映像とは何だろうか ― テレビ制作者の挑戦 (岩波新書 新赤版 842)
- 岩波書店 (2003年6月21日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (230ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004308423
作品紹介・あらすじ
ドキュメンタリーで日本と世界の現実を、またドラマで虚構の人間模様を映像化するにあたって、何が壁となり、どんな冒険に挑んだか。NHKの看板ディレクターとしてテレビの草創期から斬新な手法と大胆な構想力で開拓的な番組づくりを重ねた著者が、自らの体験を回想しながら、映像表現の豊かな可能性とその危うさを語る。
感想・レビュー・書評
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テレビの草創期からNHKのディレクターとして番組を制作していた著者の視点から映像の特徴や向かう先などを述べた本
特に印象に残ったものは、「ひとり歩きする映像」「記録素材としての映像」「時間のジャンプ」といった内容だ。
映像のひとり歩きとは、映像に限らず当てはまることだと思うが、撮られた(作られた)映像が作者の手を離れて各個人で違った意味に解釈されていくということである。この点に著者は自らの経験をもとに大きな危機感を持っているように感じられた。
記録素材としての映像とは素材主義に陥りやすい映像の特性を述べたものだ。番組などの映像を作る際には見る人を驚かせる「ただの記録」以上のものを作る意識が必要だ。しかし時間が経つと意図をもって制作された映像もそれ自体が素材として扱われるようになってしまうと述べていた。確かに少し残念なことではあると思ったが、同時に、だからこそ創作の余地はまだまだ残されているなと思った。
時間のジャンプとは、対象の本当の姿は過去の時間を重ねて見ることで現れるといった内容の話だ。本文中では廃墟という姿を見越した建築を行ったヒトラーの話が出てきたが、とても興味深いと思った。
最後に著者は、映像は実体のない影を作る「虚業」だといわれるが、人の心に火をつける内なる魅力が無限にあると述べていた。映像は確かに対象の影を追い続けるものかもしれないが、「時間」を伴っていることで小説やことばにはない直接的に人に訴えかける力があると思う。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ゼミで映像についてかじったときに文献にあげられたのだけど、学ぶというよりは「へええー」と知るために良いかもしれない、NHKドキュメンタリーを作り続けた製作者の書籍。まだ技術がが発達していない時代の話なので、うおーーと感心するような創意工夫があちこちに。
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テレビの草創期にこんなに工夫がされているけど、YouTube草創期にも同じような思慮が本当にされたのか、不安になった。
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著者は、NHK入局以来、ドキュメンタリーやドラマのディレクターとして映像作りをしてきた人。
この本の内容は、前半は番組制作者としての経験談。ドキュメンタリーでも、大河ドラマでも、強い信念を持って映像の持つ意味やパワーを考えてきたことが分かる。そして、後半になると著者の<映像哲学>が展開される。(因みに著者の学歴は東京大学文学部西洋哲学科卒である。)
7章の「乱舞する巴紋」では作曲家武満徹氏とのやり取りから、映像と音楽の考察。
13章では、「竜馬がゆく」の司馬遼太郎の史料考証の話に「未知だがきわめて意義のある風景を映像化して提示する」ことの重要性を重ねて考察する。
14章「映像にとって廃墟とは」ではさらに哲学的になり、正直難解で、はたして理解できているのかどうか自信がないな~。(笑)
ただ、視聴覚教育をライフワークにし、映像の意義やら危うさを考えてきた自分にとっては、久々にアドレナリンが出てるなーといった感じの読書だったよー。
(-_-メ) -
映像の可能性と怖さを知ることができる。
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Yのおすすめ
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[2012.その12]映像制作をするための勉強にと思い、読んだ。賭博の映像や隠れキリシタンの映像といったタブーとされているものを映像にしてきた著者の度胸を感じる。「廃墟の法則」からは映像制作の深さ、また芸術性と密接に関連していると感じた。
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映像の作り手側の視点で映像がもたらす効果や
思いがけない発見、失敗などについて書かれている。
自らの体験談によるものなので、一つの例・考え方
として解釈するのが良いと思う。
映像が一人歩きする危険性や、
「やらせ」とはどこからやらせになるのか、
大河ドラマみおける演出の可能性など、
映像に対する考え方や付き合い方のヒントが示されている。
著者の吉田さんの映像に対する深い洞察と
あたたかい愛情が溢れた本だと思った。