- Amazon.co.jp ・本 (187ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004307860
感想・レビュー・書評
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高橋源一郎による、小説とは何か?を解説した本
以下、公式の概要
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世の中には小説の書き方に関する本があふれている。そういった本の読者の大半は、小説を書きたい、あわよくば小説家になりたい人だろう。しかし、本書の「少し長いまえがき」の中で、高橋源一郎は早々に断言する。「わたしの知っている限り、『小説教室』や「小説の書き方」を読んで小説家になった人はひとりもいません」。なぜか。「小説家は、小説の書き方を、ひとりで見つけるしかない」からだそうだ。
しかし、著者は小説家志望者の夢を打ち砕こうとしているわけではない。この本は、標題どおり「1億3000万人のための」小説教室なのだ。「小説を書く」という作業の前に、「小説の書き方をひとりで見つける」方法を手とり足とり、教えてくれる。
小説は「つかまえる」ものであること。小説と「遊ぶ」こと。まねることから始めること。小説の世界に深く入ること。そして最後に、自分の小説を書きはじめること。著者の後について「小説を書く旅」に出た読者は、今まで気づかなかった小説のおもしろさに気づかされる。書くよりもまず、読んでみたくなるはずだ。そして、著者の教えどおり、まねをしたくなる。
要するに、本書は「小説(を楽しむための)教室」でもある。その意味では、小説家になりたい人が目を通すべき実用の書といえる。音楽を好きな人が音楽家になり、スポーツの好きな人がスポーツ選手になるように、小説を書くためには小説を深く、楽しめることが前提だ。この本を読むと、小説がますます好きになるはず。文章の巧拙やプロット、キャラクターづくりのテクニックを越えた、小説の魅力に目を開かせてくれるからだ。(栗原紀子)
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元々は子供向けの講座で話した内容を、新書向けに再構築したもののようだ
その子供たちが書いたという小説が冒頭に記載されてあって、確かに小説でしたねぇ
小説をかくとはどういうことなのか?
「すべての傑作といわれる小説は、その小説家が、最後にたったひとりでたどり着いた道、その道を歩いて行った果てにあります。そんなのを書く方法なんか、だれも教えられるわけがない」
概要でも説明されてあるけど、小説は自由なものなので、一人ひとり書き方が違うわけで
なので教えられるようなものではないんだよなー
なので、「一億三千万人のための」は、全員共通の方法という意味ではなく、個々での見つけ方指南という意味なのでしょうね
小説をボール遊びに例え、ボールを追いかけ、戯れて遊び、「掴まえる」事が重要だという
速いボールや変化球であっても「掴まえる」ためには、まずはそれを好きでいなければいけない
その次は「まねる」
自分が面白いと感じたボールの投げ方、つまり文章の書き方を真似る
要は、小説の書き方と言いつつ、小説の楽しみ方を説いているように思われる
もしくは、小説への向き合い方、かな?
詩は、作者が詩として向き合っていれば詩
小説は確固たるものがなく、自由なもの
言葉を使う表現の中で一番ルールに縛られない自由なもの
だから、全ての人が自分にしか書けない小説を書くことができる -
読むべき人は読めず
読まなくてもいいは人ほど共感して読む
もしくは、理解しすぎてて読む気にならないかも
なんか、つかみどころのない事なので
なんだろ…まぁ、その…うん
やる気が出ない時に読むにはいいのでは?
でも…読む意味無いと思う人もいるはず。 -
小説家志望ではない、いち読書好きとして。素晴らしい、と読みながら震えてた。小説家心理、というか、「この人どういう考えでこれ書いたんだろうな」「小説家ていつどんな風に着想を得るんだろうな」っていう長年の疑問の、答えを得た。
「ここは作者の意見を表しています」「ここは大事なので」とかいって「赤でアンダーライン」みたいな高校までの国語とは違う、ホントの読み方を提示している。これは小説家にしか書けない。
中でも痺れたのは、村上春樹の「羊をめぐる冒険」とレイモンド・チャンドラー「長いお別れ」がならべられて(他にも多数の例が挙げられている)いる部分。
小説では「小説をつかまえる」「小説をまねる」というのが、常識というか定石というか、フツウだというのを示している。
古典から現代小説まで、読み込んでいる人にとっては「あたりまえでしょ」な事かもしれないけど、不勉強な読書家にとっては、天啓にも等しい教えだった。
読書ガイドも読んでみようと思った。
すぐ読めるのでぜひ読んでみて欲しい本。
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小説とは「人間はミジメで愚かである」という告白であり、その告白を聞いて何を感じるか?なんだが、他人の告白なんてものは退屈なものであり、正直に自分を語るというのは難しいものだ。結果、駄作が増えた。と小林秀雄が言っているが、だからこそ、上手い人の真似をした上で、
「自分のことを書きなさい、ただし、ほんの少しだけ、楽しいウソをついて」
という事になるのかと。
但し、本著での小説は純文学をさしており、エンタメ小説に関心のある人にはピンとこないところが多々あるかもしれない。 -
これから小説を書こうとする人に向けた指南書。ただ、「書き方」を教えるというよりも、一小説の書き手として、小説を書くとはどういうことかを伝えようとした本、という印象で、とても好きな本だった。
著者は、「私の知っている限り、『小説教室』や『小説の書き方』を読んで小説家になった人はひとりもいません」と言い切った上で、その理由を、「小説家は、小説の書き方を、ひとりで見つけるしかないから」だとする。それぞれの章では、自分の小説の書き方を見つけるコツとなる習慣や考え方を説明していく。
「小説に書けるのは、ほんとうに知っていること、だけ」「自分について書きなさい、ただし、ほんの少しだけ、楽しいウソをついて」といったことを鍵としているところからも、自分だけにしか書けないこと、他の人には書けないことを書くことを小説を書くこととして、大事にしているのだろうと思う。小説というのは「書くもの」ではなくて、「つかまえるもの」だという。
そのためのコツとして、徹底的に考えること、そして、自分が書いた言葉や、他人の書いた言葉を好意的に受け止めようとすることが大切なのだろう。それが「小説と、遊んでやる」「ボールを受け止める」といった言葉で表されている。
こうした小説を書き始めるための心構えの中で、具体的なアドバイスとして出されているのが「まねる」ことだった。小説の書き方というのは、赤ん坊が母親の言葉を真似るように、別の人の小説を真似るところから始まる。人の言葉をまねることを繰り返すことで、誰から教わったのかも分からない言葉をそのうち話すようになる。小説もまた、そういうもので、そのうち自分の中から生まれてくるもので、ただ、そのためには、小説を考え続けなければいけない。そういった本だった。 -
②f.2023/9/6
①f.2010/12/15
p.2010/11/16 -
銀河鉄道の夜の冒頭部分が引用されていた箇所がよかった。
ジョバンニのように、他の人達と同じように世界を見ることができない「バカ」こそ、小説を書く資格を持っている。 -
小説を書きたいわけではなく、著者の小説への思いが綴られていると聞いて読了。
具体的なことは全然書いておらず、小説について、言葉について考えている本。
小説と遊んでやる。
遊ぶということは、相手の世界に入ってそれを楽しむこと。
同じ意味のことを、もっと簡潔に、もっと要領よく、書くことはできる。しかしそんなうまい文章で書いたとして、それは面白いだろうか?読んで、ふーん。で終わりじゃないか?そんなもので何か相手に伝わるだろうか?
著者の世界に付き合ってあげてほしい。小説の世界に入り込んで、その中でゆっくり過ごしてほしい。
小説は、言葉として書いて現れた時点で、道の半分まであなたに近づいている。あとは、あなたが半分まであなたの足で歩いて、相手の言葉を受け取る、捕まえればいい。
独創や個性に至るには、何が独創で個性なのか知らねばならない。それを知るには何かをまねすること。まねすることでその世界を一層知ること。
まねることは、ひどく難しい。ただ書き写すとは違う。何かを好きになり、好きだからまねしたい、となる。これは恋愛に似ている。
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ガチガチのノウハウ本とはまた違った、肩の力を抜いて等身大で小説と向き合わせてくれる本だった。向き合うというのもちょっと違うかな。小説という曖昧な世界を肩の力を抜いて探検してみたい、と思わせてくれる本。この方があってるかもしれない
読了後に残っているメッセージは、あなたはあなたが体験したことしか表現できない、そしてあなただけが書ける話はなんだろうということ。どこかで読んだことのある話を程よく自分のものとしても、それはきっと上手く調理できないだろう、と。
ただし"まねる"ということ自体は本書内でも著者は推奨している。ただ、"まねる"という意識もないまま、曖昧な知識だけで書き連ねようとすることはちょっと違うよねと。わたしの中ではそういう意味に捉えられた。
上記のような視点の刺激はもらったけれど、ちょっと途中で飽きてしまったので星3ということで。 -
小説家の高橋源一郎による、小説の指南書です。
みずからの小説の書き方を方法論として明示している現代の小説家には、著者のほかに保坂和志がいますが、どこまでも小説の中核をめがけて方法を絞り込んでいこうとする保坂に対して、本書は小説の臨界に迫っていくような印象があります。
本書を読んですぐに小説が書けるようになるというものではないでしょうが、小説の途方もなさといったものが実感できるという点で、おもしろく読みました。 -
この本では小説をいわゆる小説や純文学だけにとどまらず言葉を使った面白いものというように取り扱っている。
小説を楽しむことをキャッチボールに例える筆者が引用して投げてくるボールは、本屋で小説として売られているものだけではない。そして躊躇わず変化球や剛速球を投げてくる。私はくらくらした。この本を、投げられたボールを放り捨てようかと思った。しかし真摯に貪欲に小説と向き合う筆者の言葉にどんどん先が読みたくなった。この人の言葉を最後まで読んでみたかった。そして、私も彼のように小説を心から楽しみたい。そう思った。
読んでいくうちにこの小説こそが小説ではないのかと私思わずにいられなかった。 -
高橋源一郎の誠実さがとても好きなんだけれども、だからこうして何冊も著作を読んでいるのだけれども、だんだん、あまりにも誠実過ぎるのではないかと思い始めた。高橋源一郎の求めるものは純粋すぎて、わたしは人間や社会はそれだけではいられないところがあると思っていて、そういうぐちゃぐちゃもやもやの中で求めるからこそ意味があるのだと思うんだけど、高橋源一郎の目指すもの評価するもの見ているものはあまりにも純粋すぎる、誠実すぎて、逆にうそっぽく思えてしまう。妬み嫉み、なのかなあ。ゲンちゃんとわたしのあいだに齟齬が生じ始めている。あいかわらず、小説やら文学やらに対するこどものように無垢な、ひたすらな愛情はひしひしと伝わってきました。そういうところ、大好きなんだけど。どうしてこんなにもやもやするのかうまく言語化できないのがもどかしい。
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「書けるのは本当に知ってることだけ」「知ってることを書くんじゃなくて、つかんだものを、本当に知ってることを書く」→西尾維新物語シリーズ「何でもは知らない。知ってることだけ」以下略
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物語を綴る、ってことに興味がない訳ではない。色んな個人的名作に出会う度、“こういうの、自分で書いてみたいな”とか思うことはしきり。ただ、次の瞬間には諦めてるんだけど。もちろん、才能がものをいう世界だと思うし、努力で報われる部分はほんの僅かしかないと思うから、これを読んだところでベストセラー作家になれるとは思わない。でもいつか機会があれば、この本とか参考にしながら、自分なりに何らかの作品が残せたらな、っていう気分にはさせられました。
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すごく面白かった。
とにかく回りをよく見ること。あらゆる球を受け止めること。受け止める、とは、面白がること。歩み寄ること、一緒に軽い気持ちででも遊ぶこと。考えること。
そして、赤ちゃんのようにまねること。さらに深くかかわる。
そうすると、本当にわかることが増えていって、いつか書ける内容をつかまえられるようになる。
実践的な話としては、書き出しをまずは借りてみるとか、書く前の沈黙を大事にするとか、頭の中のわだかまりをできるだけ発散してしまうとか、自分が知っていることに少しだけウソを混ぜ込んでみるとか。
さっと読んでこれぐらい受け取りました。 -
同僚であり友人である人からのプレゼント。あらためて、言葉や小説というものの魅力を思い起こさせてくれた本。人生や世界を理解するには、小説が必要だ、と感じる。
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物書きになりたいわけでは無かったのだが、
小説の書き方・作家入門と題するような本は十冊くらい読んでいるような気がする。
その中でわれわれ凡人が唯一物書きになれる手引きになり得る一冊だと思う。 -
この本は小説を作り上げるための、技巧的なことを教えてくれるわけではありません。そんな表層的なことは問題ではないのです。
「小説」に向かう、もっと根本的なところをふんわりと教えてくれます。
小説を書きたいな、と思ってるひとは一度はこの本を読み、考えることをお勧めします。