日本人の歴史意識: 「世間」という視角から (岩波新書 新赤版 874)

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  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004308744

作品紹介・あらすじ

歴史好きだといわれる日本人だが、その一方で歴史意識の欠如が問われることも多い。日本人にとって歴史とは何だろうか。これまで「世間」という視角から日本社会・日本人を論じてきた著者が、西欧社会と比較しながら、「世間」を歴史侵に分析して、日本人の歴史認識の根底にあるものは何かを考察する。

感想・レビュー・書評

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  • 著者の「世間」論にかんする著作のひとつで、とくに日本人の歴史意識と歴史学を考察の対象としています。

    日本の学問の輸入的性格を批判的に論じている本はこれまでにも多くありましたが、そこでしばしば目にするのは、西洋の学問が生活世界のなかに根づいているのに対して、日本の学問は生活から切り離されてしまっており、二つの世界が関係をもつことなく併存しているというものです。著者は、こうした日本の学問の見方にある部分では同意しつつも、それにくわえて日本の学者たちがきわめて日本的な「世間」を生きており、アカデミズムがそうした世間的な常識にしたがって運営されていることを指摘しています。これは、たんに日本の学問がそれを営む人びとの生活から切り離されているというだけでなく、学問がそうした「世間」と向きあいこれと対峙するようなスタンスをもっていないことへの批判を含んでおり、より踏み込んだ議論になっているということができるように思います。

    本書は、親鸞や井原西鶴などのテクストを通じて「世間」を対象に分析をくわえつつ、そこに生きる人びとが「世間」とどのようなしかたで向きあっていたのかという点にも目を向けます。こうした「世間」に対する批評的まなざしこそ、この国の学問にとって重要だということが、著者の専門である歴史学の事例を踏まえながら論じられています。

    著者の「世間」論は、われわれにとってなじみ深い「世間」を対象としながら、「世間」のなかで生きているわれわれ日本人が「世間」を学問の対象とすることはどのようにして可能なのだろうかという、すぐれて学問論的な問いを基軸にしているため、すっきりとした議論にならず、やや見通しがきかないように感じられることがすくなくありません。しかしながら、われわれがそのうちに属している「世間」を度外視して、たんなる学問の対象として「世間」を分析することの不毛性と、反対にわれわれがすでにそのうちに身をどっぷりと浸している「世間」から身を引き離すことなく実感信仰におぼれてしまうことの危険性の両方を避けつつ「世間」という問題に切り込むためには、著者のようなスタンスをとることは避けがたいのではないでしょうか。その意味で、著者の「世間」論の読みにくさは、著者の責任というよりもむしろ事柄そのものに起因するものというべきでしょう。

  • 世間だった
    無意識なのでは

  • 【由来】


    【期待したもの】

    ※「それは何か」を意識する、つまり、とりあえずの速読用か、テーマに関連していて、何を掴みたいのか、などを明確にする習慣を身につける訓練。

    【要約】


    【ノート】

  • ドイツ中世史を専門としつつ、「世間」をキーワードに独自の日本人論を展開し、一橋大学長も務めた阿部謹也氏(1935~2006年)が、「世間」という視角から「日本人の歴史認識」を考察したもの。
    著者の基本的なスタンスは、日本人は欧米には存在しない「世間」という独自の生活の形を持っており、「世間」は自らの中に時間を持ってはいるものの、「世間」そのものは常に変わることなく時間を超越しているのであるが、そうした「世間」の歴史意識を分析すれば、日本人全体の歴史意識を知ることができるというものである。
    そして、以下のように論を展開していく。
    ◆古代の知識人にとっての「世間」、即ち、『万葉集』や『方丈記』の中に表現されている「世間」は世の中の無常を説いているが、そうした思想の背景には仏教の経典があり、それらによれば「世間」という言葉は否定すべきものという意味を持っている。また、古代の民衆も、「世間」の生活の中には因果応報と前世の縁という原則があり、そうした不安定な生活を、天界を含めたあらゆるものと贈与・互酬の関係(=呪術的な関係)を結ぶことによって安定させようとした。
    ◆鎌倉時代に親鸞は、その教義において「世間」の呪術的な性格を否定し、その門徒の集団は独自な形で合理的生活様式を作り上げたが、これは日本の「世間」の歴史の中で全く新しい出来事であった。また、貨幣経済の進展によって増加した商人達も「世間」にとらわれない集団であった。
    ◆「世間」に生きる人々にとって、歴史とは「世間」の外で演ぜられるドラマであり、時には突然「世間」に影響を与えることはあるものの、普段は自分たちの生活とは関係のない出来事として理解される。
    ◆西洋社会では、12~13世紀に呪術は解体され、近代的合理主義成立の基盤が生まれた。
    ◆日本では、上記にも拘らず、「世間」は連綿と維持された。明治時代には、西欧近代社会に学び、個人を中心とした社会を目指す向きもあったが、明治政府は、教育勅語において西欧社会をモデルにしながらも個人の尊厳を認めなかったように、「世間」を残しながら近代化を果たそうとした。
    ◆社会の呪術的性格を払拭して近代化を果たした西欧では、歴史学は、時の権力者が形成に関わっている歴史的神話に対して、歴史の事実を確認することを使命として発展してきた。それは、未だに、歴史を「世間」の外のドラマだと思い、自分が歴史を生きているという意識の低い日本人の感覚には実感しにくいものであるが、我々は、「世間」と闘いながら、自分たちの歴史への展望を開く必要がある。
    E.H.カーの名著『歴史とは何か』を意識しつつ、「日本人にとって歴史とは何か」の問いに答えようとしたユニークな作品である。
    (2005年9月了)

  • んんん~~読みづらい。

    何回読んでも頭に入っていかない。

    通勤の行き帰りに読んでいたが、かれこれ1ヶ月近く時間を要してしまった。

    その間に他の本は何冊も読んでいたんですがね。

    理由は学者が書く文章だからだろう。

    新書は専門知識を一般の人にも分かるよう「平易に書く」というのがその特徴のはずなのに。

    著者はこれでも、分かりやすく噛み砕いて書いたのだろうが、偉い学者というものは別世界の人種と感じてしまう。

    尤も、ぼくの頭が悪く、理解できないだけなのだろうが。

    さて、この歴史学者は「世間」という言葉の意味を発見したらしい。

    彼にとってそれは大発見であり、世の中の現象を全て世間という言葉から解明しようとしているとさえ見える。

    確かに、ぼくにとっても新鮮な発見であった。

    悪いことをしていないと自分でも確信しているくせに、世間を騒がせて申し訳なかったと誤ることの不条理さ。

    著者が言う意味が良く理解できる。

    ただ、その説明を歴史に当てはめたのがマズかった。

    彼は歴史学者(らしいの)だから、専門分野から世間を説明することは致し方ないのかも知れない。

    だが、タイトルの「日本人の歴史意識」に興味を持って本を買った人の期待をかなり裏切っている。

    せっかくの発見なのだから、もう少し一般ピープルに身近な切り口を使ったほうが理解しやすかったと思う。

    面白いテーマであるだけ、残念である。

    まあ、70歳の偉い学者に申し上げるのは恐れ多いことであるが。

  • 歴史から何を学ぶかは、とても難しい。
    歴史をどう学ぶかが確立していないと、
    人が書いたものを鵜呑みにするだけになってしまう。

    「世間」という視点は、鵜呑みの一つではないだろうか。

    世界史と日本史という、歴史の学び方に問題があるのかもしれない。

    自分の経験では、時間と空間を学ぶといういみでは、電磁気学を学んでから歴史を学ぶと、
    すごくいろいろなことが分ったので、歴史の学び方というところへ、切り込んでもいいのではないかと思った。

  • 日本人の歴史意識を日本人特有の「世間」という観点から考察した1冊です。「世間」という言葉の起源から、現代の私たちの「世間」を解明しようとしています。

  • [ 内容 ]
    歴史好きだといわれる日本人だが、その一方で歴史意識の欠如が問われることも多い。
    日本人にとって歴史とは何だろうか。
    これまで「世間」という視角から日本社会・日本人を論じてきた著者が、西欧社会と比較しながら、「世間」を歴史侵に分析して、日本人の歴史認識の根底にあるものは何かを考察する。

    [ 目次 ]
    第1章 古代の知識人と「世間」
    第2章 古代の民衆と「世間」
    第3章 呪術を否定した親鸞
    第4章 「世間」における歴史の位置
    第5章 「世間」の世俗化
    第6章 西欧における近代の始まり
    第7章 日本近代の二重構造―制度と人間関係
    第8章 西欧における歴史意識と歴史学
    第9章 日本人にとって歴史とは何か

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    [ 参考となる書評 ]

  • 浅羽通明氏推薦

  • 分類=日本社会・日本史。04年1月。

  • 「世間」をキーワードに、日本人がいかに「個人」を成立させることが
    できなかったが、埋没させてきたか。そしてそのことが、日本人が「歴史」
    を自分のすぐそばを流れる「大きな流れ」として、自分とは無関係なもの
    としての位置を体感する原因だとしている。

    歴史と人々のかかわり、という点については、その通りだと思うところが
    多く、非常に興味深く読めた。
    藤沢周平の時代劇を「江戸時代の衣装を着た人々による現代劇」と評し、
    だからこそ現代の日本人に理解される、と。
    まあ時代劇なんてそんなもんだ。

    しかし、後半の現代の事例が全部自分の見聞によっているのは、あまり
    誠実的な学問的態度と言いがたい気がする。
    「世間」の研究ってないかなあ。古くは丸山真男にはじまり、近年の
    公共性に関する論考は山ほどあるような気がするけど。「江湖」に関する
    研究とかだってそうじゃないのか。
    まあ「世間」という言葉は直接的に扱ってないかもしれんが・・・。

    それにしても、さぞかし、「世間」に埋没する「日本人」に対して、
    外国で勉強してきた著者は苛立ちや不快感を感じたのだろう。
    でもそんなこと言われても、それこそ僕らにはそれは「理屈の上で解る」
    けど「感覚的に解」らないんだけどなあ、という感じだ。
    自分の言ってることを理解してほしいけど、日本人は理屈でしか理解
    しない、と言ってたら永遠に理解なんてできない気がした。

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著者プロフィール

1935年生まれ。共立女子大学学長。専攻は西洋中世史。著書に『阿部謹也著作集』(筑摩書房)、『学問と「世間」』『ヨーロッパを見る視角』(ともに岩波書店)、『「世間」とは何か』『「教養」とは何か』(講談社)。

「2002年 『世間学への招待』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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