遣唐使 (岩波新書 新赤版1104)

  • 岩波書店 (2007年11月20日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (224ページ) / ISBN・EAN: 9784004311041

感想・レビュー・書評

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  •  遣唐使が日本から年に何回朝貢にいけばいいかという取り決めで、費用や渡航の準備も大変だし20年に一回でいいよという取り決めをしている。朝貢としては間隔が最長の形であったと言える。(P43)
     この二十年一貢の取り決めは、大宝の使いである702年か、その次の養老の遣唐使717年あたりで決められたと思われるそうだ。(P44)
     ちなみに大宝の使いが対面したのは女帝則天武后であり、『史記正義』にはこの時、「日本」への改号は大宝の遣唐使に対して通達されたとある。日本の天皇は唐の冊封を受けてその地位を認められるという立場ではなかったが、唐にとっては臣下であることには変わりなかった。日本は自分達の国が倭国と呼ばれるのは嫌がった。それで、たぶんヤマトでもいいし、なんとでもいろんな国名の候補があったのだけれども、国際的には一応通じているのは「日出ずる国」である。中国からすれば、日本という国名は、中国を世界の中心とする中国王朝の中華思想に同調する意味があったでの、中国からすれば、「日本」は別にそれでいいんじゃないかなとなる。しかし、日本が、自分達は東の辺国ですから、と、謙虚にふるまってこの名前にするだろうか。もし本当に中国にヘイコラ頭を下げるのだったら、そのまま「日出国」とか「日登国」とか、辺国らしい名前にするような気がする。しかし「日の昇る本のところ」で、それを、へりくだったものだと考えるイメージは現代人にとっても持ちにくいし、うまいこと考えているとしか思えない。蔑称がそもそも気に入らなくて名前を変えたのだから、蔑称→蔑称に変えるはずはなく、「初日の出」を拝む文化が日本にあるように、素朴な太陽信仰もちょっとはあるように思う。もちろん、仏教の経典に基づき、日出処・日没処は使用されたのだが、どう考えても、没するよりは出てくる方が上だし、考え方にとってはかなり中国を相対的に捉える変更も可能である。例えその時そういう東の辺国にすぎないとされるような国名であっても、考え方によっては、はじまりの大地、すべてのスタート地点とも考えられるような、変更可能性にあふれた国名の付け方だと思われる。
    さて、大宝度、弁正が唐にいったときは、南のルートで、南と行っても、黄海ではなく東シナ海を真横にぶった切って航海していくルートです。702年は特別編成の五隻で、30年あまりの中断を経ての再開なので、唐との国交回復が大きな使命だった。またこのメンバーには「執節使」が置かれていて、いわば天皇から大刀を賜った全権大使。まかされたのは粟田真人。これを渡されるというと、よほどの文句なしのリーダーでないと。粟田真人は孝徳朝の白雉4年(653年)第二次遣唐使に学問僧として随行しているので、約50年ぶりの渡唐になります。律令についてもすでにプロですし、国はどういうルールで動かしていけばいいのか、都市と国土はどのように設計していけばいいのか、とりあえずありったけ情報収集してくれというのが天皇らの願いだったでしょう。
    あと、遣唐使船についても触れられています。遣唐使船といえば、網代帆ですが、麻布の帆も装備されていて、風向きに応じて併用されたのではないかと述べられています。また、東野氏は遣唐使船の復元をやり直す時期が来ている。もっと巨大な船だったのではないか。遣唐使船は長さ三〇メートルほどと見積もられているけれども、短すぎる。これほど大量の人数が入るのだろうかと疑問がある。実際、奈良の遣唐使船の復元に立ってみたけど、50人乗せてもいっぱいいっぱいなくらいで、あきらかに船の大きさおかしいというのが素直な気持ちだ。
    あと、弁正とともに唐にいった道慈も優秀だ。法隆寺近くの豪族額田部の一族だが、16年にわたる留学を終えて、最新の「金光明最勝王経」の中国語訳を持ち帰っている。しかし、遣唐使で思うのは、やはり天皇自身や、天皇の血縁やトップクラスの貴族・官僚らが行っているのではなく、そのちょっと下とか、学問僧とか、そこそこの階級にいる、すごくやる気があったり頭の良い人が遣唐使に選ばれて、ミッションをこなしていると分かる。それも、唐に対して、いや、帝国に対して日本という国がどのように見てるかわかる。遣唐使を学ぶとは、大国への距離感や反抗心、学び方を知ることを意味するのだ。
    つまり、皇族まで出向いて、すべて取り込まれるくらい学ぶつもりはない。そこそこのランクの人の出世の気持ちを利用して、めっちゃ学ばせてくる。けれども、20年に一回だし、戻ってくるのも、何年後やねんという感じで、気の長い話でもある。ほぼ、島流しみたいなものなのかもしれない。手に入れるものは、踊りや音楽から、薬、お香、芸術工芸品、なにより経典だ。そして、あまり言及されていないが、何を見て、何を学んだか、その人の「経験」、言語より経験から発せられる言葉が大事だったと思う。吉備真備が何か論文を書き記したわけではない。彼は唐について、語りに語り、情報を共有しただろう。そして、では日本ならどうするか? 纏足や絶対君主的な世界や弁髪や城壁はどこまで取り入れるか。宦官は? 私ならそんな金玉取ったりしませんし、正直、中国にはドン引きするところがあって、そんなもんわざわざ取り入れる必要ないやろと思う所がありますと、語ったんだろうと思うし、実際天皇も「おまえら宦官なるか?」といったらまわりの人らは「なるわけねーだろ。もういっぺん壬申の乱で日本ひっくりかえしたろか」って普通に答えたのではないかなと思います。
    あと、玄宗皇帝は日本の紙の質が高いと褒めていたとか。
    で、そんな良い紙を持つ日本で、9世紀末にあまれた本「日本国見在書目録」は、日本にある全漢籍をまとめたものだが、種類としては1600近くあり、盛唐時代の宮廷の漢籍リストとくらべると五割強が揃っていた。
    とくに俗書「遊仙窟」は歓迎された。儒教に縛られた中国の文学思想では、「遊仙窟」は位置付けの低いものに過ぎなかったが、日本にはそういった価値観はなく、遊仙窟はエロと同時に、自分の文学の表現の幅を広げる面白い本と、素直に評価されたから遊仙窟が残ったのではないかと述べている。
    漢字の発音についても、呉音と漢音が中心で、宋代・元代の音である唐音は広く一般化していない。渡来人がもたらした呉音と、遣唐使のころに伝わった漢音が日本文化の基板を形成している。
    東野氏は「日本は唐文化を自らのフィルターで濾過し、文化摩擦をほとんど起こさずに摂取した」と述べている。だから、道教も、その考えや、面白いところを表面的には取り入れたが、では本格的に思想として取り込んだかと言えばそうではない。朝廷の中枢は、中国や朝鮮を実際に見てはいない。遣唐使といえば、国際交流、そう、開かれた日本できらびやかな文化の輸入と思われるが、同時に、20年に一回だし、行った人はなかなか帰ってこないし、貴族のトップ中のトップは行ってないし、あんまりグローバリズムのはじまりのように、理想を押し付けるように考えるのはよくないと結論部で述べている。

    • アセロラさん
      はじめまして。フォローありがとうございます。
      遣唐使しかり、日本人が外からの物を取り入れるのが上手いのは昔からなんですね。
      現在、大河ド...
      はじめまして。フォローありがとうございます。
      遣唐使しかり、日本人が外からの物を取り入れるのが上手いのは昔からなんですね。
      現在、大河ドラマで放送されている時代に正式に宋と貿易をしていたなら、
      いわゆる国風文化もまたちょっと異なるものになってたかもしれないですね。
      2024/11/28
    • ハタハタさん
      アセロラさん
      はじめまして。
      遣唐使ってよく考えたら20年に一回だし、全然中国と交流してないじゃん、と考えていいというのが、発見でしたね...
      アセロラさん
      はじめまして。
      遣唐使ってよく考えたら20年に一回だし、全然中国と交流してないじゃん、と考えていいというのが、発見でしたね。
      国風文化は逆に中国をたくさん民間の貿易から取り入れていて、国風文化こそ、遣唐使のころと比べものにならないくらいの中国文化ですよという指摘も、他の文献であったように思います。
      「香炉峰の雪」とかも、中国がよく行き渡ったからこそできた教養ですよね。
      中国との距離感、遣唐使はとても参考になるし、日本の外交の原点だと思いますね。(古代は古代で考え抜かれた外交をしているわけです)
      2024/11/30
  • 遣隋使と遣唐使は、日本と中国の関係を深めるための大事な鍵を握っている。
    文化と経済の要である。

    遣隋使と遣唐使の詳細を追いかけていって、中国と日本の文化を解剖していくと、
    今後の中国と日本の友好関係の絆が見つかるかもしれない。

  • [ 内容 ]
    中国で、遣唐留学生「井真成」の墓誌が発見されたというニュースは、まだ耳に新しい。
    国家の使節として、また留学生・留学僧として海を渡った人々は何を担い、何を求め、何を得てきたのだろうか。
    遣隋使と遣唐使を統一的にとらえる視点から、七、八、九世紀の約三百年にわたる日本古代外交の実態と、その歴史的な意義を読み解いていく。

    [ 目次 ]
    序章 遣唐留学生の基誌
    第1章 遣隋使から遣唐使へ
    第2章 長安・洛陽への旅
    第3章 海を渡った人々
    第4章 往来した品々
    終章 日本文化の形成と唐文化

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    [ 参考となる書評 ]

  • 筆者は遣唐使の第一人者。
    広く遣唐使についての最新の学説を取り入れています。
    09年度東大前期の問題作成者は、間違いなくこの本を念頭に作っていると思います。

  •  東野治之氏は同じ大学の先輩で、そのうわさは昔から国語国文学の小島憲之先生を通して聞いていた。氏の『遣唐使と正倉院』などという専門書まで買ったことがあるが、本棚をさがしてもないところを見ると、ろくに目も通さないうちに売ってしまったようだ。本書は、たまたま長崎、五島列島の旅に出るときに、買い置きの新書から選んだものだが、その五島列島が遣唐使の中継地、いや日本からの出発地であったとは偶然だった。東野氏は歴史学者で、本書には氏のこれまでの古代史研究、遣唐使研究のエッセンスと新説がふんだんに書かれているように思った。たとえば、遣唐使のとったダブルスタンダード。つまり、国内に対しては唐を蛮族とみ、朝貢の品を唐への賜りものと見なしていたという。それは日本が唐からあまりに遠くにあったためとれたもので、唐としても他の臣下のように毎年のように朝貢させる必要は感じていなかったようだ。その朝貢品というのも、金銀ガラス細工のような芸術品などではなく現物租税の一部であった。当時の日本には高級な芸術品をつくる力などまだなかったし、唐としても貨幣に代わるものの方がよかったようだ。「日本」という国号にしても、本来「倭」と呼ばれていたのを、唐が「日本」と改めさせたという。「日の出る処」と「日の没する処」では対等関係になるが、「日本」だけだとそれは辺境の国、東夷ということになる。
     遣唐使がなぜあれほど遭難したかも実は政治的な背景があった。それは唐の元旦の祝賀に朝貢国の一つとして駆けつける必要があり、それに間に合わせるには夏から初秋という台風シーズンを選ばざるを得なかったからだという。その他はっと思わせる記述が各所に見られるが、最後の日本は開かれていたのではなく、大陸から離れていたがために、また自給自足の態勢にあったために、選択的に外国文化を受容できたという指摘も興味深い。海外との交渉は部分的に行われただけで、中央の要人は決してこれに加わっていない。明治初期の岩倉遣米欧使節団のメンバーが当時の政府の半分以上であったことと考え合わせれば納得がいく。

  • 2025.11.26
    遣唐使という視点から見えてくるものっていっぱいあるんだなと思わされた
    概観するには適してる一冊

  • 2004年に中国で見つかった、日本人留学生・井真成の墓誌をはじめ、遣唐使にまつわる話。
    朝賀(元日)に合わせるために、わざわざ気象条件の悪い夏に出発したとか、唐についてからも寒い中陸路が大変とか、現地で結婚する人もいたが伴侶を日本に連れ帰ることは禁止されていたとか、興味深い。
    有名な「日出づる処の天子、日没する処の天子に」というフレーズは『大智度論』の表現を借用した、東西の文飾に過ぎないというのが、深い意味はなかったのか、と。
    毎年の朝貢を、遠いからという理由で免除され、それが功を奏して唐の制度のいいとこどりで国の仕組みを整備できたとか(宦官を置かなかったなど)、「天皇」と表記すると日本は臣下と思っている唐の怒りを買うため「主明楽美御徳(すめらみこと)」と音写にするなど、島国だから目が届かない利点を活かしてきたというのが興味深い。
    しょっちゅう遭難しているイメージだが、実際はそうでもない。4隻4~500人が平均、水手(こぎ手)も多い。大きな船もできるようになり、無事戻った船は名前を賜ったりしている。遣唐使から戻った人は3年間税免除。
    遣唐使にまつわる制度や、ダブルスタンダードな外交が見えてきておもしろかった。

  • フォトリーディング&高速リーディング。

  • 白紙に戻そう遣唐使。
    遣唐使といえば、真っ先に思い浮かぶのはこのフレーズ。
    受験の頻出年号としてインプットされていただけだが、遣唐使をそんなに軽く扱ってはいけないと反省。

    海を渡るのは命がけ。渡った後も長安に行けるのも一握り。帰国できるのはもっと少ない。
    一発当ててやろうという博打打ちのような思い切りがないとできない。
    だからこそ今にも影響をもたらすような大仕事になったわけで。

    遣唐使の時期が、特殊であったと考えるべきで、鎖国体質というのもうなづける。

  • おもしろい!

  •  中国との実り多い交流は遣隋使に始まるという。その第2回遣隋使において、聖徳太子が隋の煬帝に送ったという国書に書かれた
    「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや。」
    というフレーズがあまりにも有名だ。煬帝は無礼だと激怒したというが、この「日出づる処」「日没する処」は仏典の「大智度論」に使われている表現を借用したもので「東」「西」の文飾に過ぎず、特に優劣の意味は込められてはいないのだそうだ。これは知らなかった。

     筆者は最近中国で発見された「井真成」という遣唐留学生の墓誌から、彼らが国家の使節として何を唐に持ち込み、何を日本に伝えようとしたのか、歴史を読み解いていく。

     中でも興味を引いたのは、唐文化を選択して受容したということである。仏教を積極的に受け入れたが、道教の全面的な受け入れは拒んだ。また、官僚機構に宦官を置かなかった。

     地理的に離れているという環境が我が国独自の判断で唐の文化を選び取ることが可能だったという。9世紀第20次遣唐使は、大使の菅原道真の上奏により停止されるが、その頃までには唐文化はだいぶ吸収されていたそうだ。

  • 【書店ぶらぶら】

  • 百科事典的に手元においていても良いが、よっぽど遣唐使に対するマニア的興味がなければ、内容は面白くは無い。最近の研究成果が反映されていてコンパクトにまとまった良書であるそうだが。

  • 東野治之さんの遣唐使関連本って言ったら、
    『遣唐使船』だけど、

    今回はもっとまとめてみたって感じ。

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