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Amazon.co.jp ・本 (240ページ) / ISBN・EAN: 9784004311843
感想・レビュー・書評
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母胎からの分離に、ことばの世界への組みいれの体験の原型、平家物語に頻出する慣用句「あはれなり」は、人としてこの世に組みいれられてあることの根源的な矛盾とその哀感の表白である。琵琶法師の声とともに生成した平家物語は、たしかに人であることの哀しみの根源のようなものにふれているのである。
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平家物語と犬王をアニメで観て、物語の語り手たる琵琶法師に興味を持って読んでみた。
視力に頼らない世界で、物語を音で聴き、語る存在である琵琶法師は、時に耳なし芳一のように異界からの声も聴き届けてしまう存在として描かれたり、「自分」とは違うような主体を身に宿して独特の語りを展開するという。
時代の流れの中で職業として存続させるための苦心や翻弄の軌跡も描かれている。
何より、最後の琵琶法師・山鹿良之氏の演奏映像が付録になっているのがすごいところ。こういうものなのだと本物を見られるのは嬉しい。琵琶の音の迫力、語り口調は古語ではなく今の言葉で、現場でカメラを構えているかのような描写で、義子を呪う義母の姿が語られる。文章では義母をひどい鬼婆だと思っていたけど、語りでは人間くささが前面に出ていて印象が変わった。
琵琶法師はもういないのか…。 -
<異界と現世を結ぶシャーマン>
琵琶法師にどこか重苦しいイメージがあるのは、『耳なし芳一』によるところが大きいだろうと著者は述べている。琵琶法師は芳一に代表されるように、多くは盲人であったという。
盲人は晴眼者と異なり、視覚がないことで聴覚が研ぎ澄まされていく。著者は、盲人芸能者が、見えない存在のざわめきを感じ取ることで、「異界」とコンタクトできる、ある種のシャーマンであったとしている。東北のイタコや近畿のダイサンなどのシャーマンもやはり盲人であったとし、それらと共通するものがあったという。
芳一の採話を行ったのが、やはり視覚に障害があった(事故により左目を失明)ラフカディオ・ハーンであったことへの言及も興味深い。
平家物語に限らず、義経や曾我兄弟など、死霊のたたりが恐れられたものも、中世、おもに盲人芸能者によって語られたそうだ。
琵琶は大きな胴に棹がつく。棹には柱があり、柱と柱の間で弦を押さえ、胴部分を撥でかき鳴らす。
古来、琵琶法師が用いた琵琶は四弦六柱であったようだ。一方で、雅楽の琵琶は四柱であった。盲僧が徐々に宮中でも演奏するようになり、両方の流れを引いた形で、平家琵琶は五柱である。1つは「サワリ」と呼ばれる、ノイズを創り出す専用の柱である。
語り手が変わるごとにさまざまな改変がなされていく平家物語の成立についての考察もある。
その他、陰陽五行(木火土金水(もくかどこんすい))のうち、特に「土」と盲僧の関わりが深いこと、百人一首にも歌が取られている蝉丸は一節によると盲僧の祖だったとも言われるとの話なども興味深く読んだ。
本書にはDVDが付いている。新書では初の試みとのことである。
肥後の琵琶法師・山鹿良之による『俊徳丸』の一節が収録されている。これがものすごい。継母の継子いじめというか、継母が継子を取り殺して欲しいと観世音菩薩に丑の刻詣りをする場面なのだが、そもそも仏に人を殺せという発想がむちゃくちゃである。そして呪い釘を毎夜七本ずつ打ち込んでいき、七晩掛けて満願成就を遂げようとする、その鬼気迫る執念。それをある種独特の風体(異形といってよいほどの個性的な外貌)の演者が滔々と語っていく。
なるほど異界へと一気にさらわれる凄みのある芸である。
これはある種、暗部へ下っていく作業なのだと思う。芸に聞き入ることで、表には出さなくとも自分の中に眠っている黒い欲求と向き合い、昇華させるカタルシスなのだ。
異界への入口は外にばかりあるのではない。おそらく誰しもの中にある。黒い想いを暴走させないためにも、ときどきはそうした「空気抜き」も必要だったということだろう。
『俊徳丸』のストーリーがそのまま現代に受け入れられるとも思えないが、芸の力で闇を見つめる作業自体は現代でもなお役立つものであるだろう。
あるいはそれを担っているのがいまや伝統和楽器ではなく、別の芸術やサブカルチャーであるということなのか。
*自分の故郷には、かつて瞽女(ごぜ)と呼ばれる盲人女性芸能者がいた(「瞽」は目が見えないことを意味する)。琵琶ではなく、三味線を持って旅して歩いていた。そんなことをふっと思い出した。
*『俊徳丸』は、少し形を変え、『摂州合邦辻』として歌舞伎や文楽の演目となっている。継子いじめに加えて、不義の懸想やら、実は隠されていた真実やらが盛り込まれてなかなかにややこしい筋立てだが、原型は『俊徳丸』だろう。このテーマ、昔の人にはツボだったんですかねぇ・・・。というか、やっぱりなさぬ仲の親子が今より多かったってことなんだろうか。 -
琵琶法師とは何者か。
目が見えないということの、当時の人々が持つ穢れ意識と〈聖性〉。相反する属性であるのに、その両方を兼ね備えているということに、共感する。
そういうシャーマニックな存在が語る、この世ならざる声。そして巫具としての「琵琶」が奏でるノイズ。
鎮魂としての『平家物語』を考えると、当時の人々の切実さを感じる。
こういう所をクローズアップしてくれる論は、本当にありがたい。 -
琵琶法師の歴史を軸に、当時の文化、政治、思想が語られています。公家日記など歴史資料を踏まえた上で考察されており、一般向けの本にもかかわらず価値が高い本でした。付録として、琵琶法師の実演CDが付いているのも嬉しい本でした。
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斬新で刺激的な本だ。「平家物語」が語り物を端に発して成立した、とか、琵琶法師が語り伝えた、ということは文学史などで必ず知ることなのかもしれないが、それがどのように語られたのか、語られたこと、語ることにはどんな意味があるのかが解き明かされていく。第一級のミステリーだ。ラフカディオ・ハーン「怪談」の「耳なし芳一」の話さえも、現実味を帯びて、目が離せない。
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斬新で刺激的な本だ。「平家物語」が語り物を端に発して成立した、とか、琵琶法師が語り伝えた、ということは文学史などで必ず知ることなのかもしれないが、それがどのように語られたのか、語られたこと、語ることにはどんな意味があるのかが解き明かされていく。第一級のミステリーだ。ラフカディオ・ハーン「怪談」の「耳なし芳一」の話さえも、現実味を帯びて、目が離せない。
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2014/03/18
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琵琶法師の成立から消滅までを一通り知ることができて面白かった!平家物語の成立についてが読んでいて楽しかったのでもっと詳しく知りたくなった。平家物語が鎌倉以降源氏政権の正統性を誇示する為の神話的扱いをされたことで、琵琶法師も幕府管理下に置かれるようになった歴史が興味深かった。
子どもの頃から知っている昔話『耳なし芳一』の地域別の異なるパターンとかも面白かったな。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の英訳版からの仏語訳版にインスパイアされた小説版、なんてバージョンも存在していたんだ〜となった。 -
「民間信仰の担い手」と「平家物語の語り部」の2軸から成立した琵琶法師という存在について、興亡史を俯瞰できる一冊。
室町時代には武家社会の庇護をうけての隆盛したが、江戸時代に至っては伝統芸能化した平家物語をもっぱら武家に提供するだけの存在となり(民間信仰への関わりを忘却し)、明治期以降は当道座もろとも琵琶法師は消滅。1980年代までギリギリの命脈を保ったのが当道座との関わりを避けて「民間信仰の担い手」の立場を維持していた九州の琵琶法師であった。滅びの美しさをみる。
琵琶法師には陰間のごとく春を売るものもあり、彼らはときに去勢をして云々・・・みたいな言説がX(旧Twitter)にあり、そういえば琵琶法師の本買ってて積んでたな~と思って読んだわけだが、売春だの去勢だのの話は特に載っていなかった。また、戦国末期の琵琶法師は諸国をまわるためときに間者となり、また基礎教養の高さのためロレンソ了斎のような者も生じた、というような話も聞いていて、そういうことも深堀りしたかったところだが、その手の話も載っていなかった。(この本で注目されている点は、琵琶法師と民間信仰・平家物語の関わりが主である。上記のような私が聞きかじる話が事実であったとしても、まあこの本においては意図的に避けたのかもしれない)
『琵琶法師は盲人のため、自分という存在を(健常者のように)明確に意識していない。それは、平家物語の主語が、ときに第三者の視点、ときに登場人物の視点と、変幻自在に変化することにも表れている』という著者の主張は面白かった。こうゆうことがロレンソ了斎のキリスト教受容に関係していればなお面白い。 -
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難しかった。
平家物語の知識、及び古文の読解力が無い自分には、ここに書かれている内容の半分以下しか理解出来ていない。実際著者自身、万人を読者対象としている訳では無く、素人に優しく説明するという事はしていないと思われる。
しかし、この書のテーマ「琵琶法師」は、社会学的にとても面白い分野であるとおもわれる。「聖と俗」、「聖と穢」、「敬と怖」の可逆性は世界中に見られるが、その両者を取り次ぐ役割の一つが「琵琶法師」だった。
自分は、「琵琶法師」の芸の部分に興味があり、この本を手に取ったのだが、その目的は必ずしも果たせていない。しかしこの本から特異なエネルギーが与えられたのは確か。「琵琶法師」についてもっと知りたいと思うが、その為に先ずは、平家物語を知らなくてはならない。
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以下の記事が印象的でした。『小右記』に散楽の記事があるとは、思いませんでした。
『小右記』には、みぎのほかにも、藤原道長が建立した法成寺で催された修二会で、琵琶法師が「散楽」を奏したことが記されている。 -
久しぶりに固有名詞がっつりで、読んだ!という気はするんだけれども、淡々としすぎて(新書だからその通りなのだけれど)、イマイチ残らなかった。
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読むのにいろいろ予備知識が必要。
新書向けに書かれた内容ではないのだろう。 -
圧巻は付録。
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何と小さなCD付きの新書。琵琶法師の歴史の本。なぜ、琵琶法師は盲目で無くてはならなかったのか、(あるいはそれが有利なのか)、蝉丸との関係は?など。面白い。
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本書には、琵琶法師の「語る」という行為を通して、そこで何が行われていたのかを網羅的に記されている。「琵琶法師」といえば、歴史の授業で、あるいは古典の授業でチョロッと紹介をされた程度の認識しか僕にはないけれど、考えてみると不思議な存在だった。なぜ、盲目であったのか。どこから生まれてきたのか。そして、どこへ消えたのか。そもそも、どういった価値を持つ存在であったのか。
以下に述べることを、決して差別的な意味合いで受け取ってほしくはないが、僕は勝手なイメージを持ってしまっていて、琵琶法師はいわば稼ぐことを目的とした存在なんだろうと空想していた。それはちょうど河原者が発祥だとも言われる歌舞伎や、あるいは盲目の方の職業としての按摩業などのイメージと結びつき、結局のところ、琵琶法師も生きるための手段であり、決して高尚とはされない芸能の一種に過ぎなかったのではないかと考えたというわけだ。
そんな根本的な勘違いをしていた時点で、本書を読む資格が僕には無かったのかもしれないけれど、そんな根本的な勘違いをしているからこそ、本書は驚きの連続であった。本書は琵琶法師や『平家物語』などがテーマとしてあるわけだが、深く学ぶことのなかった背景を知ることは、時として、いわゆる「実用本」を読む以上に実生活に生かされることがあるように感じる。きっと、歴史や古典の学習の意義ってそういうところにあるんだろうなあ。でも、たしかに、よく言われる「日本人としての教養」や「日本の文化を知ることで~」といったことばには辟易してしまう側面も多分にある。まだ僕には、それに辟易する人たちを説得する言を持たないけれど、……うーん、もうちょっと考えてみたい。
【目次】
序章 二人の琵琶法師
第一章 琵琶法師はどこから来たか―平安期の記録から
第二章 平家物語のはじまり―怨霊と動乱の時代
第三章 語り手とはだれか―琵琶法師という存在
第四章 権力のなかの芸能民―鎌倉から室町期へ
第五章 消えゆく琵琶法師―近世以降のすがた
「俊徳丸」DVDについて
「俊徳丸」全七段・梗概
あとがき
付録 DVD「山鹿良之演唱「俊徳丸」三段目(部分)」 -
110508/今年22冊目
著者プロフィール
兵藤裕己の作品
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