- Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004311607
作品紹介・あらすじ
二〇世紀の世界を覆い尽くしたコンクリート。それは場所と素材との関係性を断ち切り、自然を画一化する建築であった。自然さとは、素材や景観だけの問題ではない。タウトやライトの作品にラジカルな方法論を読み解き、水、石、木、竹、土、和紙などの素材を、それぞれの場所に活かす試みのかずかずを語る。
感想・レビュー・書評
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20世紀の建材の代表である。コンクリートの脆さを指摘し、そこを一度否定し、その先にあるもの模索していくことが必要だと語っている。その答えを土地、素材に見出そうとしている。建築史の流れをみても、新ゴシックなどで過去への回帰は見られるものだが、隈がおこなっているものはただの過去回帰ではない。昔の思想や素材の使用方法を加味したうえで、その先に現代的な解釈をもって素材と向き合うことで本当の意味での幸福な建築を創りだそうと、今もなお建築を、建築の可能性を探り、表現し続けているように感じた。
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隈さんの建築物に対する思いと苦労がわかる。建築物は揺るぎない存在感を放っているので、迷いのないどっしりとした印象を受けるが、完成するまでに様々な悩みや試行錯誤、人々の協力がある。その過程を踏まえた上に成立していることに感動を覚える。本書はとてもわかりやすい言葉で述べられているので、すんなりと理解できた。ただ、私は建築を専門にしていないので単純に言葉を受け取ることができたが、専門家からすると矛盾を感じるんだろうな、とゆう印象を受けた。
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昔ながらの茅葺屋根の家とか、木の家とか、
観にいったり、あるいは一日だけ住んでみるには、
良いかもしれないけれど(安易なテレビ番組みたいに)
実際に長期的に住むことが現代人にできるのか、
あるいは耐震耐火構造上、建築許可が下りるのかといった問題は常に付きまとう。
かといって、コンクリートの構造に化粧だけ木や石を貼り付けて満足している建築には違和感を覚える。
じゃあ、どうすりゃいいのか。
という課題に正面から挑んでいる姿勢には好感が持てます。
写真もたくさんあって、実際に行ってみたいなあと思わせられます。
若干、筆が滑って、
言わずもがなな事を言ってるのが鼻につくのはご愛嬌か。 -
「偉大な建築家は、偉大な嘘つきである」という言葉を聞いたことがあるけど、まさにそのとおりかもしれない。
昔は隈さんこんなこと思ってもなかったんじゃないかなぁ。だけど、まるでその当時から「自然な建築」を考えてたかのように、筋の通った話を書いてるところがすごいなぁと思う。
最近、日本史の授業で習った『日本書紀』の中の聖徳太子みたい。
聖徳太子が本当にあんなに超人的な力を持っていたのかどうかはわからないけど、日本書紀が書かれた当時の日本には聖徳太子のような人物像が必要であった。だから、まるで昔からそういう人がいたかのように聖徳太子は創りだされた。それでも、今もなお聖徳太子は信じられている。
歴史は往々にしてその時代の要求にしたがって書かれる。
建築家だって当然そうだろう。
昔、ある考え方で建てた建築物を、今、昔とは全く違った解釈で説明したりする。それを悪いとは思わないし、むしろ建築家として必要な素養かもしれない。だからといって、今流行りのあいまいとかグラデーションとかいう言葉を使って説明するのはいかがなものか。考え方がしっかりしていて読んでてもおもしろいと思うけど、そういう言葉を使っちゃうと信用できなくなっちゃう。
それにしても、言葉の巧みさはさすが。
P.13
自然素材か否かの境界は極めてあいまいである。そこに線を引く行為に安住してはいけない。線引からは何も生まれない。線引きは何も正当化しない。我々は、線引きの先に行かなくてはいけない。自然な建築とは、自然素材で作られた建築のことではない。当然のこと、コンクリートの上に、自然素材を貼り付けただけの建築のことではない。
あるものが、それが存在する場所と幸福な関係を結んでいる時に、我々は、そのものを自然であると感じる。自然とは「関係性」である。自然な建築とは、場所と幸福な関係を結んだ建築のことである。場所と建築の幸福な結婚が、自然な建築を生む。
P.34
虹を作るのは水蒸気という粒子の集合体である。太陽と粒子と受容者、その三者の「関係性」によって、虹は出現する。正確にいえば、その「関係性」こそが虹なのである。
隈さんが、竹で鋼管コンクリートと同じような仕組みを試したりしているとは知らなかった。こういうことに関してはその粘り強さが本当にすごい。そういう新しい構造を考えたら新しいものができるもんね。いやーすごい。
思想もそうだけど、こういう泥臭い部分も建築のおもしろさの一つだね。 -
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/705803 -
20世紀とは、コンクリートの時代と言い切る。
確かに、コンクリートによって、建築は大きく変わった。
コンクリートという素材が、20世紀の都市を作り、国家を作り、文化を作った。
インターナショナリズムであり、グローバリズムであり、一つの技術で世界を覆い尽くし、
世界をひとつにする(グローバルスタンダード)にすることだった。
コンクリートは、自由さがあり、表層の自由も確保できる。
地震に強く、火事に強く、虫に食われない。
建築=コンクリート+お化粧。
自然な建築とは、場所と幸福な関係を結んだ建築のことである。
幸福な関係とは、景観に調和した建築というわけでもない。
存在と生産とは不可分で一体。何を作れるかにある。
場所を無視して、場所を超越することに、存在価値を見出した。
フランクロイドライト(帝国ホテル)は、ラジカルな建築とは、自然に根をはった建築なのだ。
日本の大工は、その場で採れた木材を使うのが良い。
ブルーノタウトが、桂離宮が、20世紀のモダニズムのそのさらに上に行く建築と評価。
「純粋で、ありのままの建築。心を打ち、子供のように無垢である。
タウトは、関係性という言葉に、苦しんでいた。
水の持つ水平性を実現する建築。
水面の光の粒子のダンス。
ルーバー(Louver)は、羽板(はいた)と呼ばれる細長い板を、枠組みに隙間をあけて平行に組んだもの。→格子。
石を切断することで、組積造による格子を作る。
→石の美術館。→透明な石の壁。→グラディエーション。
大谷石の格子。穴が空いていることによって、表情が変わる。均質ではない。
スクラッチタイル。
石と鉄で、織物を作る。
西洋の持つ透視図法と非透視図法。グラディエーション。
杉の木材の遠赤外線を使った不燃化によって、建築の可能性が増える。
竹を柱で使う。竹はそんなに強くないのをどう超えるのか?
万里の長城は、地形に負ける。自然に負ける。
隈研吾は、コンクリートを脱するものとしての
石、木材、竹、そしてガラスなどを駆使する。
格子をうまく使おうとしている。
しかし、自然とは何かが、まだ模索中のようだ。 -
自然な建築
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建築家っぽい口ぶり。「本音」を操るヤンキー性が存分に発揮されています。
ただ、確かにこの方の素材に対する不自然なまでの執念が与えた影響は大きいのかもしれない。 -
20世紀を「コンクリートの時代」とはじめに位置付けた上で、その材料が象徴する「表象と存在の分裂」の精神を批判する。先端技術の合理性・自然素材の脆弱性を踏まえた上で、どのようにその分裂、非連続性の蔓延する状況を打開するかをテーマに、いくつかの筆者自身の建築について筆者の思考過程を辿る構成となっている。
表象と存在の二項対立を人工と自然、さらに先端と野蛮のそれへと敷衍させ、両者のコントラストではなくグラデーションによって建築的に融合を図ろうとする精神が一貫している。それはまた、「その土地にはその土地の材料を」という「職人気質」の具現化の試みでもある。
東京大学の外壁にスクラッチタイルを用いた内田祥三のエピソードは、大変身近に感じられ興味深かった。章立ては簡明で、筆者の丁寧な用語説明もあり、建築学に触れたことのない人も十分楽しめる。 -
東京オリンピックでなにかとお騒がせな筆者。でも、この本はいかに人工物を自然と調和させるかという苦心が書かれており、筆者のセンスを感じらされる。和紙はそういや自然物なのか。オギュスタンベルクの「日本の風景」と一緒にどうぞ。
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くまさんいいです、自然、諦めない心。
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2016/11/26 53
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建築は限られた予算やスケジュールの制約下にあるため、新しい自然素材を建物の構造へ試験的に取り入れる事は難しい。また、自然素材は機能的にも欠点の多い材料であるため、それ自体を構造の中心に据えて丈夫な建築を作る事も非現実的である。著者はこのような制約の中で、コンクリートや木材と組み合わせる「不純」さを受け入れながらも自然素材の活用方法を模索している。
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151226 中央図書館
国立競技場コンペで今をときめく隈研吾。デザインの基本線は自然との調和、らしい。20世紀に世界の至るところに溢れだした「コンクリート」を、人間の自然な感覚を埋没させ、ぬめぬめと無次元の連なりに変えてしまう素材であるとして敬遠する。代わりに、石であり竹であり水であり紙を用いる。建築が自然と人を切断してしまわないように。
もう一つ、提示されている話題で気になったのが、設計者と現場職人との関係。ゼネコンは、設計者が現場に関与することを望まない。設計者が施工のディテールに口を出すたびに、設計変更による工費増加、工期遅延の原因となりえるからだ。このため施工マネジメント側は、設計者には詳しい図面を要求せず(これによりデザイン料も抑えることができる)、標準的な施工法、仕上げをできるだけ広く用いて、そのパッチワークで全体をとにかく工期通りに予算オーバーなしに竣工させることを目指す。建築デザインが資本に隷属するようになった以上は、やむをえないことであるが・・だそうである。 -
現代建築における自然素材への思い入れと、具現化実績を紹介する。石・竹・土・紙・・・・コンクリートという強く安く便利で自由な素材へのアンチテーゼであろうが、自然素材原理主義に陥らないように、現実を見据える態度が素晴らしい。人工と自然の二項対立に持ち込まないのが「和風」であり、クリエイターとしての信念とプロジェクトリーダーとしての問題解決を、高い次元で両立させることが一流の証か。妻の実家近く、度々訪れている栃木県宝積寺駅前の作品が紹介されていて、著者の隈さんに親近感を持った。
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どの本か忘れたけれども、同じ内容の本がこの世にはある。しかも著者の名前も同じだが、題名はちがうという摩訶不思議。
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隈研吾の素材を本質から活かした建築を知ることができた。20世紀はコンクリートの時代と称し、コンクリート建築が侵してきた自然からの断絶に対するアンチテーゼとして、徹底した自然素材のもつ質感を大事に、またその利用法も巧みの技を徹底して拾い出して建築に繋げていることに驚いた。竹の家や和紙の家など、とても興味深い。実物を見てみたい。
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本書で述べられている「自然な建築」とは「自然素材で作られた建築」のことではなく、存在している場所と建築物が幸福な関係を結んでいるときに、生まれるものであり、この「幸福な関係」とは場所の景観と馴染むことではなく、場所に根を張り、接続された事(その場所を材料として、その場に適した方法に基くこと)によって生まれるものであると筆者は冒頭で述べている。
ゆえに筆者は、近代のコンクリートを使えば良いという流れに疑問を抱いている。
コンクリートは、確かに場所を選ばず、どんな造形をも可能にするという性質から、建築を学び始めた学生から世界的な建築家に広く利用されてきた(木造の設計の実技では講師からいろいろとどやされるそうだ)。おまけに表層は好みに合わせてコーティング出来るというファッション性も持ち合わせる。
が、その一方で「あらゆる場所をコンクリートという素材によって単一化してしまい、一度形が出来上がってしまうとたちまち処理に一苦労する(表面上の硬さだけでなく、内部の鉄筋の不具合が分からなくなる)」との事である。
現場でのやりとりは、全て建設会社の社員を通さなければならず、職人との対話ができない(窓口が一つでないと困るというのも理由)、何か変更をしようにも「誰が責任をとり、お金を出すのか」の一辺倒(日程が遅れれば金利が余計にかかるなど)に頭を抱える日も多い。
しかしその上で「制約は母である。制約から全てが生まれる。予算という指標によって、建築は社会から期待されているかが示され、社会と接続される」と言う筆者は それでいて「相手の主張への配慮が建設を実現するという行為には最も大事。相手からの批判にも必ず一人があり、それらすべてへの配慮があってはじめて、自然素材の建築が実現する。自然素材を救いだすのは、開き直りでも大演説でもなく、謙虚と努力」という筆者の美意識や、「ディズニーランドのハリボテ建築も、マンションの豪華石貼りロビーも、基本的にはそんなノスタルジーの感情に上手く取り行って、物質の表層だけをかすめとりながら、古き良き時代のにせものを、安価で安易に提供しているだけ」という、現代建築への批判も多く載っている。
個人的には『三匹のこぶた』を用いて、「子豚が「何」を用いて家を建てるかというのは、その物質を用いて環境と身体をどうつなぐかを示している」と説明している下りはとても興味深い(p42)。
自分用キーワード
ル・コルビュジエ:チャンディガールの州会議場 ルイス・カーン:バングラデシュ国会議事堂 丹下健三 テクスチャーマッピング フランク・ロイド・ライト 「二十世紀は広告代理店の世紀であった」 ブルーノ・タウト 桂離宮(タウトが絶賛) ル・コルビュジエ ファン・デル・ローエ 日向邸 スーラ(画家) ライプニッツ 組積造 モックアップ 石の美術館 ピロティ(工法) 広重美術館 ちょっ蔵広場 杉の不燃化(遠赤外線で杉を焼くことで実現化。広重美術館で使われた) CFT(Concrete Filled Tube) 竹の足場(中国では高層ビルを作る際に竹で足場を作ることがある。落ちたときにクッションの役目を果たすという) グァドゥア(竹) 日干し煉瓦 プエブロ族 風船爆弾(和紙、こんにゃく、渋柿) 陽(ひかり)の楽家 ウォーターブランチ(建築) -
建築に志を求める方なら読んで損はない。
自分は、氏の建築を見た感想と、この本に書かれている内容の差に違和感を覚えるが、ここまで高尚なお考えのもと設計をされているのであれば、流石は大先生であろうと思う。 -
2013/05/06