- Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004311225
作品紹介・あらすじ
「現実から逃避」するのではなく、むしろ「現実へと逃避」する者たち-。彼らはいったい何を求めているのか。戦後の「理想の時代」から、七〇年代以降の「虚構の時代」を経て、九五年を境に迎えた特異な時代を、戦後精神史の中に位置づけ、現代社会における普遍的な連帯の可能性を理論的に探る。大澤社会学・最新の地平。
感想・レビュー・書評
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中盤までしかついて行けなかった。展開がはたして妥当なものなのか、こじつけなのか判断しかねる。
表題のインパクトの割に、内容は衝撃的ではなかった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
戦後から時代を「理想の時代」、「虚構の時代」、「不可能性の時代」の三つにわけてその時代の特徴や人々が何を求めていたのかを分析していました。
社会学の新書ということもあって専門的な言い回しが多く難しく感じられましたが、映画や小説、アニメや漫画など身近な作品が紹介されていて楽しく読めました。
その時代の事件から加害者の心理を分析し、生活を豊かにすることや社会的な地位などの「理想」を求める時代から、現実では起こり得ることのない「虚構」を求める時代への移行を経て、現実への逃避と極端な虚構化といった全く異なるものを求める「不可能性の時代」への疑問点を提示して、その複雑さを説明するといった内容でした。 -
読み進めてくうちに今の時代の感覚に近づいてきてる感ありました。すべて理解できたわけではないのでまたちょくちょく読み返したいです。
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「現実」に逃避しているとして挙げられる「現実」の例が、リスカ、リアリティショー、アニメオタク。作者は一体どんな環境に日頃身を置いてるのか。Twitter?馴染みのない身からすれば、せめて全人口の何割がそれぞれにハマっているのか数字が出されてると分かりやすかったと思う。
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『社会学史』があまりに面白かったので、大澤さんの別の著作にも手を出してみた。
戦後日本を、理想の時代→虚構の時代→不可能性の時代、と遷移してきたと論じる。『虚構の時代の果て』で、オウム真理教事件を分析して、その時代の限界と終焉を論じた著作を継いで社会学的に現代を分析したものだという。
著者は、二つの少年犯罪を異なる時代の背景を反映したものとして、大きく取り上げる。一つが、永山則夫であり、もう一つが少年Aとして知られる神戸連続児童殺傷事件である。二つの少年事件の対照性を語り、時代の変遷を語る。この二つの少年殺人事件の類似と相違点が理想の時代と虚構の時代を分ける鍵となると結論づけるのである。
そして、宮崎勤による殺人事件を語り、オウム真理教の地下鉄サリン事件を虚構の時代の終わりと位置付ける。東氏や北田氏を引きながら、オタク文化や2ちゃんねるなどのアングラ文化を語り、美少女ゲームなどにも触れる。
しかしながらオタクについて「オタクという現象には、さまざまな逆説と謎が詰まっている。本章は、そうした謎を解いたわけではない。まずは、謎を謎として提起したのである」とすることで済ましてしまうのである。
そこに村上春樹の『羊をめぐる冒険』などを放り込んでくる。
「軽さ」、決して良い意味での軽さではない「軽さ」が前に出ている。
時代の考証を、神戸やオウム、宮崎勤などの個の事件によって語るやり方が自分が思う社会学的な姿勢ではないように思う。フーコーはそうではなかったし、本書で時代考証の素晴らしい実例として引かれたジョン・ダワーのやり方とも異なっている。
『社会学史』を読んで高まった期待に沿うものではなかった。残念。
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『社会学史』(大澤真幸)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4062884496
『敗北を抱きしめて(上・下)』(ジョン・ダワー)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4000244205
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4000244213 -
戦後から現在までを社会学的に丹念に分析したのち、現代の閉塞を突破する門を見出す。新書レベルでは中々お目にかかれない密度の高さ
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思索
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「はじめての新書」フェアで気になった本
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歴史上の出来事を踏まえこれからの未来について構造主義的に捉えている。
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戦後という時代を「理想の時代」「虚構の時代」「不可能性の時代」の3つに区分し、それぞれの時代における「第三の審級」のあり方について考察しています。
オウム真理教事件やオタク文化が現代の日本社会のある側面を示していることは間違いないとしても、それらに焦点化する形で戦後日本社会の総体を把握することができるのか、という疑問はもっともだと思います。ただ本書は、戦後日本社会を包括する試みではなく、見田宗介の『現代社会の理論』や『社会学入門』(ともに岩波新書)から、オウム真理教事件を中心に現代社会を論じた著者の『虚構の時代の果て』(ちくま学芸文庫)への展開を改めてたどりなおし、同時に『虚構の時代の果て』から東浩紀の『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)への展開に対する応答の試みとして理解するべきだと思われます。
個別の議論では興味深いところも多くあるのですが、本書の議論の背景をなしている理論的な枠組みは、第三の審級をたえず繰り込んでいく資本主義の運動に対する否定神学的な解決なので、既視感は否めないように思います。 -
人間の一つの精神的活動の出発点であり終着点でもある〈現実〉へのコミットが不可能である現代において、どのようにして不可能性に挑み、その〈現実〉へと至る道を獲得するか。
最終的には、イコール憎しみとなる愛、信仰の徹底による無神論を解決とする。けど、私たちは、そうした情動の極限に耐えうるのか。不可能性の不安に立ち向かう術として私たちはその〈分裂〉を経験しなければならないのだとすれば、もう〈現実〉などいらないのではないか。 -
「多文化主義」と「原理主義」、「」と「」、二つの対立からの相互浸透、その先にあるランダムなつながりによる民主主義の可能性。
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社会学も哲学も専門外の身としては全体の論旨の展開がやや難解だった。
とくに、結びの部分への展開が読めなかったが、諸所に織り込まれる例によって最後まで読み通すことができた。
隅々まで理解できているとは思えないので、また読み返したい。 -
大澤「先輩」の書.
随分昔に読んだので詳細は覚えていないのだが,今の自分の思想の根本にはこの本があるといっても過言ではない.
今生きる時代を考えるのには不可欠の書であるといえる. -
図書館より
理論としてはどれも面白かったです。戦後の復興期を「現実と理想の時代」高度経済成長期の頃を「現実と夢の時代」それ以降のオウム事件の頃までを「現実と虚構の時代」と区分しそれぞれの時代における社会思想を読み解きつつ、虚構の時代以降はどんな時代が訪れるのか、という論の展開になっています。
人に見られることを嫌悪しつつもどこか期待している、という話や自分と似た他者との交流を望んでいるという話が自分にも当てはまっているような気がしました。特にブクログでの自己開示や談話室やコメントの交流などはまさにそのまま当てはまっています。あんまり対面では本の話はしないのですが……
結の部分が少し物足りなかったかな。結局言いたいことはそれなの? という感じが無きにしもあらずでした。 -
全体として非常に勉強になったんですけれども、まあオタク当事者として頂けない記述が散見されましたね。笑 あとは結論。これほどまでに不可能性の時代を捉えておきながら、ほとんど現実味を感じられない希望を述べて終わるのは、どうなんでしょうか。倫理が不可能であることを直視した先にある倫理というものをわたしは見たいんですが。第三者の審級、真幸が常に言うことですが、オタク論とも関係して(類似性を基礎にしないコミュニケーションって?っていう)、自己と他者と超越者の関係についてもっと突き詰めて考えていくことが、倫理や理性の話にも、コミュニケーションの在り方の話にもつながるのかなあと。そのへんを自分なりに追求しようとおもいました。