善と悪―倫理学への招待 (岩波新書)

著者 :
  • 岩波書店
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レビュー : 19
  • Amazon.co.jp ・本 (220ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004310396

作品紹介・あらすじ

道徳的にみて「善い」「悪い」という判断には、客観的な根拠はあるのか。「赤い」「青い」などの知覚的判断や、「酸性」「アルカリ性」などの科学的判断とはどう違うのか。その基準となる「道徳原理」は、どのようにありうるか。ソクラテス以来の大問題を、最新の分析哲学の手法を用いて根底から論じ、倫理学の基本を解き明かす。

感想・レビュー・書評

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  • ちょっと必要に迫られて読みました。
    いみじくも著者は、「あとがき」で本書についてこう書いています。
    「一般読者には箇所によっては不必要に重く、倫理学の専門家にとっては軽すぎ、情況的には迂遠すぎる…」云々。
    倫理学の素養のない一般読者たる自分には、不必要に重すぎました。
    だって、「反省的均衡の追求」とか「希薄な評価語と濃密な評価語」とか「共同主観的な沈殿」とか、聞き慣れない言葉が次から次に出て来るのですよ。
    手軽さが売りの新書ですが、思いのほか手こずりながら何とか読了しました。
    そんなわけですから、分かった風な顔をしてレビューを書くわけにはいきません(いつもそうですが)。
    こういう時は、理解できたところ(あるいは感動したところ)だけに特化してレビューを書くがよろしい。
    というわけで、まず、最も印象に残ったのは、道徳原理の候補たりうる
    「最大多数の最小苦悩」
    という命題です。
    次のケースがとても分かりやすかったです。
    それは、「出生前の診断によって、先天的障害のあることが判明した場合、それを理由とする人工中絶は、悪い事なのか?」というものです。
    たしかに、「最大多数の最小苦悩」を前提にすると、一見、人工中絶は悪くない、むしろ善い、という結論になるように見えます。
    著者はそのように述べて、以下、2つの理由を挙げます。
    ①人工中絶をした場合、自分に原因がないという意味で中絶した女性の「いわれなき苦悩」が生じるが、その胎児が生まれるに任せた時は、その後、生まれた子どもの苦悩、生んだ親の苦悩などなど、避け得たのに避けなかったがゆえの「いわれなき(?)苦悩」が増大する。両者を比べれば、「最大多数の最小苦悩」の命題で正当化されるのは前者。
    ②妊婦が望むなら中絶するという選択肢は、〝生む・生まないは女の自由〟と主張されてきた、女性の自由権ないし自己決定権を尊重することであり、そのことは、女性の自由権が否認されていたがゆえの、幾多のいわれなき苦悩を減少させる。
    しかし、と著者は言います。
    この2つの推論だけだと、「いくつかの論点が手つかずのままになっている」。
    最大多数の最小苦悩とは、正確に言うと、「全体として、最も多くの人の・より深刻ないわれなき苦悩が減るようにするものは、善い」という命題です。
    つまり、人々の苦悩の「深刻さ」の度合い、さらには、社会全体にとっての影響も考慮に入れなければならないというのです。
    たとえば、胎児の先天性障害が診断された後でも生むことを選ぶカップルの存在です。
    もし、「出生前診断の結果を理由とする人工中絶は善いことだ」という判断が正当化されると、生まれてきた障害児は「生まれない方が善かった」子という烙印を押されてしまいます。
    そうなった場合、親もまた、生きていく辛さに加え、子どもが「生きているべきでない」とされる辛さを背負い込まされることになります。
    それは「いわれなき苦悩」の深刻さにおいて、ほとんど「絶望的」というのが著者の見方です。
    私も全く同意します。
    では、どのように考えるべきなのでしょう。
    著者は「今の私は確たることは言えない」と前置きしたうえで、次のように述べます。
    「どの自由権も無制限ではないように、〝生む・生まないは女の自由〟と言われる自由権もまた、無制限ではない。〝本来なら生きているべきではない〟と烙印を押される人が生じる可能性がある場合には、少なくとも〝障害のある胎児を人工中絶するほうが善い〟という結論を正当化するような仕方で自由権を主張することに対しては、なんらかの留保が付されることもありえよう」
    実に納得のいく話です。
    これだけでも、本書を読む価値はありました。
    それにしても、大学時代に倫理学をちゃんと勉強しておくべきでしたね。
    チャンスはあったのに。
    反省。

  • 道徳的な「善」と「悪」に論理的な判断基準を求めていく倫理学の入門。「熱い・冷たい」、「赤い・青い」といった、科学的に計測可能な基準より上位に、「誠実・不実」「親切・冷徹」と言った「徳性」という抽象化された判断基準があり、その上に絶対的な「善悪」の基準が存在するという理屈を、ケーススタディを交えて積み上げていく。簡単に読み進められるものではないが、本格的な哲学書のように歯が立たないわけではないので、絶妙な頭の体操になる。そもそも「倫理学」という学問の片鱗に触れたのは初めてだが、単純な善悪以外の様々な意思決定に示唆的なロジックが勉強できる。

  • 2016.12.13
    道徳判断は、他の意識的活動にも似ているが、微妙に違う点もある。私にとって「良い」ということは、他者について考えることのない、独我論的な立場だろうか。そうではない。人間の「私」=「自我」は、他者の存在を根拠に成立している。私から見た上と下が、あなたから見た上と下出ないように、私が使う「私」と、あなたが使う「私」を、私はちゃんと区別できている。私、あなた、彼、彼女、ここ、そこ、という指示語は、常に主体の地理的位置関係や、意味上の位置関係と相対的である。なぜそのようなことが可能なのか、それは人間が他者の目線に立てるからである。相手の立場に立てることが、私の「私」とあなたの「私」という区別を生み出す。故に私とは、あなたにとっての「あなた」であり、あなたの立場に立つことによってこそ初めて生成される、自己を示す概念である。私の存在は他者を前提とし、あなたの「あなた」であり、つまり「私」=「対他存在」である。このような私の成立根拠から、私という存在は他者からの承認なしには存続し得ないという帰結が導かれる。故に我々は、互いを相互承認することで互いの「私」の存在をキープしている。この相互承認という観点から見られた、それに対してプラスの価値、マイナスの価値を与える行動パターンに対する価値づけ、認識が、道徳判断と言われる。倫理はつまり、「私」=「対他存在」であることを根拠にしている。
    →「私」=「対他存在」であるという記述が、分析哲学の記述で、私にはまだ理解が難しい、深めたい。また倫理は、「私」=「対他存在」を根拠に、相互承認に貢献しうるという観点からの価値判断ではあるが、逆に言えば、私という存在を承認する/してもらうための手段の一つに、倫理があるとも言える。サルトルもいうように、「地獄とは他者のことである」ので、私を承認しうる他者は、私の存在を否定もしうるのである。その時私は、他者の目から逃れ、内なる世界に逃げ込むだろう。また倫理だけでなくても、例えば勉強ができる、スポーツができるなどの理由で、承認されることもあるだろう。倫理の起源としての人間の特性、対他存在、承認、痛みなどについて、もっと考えたい。

    道徳判断は主観的、感情的で、客観性を持ち得ないだろうか。確かに道徳判断は文化や経験にかなり相対的ではある。しかしまず、道徳的感受性は対象との相互作用を通して、磨かれうる。対象に実在する性質を見てとる、のではなく、その見て取る目は対象により鍛えられ、鍛えられた目から見る対象はより複雑な道徳的価値を帯びてくる。道徳判断はこのような、事実認識のような主客対応というより、主客のダイナミズムともいうべき認識構造がある。また道徳判断の言明として、「希薄な評価語」と「濃密な評価語」というものがある。前者は「善悪、正邪」であり、後者はより具体的な行動や人格に対する評価、すなわち「親切/不親切、誠実/不実、正直/嘘つき」などである。このような「濃密な評価語」は、人柄や行為、言動に対して、「この行動は人間関係にどのような影響を及ぼしうるか」という観点から見た、行動パターンに対する価値的な認知である。それは単純な、我ー汝関係による行動による快苦の関係に止まらず、より客体的な目線からも考えられることだろう。このような人間の対他存在としての関心、および相手の行動に対するコンテキスト(文脈)への事実認識から、相手の行動は良いか悪いかを決める。そこにあるのは、私が、承認をめぐる人間関係の中で、経験した「痛み」や「苦悩」がある。それらから、私が痛いことは他者にしてもならないという判断が生まれ、価値となり、倫理となる。そしてさらに問題になるのは、倫理的価値に対する価値優先の違いである。つまり、親切であるのはいいことだ、これは大体で共有できる価値判断であるが、その程度としては、もろもろで意見が分かれる。各状況において、その人間関係への影響において、どの倫理的価値を優先すべきかは、人により異なる。この時、それぞれの倫理の「良さ」を決めるものは何か=善悪が、「希薄な評価語」が問題になる。
    →以上の点から、私ー汝関係において倫理的に対立した場合、どのようなことが考えられるかを、ちょっと考える。

    1、相手の行動に対する事実誤認から生まれる倫理対立
    …例えば、日本人は贈り物をするとき、「つまらないものですが」と言って、自分を下げることで相手への誠意を示す。逆に外国の方は、「いいものを持ってきたよ」と、その贈り物の価値を上げることで相手への誠意を示す。「誠意を示す、誠実に振舞おうとする」という点では互いに倫理的であるが、その倫理を示すためにどのような文化的背景や行動の理由、意図があるかは違う。このように倫理とは文脈依存的な価値判断であり、その文脈への相互の誤解が対立を招くことがある。その現在において認知できる行動のみで、他者の行動の倫理的価値が決まる、のではなく、その手前の文脈によって決まる。すると、互いが互いの文脈に対して誤解している時、互いが互いの「今」だけを見て価値判断をしあう以上、対立は起こりうる。これは習慣的にうすうす理解していることである、なぜなら我々は相手が間違った行動をしたと思った時、「なんでそんなことしたの?」と聞くからである。理由を聞けば、不実だと思った行動が誠実だったこともわかる。よってこの対立の対策としては、お互いがちゃんと理解し合う姿勢が必要、ということだろう。これもまた難しい問題である。おかしいと思った行動に対して、黙って耐えるのではなく、なんでそれをするのと、相手の行動の理由や背景を聞けるかどうか。「相互理解の問題」がここにはある。

    2、倫理に対する優先価値の違い
    …ここでは、互いが親切の価値を了解し、その文脈も理解するとしても、それでもその倫理的価値に対する優先が違うことが問題となる。これは例えば、妻を大事にするという倫理と、仕事を大事にするという倫理とが葛藤した時にどっちをとるか的な問題、と言える。そのように各状況において、個々人の内においても倫理と倫理は対立するし、また私はその人に情けをかけることが倫理だという人と、いや私はここで切り捨てることが倫理だ、という人は対立する。つまり問題は、倫理/非倫理という二元論ではなく、各状況において、より「良い」倫理的判断は何かという、程度の問題である。ここにきて、倫理の「よさ」そのものを問う、「希薄な評価語」=善悪が問題になる。
    このような倫理対立を克服するような倫理原則というものは
    あるだろうか。私は、あまりこれを考えることに意味を見出せない。もちろん政治経済的社会的立場からものを考えるときは必要であるように思うが、私の考えたいのは私的な関係における対立だからである。私一人が原理を仮に知っていても、相手が知らなければ、結局1の問題になる。この3の問題の意義は、そういう、どちらも正しいのにぶつかり合うという対立の仕方があるのだということを、自覚できた点にある。ヤスパースは「限界状況」において、人間の価値観の対立をあげている。お互いがなるだけ倫理的である努力をし、そして互いを理解し合う努力をし、なお分かり合えない食い違いがあるとき、我々の取りうる姿勢は、原理を見出すつまり絶対的正解をみつけようとするより、その異質さを相互に認め合うところに行き着くのではないか。そんな方向性でも、考えてみたい。「倫理に対する各自の価値序列の違いにおける対立の問題」である。

    3、Aは明らかに倫理的、そしてBは非倫理的
    …互いの相互理解も踏まえ、またある程度、何が倫理的で何が倫理的でないかの最低ラインの線引きもできていることも踏まえ、それでも互いを承認しあえない状態として、AとBの場面で考えるなら、Bが明らかに非倫理的である場合が考えられる。ここで問題なのは、「なぜ」Bは非倫理的なのか、である。そのパターンとして
    a、Bは何が倫理か知らない
    →これは子供のパターンであり、この場合なら教えればいいことになる。ここから問題になるのは教育的な関わりだろう。
    b、Bは何が倫理か知っている、つまり自分が非倫理的であることを知っている
    →これが厄介。なぜ、自分が非倫理的、間違っている、周りの人間関係に悪影響を及ぼすような行動をしていると知りながらもそれをしてしまうのか。上述の、「私」=「対他存在」であり、存在の承認を求めるのが人間とするなら、Bにとって倫理はその承認を得るための手段として機能していないことを意味する。人が承認を求めるとき、誰かに承認してもらおうとするときは、倫理的である以外にも、かまってちゃんであることもあるのである。私を見て、私を認めて、私を満たして、そのような独りよがりな行動には、他者への考慮はない。自分を承認することで精一杯の人間は、他者を自己の承認のために「道具」としてしか見ていない。人間を「道具」としてしか見ないところに倫理はない。なぜこのようになってしまったのか、そこには他者への恐れがあるとも考えられるが、これ以上は控える。ともかくこれは、「なぜ人は何が倫理かを知りながらも倫理的な行動が取れないか」という問題である。
    →またここから、倫理的である者が、非倫理的である者を傷つけ、関係が壊れた後、いかにその関係を修復するかという点から、許しと償いの問題も出てくる。許すという関係、償うという関係も、何が倫理かということを、そして倫理は何を守りたくて、倫理的に何が失われた時に「許しと償い」が問題になるのかも、考えられる。倫理的に傷つけられた関係の修復の方法としての、「許しと償いの問題」である。

  • 示唆に富む箇所もあったが、全体としては微妙。倫理学の入門という位置付けだが、学説の紹介ではなく、その基礎となる道徳判断の検討という内容。規範倫理学にはほとんど触れず、専らメタ倫理学という感じ。

  • 道徳言語が「実践に参与」しており、実践に「内在的な視野」を離れると意味を持ち得なくなる。

    普遍的な評価語(善悪、正邪など): thin
    記述的な評価語(誠実、温厚、冷酷など): thick

    濃密な評価語の方が世界を描写する言語(科学的言語も含む)より普遍的。誠実な人はどの文化圏でも高い評価が与えられるが、世界を描写する仕方は様々。

  • 倫理学の授業を取ったが無知すぎるため読んだ一冊。善と悪と言う題名ではあるが、倫理学の基礎的概念、もしくは一般的な概念について述べている。善悪の判断は徳性の認知がベースではあるが、その認知には普遍化特性と不偏性を包括した原理を必要としており、それを基準としているとしている。そして、人との関わりの中でのものであるため、「生きられている道徳」の中に善悪判断を投じている、としている。倫理学というか哲学は難しい・・・。

  •  本のタイトルが悪い。「善/悪とは何か?」を純粋に求めたい人にとっては期待外れになる。道徳の根拠の正当性を探るのが倫理学だとすれば、その倫理学の根幹の問いを分析哲学の手法でゴリゴリと探究していくので、規範倫理学や義務論、カント倫理学などを学びたい人にとっては若干方向が違うように思えてしまうだろう。むしろ「分析哲学入門」の入門としてタイトルを変えて出した方が読者が求めていた疑問に応えれたのではないだろうかと今更ながら思う。
     しかしながら、道徳的行為の判断基準が個々人によって違うとする相対主義の問題や、道徳の根拠の客観性はいかにして担保されるのかなどの問いには、分析哲学の手法にせよ、人間が他者との関係性の中で自己や世界を再帰的に形づくり、その関係性にこそ倫理が求められる場面が現れてくる、という視点は重要である。
     ただし、この本は分析哲学の本であるが。

  • さすがに難しい。M・サンデル「これからの正義の話をしよう」を読んだことがあるので、その論点を別角度から考えてみるにはよい機会となった。といっても半分も内容を理解してはいないのだろうなぁと思う。たまにはこういうものを読んでみるのも悪くない。

  • ペラパラ読み

    倫理学は向いていないのかもしれない。

  •  何が「善」で何が「悪」かという人間の永遠のテーマを扱った本。

     時代や地域によって「善悪」、「正邪」の線引きが異なることは言うまでもないが、その線がどのような判断に基づいて引かれたかということに考えが及ぶ人はあまりいない。胎児の中絶を、善とは言えないまでもやむを得ないと判断する人もいれば、中絶=人殺し=悪と捉える人もいる。

     そもそも、「善悪」、「正邪」は「丁寧」、「無礼」といった濃厚な評価語と異なり、稀薄な評価語(時代や地域によって線引きがまちまち)である。それでも通底する部分を探せば、「悪」とは、「人を痛めつける言動」、「価値ある者の剥奪」、「欲求の充足の妨害」、「基本的権利(人権)の蹂躙」という点に落ち着きます。そして、「善」はそういった「悪を認識・自覚すること」。その判断基準がまちまちだからこそ厄介なのではあるが。

     著者は第7章で善悪の輪郭を、

    1.「善・悪」をめぐる私たちの道徳判断の岩盤は、「誠実・不実」「親切・冷酷」といった特性の認知にある、
    2.そうした徳性は、”間柄によって支えられもすれば痛めつけられもする人間のありようへの気づかい”によって見分けられるコンテキストで、浮かび上がってくる行為パターンである、
    3.したがって、そうした徳性は、物性には還元できないが、私たちが正しくあるいは誤って認知する実存的な性質である、
    4.「善・悪」は「誠実・不実」「親切・冷酷」といった諸徳性とならぶ、もう一つの徳性ではなく、むしろ諸徳性をも総括する、したがってより抽象的なパターン概念である、
    5.したがって、善悪の見極めには、普遍化可能性・不偏性をみたす道徳原理が必要となる、

    としている。善悪の判断には特定の思想や文化、イデオロギーに依拠せず、どこでも、だれもが納得できるような基準が必要ということになる。何だか平凡な感じるが。

     「普遍化可能性・不偏性をみたす道徳原理」をどのように作り出すか、というところに言及してほしかったと考える私には少々物足りない。

     絶対的な善悪の基準はないが、我々がどこに善悪の判断基準を置いているのか省察することを怠るのは賢明ではない。それを探るためにはある程度有益な本だった。

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著者プロフィール

大庭健(おおば たけし)
1946年生まれの研究者。専修大学名誉教授。専攻は英米哲学・分析哲学で、それらの分野に大きな影響を与えた。
主な著作に『他者とは誰のことか』(勁草書房、1989年)『はじめての分析哲学』(産業図書、1990年)、『善と悪――倫理学への招待』(岩波新書、2006年)、『民を殺す国・日本――足尾鉱毒事件からフクシマヘ』(筑摩書房、2015年)など。訳書にアマルティア・セン『合理的な愚か者』[共訳](勁草書房、1989年)マクダウェル『徳と理性』(勁草書房、2016年)ほか。

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