西田幾多郎―生きることと哲学 (岩波新書)

著者 : 藤田正勝
  • 岩波書店 (2007年3月20日発売)
3.62
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  • レビュー :7
  • Amazon.co.jp ・本 (207ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004310662

作品紹介

「私はいつまでも一介の坑夫である」。思考の鉱脈を探して、ひたすら「自ら思索する」ことを、そして「真に生きる」とは何かを追い求めた西田幾多郎。既存の枠組みを徹底して問い直すその哲学は、今なお国内外で新たな思考を啓発し続けている。-西田自身の言葉に「生の脈動」を読みとりつつ、その思索の軌跡へと読者を導く案内の書。

西田幾多郎―生きることと哲学 (岩波新書)の感想・レビュー・書評

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  • 2017.8.25
    無について考えていてたどり着いた。無を認識するというのはどういうことなのか。無を、認識するなら、無は意識に相関して何かしらの形としてある有であるはずである。それは存在だけの認識、切り取られた、穴を認識するようなものなのか、とか。しかし西田哲学における無は、そういう認識される無や有などが、生まれているところそのものである。フッサールの意識というところが近いした。禅を行なっていたというところもあって、自らの内に内省して、その根本を探るという点では似ているのかもしれない。ただ、やっぱりわからない。絶対矛盾的自己同一とか、わかるようわからない。論理は超越しているのだろうか。ただ入門書とというだけあって、他の本よりはわかりやすい気もしたし、西洋の有を前提する哲学ではなく無から始めるというのも、共感する。ただ言っていることは現象学とはそんなに変わらない気もした。

  • なんとなく気になっていた西田幾多郎。入門として読んだ。
    わかるようなわからないような感じですが、西田の常に根本を問う哲学にはすごい気迫を感じるし惹かれます。

  • かなりわかりやすく西田について述べられてる。伝記的な部分は必要最小限度にとどめられており、西田理解に必要な部分だけが綴られている。西田について深く読みこんでいくといったことはあまり為されていないが、西田のエッセンスを搾り取ることにはかなり腐心されている。かなりわかりやすい上に、いい部分を搾り取っているので、ある意味、反感を買うかもしれない。こうして簡略化してしまえばそこには西田の影は残らないといった具合に。とはいえ、このあたりは著者の信念なども関わってくるのであまり言及しないでおく。ともかくエッセンスがうまく搾り取られているのだけれど、ふと思ったのは、哲学者を比較して捉える必要はないのだと耳にするけれど、むしろ、哲学書は著者が同じでも別物として読むべきではないか?ということである。なぜなら、哲学者の思索は変わりうるからである、いや、変わることこそがむしろ哲学者だろう。それでも変わらぬ箇所はあるだろうし、変遷は読み進められるかもしれないが、そんなことを言っていては、比較する必要はないとして批判していることを自分も繰り返していることになりはしないか?むしろ、比較する必要はないと言っている先生たちも著書を読めば比較しているし、その人物の編成はかなり史的に捉えていらっしゃる。このあたりは一体どうなっているのか?

    さて、本著の内容についてだが、西田の第一は「純粋経験」である。これは、主客に至る前の、純粋な状態での経験を表している。一般に西洋では、デカルト以来の主客分離がある種の伝統となっているし(異論もあろうが)、それが現在の科学史観を支えてもいる。つまり、我々は主体として物事を認識するがその外には客観世界が広がっているといった具合である。その客観世界がかつては神であったが、神は死に、科学や無意識などといったものにより説明がなされるようになった。しかし、西田は主客で体験される前に、より純粋ななにかがあると感じている。それは直観であり、西田のイメージで言えば芸術家の目によって観られるものである。それは純粋視座、純粋視覚とも形容される。物事の裏側にある本質とも言えよう。そこには主語はない。ただ述語だけがある。このあたりは若干、ハイデッガーの<がある><である>議論にも類似しているように感じられるし、光といった単語も出てくる上に、アリストテレスにも西田は言及しているので、西田を基軸としてハイデッガーを読むということは誰しもが思いつくのだろうが、その点に関してはハイデッガー入門で厳しく批判されていたのは記憶に新しい。さて、とはいえ、西田には批判が殺到する。まずは純粋経験である。純粋経験だけで説明しきれるのか?といった具合である。西田はこれに対して否と考えるようになる。そこで、「場所」が出現してくる。場所、つまりそれは空間である。空間は様々なものを包摂しうる。それゆえに多様性を持つ。これは無の場所である。とはいえ、何もないのではない。無の場所なのである。とはいえ、これは有に極限まで迫ることによって生じる無の場所であり、これは先験的であると同時に、写され、映じられ、反省される場所でもある。対立が生じる以前のものであり、そうして対立を超越してたどり着ける場所でもある。とはいえ、これを空間という単語だけで説明しきらない。ここには時間がある。時間の空間化と言えばベルクソンだが、西田も恐らくはそれをやっている。時間は直線的に進むが、しかし空間は円環的である。だがこの場所においては円環的であり、しかし、直線的なのである。絶えず矛盾が生じては矛盾を超越し、その矛盾すら無いという更なる矛盾を作り出すある種の螺旋構造のようなものが想定されていたのかもしれない。結局のところかなり抽象的なものとなってきているが、西田自身は禅に傾倒していた過去もあり、宗教を軽視していない。ただ、宗教が向かい合い覗き見るものだとしたら、哲学は働くものであり、制作(ポイエーシス)するものである、と述べている。これは宗教は真理に対して受容的である反面で、哲学は真理に対して能動的とも言い換えられるかもしれない。だが、どちらも日常的で、日常に端を発し、最終的に日常へと還元するものであると西田は考えている。これを更に突き詰めると、宗教に論理が生じれば哲学となるし、実際に西洋哲学はそれによって発展してきたとも言えよう。逆に東洋哲学では宗教へのその姿勢がいまいち確立されなかったせいで論理化が進んでいないということを西田は問題点としてあげている。西田は西洋を学ぶことで西洋の論理を知り、それによって東洋哲学を発展させようという弁証法を抱いていたようで、そうしてそれは矛盾しうる弁証法であったとされる。また、東洋哲学も国柄があり、日本では「情」がその基軸を担っていたとされる。知情意、情意とあり、西田は純粋経験においてはそれらが一体となっていると考えていたようだが、その主役があるとすればそれは「情」なのであろう。ちなみに西田が説く哲学の日常性や能動性は、マルクス主義的な批判を喰らったことで生じたようだが、個人的にはマルクス主義はかなりの毒であったと思われてならない。なぜならば、マルクス主義のせいで歴史性に縛られた議論が多発するからである。それすらも必要な歴史であったといえばきこえはいいが、その言葉自体がむしろマルクス主義によって縛られているとは思えないか?ともかくも、西田は純粋な哲学者であったことだけは間違いない。だが、西田の議論はかなり際どいと思う。しかし、本気で哲学をすれば宗教は哂えなくなるのは間違いない。それはショーペンハウエルや西田が述べているけれど(無論、他の大多数の哲学者たちが)、もし、直観を採用するならば、世界は予定運命的に回っているとも言えてしまうからであろう。神やイデアのような先験的な存在(観念)を規定せずとも、そのように言えてしまう。偶然は直観によって手繰り寄せられた結果、必然となる。それゆえに人は必然を繰り返して生を全うする、とは俺の言である。

  • 私は文学専門ではないですが、難なく読むことができました。
    京都に行き西田幾多郎に興味を持ち読んでみたのですが、
    彼の生き方や背景などを知ることができよかったと思います。

  • [ 内容 ]
    「私はいつまでも一介の坑夫である」。
    思考の鉱脈を探して、ひたすら「自ら思索する」ことを、そして「真に生きる」とは何かを追い求めた西田幾多郎。
    既存の枠組みを徹底して問い直すその哲学は、今なお国内外で新たな思考を啓発し続けている。
    ―西田自身の言葉に「生の脈動」を読みとりつつ、その思索の軌跡へと読者を導く案内の書。

    [ 目次 ]
    序章 生きることと哲学
    第1章 西田幾多郎という人―悲哀を貫く意志
    第2章 根源に向かって―純粋経験
    第3章 生命の表現―芸術
    第4章 論理化をめざして―場所
    第5章 批判を超えて―世界と歴史
    第6章 具体性の思索―行為と身体
    第7章 真の自己へ―宗教
    第8章 東洋と西洋のはざま―新たな創造に向かって
    終章 西田哲学の位置と可能性

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    [ 参考となる書評 ]

  • 西田幾多郎の思想の全体を的確に整理し、明晰な言葉で解説している。西田哲学の入門書の中でもたいへん分かりやすい一冊だと思う。

    西田幾多郎の生涯を簡潔にたどったあと、その思想の紹介がおこなわれる。第二章は『善の研究』の「純粋経験」論、第三章は『芸術と道徳』などの芸術論、第四章はいわゆる中期の「場所」の思想、第五章は後期の「歴史的世界」の立場について、第六章では後期の行為論・身体論、第七章では西田自身「哲学の終結」と考えていた宗教が、それぞれ解説されている。

    さらに、「東洋と西洋のはざま」と題された第八章と終章では、西洋哲学と東洋思想の双方の根底を求めつづけた西田の姿勢と、その今日的意義が論じられている。ここでは、近年西田哲学に注目が集まっている理由が的確に語られているように思う。

    中期の「場所」の思想についての解説がやや通り一遍の印象を受ける点が少し残念だが、新書の分量でそこまでの解説を要求するのは無理というものだろう。

  • あまりにも独創的なために難解な西田哲学。その背景の人生をおおまかに描き出したり、思想のいくつかのポイントを解説したり、西田哲学入門としてはなかなかいいのではないだろうか。
    ただ、新書というものはどうしてもそうだが、紙数が足りないため、あまり詳しく突っ込んで論じてはくれない。
    あくまで大まかな解説なので、さらに詳しく学ぶためにはこの本ではやはり足りない。
    それにしても、新書というものは、こんなにも速読可能なのに、なぜこんなにもあっさり内容を忘れてしまうのだろうか。

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