不可能性の時代 (岩波新書 新赤版 1122)

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  • 岩波書店
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  • / ISBN・EAN: 9784004311225

感想・レビュー・書評

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  • 戦後から時代を「理想の時代」、「虚構の時代」、「不可能性の時代」の三つにわけてその時代の特徴や人々が何を求めていたのかを分析していました。

    社会学の新書ということもあって専門的な言い回しが多く難しく感じられましたが、映画や小説、アニメや漫画など身近な作品が紹介されていて楽しく読めました。

    その時代の事件から加害者の心理を分析し、生活を豊かにすることや社会的な地位などの「理想」を求める時代から、現実では起こり得ることのない「虚構」を求める時代への移行を経て、現実への逃避と極端な虚構化といった全く異なるものを求める「不可能性の時代」への疑問点を提示して、その複雑さを説明するといった内容でした。

  • 『社会学史』があまりに面白かったので、大澤さんの別の著作にも手を出してみた。

    戦後日本を、理想の時代→虚構の時代→不可能性の時代、と遷移してきたと論じる。『虚構の時代の果て』で、オウム真理教事件を分析して、その時代の限界と終焉を論じた著作を継いで社会学的に現代を分析したものだという。

    著者は、二つの少年犯罪を異なる時代の背景を反映したものとして、大きく取り上げる。一つが、永山則夫であり、もう一つが少年Aとして知られる神戸連続児童殺傷事件である。二つの少年事件の対照性を語り、時代の変遷を語る。この二つの少年殺人事件の類似と相違点が理想の時代と虚構の時代を分ける鍵となると結論づけるのである。

    そして、宮崎勤による殺人事件を語り、オウム真理教の地下鉄サリン事件を虚構の時代の終わりと位置付ける。東氏や北田氏を引きながら、オタク文化や2ちゃんねるなどのアングラ文化を語り、美少女ゲームなどにも触れる。
    しかしながらオタクについて「オタクという現象には、さまざまな逆説と謎が詰まっている。本章は、そうした謎を解いたわけではない。まずは、謎を謎として提起したのである」とすることで済ましてしまうのである。

    そこに村上春樹の『羊をめぐる冒険』などを放り込んでくる。
    「軽さ」、決して良い意味での軽さではない「軽さ」が前に出ている。

    時代の考証を、神戸やオウム、宮崎勤などの個の事件によって語るやり方が自分が思う社会学的な姿勢ではないように思う。フーコーはそうではなかったし、本書で時代考証の素晴らしい実例として引かれたジョン・ダワーのやり方とも異なっている。

    『社会学史』を読んで高まった期待に沿うものではなかった。残念。

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    『社会学史』(大澤真幸)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4062884496
    『敗北を抱きしめて(上・下)』(ジョン・ダワー)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4000244205
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4000244213

  • 同著者『虚構の時代の果て』とセットで読むのがいいと思う。『虚構の時代の果て』でまず筆者の言わんとする「虚構」の概念、枠組みを捉えた上で、「虚構」がどのようにして「不可能」へとすり替わる・移行するのか、その過程に目を向けた本『不可能性の時代』であるという印象。

    実例として取り上げられているのが子供時代のわたしにも強く印象に残った(かつ多くの人も覚えているであろう)かつての少年犯罪の数々なので、理解しやすい。時代の変遷に伴い、少年犯罪の加害者の心理、動機が全く反転しているという指摘が面白かった。
    「オタク」をめぐる様々な概念についても、オタクの社会の捉え方、他者との関わり方等々、言われてみれば思い当たるようなふしも多いし、自分が感じていたことや違和感を平易に言語化してもらえたようで、頭がすっきりした。

    この本が出版されたのはちょうど10年前の2008年。今でも「不可能性の時代」が続いているのか、また別のフェーズに来ているのか、「今」がどんな時代である(あった)かというのはやっぱり10年くらいは待たないと解説できないものなのかな。「振り返る」形でしか社会学は機能しないものなのかと思えば限界を見るようでさみしいし、でもそれもそうだよなとも思う。難しい。

  • 人間の一つの精神的活動の出発点であり終着点でもある〈現実〉へのコミットが不可能である現代において、どのようにして不可能性に挑み、その〈現実〉へと至る道を獲得するか。
    最終的には、イコール憎しみとなる愛、信仰の徹底による無神論を解決とする。けど、私たちは、そうした情動の極限に耐えうるのか。不可能性の不安に立ち向かう術として私たちはその〈分裂〉を経験しなければならないのだとすれば、もう〈現実〉などいらないのではないか。

  • 「多文化主義」と「原理主義」、「」と「」、二つの対立からの相互浸透、その先にあるランダムなつながりによる民主主義の可能性。

  •  図書館より
     理論としてはどれも面白かったです。戦後の復興期を「現実と理想の時代」高度経済成長期の頃を「現実と夢の時代」それ以降のオウム事件の頃までを「現実と虚構の時代」と区分しそれぞれの時代における社会思想を読み解きつつ、虚構の時代以降はどんな時代が訪れるのか、という論の展開になっています。

     人に見られることを嫌悪しつつもどこか期待している、という話や自分と似た他者との交流を望んでいるという話が自分にも当てはまっているような気がしました。特にブクログでの自己開示や談話室やコメントの交流などはまさにそのまま当てはまっています。あんまり対面では本の話はしないのですが……

     結の部分が少し物足りなかったかな。結局言いたいことはそれなの? という感じが無きにしもあらずでした。

  • ※ 超単純化した、独断的な説明です。

    本書のテーマは、終戦から現在までの「戦後日本」の時代の移り変わりです。

    日本人が時代ごとにどんな生き方をしてきたか?また、今どんな生き方をしようとしているのか?
    この疑問に答えてみた、という本です。

    本書の内容に関して、まず人が生き方を決めるときの「基準」・「指針」について考えてみます。

    かつて日本では、その基準や指針の典型的なものは「親父」でした。
    これについては、今NHKでやってる『梅ちゃん先生』なんか見てると、少しはイメージできるかと思います。

    「親父」が家族の生き方について、これは良い・あれは悪い、と決めるポジションに就いている。
    だいたい昭和の間は、子どもは「恐い親父」の目を気にしながら怒られないようにする。
    それが大人になると、「あの親父だったら、私がこんなことしたら絶対に反対するだろうな」「あの会社に就職するなら、父や家族も悪く思うまい」と自分でいろいろ考えたりして、あまり周りと不和にならないようにしながら、どう生きるかを決めたりするわけです。

    あと、他にわかりやすいのは「世間」。

    「自分の子どもが悪さしたら、世間様に申し訳が立たない」と言って、やっぱり世間の目を気にする。
    また、仕事をクビになったり離婚したりした時も、「世間体」が悪くなって非常に居心地が悪くなる。
    付け加えると、「末は博士か大臣か」みたいな言葉が通用していた背景もそうです。個々人が偉いと思うがどうかは無関係に、「世間で偉いと思われてるから博士や大臣は偉いんや」といったカンジで、世間の評価で物事をみるようになる。

    さらに言うと、欧米では基本的に、キリスト教の「神」が生きる指針になってますね。

    熱心な信者の親に教えられる、聖書に書いてある、教会で牧師の話を聞く、そういう子どもの時からの経験で、「神様は、これは正しい・これは悪いというに違いない。じゃあ、正しいことをして、悪いことはしないようにしよう」と考える。

    このように、例として挙げた「親父」、「世間」そして「神」。

    私たちの中には、どうやらこういった「生きる指針」みたいなものがあるのではないか。これが本書のひとつのベースとなっています。

    何かの指針に従って、私の行いが良いか・悪いか、判断する。
    良い行いをずっと繰り返して行けば、自分はどんどん「認められた」存在になっていく。
    だから、もっと「認められる」ように、疲れていようがしんどかろうが頑張り続ける。

    いつもとは言いませんが、私たちは誰しも、そんな風に生きていると実感する時がないでしょうか。何かの生きる指針があり、その通りに進んでいれば「良い結果」が待っていそうだ、と考えて生きていたりするわけです。
    (しかしながら日本では、昔ながらの「親父」や「世間」のチカラは今や地に落ちていますし、そもそもキリストのような絶対的な「神」も存在したことがありません。)

    さて、そこで次にくる本書のテーマは、「現在、私たちはどんな指針をもって生きているのか?というか、そもそも今、そんな指針を本当にもっているのだろうか?」という疑問です。

    かつては、多少なりとも“皆で共有できる”ような「生きる指針」らしきものがあった。
    今はどうか?
    見渡してみると、個人レベルでは多種多様な「指針」をもってはいそうです。しかし、かつてのように“皆で共有できる”ような「指針」は、今やどこにも見当たらないのではないか。そして、仮にどこにも見当たらないとすれば、①そのような「指針」がないことで何かの問題が発生しないか?②仮に問題があったら、私たちはどう対処すればいいのか?
    これが本書のメインの問題意識と言えます。

    では、①“皆で共有できる”ような「生きる指針」が無いことで何かの問題が発生しないか?これを考えてみましょう。

    第一に、皆が共有できるような指針・誰しもが認めるような指針が無く、「まっとうな生き方」が一体何なのかわからなくなってしまったら、私たちは自分の「生き方」を自分で決めるしかありません。

    こう言うと、「いや、昔から自分で自分の生き方を決めてたはずだろ?」と思う方もいるでしょう。しかし、これは単に私の直感ですが、昔は「良い学校」に入って「良い会社」に入れば一生安泰、みたいなわかりやすい「生き方」の人生モデルがあったのではないでしょうか。

    もちろん、成功とみなされる「良い学校」「良い会社」への入学・入社は、誰しもが出来るものでは無かったわけですが(というか、良い学校・良い会社みたいな考えには明らかに差別的な意識が含まれているので、非常に不愉快な考え方ですが・・・)、少なくとも「目指すべきもの」はあったわけです。学生時代も社会人になってからも。

    さらには、人生のモデルケースが一つでも確定していれば、その「まっとうな生き方」(もちろん今となっては幻想ですよ)をチラチラ確認しながら、「自分はまだマイホームは持てないな」「社長は無理でも部長には何とかなりたいな」とか考えられるわけです。なぜなら、確かな人生モデルがあれば、目指すべき「指針」がわかりやすいですからね。

    しかし、今やそれが無い。「こうすれば無難」というような生き方の指針は、どこにも見当たらなくなってしまいました(それに気づくかどうかはさておき)。

    そこで、「生き方は自分で決めるしかない!」と思い至ることになるわけですが、こうなるとまさしく自己責任の重みがずしりと私たちに圧し掛かってきます。まず、「何が良い生き方なのか」わからないのですから、どう生きたらいいのか途方に暮れたり、決められなくて悩んだりする人が多くなります。次いで、結局決められず、ただ時間だけが過ぎて行ってしまう人も増えますね。

    一方で、いったん「こう生きよう!」と決めて就職したり結婚したりしたとしても、「いや、実はまだ他に自分の歩むべき道があるんじゃないか!?」「もっと素晴らしい他の生き方があるんじゃないか!?」という思いが、いつまで経っても消えなくなります。
    さらには、自分が自由に決めたその結果として、不幸にも将来、「人生、失敗した・・・」と思う境遇に陥ってしまったら、それは、自己決定したがゆえにまるまる自己責任となります。悪いのは自分だとはっきりしてますから、精神的ダメージも以前に増して大きいものとなるでしょう。

    つまり現在、人生のわかりやすいモデルを失ったがゆえに、生きる上でどうしても「不安」につきまとわれるようになったわけです。生き方を決めることは、他の選択肢を捨てるリスクを必ず背負うわけですから、不安になるのも至って当然と言えます。

    また、人生のわかりやすいモデルの喪失により、生き方は「人それぞれ」になります。ライフスタイルや「幸せって何か?」といった価値観など、かつてないほど多様化します。共通点がないのが普通になり、個々人がどんどんバラバラになっていきます。

    そうして価値観がバラバラになってくると、深刻な機能不全に陥るのが「政治」。皆の考え方がバラバラになると、当然ですが「何を正しいと考えるか」一致点を見つけることが困難になります。

    このような段階に至ると、個人レベルでも社会レベルでも、どうにもし難い「閉塞感」に悩まされることになります。現代をそのような時代であると認識するのが、本書の議論の一つです。

    そしてその「閉塞」から、さらに困難な問題が生じます。例えば、「何かを生み出そう」とするのではなく、「とにかく今のこのどうしようもない現実をぶっ壊そう」と考える人が増えていくということです。

    「ぶっ壊そう」と考える人が増える。これは少しわかりにくいと思いますが、政治の世界でみるとよくわかります。
    昨今の政治家で、稀に見る高い支持を得たのは、「小泉純一郎」と「橋下徹」です。この二人は、明確に「この政策が正しい」「この政策でもっと国は良くなる」と言って、人気になったのではありません。

    そうではなく、「自民党をぶっ壊す!」「大阪府庁と市役所をぶっ壊す!」。これらのスローガンに私たちは熱狂したわけですよ。
    この理由は、明確ですね。「何を正しいとするか」は人それぞれで支持を集められない。しかし、私たちに共通するのは「でも、現実はひどい状態だ」という思いですから、「その現実をぶっ壊して、変えましょう!」という叫びには大いにうなずくわけです。かといって、「壊してその後どうすんの?」という疑問は皆スルーしてしまうわけですが・・・。

    そして、「破壊」の後も相も変わらず「閉塞感」が待っている。でも、私たちは「ぶっ壊す」と言ってる人たちにばかり引き付けられてしまいます。そこに「希望の未来」は無いのに、です。

    ここまでが、①の問題です。では最後、②問題があったら、私たちはどう対処すればいいのか?

    3.11という苛酷な現実、つまり圧倒的な「破壊」を経験してしまった私たちは、とうとう「とことん何かが壊れても、私たちの生活や現実は良くならない。むしろどんどん悪くなる」と知ってしまったわけです。(もちろん、それに気づかないふりをしてる人たちは、世間に大勢おりますが・・・)

    そこで、どうするか?それは、もはや既存の「生きる指針」を“超えて”、「正しいと思うこと」を自己判断してやり遂げることです。

    例えば、私たちが就職やバイト等で働き始めたら、まずは職場の「上司」を手本にして仕事を覚えたり、「上司」に良い評価をもらえるように仕事したりします。

    しかし、そんな「上司」でも出来ない仕事を自分がしたいとき、どうすればいいか。
    そのときは、もはや手本にはならないわけですから、仕事上の能力で「上司」を超えるしかありません。それまでの仕事上の経験を生かしながら、自己責任・自己判断で仕事するしかないのです。

    「閉塞」を打破するために、誰かに守ってもらったり保証してもらったりすることなく、ただ現実に対応すること。本書の結論に照らすと、さしあたって私たちに出来ることはそれくらいではないでしょうか。(了)


    なお、「第三者の審級」「物語る権利」「真理への執着」「ムーゼルマン」等といった難解な用語は、速やかにスルーさせて頂きました。もちろん明示してないだけで、それらを意識してレビューしておりますが。

  • 戦後の時代区分について、
    「理想の時代」

    「虚構の時代」

    「不可能性の時代」
    とし、その区切りと何故なのかを論考する。

  • まさっちー先生一冊目。
    友人に勧められて。

    戦後は理想の時代。敗戦後、アメリカを理想とする時代。
    そして、虚構の時代。高度経済成長後、現実と虚構の境目が曖昧になった時代。

    これらをなぞって分析して、では現在は何の時代なのか、というのが本書のテーマ。

    筆者曰く、不可能性の時代なのだと。
    「不可能なもの」から逃れるための、二つの対象的な動きがある。
    一つは虚構への逃避。これは虚構の時代の動きを引き継いだものだ。
    もう一つは、現実への逃避。暴力と言う現実へ。
    繰り返されるハルマゲドンの予言。同時多発テロ。イラクでのアメリカ兵のビデオ。

    では、その「不可能なもの」とは何なのか?
    それは他者である、と著者は語る。
    他者性のない他者。
    つまり、家族以上に直接的で親密な間柄であるような他者。
    その他者を求める傾向は、「幼馴染」「前世」といったものに見られる。


    この分析が正しいかどうかはともかく、なるほど、と思わせる語り口。
    オタク系に知識があれば、物語として面白く消化できる。
    「Always三丁目の夕日」のくだりは明快で良かった。
    ロールモデルのない不幸、というのは言われているけれど、
    それをはっきり実証していてすんなり入ってくる。
    あとは、詐欺師本人が自分の詐欺に囚われる、というのもなるほど。

    ただ、分析対象がいわゆるオタク系文化に偏り過ぎな印象。
    せっかくこれだけの物語を描くのだから、政治や経済にもっと寄ればおじさん受けするのにな、と個人的には思いました。

    あと、ムーゼルマンと「六次の隔たり」は無理やり感が強い。
    最後に救いを…という気持ちはわかるが、ものすごく消化不良で困る。
    後に解消されていくものなのか、他の作品で見てみたい。

  • [ 内容 ]
    「現実から逃避」するのではなく、むしろ「現実へと逃避」する者たち-。
    彼らはいったい何を求めているのか。
    戦後の「理想の時代」から、七〇年代以降の「虚構の時代」を経て、九五年を境に迎えた特異な時代を、戦後精神史の中に位置づけ、現代社会における普遍的な連帯の可能性を理論的に探る。
    大澤社会学・最新の地平。

    [ 目次 ]
    序 「現実」への逃避
    1 理想の時代
    2 虚構の時代
    3 オタクという謎
    4 リスク社会再論
    5 不可能性の時代
    6 政治的思想空間の現在
    結 拡がり行く民主主義

    [ POP ]


    [ おすすめ度 ]

    ☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
    ☆☆☆☆☆☆☆ 文章
    ☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
    ☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
    ☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
    ☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
    共感度(空振り三振・一部・参った!)
    読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)

    [ 関連図書 ]


    [ 参考となる書評 ]

  • 目次の「結」は拡がり行く民主主義である。

    その「結」を導くため、見田宗介氏の提示した戦後の時代区分「理想の時代」「夢の時代」「虚構の時代」をものさしとし、書き綴った書である。

    「オタクという謎」「リスク社会再論」「不可能性の時代「政治思想的空間の現在」という項目を設定し、色んな角度で論じている。

    時代時代の社会現象、知識人のテーゼなどを持ち出しながら、著者の考え方を披瀝している。

    最後、インターネット社会となり、唐突に「六次の隔たり」「小さな世界」理論が飛び出してきたりしたが、それはそれなりに楽しい読み物であった。

  • 「アイロニカルな没入」
    ある対象が幻想=虚構に過ぎないことを充分に承知の上で、不動の現実であるかのように振舞うこと。「よくわかっている、それでも・・・」

  • この本が主張したかったことは?
    戦後という時代区分を、反現実についての把握を経て、
    「理想の時代」→「虚構の時代」→「不可能性の時代」
    という流れで、説明できる。
    ① 「不可能性の時代」と「虚構の時代」を隔てるものと、移行へのメカニズムは?
    ② 「不可能性の時代」とはどのような時代なのか。
    ③ 現在を「不可能性の時代」と認識することで、どのような意味があるのか。
    このあたりが重要なポイントだろうか。

    読んだ勢いでまとめてみると、
    ① 隔てるもの、移行へのメカニズム
    象徴的な出来事として、地下鉄サリン事件をあげている。このあたりがポイントで、
    この事件を考えてみても、虚構の時代はすでに解消されているという。その解消の仕方として、「現実の中の現実」への回帰と、虚構への没入の強化という二つの方向性がある。
    この両極端な2つの流れを統一的に理解しようと考えると、多重人格を参考にして、何か重要な、本来的なものが隠されているのだとする。その隠されているものをxとおくと、、それは、認識や実践には決してたちあらわれることのない「不可能なもの」である。
    だから、「不可能性の時代」と定義するのだ、と。

    では、xとは何か??
    ② xとは? に変更!!

    それは、一種の第3の審級であることは間違いない。
    それは他者性を排除した<他者>のこと。

    xが認識の前に立ち現われてきてしまったぞ!!
    よくわからんねぇ。

    ③ 現在が「不可能性の時代」であることの意味すること

    ・ リスク社会
    ・ 第三の審級のあいまいさ
    ・ 反復
    ・ オタク
    ・ 終わりの不在

    うーん、
    今の自分では一読しただけではとても内容を整理しきれないよう…。
    近いうちにもう一度読んで、話を理解せねば。

  • 戦後をその時期の特徴によって分類し、それをもとに現代社会の普遍的な連帯の可能性を分析した書。
    見田宗介の『社会学入門』における分類をもとに、理想の時代・虚構の時代・不可能性の時代と時代を分け、それぞれの特徴を描いているのが非常に興味深い。
    ただ、批評よりの社会学研究全般に感じることだが、特徴付けようとするあまり、普遍性への視点をやや欠いているのではないだろうか。
    私が現在、学問の世界に身を置いているからよけいにそう感じるのかもしれないが。

  • 高校の先輩の社会学者大澤真幸。
    彼の本は、以前『恋愛の不可能性について』(ちくま学芸文庫)を紹介した。

    この人は、サブカルチャーと呼ばれる部分に造詣が深いと思われる。すごく真面目な社会学の本ではあるのだが、有名な「エヴァンゲリオン」とかKeyのアダルトゲーム「Air」といった名詞が出てくるような真面目な本ってなかなかないぞ。

    非常に読みやすく、引きこまれる文体。個人的には非常に好きな本の一つである。
    考え方はすべてがすべて納得できるわけではないが、一つの方向として見ることはできる。

    もうちょっと精緻な論証を見てみたいですね。
    そうなると私ももっと社会学の勉強をしないといけないことになりそうですが。

  • 「戦後○○年」というような時代区分を使用するのは世界の国々を見渡しても日本ぐらいである。著者はその戦後を理想・虚構・不可能性の時代に分けて論じる。他者性をキーワードに、理想を貫徹し、虚構の時代に至り、現在の不可能性への時代を迎えた過程がとてもわかりやすく論じられる。

著者プロフィール

大澤真幸(おおさわ・まさち):1958年、長野県生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程修了。社会学博士。思想誌『THINKING 「O」』(左右社)主宰。2007年『ナショナリズムの由来』( 講談社)で毎日出版文化賞、2015年『自由という牢獄』(岩波現代文庫)で河合隼雄学芸賞をそれぞれ受賞。他の著書に『不可能性の時代』『夢よりも深い覚醒へ』(以上、岩波新書)、『〈自由〉の条件』(講談社文芸文庫)、『新世紀のコミュニズムへ』(NHK出版新書)、『日本史のなぞ』(朝日新書)、『社会学史』(講談社現代新書)、『〈世界史〉の哲学』シリーズ(講談社)、『増補 虚構の時代の果て』(ちくま学芸文庫)など多数。共著に『ふしぎなキリスト教』『おどろきの中国』(以上、講談社現代新書)、『資本主義という謎』(NHK出版新書)などがある。

「2023年 『資本主義の〈その先〉へ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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