反貧困: 「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書 新赤版 1124)

著者 :
  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004311249

作品紹介・あらすじ

うっかり足をすべらせたら、すぐさまどん底の生活にまで転げ落ちてしまう。今の日本は、「すべり台社会」になっているのではないか。そんな社会にはノーを言おう。合言葉は「反貧困」だ。貧困問題の現場で活動する著者が、貧困を自己責任とする風潮を批判し、誰もが人間らしく生きることのできる「強い社会」へ向けて、課題と希望を語る。

感想・レビュー・書評

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  • 現代日本の貧困の広がりと、そこから這い上がることを困難にしている社会の構造を訴えた、2008年の新書。貧困の実情と構造を伝える第一部と、著者も深くコミットする「反貧困」の活動を伝える第二部からなる。約220ページ。

    第一部では、著者が関わる自立生活サポートセンターの利用者である夫婦の来歴をとおして貧困の実例を確認する。そこから分析される貧困に陥るメカニズムとしては、「雇用(労働)」「社会保険」「公的扶助」という三層のセーフティネットが機能していない現状を訴える。そして、このような貧困を考えるキーワードとして、いかにして「自己責任」という言葉が広く浸透し、内面化したかを考える。ここではとくに、「他の選択肢を等しく選べたはず」という自己責任論の大前提そのものが現在の貧困問題には当てはまらないことを強調する。そして貧困の具体的な原因には、「小さな政府」を推進する政財界の意向、自助努力を要求する政府のありかたをあげ、これを徹底的に批判する。

    第一部の現状を受けた「反貧困」の活動の状況を伝える第二部は、著者を含む非営利団体による公的機関への働きかけと、それに対する政府の動きを確認する。複数人が死亡する原因となった北九州市の対応例をはじめ、貧窮者にも徹底して生活保護受給を出し渋る公的機関の非人道的な対応の根源に、貧困を頑なに認めようとしない政府・厚生労働省の態度を糾弾する。ここでは「ネットカフェ難民」問題と現代の「飯場システム」として機能してしまっている日雇い派遣労働などを貧困の実例に、貧困者自身が「自己責任論」を深く内面化してしまっていることを伝える。また、政府自体が貧困問題を天下り先確保のための施策として利用し、民間企業だけでなく政府までもが「貧困ビジネス」に加担している現実を非難する。

    社会活動家としての経験による貧困の現場のレポートに加え、政治学の専門家の観点から多くの人が貧困に陥り、そこから浮上できない構造的な問題に関して深い示唆を与える。著者の分析によって特定される現代日本の貧困の原因は明確である。それは前述のとおり、具体的な問題としては財界の要望ともあいまって新自由主義を推進し、貧困者を認めようとせずに、むしろ貧困ラインの切り下げによって問題を拡大させてしまう政府の姿勢にある。そして、このような状況を可能とする風潮として、本書で何度となく用いられる「自己責任」の精神が横たわっている。著者はこの二点について、政府のありかたを強く非難し、貧困の原因が自己責任の不足ではなく、むしろその過剰な内面化によって惹き起こされていると主張する。

    著者は本書の役割を貧困問題の可視化にあるとする。なぜなら、貧困問題に限らず「姿が見えない、実体が見えない、そして問題が見えない」こと自体が、多くの社会問題に共通するポイントだからである。その意味で、本書は貧困問題の実例と構造、原因を理路整然と、かつ平明に伝えたうえで強い印象を与えて問題意識を喚起させ、その目的を十二分に果たしていると思えた。さらに、非正規雇用の増加が結果的に正規雇用者に対しても厳しい労働を強いることや、児童虐待、「最後のセーフティーネット」としての高齢受刑者の増加など、貧困問題が関係する与える負の連鎖と、その先にある戦争への免疫力の低下という恐ろしい事態への自覚を促し、貧困が同じ社会に住むすべての人々に大きな影響を与える問題であることを思い知らせる。

    本書の出版から14年が経ち、そのなかで個人的に感じた社会の変化としては、自己責任を追求する風潮は以前より和らいでいるように感じられる。ひとつには著者のような論者の発信によって、貧困問題の大部分が経済力や人間関係をはじめとした環境に大きく依存する事実への理解が広まりつつあるのかもしれない。そしてもうひとつは、現実に貧困への危機を他人事として捉えられなくなった人が増加しているという社会全体の貧困化の広まりにあるのではないだろうか。

  • 貧困になってしまうのは自己責任の部分が多いと思っていたが、この本をきっかけに必ずしもそうではないと思った。貧困になってしまうには負のスパイラルにはまりこんでいく。貧困から脱出するには第三者の協力が必要であろう。個人では自信を損なわれ、行政と対等に手続きすることもできない。生活保護に関しては行政は特に厳しく対応するのが現状だと思う。

  •  この著者のことは、ワーキングプア関連のテレビ番組で知った(多くの人がそうだろう)。あの「年越し派遣村」の“村長”役でもある。
     穏やかな話しぶりの中にも強い意志を秘めた様子に、「この人、只者じゃないなあ」と感じて興味を抱いた。

     本書は、著者のこれまでの活動をふまえた、いまの日本の「貧困問題」の概説書である。優れた運動家である著者が、同時に一級の論客でもあることを示す好著になっている。すこぶる論理的で明晰な文章。それでいて、その底に著者の熱い思いを感じさせるところがよい。

     貧困を「自己責任」とする論者への反論が、ていねいになされている。私自身の心の中にもあった、「そうはいっても、ワーキングプア(あるいはホームレス)になった側にも責任の一端はあるだろう」という先入見を突き崩され、蒙を啓かれた。

     後半では、著者が事務局長をつとめる「もやい」など、貧困問題解決を目指す人々の連帯の広がりがリポートされる。
     「政府が悪い、大企業が悪い」と批判しっぱなしで終わるのではなく、相手の歩み寄りも是々非々で評価しつつ、少しずつ現実を変えていこうとする粘り強さに好感を抱いた。

     印象に残った一節を引く。

    《貧困状態にまで追い込まれた人たちの中には、立派な人もいれば、立派でない人もいる。それは、資産家の中に立派な人もいれば、唾棄すべき人間もいるのと同じだ。立派でもなく、かわいくもない人たちは「保護に値しない」のなら、それはもう人権ではない。生を値踏みすべきではない。貧困が「あってはならない」のは、それが社会自身の弱体化の証だからに他ならない。
     貧困が大量に生み出される社会は弱い。どれだけ大規模な軍事力を持っていようとも、どれだけ高いGDPを誇っていようとも、決定的に弱い。そのような社会では、人間が人間らしく再生産されていかないからである。誰も、弱い者イジメをする子どもを「強い子」とは思わないだろう(209P)》

  • 著者は生活困窮者に対する生活相談を行うNPO法人〈もやい〉の代表を務める湯浅誠氏。

    著者が貧困問題に取り組む上で独自に生み出した概念で、本書に紹介されているのが「すべり台社会」と「溜め」である。

    第2章で、2007年3月25日付東京新聞に掲載されたセーフティーネットの三層構造を図示したものがオープニングで掲載されているが、その図の中に「ここから落ちた人はどうなっちゃうんだろう…」とつぶやく男性の姿が強烈に印象に残る。

    この公的扶助のセーフティーネットからうっかり足を滑らせてしまったら、二度と這い上がれなくなる。このような現代の日本社会を著者は「すべり台社会」と名づけた。

    また、第3章ではアマルティア・センの「潜在能力」に相当する概念を”溜め”という言葉を用いている。溜池の「溜め」である。

    溜めとは、金銭であったり、両親や頼れる親族など人間関係であったり、自分を大切にできる精神的なものも含まれる。

    貧困とは、これらの”溜め”がない状態を言う。


    筆者はこれ以外にも、様々なデータや政治的な動きなどから、貧困問題は自己責任ではなく社会の問題だと言い切る。

    終章では、反貧困運動を連帯させ、強い社会を目指そうと高らかに歌い上げる。

    著者の高い精神力と正義感を感じるだけでなく、わが国の社会の暗部に直面する素晴らしい著作である。

  • 昨年末に働きたくないブロガー(笑)のPhaさんのブログで、2014年に読んだ本で良かった本の1冊として紹介されていたので読んでみました。
    かなり衝撃を受けました。良書です。

    この本は2008年に発刊されており、その頃の僕は割と給与の良い会社で働いていた時期でもあり、世間で話題になっていた年越し派遣村やワーキングプアという言葉にピンときていませんでした。意味は理解できるものの、実感しにくいというか。

    ●3層のセーフティーネット。3つ目の生活保護は、非常に弱いセーフティーネットであること。2つ目のセーフティーネット(社会保険など)から漏れてしまうと、3つ目のセーフティーネットはいまいち機能していない為、一気に生活そのものができなくなる。
    ●貧困は自己責任で解決できる問題ではない。
     貧困は戦争に繋がる大きな原因となる。
    ●富裕層から貧困層は見えにくくうまく隠されている。逆に貧困層から富裕層はテレビなどの媒体で見えやすい。
    ●「溜め」の考え方。これが個人的に一番衝撃的な考え方でした。僕はまだまだ恵まれている。

    もっともっと勉強しなければいけないし、僕が社会に何ができるのか?真剣に考えたほうがいいなと感じました。
    著者のその他の本も読んでみようと思います。

  • 2008年刊行時に「「まじめに働いてさえいれば、食べていける」状態ではなくなった。」(P21)、雇用(労働)のネット、社会保険のネット、公的扶助のネットの綻びが露呈してきていると指摘されていました。コロナ禍で、やっと人ごとではなく、助け合いによる溜めをつくる必要性に気付いたような気がします。

  • 著者は反貧困ネットワークの事務局長で、特に「生活保護」の面から日本の貧困の実態や政策、「反貧困」の現状について書かれています。
    最近(2009年現在)の好景気では上り調子なのに貧困が減らないといったデータに基づく説明があったり、貧困に苦しんでいる方々が如何に「ネットカフェ難民」に至ったかのようなリアルな暮らしぶりがかかれていたり。

    普段我々が貧困にならずに済んでいるのは、様々なセーフティネットによって守られているからである。しかし貧困にあえぐ人たちは、それらにより救われていない。例えば生活保護の申請で役所に門前払いされたり、非正規雇用しかないため失業するとどうしようもなかったりする。ある人は仕方なく多重債務することになるが、過払い金を払い戻せるような法律家の「ツテ」はもちろんなかったりする。
    こういった単なる金銭的な「貧乏」だけではなく、様々なつながりの不足が貧困からの脱出を阻んでいる、ということがよくわかる。

    我々は、貧困は「自己責任」ではないと意識すべきであり、互いに足を引っ張りあって「底辺に向かう競争」をしてはならない。

  • 最近また少し労働問題とか雇用問題に関する本を読んでたところに、湯浅誠の本を見つけたので購入。そういえばまだ読んでなかった。

    自分がまだ前の職場にいるとき、派遣切りが問題になって年越し派遣村の村長をやられていたのをよく覚えている。当時自分が正規職員じゃなかったこともあって、身近な問題として感じていた。このまま非正規でしばらく働いて、もし職を失ったらそのあと就職できるんだろうか、という不安。今は運よく正職員で働けているけど、今も同じような不安を抱えている人は大勢いるんだろうなと思う。「すべり台社会」とは的を射たネーミングだと思う。

    「溜め」や「下向きの平準化」など、いくつか心に残ったキーワードがある。

    “なぜ貧困が「あってはならない」のか。それは貧困状態にある人たちが「保護に値する」かわいそうで、立派な人たちだからではない。貧困状態にまで追い込まれた人たちの中には、立派な人もいれば、立派でない人もいる。それは、資産家の中に立派な人もいれば、唾棄すべき人間もいるのと同じです。立派でもなく、かわいくもない人たちは「保護に値しない」のなら、それはもう人権ではない。生を値踏みすべきではない。貧困が「あってはならない」のは、それが社会自身の弱体化の証だからに他ならない。”

    安倍内閣になって「一億総活躍社会」とか言うんだったら、弱者を切り捨てるような社会にしていてはいけないと思うのは自分だけだろうか。最低限度は守るようにしないと。この本で言うところの「溜め」を保つようにしないと。

    個々のさまざまな案件に当たりながら、複雑に問題が絡み合う貧困問題をどうしたら総合的に解消していけるのか、さまざまな方面と協働していることがよく伝わってくる。現実離れした机上の空論でもないし、個々の事例に埋没しているわけでもない。読んで良かった。

  • この本を読むことで生活保護についての考え方が少し変わった。この本で書かれている”溜め”という言葉はかなりポイントが高い。確かに”溜め”がないと滑り落ちた時に這い上がるのは難しく、負のスパイラルに陥るかもしれない。。。自分は恵まれていると感じるとともに、1回の失敗で這い上がれない社会をどのように改善していくか考えられる一冊となった。

  •  ご存じの方も多いだろうが、著者・湯浅誠氏は2009年の東京・日比谷で開かれた「年越し派遣村」の村長として、その名を一気に世に知らしめた社会運動家。NPO法人自立生活サポートセンター「もやい」の事務局長として、日本の貧困問題に長年取り組んできた信念の人だ(とはいえ、管政権で内閣府参与となり、辞任→就任→また辞任と繰り返した。この点については評価の分かれるところか)。

     本書の記述は、こういった著者の具体的な経験から練り上げられたものであるだけに、単なる机上の空論なんかよりはるかに迫力がある。中でも一番の白眉は、何と言っても著者の提案する「溜め」の概念。
     「溜め」とは、アマルティア・センの貧困論から着想を得たもので、簡単に言えば個人の潜在能力を作り・引き出してくれる力の源泉。お金もここに含まれるが、それだけでなく家族・親類・友人など人間関係の「溜め」もあれば、自分に自信を持つことができる・やればできるという強い信念を支える、精神的な「溜め」もある(近年の社会学や政治学でよく使われる「ソーシャル・キャピタル」概念に近い)。著者によれば、貧困とは単に金銭的欠乏の状態ではなく、こうした「溜め」が欠如している状態と考えるべきだという。

     深刻な貧困に陥る人には、決まって共通する特徴がある。お金がない・仕事がないだけでなく、身寄りがなく・公的福祉からも見放されているため(市役所に生活保護を拒否されるなど)、八方塞がりで再チャレンジする足がかりが初めから奪われているという特徴だ。最も大事なのは、こうした「溜め」の欠如は決して「自己責任」の論理では解消できないという点。そもそも自助努力が可能になるには、ある程度家庭環境や人間関係などのバックグラウンドが整えられていなければならない。これらの条件を満たせない人は、まず教育課程から排除され、次に就業機会から排除される。この負の連鎖が続くと、最終的には自分自身の存在価値や将来への希望すら否定する「自己からの排除」に行き着く(自殺はこの段階で起こる)。
     こうした状態は、本人の努力不足に起因しているというより、そもそもその自助努力の前提となる社会的・精神的基盤が欠落していることから帰結した事態だ。「貧困に陥った人は努力が足りなかったせいだ」という声は、こうした「排除の構造」をまったく理解していない。それどころかこの種の自己責任論は、自助努力の範疇外で重荷を背負わざるをえない運命に置かれた人にとって、きわめて暴力的な論理と言える。

     本書が出版されて早4年。かつてあれほど猛威を振るった自己責任論も、今ではだいぶ影をひそめたように見える。これにはもちろん、湯浅氏を始めとする社会運動家の地道な活動によってもたらされた成果もあるのだろうが、何よりもリーマン・ショック以降、誰もが貧困に陥るという危険性が現実味を帯びてきたことが、最大の要因だと思われる。

     人間誰しも「自分は努力をしているし、報われるはず」と考えがちなものだ(それこそ精神的な「溜め」があればこそ)。ましてやそれなりの成功を収めれば、それを単なる「運」よりも今まで払ってきた「努力」に還元したいのが人情というもの。だが、誰もが貧困の危機に脅かされる時代になれば、自分の努力不足を云々するよりも先に、むしろ「運の悪さ」を嘆こうとするのもまた人情というやつだろう。それだけに、今のような不況時には得てして自己責任論は後退し、逆に貧困の危機を自助努力の範疇外に置こうとする論理が、いわば一種のエクスキューズとして説得力を持ちやすい。その意味で、世界同時不況と軌を一にして、自己責任論を批判する著者の議論が世間の脚光を浴びるようになったのも偶然ではない。貧困をただそうとする著者の運動は、貧困の深刻化なくして影響力を持ちえなかった。
     何とも皮肉な話ではあるが、世の中たいていこんなものか。

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著者プロフィール

「反貧困ネットワーク」事務局長、「自立生活サポートセンター・もやい」事務局長。元内閣府参与。

「2012年 『危機の時代の市民活動』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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