ポスト戦後社会―シリーズ日本近現代史〈9〉 (岩波新書)

著者 :
  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (254ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004310501

作品紹介・あらすじ

バブルとその後の長期不況、深まる政治不信、そして高まる社会不安。列島が酔いしれた高度成長の夢のあと、何が待ち受けていたのか。崩れゆく冷戦構造のなかで、この国は次第に周回遅れのランナーとなっていったのではないか。六〇年代半ばから現在まで、政治・経済・社会・家族…すべてが変容し崩壊していく過程をたどる。

感想・レビュー・書評

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  • 浅間山荘事件以降の歴史をざっと記述している。ただ著者は社会学者なので、歴史というよりは社会学的な視点で見ているという印象を受けた。まあ、3,40年前なので歴史とは言い難いか。

  •  このタイトルの<ポスト戦後>を述べるとなれば、戦後は何時終わったのかを考えねばならない-と著者は先ず語る。

    だがこれについての共通意見が現在確立している訳でもない。
    「もはや戦後ではない」とは1956年の経済企画庁『年次経済報告』だが、これは55年から始まった高度成長政策により、戦後の<復興>から、新しい経済成長時代に転換したことを宣言したものだろう。
     しかしまたメディアなどで「戦後60年」と言われたのは,21世紀になってからだった。

     歴史と文学は時差があっても当然かもしれないが、例えば思潮社の『戦後詩選』(06/6)で、編者のひとり大岡信は次のように考える。ひとつは大阪万博,そして翌年の三島由紀夫の自衛隊乱入と自殺。つまり70年初頭で<戦後>は終わったのだ。

     で、実は本書も似たようなくくりをしている。「はじめに」に掲示している表は,戦後社会を1945年から70年代前半とし、ポスト戦後社会を70年代後半から現在までとする。
     沖縄復帰が72年5月で、これにより米軍の日本占領はすべての地域で完了したのだから、この辺りは妥当なのだろう。
    しかし安保条約により米軍が、日本国土を軍事的治外法権的に占拠している問題の解決はまだついてないが。

     目次は次のとおり。
    1-左翼の終わり
    2-豊かさの幻想のなかへ
    3-家族は溶解したか
    4-地域開発が遺したもの
    5-「失われた10年」のなかで
    6-アジアからのポスト戦後史

     この一冊はシリーズ「日本近現代史」の最終の第9册にあたる。そして歴史とともに,現在只今の事象を書くということは、なかなか難しいように見えた。 そして「おわりに」として<ポスト戦後史のかなたへ>という一節の最後に著者はこう書く。
     「<グローバル>という地平には包摂され得ない無数の人々の声や心情が,一体化する世界といかに結びつき,新しい社会のどんな歴史的主体を可能にしていくかに、21世紀の歴史は賭けられている」
     この展望で,今後の時代の潮流が辿れることを強く期待したいものだ。

  • 読了。

  • 課題図書

  • [配架場所]2F展示 [請求記号]080/I-3 [資料番号]2008112074、2009101109、2009101110 、2009102980 、2009101834、2010101521、2010108065

  • 「あとがき」まで読んで、優れた一書であることを痛感。戦後の事件やイベントを巡る解釈や視点じたいが大変、興味深い。しかし、最後の方になって、だからそれがなに?という疑問がふつふつと沸いてきた中で、あとがきで、ガツンと気合いを入れられた感じがした。歴史の脱構築である。

    ・べへいれんのシングルイシュー主義。
    ・<未来>を準拠点にして現在を位置づけることは、近代社会の根幹をなす価値意識。これがなくなりつつある。『現代日本人の意識構造」から
    ・この30年間で地方農村でも社会関係が「都市化」され、全人格的なつきあいは厭われるようになっていった。
    ・石原慎太郎による環境行政の後退。
    ・六ヶ所村は満州、樺太からの開拓移民が移住した。
    ・87年から10年で日本の国土の16%がリゾート開発。
    ・神戸の震災は「都市経営」という考え方そのものへの反省を迫っている。収益性の重視、住民福祉の軽視。
    ・右傾化と親米の親目。
    ・歴史とは、時間的である以前に空間的。単一の通史は存在しない。

  • <1. 変容する日本人の意識>p80
    Cf. 「日本人の意識」調査 by NHK放送文化研究所

    「限界集落」の状況について。Cf. 国土交通省「過疎地域等における集落の状況に関するアンケート調査」、農村開発企画委員会「限界集落における集落機能の実態等に関する調査」p145

    【企業移転から産業空洞化へ】p204 by 小林英夫『産業空洞化の克服』
    3つのプロセス
    ①70年代から85年のプラザ合意までで、急激な円高により競争力を失いかけた産業が輸出市場を防衛するために海外展開を始めた段階。最初にアジア進出をしたのは、繊維や雑貨といった労働集約的産業であったが、やがて電機、化学、機械産業もアジアや欧米に工場を建設し始めた。
    ②プラザ合意から90年代前半までで、円高が一層進行するなかで輸出拠点作りの動きが広がっていく。この段階になると、家電や自動車などの分野で親会社の要請を受けて系列子会社が海外移転を始めるようになる。それでもこの段階までは、主力部門は国内に残しての海外展開であった。
    ③90年代後半になると様相が変わってくる。アジア諸国の技術力向上のなかで、日本企業は主力部門を海外に移し始めた。
    今や日本の輸出総額に匹敵するほどの額が海外拠点で生産されるようになり、それらの拠点からの輸入も急増していく。国内に残されている生産現場は、主力というよりも残余の部隊となり、国内外の主客の関係が逆転してしまった。

    【おわりに】p238
    私たちが生きているのはグローバル化の時代だが、このグローバル化は一枚岩的なものではなく、異なる複数の未来に向けられている。試みにそれを、金融グローバリズムやアメリカとの同盟―依存関係を軸とする一極的な地平と、多数の市民的・国際的なエージェントが越境的に連携する多極的な地平に分けてみよう。この区別はもちろん理念型で、一方を「帝国」、他方を「マルチチュード」と呼ぶとしても、現実には両者は重なり、しばしば同じ人物や組織、活動に絡まり合っている。既存の国民国家は多くの場合、前者のグローバル化を支援しながら自らの足元を危うくしてきた。そしてその結果、どちらのグローバル化からも零れ落ちてしまう多くの人びとが生まれ、彼らの暮らしの足元は空洞化し、閉塞し、限界に達しつつある。
    本書で述べてきたことからするならば、まさしくこの第三の地平「グローバル」という地平には包摂され得ない無数の人びとの声や心情が、一体化する世界といかに結びつき、新しい社会のどんな歴史的主体を可能にしていくかに、21世紀の歴史は賭けられているのだ。

  • 60年代以降の様々な出来事を分析しながら振り返ることができる。

  • 岩波新書の「シリーズ日本近現代史」10冊のうちの9冊目。10冊目は編集部による執筆なので,幕末から始まるシリーズの歴史的に一番新しいのが本書ということになる。4冊目の成田龍一『大正デモクラシー』に続いての読書。まあ,この2冊のチョイスは著者で選んでいるようなものです。とりあえず,目次を。

    はじめに
    第1章 左翼の終わり
    第2章 豊かさの幻影のなかへ
    第3章 家族は溶解したか
    第4章 地域開発が遺したもの
    第5章 「失われた10年」のなかで
    第6章 アジアからのポスト戦後史
    おわりに

    本書の立場はわずか2ページのあとがきに集約されている。まずもって,社会科学の「空間論的転回」を主張する一人である著者だから,歴史社会学の立場からの現代史だが,歴史であると同時に空間の物語を紡ごうという意図が一つ。もう一つは「単一の「通史」は存在しない」(p.239)という立場。歴史の解釈は無数にあり,本書はその一つにすぎないという立場である。「だから本書は,通常よくある「ドル危機と石油ショック」「日中国交正常化」「高度成長から安定成長へ」「昭和から平成へ」「バブル経済と平成不況」「55年体制の崩壊」といった変化の時間的連続としては歴史を語らない」(p.240)と主張する。
    この立場は私にとってはこのあとがきを読んではじめて「あ,そうなんだ」と理解し,この立場はいかにも吉見氏らしいと感じた。しかし,実際に読んでいる途中は「なんてつまらない平板な歴史既述なのか」と感じながら読み進めた。「まあ,岩波新書だから平易に誰でも知っている史実を軸に語っているのだろう」と私自身の常識獲得のために読んだようなものだ。しかし,あとがきを読んで,明らかに著者が覆そうとした常識をも私が持っていないことに気づかされる。私には本書がいかにも「通史」のように見えたのだ。
    少し前に読んだ北田暁大『「嗤う」日本のナショナリズム』でも強く感じたのだが,東京大学社会学,あるいは情報学環出身の研究者は何か強制観念にかられたかのように,1980年代以降の日本の状況を理解しようとしている。吉見氏もその出世作である『都市のドラマトゥウルギー』が東京の近代史であったように,北田氏も広告の近代が最初のテーマだった。それが徐々に現代を語るように,あるいは語らねばならないかのようになっていく。わたしたちの知らない近代期については彼らの大胆な歴史解釈がいかにも説得的に,魅力的にみえるわけだが,とかくわたしたちが同時代的に経験している時代の解釈となると,本当にそうなのか,メディアが報じていることを基礎としすぎているような気もしないでもない。
    歴史社会学という学問自体がそういうものかもしれないが,同時代的に起こっていることはすべてなにか「見えざる手」によって,一定の方向に導かれているように語ってしまうのは,著者があとがきで否定しようとしている「通史」ではないのだろうか。複雑化しているはずのこの社会にある種の理解可能な明快さを求めることは正しいのだろうか。

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