれるようになり、ほどなくして、東大理科一類に入学することになりました。

    しかし、受験優等生だからといって受験勉強ばかりしていたのではなく、政治や社会問題にも関心を寄せていました。社会学研究会に顔を出したり、原水禁運動の署名をしたりしました。ただ、そうした活動にのめり込まなかったのは、著者が、党派性を好まない「一匹狼主義」を貫いていたからだと、自己分析しています。

  • 7年目の3月11日。
    たまたま、前に買ってあった本を手に取りました。
    恥ずかしながら、高木さんのことを知らなかった。
    彼が生きていたら、この現状をなんと言うんだろう。

  • 1997年に環境・平和・人権の分野において「もうひとつのノーベル賞」と呼ばれるライト・ライブリフッド賞を受賞し、2000年に急逝した科学者・高木仁三郎氏が、自らの人生を振り返った自伝的著作。高木氏は、同賞の受賞直後にがんにかかっていることがわかり、死期を悟りつつ、1999年に本書を病床で書き上げたという。
    高木氏は、1938年に生まれ、高度成長の時代がまさに始まろうとし、その推進力のエンジンのようにして科学技術が存在し、ほとんどの人がその未来にバラ色の夢を描いていた時代に青少年時代を送り、東大で核化学を学んだ。そして、日本の原子力産業の黎明期に、当時原子炉を建設中だった日本原子力事業に就職したが、閉鎖的で没個性的な集団の中で、まだ原子力発電も行われておらず、多くの人が原発推進の妥当性を確信していたわけでもないにもかかわらず、原発推進の旗振り役を期待されていくことに強い違和感を覚え、同社を辞めて東大原子核研究所に移る。しかし、核研も、その後に移った都立大学も、暗黙のうちにある種の家族共同体的な集団に共通の利害が形成され、それを守ることが自明の前提となることに企業と大学の差はなく、行き場を失っていく。
    そして、その頃出会った三里塚闘争(成田空港建設反対運動)や宮沢賢治の思想から大きな影響を受けて、大学や企業のシステムのひきずる利害性を離れ、市民の中に入り込んで、エスタブリッシュメントから独立した一市民として「自前(市民)の科学」をするという考えを実現し、1975年に原発の情報センター的な役割を果たす「原子力資料情報室」の設立に関わる。その後、1979年の米スリーマイル島原発事故、1986年のチェルノブイリ原発事故を経験し、反原発の信念は一層強まり、そのための国際的な運動を含めた様々な活動に力を注いでいったのである。
    高木氏が生涯をかけて追及した問題意識は、氏が「この言葉に出会った衝撃といったらなかった」と語っている、宮沢賢治の残した「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか」という言葉に言い尽くされている。そして、「市民の科学」とは「未来への希望に基づいて科学を方向づけていくことである。未来が見えなくなった地球の将来に対して、未来への道筋をつけて、人々に希望を与えることである」と締めくくっている。
    原子力については、平和利用は当然としても、大戦中に原爆を開発したのも“科学者”である。また、生命科学の進歩は、“科学者”が使い方を間違えれば人類にとって取り返しのつかない事態を引き起こしかねないところまで来ている。高木氏が存命であったなら福島第一原発の事故を何と言ったであろうかという限定的な問いにとどまらず、氏が追求した「科学とは何であるべきか」という根本的な問題を今こそ改めて考えるべきなのだと思う。
    (2008年12月了)

  • 902

    昭和初期戦前生まれのパヨク思想の科学者という感じだった

    高木仁三郎
    1938年‐2000年。1961年東京大学理学部卒業。日本原子力事業、東京大学原子核研究所、東京都立大学などを経て、1975年に原子力資料情報室の設立に参加し、86年から98年まで代表を務める。1997年ライト・ライブリフッド賞受賞


    これまで述べて来たことからも察せられるように、中学時代頃は典型的な 田舎の文学少年 といった感じだったのが、高校生のうちにはすっかり科学志向になっていた。どういう内的変化があったの、とよく聞かれるが、自分にしてみると劇的変化などなにもなく、ごく自然な推移だった。換言すれば、文学志向も科学志向も、私の中では境目なくひとつにつながっていた。時代状況としても、今のように〈理科系〉と〈文科系〉がはっきり区別されるようなことはなかったし、今でも私は受験とか学校のシステムが、強制的に「理科系」と「文科系」の区分けをつくり出していると考えている。

    田舎から東京の大学に合格して郷里を離れる青年の気負いもあったのだろう。兄は「俺は物理学という学問を一生の仕事にするんだ。学問こそこの世で真に身を するに価する唯一のもので、とくに物理学こそ学問の真髄だ」という趣旨のことを熱っぽく語った。

    話がずい分横道にそれてしまったが、結論をいうと、けっこうあれこれと思想的にさまよいながらも落ちつくところがなく、結局個人で没頭できる数学が最も魅力的な世界だった。高校生活も最後の方になると、受験勉強にも大分あきて疲れてきた。幸運なことに、その時、よい先生に出会うことができた。

    そんな先生からの刺激と次兄からの刺激もあって、数学とか基本的な物理に関する書物も読むようになった。高木貞治『近世数学史談』、ガモフの一連の科学入門書、朝永振一郎『量子力学的世界像』など。『近世数学史談』の一〇代から二〇代そこそこの数学の神童、天才、奇才たち(ガウス、アーベル、ヤコビ、ガロア) が才を競うように活躍する物語を、わが事のように感情移入させながら胸をわくわくさせつつ読んだ。ガモフも興奮して読んだ。やはり物理の部分よりも、数学にかかわる部分が好きで、「一、二、三 無限大」など繰り返し読んだ。数学の有名な三大未解決問題(角の三等分、四色塗り分け問題、フェルマーの定理の証明)なども、ガモフを通して知ったと思う。フェルマーの定理の証明など、自分もいつかはなどと、丸窓のついた勉強部屋から赤城野を眺めながら、「学問」に思いを馳せた。その頃には東大で数学をやろう、と思っていた。

     その気負いが裏目に出たのだろうか。東京に出てすぐに、さまざまな幻滅と失望とを味わうことになった。  第一にほとんどの授業が期待はずれだった。多分にロマンティシズムの気分で学問という言葉に憧れてやって来た田舎の少年にとって、 最高学府 のマスプロ授業は、大いなる失望感を惹起させるのに十分だった。なかには、内容の濃い授業も一部にはあったのだが。

    もっと失望したのは、東京という都会そのものに対してであったろう。東京がコンクリートのジャングルで、夜もなお明るいネオンの街であることは頭では知っていたが、風景の中にまったく山がないことから来る寂寥感はどこにももっていきようがない。そのうえに、あの、空っ風がない。ひとりになれば、身体の中をひゅうひゅうと吹きすさぶあの空っ風の音が思い出されるのだが、実際には私のまわりの東京の空気は、ぬるま湯に入ったようだ。この時になって初めて私は、空っ風や赤城の山が自分の身体の一部のようになっていたことを実感した。

    これもまた 挫折と失敗 の選択のひとつで、その後の私の「化学」からの逸脱と放浪の原因となったと言えるかもしれない。その一方で、よく考えると、自分に最もふさわしい道を結局あの時選択したのだという感慨もある。いずれにしても、右の道を選ぶか左の道を選ぶかはさして重要ではなく、その道をどう歩むかが枢要の問題だろう。

    その一方で、私は化学そのものに 前述のように自己流ではあったが ますます興味をもつようになっていて、なるべく化学の真髄とも言うべきことを専攻したいと感じていた。これは、ある程度はいつも近くにいた兄の 物理至上主義 への対抗心から生まれたものかもしれない。物理学は古い言葉で究理学とも言われるが、多くの物理学者たちの気分には、物理学こそ物事の究極の 理 を明かす学問だという思いがあるのではないだろうか。私は兄のそのような思想傾向を、いつも「物理帝国主義」とひそかに呼んでいた(その兄が結局、一番化学に近い物理の分野を専攻し、私が物理に近い化学の分野を専攻することになったのは、まったくの偶然か、それともなんらかの相互作用があったのだろうか)。

    物理は確かに自然現象の基本的原理や宇宙の基本構造の解明に関わっているが、多分に頭の中で理論をつくり、もっぱらセットされた実験と数学的手段によって事物を解明していく。それに対して、化学は、物に即してその変化や性質を扱う。純粋な物質を分離して扱うという化学の手法が、物事の本質を究めるのに有効だった例も少なくない。たとえばマリーとピエールのキュリー夫妻が、放射能の本体であるラジウムに行きついたのは、何よりも精力的な化学的分離の作業の成果であった。さらに、化学者オットー・ハーンの精密な化学分離の作業は、物理学者たちが考えてもみなかった核分裂という驚異的現象の発見をもたらした。

    さて、私はいつから反原発になったのだろうかと、今さらのように問うてみる。厳密な日付などあり得ようもなく、またこの設問自体が、個人的にはともかく、社会的にはたいして重要ではないが、私が反原発という思想に立つようになった契機について、少しく述べておく意味はあろう。

    すでに述べたように、会社にいた頃には会社のやり方、原子力開発の進められ方には大いに批判的になったが、反原発というふうに考えたことはなかった。それは森の中に入っていたから、森全体が見渡せず、判断のしようがなかったのだ。自分のまわりの木の枝ぶりや葉の模様などばかりが見えて、それには心配な点があるのだが、森全体は何も見えない。そのうえ、当時は、森そのものが未成熟で、巨大な怪物のようなその全体の姿を現わしていなかった。

    最近ではずい分変ったが、少なくともチェルノブイリ前までは、原発反対派はそんな風に扱われた。虫ケラ同然の扱い、ないしは、原発反対でメシを食っている政治ゴロ的な扱いは、人格をトータルに否定されたような感じで、ずい分プライドを傷つけられた。

    インドとパキスタンの核保有を正当化する論理は、いわゆる「核抑止論」である。「核抑止論」に立脚しての、「ヒロシマ、ナガサキになりたくなかった」というパキスタン首脳の弁明は言語道断の誤りであり、錯誤である。この論理によれば、ヒロシマとナガサキの苦難に満ちた経験が核開発を促進する人類破滅への逆説的メッセージになってしまいかねない。私たちは、この弁明はヒバクシャの半世紀以上にわたる核廃絶の訴えに対する比類のない侮辱であると考える。断じて容認できるものではない。

  • 生き方としては、非常に心打たれるものがあったというか、常に参照する必要があるだろう。高木仁三郎にはならないにしても。

  • この著者が何者かも知らず題名だけ見て買ったので、読み始めて「この手の本だったか」と思わせられた。この高木仁三郎という人は、反原発リーダーとして有名だったようだ(本人がこの本の中で言っている)。その著者が癌による死期を感じながら、自分史を振り返り、未来への希望を書き連ねた本だ。正直いって、この人の生き様には共感できないが、(本人自身が本書で書いていたとおり)100人か1000人に一人ぐらいこうしたオルタナティブな自分が存在しても良い。震災後、リアクティブに脱原発を謳うのは簡単だが、70年代からプロアクティブにこれだけの発言をしてきた著者は評価されるべきである。昨今の文化人がしたり顔で語る原発問題とは一味違う迫力がある。

  • 在庫切れの合間にたまたま手に入れることが出来た。都立大助教授の地位を捨て、市民の立場で長年核問題に立ち向かってきた科学者の本。癌で闘病中ベッドの上で書き上げられた本です。

  • 《教員オススメ本》
    通常の配架場所: 3階開架
    請求記号: 289.1//Ta29

    【選書理由・おすすめコメント】
    大学や政府系の研究機関、あるいは原子力利用を推し進める側の企業と対峙する立場から、原発や放射性物質の危険性を世界に訴え続けた核化学者の、自伝的な著作です。将来を嘱望されながら、あえて体制側を飛び出して、市民科学者としての立場を貫いた生き方に、感銘を受けます。
    (経済学部 小林孝雄先生)

  • やはり破天荒な人生を歩んでらしたんだな、と納得。

  • 原子力がエネルギーとして礼賛され、商業原発が各地に設置されるにいたった時代。
    空っ風の原風景と職業的科学者という立場との葛藤。
    「市民科学者」としての半生。

    国家・電源三法による原発推進の力は、改めて文字で読むと、不気味なほど大きい。筆者が受けた嫌がらせの事実には、驚愕。それでも「市民科学者」として「本気」で脱原発に取り組み続ける筆者の姿に、感銘を受けた。

    あきらめを希望へ。
    私たち日本人は、いつまでもシカタガナイと言い続けるわけにはいかない。

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著者プロフィール

理学博士。核科学専攻。原子力の研究所、東京大学原子核研究所助手、東京都立大学理学部助教授、マックス・プランク研究所研究員等を経て、1975年「原子力資料情報室」の設立に参加。1997年には、もうひとつのノーベル賞と呼ばれる「ライト・ライブリフッド賞」を受賞。原子力時代の末期症状による大事故の危険性と、放射性廃棄物がたれ流しになっていくことに対する危惧の念を最後のメッセージを記し、2000年10月8日に死去。

「2004年 『高木仁三郎著作集 全12巻』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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