学力を育てる (岩波新書 新赤版 978)

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  • 岩波書店
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  • / ISBN・EAN: 9784004309789

感想・レビュー・書評

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  • 「学力とは何か」「子どもの学力を伸ばすにはどうしたら良いか」を考えるとき、一度は読んでおいた方が良い本。ただし、具体例が関西の学校に限られている点が少し物足りないのと、発行年が少し古いため、特に教員の長時間労働問題については全く触れておらず、そのため「効果のある学校とは」の議論は今の時代には合わなくなってしまっている点が少し残念。

  • この本によると、そもそも日本で使われる学力という言葉は日本独特のもので、英語で同じニュアンスを指す単語を見出すのは難しいらしい。
    なるほど、私たちは「学力」と聞くと、ペーパーテストや高校・大学入試のような点数化できるものを想像する。だが、これほどまで日本人を悩ませ、一喜一憂させる学力という概念は、世界標準ではなかった。世界では判断力や思考力といったものを含めて、もっと広い捉え方がされている。

    「データや根拠にもとづかない主張はしない」
    著者の持ち味は既成概念や学界の狭い枠にとらわれずに、物事の本来の状況を的確にわかりやすく捉えようとする視点であり、また、自分の考えのよりどころを現場から得ようという、頭だけでなく足も使った研究姿勢。だから書いている内容は理解しやすく、突飛さがない。

    一般に「親が高学歴ならば子どもの学力は高い」「親の収入が多いほど子どもの学力は高い」というようなことをよく聞く。確かに全体から見た傾向ではそれは正しいだろう。
    しかし著者はフィールドワークの結果「親が学歴でも収入でも恵まれていない家庭が多い学校で、それらが恵まれた学校を上回る成績を出す学校」の存在を発見した。

    教師が個人でなく集団で取り組み、そして家庭訪問などで学校外もフォローする…地道で単純で即効性があるわけじゃない。だけど、学校が家庭が地域が同じ方向を向いて協働した結果、従来の説なんか蹴り飛ばすかのような痛快な結果につながった。

    子どもの学力を上げようとするのなら、塾に通わせ、家庭教師をつけて…といったことをすればいいのは素人でもわかる。それが経済的理由などで全員ができるとは限らないから問題なのであって、今の日本教育の危機には、そんな当たり前の処方箋は意味がない。本当に現場の視点から出た、現場の状況に応じた柔軟な提案。それこそが私たちみんなの求めているものだし、実践できるもののはずだから。

    ただし志水先生も「これは特効薬やマジックじゃない」とは認めている。つまり、このやり方で成果が出せるなんて何の保証もないってこと。じゃあどうすればいい?その答えの導出を志水先生だけに負わせるのは酷だろう。「学力」を本当に広い世界標準の意味で捉えて教育を大きな視点で考えれば、選択肢が何百通りもあるテストを解くように正解が見えない。だから政治家や評論家の口先だけの論調は虫酸が走るし、志水氏のような現場とつながった研究者を待望する。
    (2011/6/19)

  •  うちの校長が勧めていたので,読んでみました。
     とくに「効果のある学校」の実践例のことを言っていたので,その部分を中心に読みました。
     ま,確かに,これだけ手厚く教師集団が指導をすれば,家庭的に,社会的にしんどい環境におかれた子どもたちも,伸びるんだろうなあって思いました。でも,そのためには,教師自身の家庭はどうなるのかな…(とくに中学の生徒指導上の話題)。みんな金八先生みたいになれないし…ってこともちょっとだけ思いました。
     ただ,効果を上げている小中学校がやっていることには,今,すぐにでも真似出来そうなことがたくさんあります。それはそれで,真似をしていけばいいんですよね。
     すでにうちの学校でもちゃんとやっているやん。というものもたくさんあるように思います。
     教師集団の力で,子どもたち全体を見ていく…そんな姿勢が大切ですね。

  • 【2011.07.30 再読】

    公立学校教員なら共通して持っておきたい「学力」観が、
    すっきりと明解な論法で書かれている名著。

    教育社会学の観点からも、
    ストンストンと胸の中で落ちていく論が展開されているし、
    データやフィールドワークの結果も読んでいて信頼性の高さが伺える。
    公立学校のあるべき姿がハッキリと著されているので、
    今後の私の行動に大きな示唆を与えてくれることは間違いない。

    あと、著者自身の人生経験も語られているところが、
    同和教育を大切にしているなと感じられ好感が持てたのはいうまでもない。

  •  学力低下論争の収束期たる2005年後半、それまでに百家争鳴の観があった学力低下問題・学力の定義・学力低下の原因・学力を増進させる方略などについて、本書はデータに基づく回答を与えようとするものだ。

     学力のイメージ化から、家庭・学校・地域の役割、調査データに伴う学力の現状まで広範に論じられている。
     この中で、調査データと力のある学校の内容が興味深い。学力低下の実態を一言で言えば、二こぶラクダ化と非通塾層の顕著な落ち込みであろうか。

     また、力のある学校とは、集団づくりを重視しつつ、学習内容の定着を図る試みをする学校といえる。本書はこれを提示しているのだ。

  • 10年ほど前に書かれた本です。この中にある「学力の樹」という考え方が大事だとある講演会でおうかがいしたので読んでみた。その考え方自体はよく分かるし、根っこの部分が最も大切であるのも分かる。が、まあ特に新しい考え方でもなかったように感じた。国際学力調査で日本の学力が低下しているということについて、参加国が増えたために順位が落ちているだけ、ということは一覧を見ればすぐわかることなのに、はっきりそう言っている人は、私にとっては本書の著者が初めてだった。ブルデューの考え方が、不勉強な私には新鮮で得るものが多かった。経済資本(お金・資産)、文化資本―客体化された形(本・楽器・骨董品)、制度化された形(学歴・教育資格)、身体化された形(ハビトゥス)―、社会関係資本(コネ・人間関係)、この3つの資本が、家庭における子育て・教育という再生産に役立っている。はてさて我が家には、経済資本はともかく、文化資本はまあまああると思うのだけれど、再生産にどうも役立っていない。父親がさりげなく(わざとらしく?)差し出した本を読んでいる姿を見つけたことがない。ピアノもヴァイオリンも長続きしなかった。進め方が上手でないのかなあ。良かれと思ってやったことがすべてうまくいくわけではない。それが今のところの実感。けれど、必ず根っこのところに何らかの引っ掛かりができているはずと思っているのだけれど、いつか何かのきっかけでまたそこから新しい芽が出ることを期待しつつ・・・。そう、今ふと思ったけれど、樹というのは上の方を切り落としても、横からふいっと生えてくることがある。すごい生命力だし、「学力の樹」についてもそういうことがあってもいいかも知れない。もう一つ、本書で紹介されている「効果のある学校」の取り組みについて、先生方の並々ならぬ努力、すごいことなのだろうと頭が下がります。しかし、一方できっと先生方は自分の家庭を犠牲にされているのではないだろうか、しんどいことだなあという思いもある。森毅先生ならどない言わはるのやろ~

  • 自分史から学力感を導入していくところは、「読み物」的であるが、その後は、教育学らしい論が展開される。

  • まず、「学力」というものの捉え方として、「学力の樹」という著者の考え方と、実際の学力調査結果に基づく分析が提示され、その中で「力のある学校(端的に言えば、低学力層の学力を下支えしいくつものセーフティネットを充実させている学校)」の実例を挿みながら、家庭・学校・地域それぞれの環境と学力とがどう関わり合っているかについて論じられ、最後に、これからの公立学校の在り方を提案する、というのが大まかな内容であった。

    本書の中に出てくるE小やU中の例を見ていると、学力がいかに表面的な数値だけでない、目には見えない部分での影響を強く受けていることが分かる。もちろん、「学力」と一口に言ってもそれが具体的にどんな能力を指すのかによっても変わってくるが、私は、「学力」とは「学ぶための力」であって、小学校や中学校、そして高校の教科書で学ぶ知識だけに限定されてはいけないと思うし、知識だけを持っていても実社会で役に立たない、そんなことを大学に在籍する今、自分の受けてきた教育、今までの勉強態度などを思い返して経験的にも感じるのである。

    また、本書を読んでいて気になったことは、以前貧困の勉強会で教育格差を少し扱ったが、そのとき低学歴層と高学歴層の格差に影響を与えるものとして、「親の年収(あるいは親の学歴)」という項目を挙げていた。しかし、本書でも家庭環境の違いによって生まれる成績の格差は取り扱われたが、そこで用いた指標は「文化的階層」といったものだった。例えば、「親に絵本などを読み聞かせしてもらったことがある」とか、「家の人に博物館や美術館に連れて行ってもらったことがある」「家にコンピューターがある」等である。すなわち、家庭の文化的水準の高さといったものであろうと思う。これは著者が、「学力」というものを、必ずしもペーパーテストの点数だったり、学歴の高さから反映されるものではない性質のものと考えているためかなと思った。

  • 本書を読んだ感想を三つの観点から述べていきたい。
    学力について
     近年、学校教育法の改正によって「学力」というものが定められた。それまで、「学力」というものは漠然とした概念であったが今回の改正により、明らかなものとなった。具体的には、「基礎的・基本的な知識・技能の習得」、「知識・技能を活用して課題を解決するために必要な思考力・判断力・表現力」、「学習意欲」の三つの点である。
     そして、『学力を育てる』の中にも学力が定義されており、その学力というのは上で挙げた学力とほぼ同様に当てはまる。つまり、著者は学校教育法が改正される前にはこの「学力」の構想を考えていたのである。もしくは、学校教育法の側が著者などの人物の言う「学力」を取り入れたと考える。しかし、学校教育法で「学力」を定めたからと言って、著者の望むように「学力」の育成が行われるだろうか。私はこの本を読み、そのように考えた。
     学校教育法で定められた「学力」を身につけるために、「言語活動の充実」が図られることとなった。しかし、それでは学校教育法で定められた「学力」の三点を相互発展させていくことが不十分にあるように考える。著者の考えとしては、その三点を「学力の樹」というモデルで捉えている。「学力の樹」では三点の一つひとつが「学力」の形成に不可欠であるとしている。「言語活動の充実」では、まず初めに必要なのが「学習意欲」にあると推測する。なぜならば、活動というものには積極性が必要であり、特に言語に関わる事柄となると言語能力と比べてもより必要となる。これは私が九年の義務教育を経て感じたことである。そして、「学習過程の明確化」を図ったとしても最初のアプローチが同じならば、初めの段階でつまづいてしまった生徒が報われない。そのため、様々な形で「学習」に取り組める「学習過程」を定めることによって、生徒それぞれに適した「学力」の形成方法を探ることが可能であると考える。
    次に、「言語活動」というのは生徒の主体的な側面が強いことである。「言語活動」として思い浮かべるものとして、ディスカッション、発表や討論などが挙げられるだろう。しかし、それらは生徒が主体的に取り組まなければあまり効果は得られないと考える。それゆえに真面目に取り組まない、及び、人前に出ることが苦手な生徒はそもそも「言語活動」に加わることができなくなってしまう。そのような欠点を「言語活動」には秘めていると考える。「学力」を育てるのには、三点を大切にし、それらを育成する方法も模索する必要があるが、その前に主体的に取り組めない生徒が存在するということを考慮に入れ、生徒が置かれている「学習環境」を考える必要があると考える。

    学習環境について
     著者はこの本の中で、自身が「学習環境」に恵まれていたこと、そして、「学習環境」の重要性を説いていた。そして、「学習環境」の一部である「家庭環境」には、「経済資本」、「文化資本」、「社会関係資本」の三つがあるとしている。私も「学力」の形成における「学習環境」の大切さについて同意する。
     私がこの中で一番の問題であると考えるのは「家庭環境」についてである。理由の一つとしては、「家庭環境」がいずれは階層を形成してしまう恐れがあるからである。今の日本でも劣悪な「家庭環境」で育った児童が大人になって、再び自分の子供を劣悪な「家庭環境」で育てるという階層の再生産が問題となっている。このまま進めば、日本もイギリスのような「階層社会」になってもおかしくはないと予想する。「階層社会」になれば、下層階級の中で育った児童は、「学習」の重要性というものに気づかず、そして、そのまま学力格差が拡大してしまうと考えられる。そのような人々にとって学校の存在意義も不要なものとなり、公立学校の存在意義すら疑問になってくると予測する。
    二つ目の理由として、「家庭環境」について教員の側からはあまり干渉するべきでないし、できないからである。「家庭環境」というのは仕方がない部分でもある。家庭での三つの資本が低いからといって、教員はそれを改善することはできないのである。「家庭環境」の改善には教員という教育の場ではなく、行政からの手助けというものが必要になると考える。
    しかし、教員がなす術がないからといって行政に任せるといった行為は、考えることの放棄なのではないのか。私は「家庭環境」を教員の側からは改善できないものの、教員の側が「家庭環境」の一部を補うことは可能であると考える。この本で掲載されているE小学校やO中学校の事例はまさに「家庭環境」を補うことなのではないのか。二つの事例ともに教員の負担は増えるものの、児童の「学力」の形成には大きな役割を果たすと考えられる。

    公立学校について
     私は公立学校の使命としては、児童に基礎学力を身につけさせることだと考える。なぜならば、公立学校には様々な生徒がおり、その中には保護者の持つ三つの資本が低い児童も当然存在する。そのような児童は他の児童と比べて「学力」の差が出てしまう恐れがあり、そのような児童の学力保障が課題となってくる。加えて、保護者の経済的な格差が拡大しつつある中で、保護者の教育に対する考え方にも変化があると考える。教育に関心のある保護者ならば、子どもを学習塾に通わせたり、私立学校に通わせたりすると考えられる。一方、教育に対して関心のない保護者ならば教育費を捻出しようとは考えず、子供の「学力」の形成に支障をきたす恐れがある。
    そのような児童の「学力」の形成に寄与できる存在が公立学校である。従って、公立学校はそのような児童に対して学習支援を図らなければならない。具体的な方法としては、この本で挙げられたE小学校やO中学校のように「家庭環境」と学校との関係性を持続させることにあると考える。そのためには教員の側としても考え方を改めなければならない。教員一人がクラスの児童を抱え持つと考えるのではなく、教員全体が児童全体を抱え持っていると考えなければならない。
    また、近年、教育の場での不祥事が取り上げられているように思える。教育の場での不祥事というのは教員個人の問題であると同時に、学校の仕組みとしての問題があると考えるが、そちらの方は比較的にあまり問題とされていない。しかし、私は学校の仕組みの方が大きい問題であると考える。その理由としては、現在の教員に求められるものが多過ぎることにあると考える。そして、先程述べたように教員が一人で問題を抱えることにより、
    事態がより深刻になるのだと推測する。そのため、教員を増員し仕事を分担することや、教員の抱える問題を共有できるシステムが必要だと考える。
     公立学校というのは児童の「学力形成」を行う場であるので、できる限り学校内部の問題を減らしていかなければ、「学力形成」に力を入れることができないと考える。また、教育に関心のない保護者の児童が基礎学力を身につける場でだけではなく、学習の重要性について学ぶ場でもあると考える。なぜなら、学習の重要性がわかったならば学習を行うようになると考えられ、学習の重要性を学ぶというのは「学力形成」の根幹に位置するためである。単純な知識などはその場しのぎで身につけることができるかもしれないが、学習の重要性はその場しのぎではどうにもならず、長い時間を要するのである。単純な「学力」のみを公立学校で教えると言うならば、学習塾で事足りるのではないのか。学習塾で教えることができないところに公立学校の存在意義があるのである。そのため、その意義、及び、使命を果たすべくして公立学校は在らねばならない。

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著者プロフィール

大阪大学大学院人間科学研究科教授。専門は教育社会学、学校臨床学。日本学術会議会員。主な著書は『マインド・ザ・ギャップ』(大阪大学出版会、2016)、『日本の外国人学校』(明石書店、2015)、『学校にできること』(角川選書、2010)など。

「2022年 『外国人の子ども白書【第2版】』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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