戦争論 (岩波新書 新赤版 632)

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  • Amazon.co.jp ・本 (201ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004306320

感想・レビュー・書評

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  • 歴史哲学の観点から、20世紀の戦争について論じたもの。「国民国家」とはなにか、という政治的テーマからスタートし、それが軍事力を持ち、いつでも戦争できる態勢にあるのはなぜかを問う。
    個々の具体的な事象には触れてはいるものの、基本的には思想史的に「戦争」について抽象的に論じたものなので、好みは分かれるような気はする。とは言え、昨今のウクライナ情勢を考える一助にはなりえると思う。

  • 今尚世界各地では戦争や内戦、ジェノサイドが行われている。日々ニュース映像で見るウクライナとロシアの戦闘。ロシアが放ったミサイルがキーウのビルを破壊し、映像に映りきらずともそこには無辜の市民の死が存在する。新疆ウイグル自治区で何が行われているか、中国政府は明らかにはしない。アフリカの各地で行われている内戦は、外交官の脱出など日本国民の安全には興味があるが、現地で亡くなる兵士たちを我々は見向きもしない。アフリカは日本から遠い地であり関心が向かないのであろうが、世界の経済は極端なグローバリズムで接続されており、いずれは遠い地から影響が津波の様に押し寄せてくる。人々は小さな波では気付かないが、気になった時には足がうまく動かせないほど影響力を感じる。エネルギー価格にせよ食料品の価格にせよ、身近で物価上昇している理由を早い段階で紛争に求めるのは難しい。
    歴史を見れば、日本も明治維新以降の富国強兵政策によって、政治や制度が確立しない中での徴兵制が先んじて成立し、未熟なままに各国との戦闘状態に陥っていく。緒戦の勝利は国民を熱狂させ、いつしか戦争によって獲得できる目的よりも、戦争をする事自体が、自分たちの国の豊かさ強さを証明する手段かつ目的とイコールになってしまう。
    本書はクラウゼヴィッツが記した「戦争論」が現代に至る、戦争技術の進化、世界経済環境変化、その他様々な要因および外部環境の変化の中で、「政治の延長線上にある戦争」という理解を超えてきた事を考察している。尚、私が本を読んでいる理由の一つに世界から戦争はなくせるか、というテーマがあるが、正にその考察に一致する様な考え方をいくつも得られる内容となっている。
    人類という括りでは戦争は見えず、人民・国民という視点に落として初めて見えてくる戦争。ただしそこには人間そのものの凶暴性や、先に述べた様な熱狂とそれに支配される事で集団の心地よさを感じてしまう人間そのものの特性などが影響を及ぼしている。
    冷戦構造崩壊後の世界は益々混迷を深めている。核開発技術の拡散は、米ソの世界規模の主義の違和感を超えて、インドパキスタンの様な地域紛争にまで及んでいる。トランプが言った様に「チビのロケットマン」でさえ日本近海に毎日の様にミサイルを飛ばす世の中になってしまった。
    本書「戦争論」はかつての戦争とは何か、その要因や定義には存在しなかった新しい時代の「戦争論」を示している。後半ではこの数十年内に発生した(本書自体が1990年代だが)戦争や内戦、虐殺を例に挙げて、その背景にある要因を分析していく。一体何が人々を突き動かしているのか。原因がわからなければ、終わり方は見えない。わたしも同様その答えを考えるのはこうした書籍に触れる事で一人一人が考えることでしかたどり着けない。

  • 歴史哲学。社会的に論じているのではないので、表現するのが難しいが、本当に人間の心理的な部分に触れたり、読んでいてとても引き込まれた。後半は特にそう強く感じた。著者も終章で書いているが、「この本は自分が世界を生きることに結びついた仕事」とあって感銘を受けた。戦争を経験した世代で、巻き込まれたのだ。計画から完成まで5年掛かっているとあるが、重みを感じる一冊だった。

  • 信州大学の所蔵はこちらです☆
    https://www-lib.shinshu-u.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BA43067754

  • 戦争について思想的な立場から考察している本です。

    歴史的な事象についての議論はやや性急で、思想的な考察にかんしてはややあいまいなところがめだつように感じました。哲学的な戦争論としては、おなじ『戦争論』のタイトルをもつ西谷修の本のほうが密度が高いように思います。

    ただし、本書における著者のスタンスをあらかじめ提示しているというべき内容が展開されている第1章は、比較的興味をもって読むことができました。著者は、「われわれは個人どうしが肉体的にぶつかりあう暴力沙汰から、手段が巨大化し、個人的ではなく集団が暴力をふるうようになって、戦争が発展してきたと思っているふしがある」と述べたうえで、戦争の暴力が国家の法によって発現することを掘り下げたベンヤミンの『暴力批判論』の意義について論じています。なにが「神話的暴力」と「神的暴力」の区別を正当化するのかと批判する前に、ベンヤミンが何を意図して暴力批判をおこなったのかということを改めてたしかめておくことの重要性に気づかされたように感じています。

  • 思想書としては面白い部分もある

  • 前半では軍事国家の成立のメカニズムや、軍部の論理などの分析がなされている。太平洋戦争までの軍部の在様を明治維新前からのサムライ観で説明付けたのが印象深い。後半は、20世紀の戦争や紛争といわれるものを、いくつか振り返り反戦・反暴力を再確認していていて(決して間違った話ではないものの)新鮮味に欠けた。ただ、戦禍の中での芸術の力の話題には力が入っている(著者の専門は芸術学とのこと)。

  • 難解だが勉強になる。国民国家というものは暴力を独占するゆえに、交戦権を必然的に持つ定めにあるとのこと。維新期の日本の徴兵制が憲法成立前であることが、いかに富国強兵を当時の日本が急いでいたか、いかに列強の脅威や不平等条約の十字架が重いものであったかを物語っているとの示唆。

  • 多木浩二の遺作とも言うべき『映像の歴史哲学』(みすず書房)を読んだ後で本書『戦争論』を再読すると、彼の主要なテーマの一つが、「戦争の世紀」であった20世紀の歴史哲学だったのではないかと思えてならない。そして、ここで歴史哲学とは、ベンヤミンの「暴力批判論」における「暴力の歴史の哲学」に刺激されるかたちで、戦争の暴力の歴史の連続を食い止める可能性を、新たな歴史のうちに探るものと言えるだろう。その際、芸術として現われる20世紀の精神史を踏まえ、その遺産を活かそうとしているのも、彼の仕事の特色と言える。そして、記憶をそのような力を持った新たな歴史に構成することは、喫緊の課題であり続けている。戦争論として見た本書は、たしかに議論の尽くされていないところが見られるとはいえ、戦争の暴力について根本的な問いを読者に投げかけながら、予言的な洞察を示している点は、新鮮さを失っていない。なかでも、コソヴォ紛争に介入して空爆を行なったのがNATOであったことを重視し、「グローバル化」のなかの、そしてグローバル資本の市場を拡大していくための新たな戦争が、「新たなインペリウム」の下で行なわれつつあることを、ネグリとハートが『帝国』を書く以前に指摘している点は、再評価されてもよいと思われる。

  •  多木浩二著『戦争論』。「近代の戦争」「軍隊国家の誕生」「死と暴力の世紀」「冷戦から内戦へ」「二〇世紀の戦争」と章建てされている。

     うち「軍隊国家の誕生」には「ー近代日本」の副題が付せられる。
     そこでは明治国家の誕生に、「幕府・大名家が有力商人から背負った借財」を明治政府が「肩代わりした」点を指摘する。
     それともう一点、維新政府の政策展開のその後に地主小作制度が拡大し、小作争議の頻発に軍隊は「争議鎮圧」という形で、国民皆兵で組織された軍が、国民を圧する形で対峙する構図。
     明治政府は富国強兵を政策にすえ、国際社会に伍していく国是を示した。旧幕の有力商人に背負わせた借財は政府が肩代わりしたが、有力商人にはその債務には応じなかったものの、産業育成の観点で保語と血税をつぎこむ保護政策が選択されたのだと、言いたいのだと見る。

     個人間の戦い、そして国家間の戦争は古代にもさかのぼる。
     しかし20世紀のそれは、局地の戦い、国家対国家の戦いではなく国家群と国家群の戦いとなった。それが「世界大戦」というべき結果であり、20世紀の戦略はそれまでの「陸」と「海」の覇権争いにくわえて「空」と「核」が加わったということになる。
     国民は原子力爆弾投下を忘れていないが、アウシュヴィッツも、南京もあった。非戦闘員のみならず、大量の人命が失われた。

     今日、日本国民とは遠いところで起きる戦時は発生している、とする。イラク、コソヴォ、ユーゴスラヴィア。戦いが核の時代にある今、隣国の北朝鮮にしても核保有がすすみ、本土上空を通過する兵器の実験が繰り返されている。官民の交渉と交流をこえて、なにかの触発でも攻撃をしかける自国民も人命・財産・将来への環境への甚大な被害を結果する。

     本書では、ここに注目しておきたい。
     「権力の言説の罠にはまらないこと。戦争がこれこれの理由で生じたという権力の言説に対して反論するよりもー戦争の現実を徹底的に知ることは必要だがーそれを超えて希望を見いだす言説を創造することがいっそう必要なのである」(156p)。

     著者は末尾に「可能なかぎり平易な言葉で書こうと努めた」(200p)とする。
     拙い評者として読み進めつつ。人類のどこかに、自然に対しても、人間自身にも、互いに「尊厳」なる価値を平気で踏みにじろうとした「20世紀以降」を、思わずにおられなかったのではあるが。(岩波新書 1999年)

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著者プロフィール

1928〜2011年。哲学者。旧制第三高等学校を経て、東京大学文学部美学科を卒業。千葉大学教授、神戸芸術工科大学客員教授などを歴任。1960年代半ばから、建築・写真・現代美術を対象とする先鋭的な批評活動を開始。1968年、中平卓馬らと写真表現を焦点とした「思想のための挑発的資料」である雑誌『プロヴォーク』を創刊。翌年第3号で廃刊するも、その実験的試みの軌跡を編著『まずたしからしさの世界を捨てろ』(田畑書店、1970)にまとめる。思考と表現の目まぐるしい変貌の経験をみずから相対化し、写真・建築・空間・家具・書物・映像を包括的に論じた評論集『ことばのない思考』(田畑書店、1972)によって批評家としての第一歩をしるす。現象学と記号論を駆使して人間の生と居住空間の複雑なかかわりを考察した『生きられた家』(田畑書店、1976/岩波現代文庫、2001/青土社、2019)が最初の主著となった。この本は多木の日常経験の深まりに応じて、二度の重要な改訂が後に行われている。視線という概念を立てて芸術や文化を読み解く歴史哲学的作業を『眼の隠喩』(青土社、1982/ちくま学芸文庫、2008)にて本格的に開始。この思考の系列は、身体論や政治美学的考察と相俟って『欲望の修辞学』(1987)、『もし世界の声が聴こえたら』(2002)、『死の鏡』(2004)、『進歩とカタストロフィ』(2005、以上青土社)、『「もの」の詩学』、『神話なき世界の芸術家』(1994)、『シジフォスの笑い』(1997、以上岩波書店)などの著作に結晶した。日本や西欧の近代精神史を図像学的な方法で鮮かに分析した『天皇の肖像』(岩波新書、1988)やキャプテン・クック三部作『船がゆく』、『船とともに』、『最後の航海』(新書館、1998〜2003)などもある。1990年代半ば以降は、新書という形で諸事象の哲学的意味を論じた『ヌード写真』、『都市の政治学』、『戦争論』、『肖像写真』(以上岩波新書)、『スポーツを考える』(ちくま新書)などを次々と著した。生前最後の著作は、敬愛する4人の現代芸術家を論じた小著『表象の多面体』(青土社、2009)。没後出版として『トリノ 夢とカタストロフィーの彼方へ』(BEARLIN、2012)、『視線とテクスト』(青土社、2013)、『映像の歴史哲学』(みすず書房、2013)がある。2020年に初の建築写真集『建築のことばを探す 多木浩二の建築写真』を刊行した。

「2021年 『未来派 百年後を羨望した芸術家たち』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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