『七人の侍』と現代――黒澤明 再考 (岩波新書) (岩波新書 新赤版 1255)
- 岩波書店 (2010年6月19日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004312550
作品紹介・あらすじ
日本映画を代表する名作として、幾重にも栄光の神話に包まれてきた黒澤明の『七人の侍』。しかし世界のいたるところで、いまなお現代的なテーマとして受容され、その影響を受けた作品の発表が続く。制作過程や当時の時代状況などを丹念に考察し、映画史における意義、黒澤が込めた意図など、作品の魅力を改めて読み解く。
感想・レビュー・書評
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去年は黒澤明生誕100年。日本映画専門チャンネルでも一年をかけて黒澤明特集をしていた。そうこともあり、この本を買ってみたのだが、色々と発見があって楽しかった。
この本の狙いは冒頭の「エピローグ」でうまいこと語っているので、そのまま書き写して本の紹介に代えたい。
「時は戦国、ある山間の小さな村に侍の墓が四つ並んだ。野心と功名に憑かれた狂気の時代に、全く名利を顧みず哀れな百姓たちのために戦った七人の侍の話。彼らは無名のまま風のように去った。しかし、彼らのやさしい心と勇ましい行為は今なお美しく語り伝えられている。彼らこそ侍だ!」
1954年、東宝で「七人の侍」を監督するにあたって、黒澤明が予告篇のために記した文章である。だが歴史的には16世紀後半、多くの農民は武装していたし、百姓はただ「哀れ」な存在などではなかった。侍と百姓、そして野伏せとの間の境界は、今日のわれわれが考えるほどに厳密なものではなかった。撮影の途上で黒澤は作品の結論を大きく変更する。「彼らこそ侍だ ! 」という確信に満ちた叫びが退けられ、侍なるものを巡る懐疑と戦闘をめぐる後悔とが大きく前面に取り上げられることになる。
同年のゴールデンウィーク直前に公開されるや「七人の侍」は虚無的な結論を嫌われ、農民を侮蔑したものだと批判される。またその一方、再軍備問題を説くフィルムとして賞賛される。ヴェネツィア国際映画祭における受賞が全てを変える。今日ではこのフィルムは日本映画を代表する名作であるとみなされ、幾重にも栄光の神話に取り囲まれている。物語は世界のいたるところで翻案され、ナショナリズムと抵抗闘争を説く装置として機能している。だが黒澤明が差し出した、虚無に通じる問いかけは、ここでは等閑にされてしまった。
日本が敗戦を経験して九年後に製作されたこのフィルムに、今こそもう一度照明を当てるべきではないだろうか。誤解と思い込みの上に成立した過剰な栄光をひとまず払いのけ、それが製作された時代の社会的文脈と、延々と続いてきた日本映画の中の時代劇の文脈の交差点に立って、作品そのものを虚心に見つめなおす必要があるのではないだろうか。
冒頭の予告編は私も何度も目にし、耳にした。そういわれてみて、初めて気がつく。「彼らのやさしい心と勇ましい行為は今なお美しく語り伝えられている」しかし、実際の映画は最後の場面、農民たちは侍たちにひどくそっけなかった。一度は契りを交わした志乃も勝四郎を無視し、田植えに忙しい。侍たちの役割は終わった、もうどこにでも行っておくれという態度であり、「美しく語り伝えよう」という態度は微塵も無い。最初の脚本には、偽侍の菊千代を称える台詞、あるいは「侍はな…この風のように、この大地の上を吹き渡って通り過ぎるだけだ…土は…いつまでも残る…あの百姓たちも土と一緒にいつまでも生きる」という官兵衛の台詞があったらしい。しかし、本編ではそれは削られている。なぜか、もうここでは侍の戦いの意義は無視される。ただ、土饅頭の上を風か吹き抜けるだけだ。そこにあるのは、仏教的な無常観のみ、あるいは敗残兵に対する服喪の感情のみである。「我々は何の為に生きているのか」そういう問いであったといってもいい。しかし、この服喪の感情は、その後の「七人の侍」の栄光の中でみごとに無視された。ずっとあった予告編と本編との違和感を今回初めて正体を知ることができた。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
(01)
1954年に公開された映画を約半世紀後の時点で分析する.
個人的な映画体験から,この映画を体験した国際的な情況,制作された時代の背景,当時の時代劇の趨勢,また,この映画が対象した16世紀末にまで光をあて,現代との接続を試みている.
いくつかの疑問が残る.
この映画のヒットによりジャンルとしての「七人の侍」が現れ,有名な「荒野の七人」をはじめ類似する映画が後続したとする.が,その背後にはさらに,「七人の侍」が寄って立つところの物語の典型的なプロットや民俗,そして人類学的類型があったと考えることができないだろうか.
また,歴史的な解釈をめぐって,この映画の監督である黒澤明は,侍側や百姓側に偏向しており,野伏せへの理解が欠けていると著者は指摘する.そしてその原因には,黒澤の二元論的な認識の枠組みや,当時の歴史学の成果から得られた認識の限界を指摘する.しかし,この映画で野伏せの個性が描かれていないのは確かであるが,野伏せが描かれていないわけではない.この野伏せの描写の意味はより深く点検されてよいし,脚本執筆時には,野伏せが侍や百姓と相同的な存在であったことは知られていたし,映画描写の細部からみても,歴史的な背景の探索にあたって,そうした史料や論考を参照した蓋然性は高い.むしろ問題にさせるのは,なぜあのように野伏せを描かないように描いたかであり,黒澤の歴史的認識や偏向による限界であるというより,それは黒澤が選び取った演出方法であるともいえる. -
七人の侍とゴジラは同年公開。いずれも、まだ戦争の記憶がまだ生々しく残っている中での作品であることを思い起こすと、七人の侍のラストシーンにもまた違った感慨が湧いてくる。パレスチナやユーゴスラヴィアなど紛争地で七人の侍がいまだアクチュアルであり続けることから出発する評論。
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東2法経図・6F開架:B1/4-3/1255/K
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四方田犬彦が語る、七人のサムライ、おすすめの一冊です。
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2012/3/6購入
2012/11/26読了 -
極めて出来の良いエンターテイメント作品という認識しかなかったのだが、実は制作された時代状況と監督の戦争体験が強く反映されているという議論が面白かった。本著を読むと「七人の侍」が「ゴジラ」と同じ年に制作されている点も象徴的な出来事に見えてくる。また、一般的には映画史における古典として捉えられている「七人の侍」が、キューバ、パレスチナ、セルビアといった地域では、実世界とシンクロした現在進行形の作品として受け入れられているというレポートも興味深かった。
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七人の侍は名画という評価が定着されている。しかし、内容をよく読むと読むと百姓の描き方、七人の侍の描き方に問題があったり難解であったりと、結構問題のある作品であるのがわかった。