- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004312840
作品紹介・あらすじ
古代人は過去を表わすのに、「き」「けり」など六種もの「助動辞」を使い分けた。ひたすら暗記の学校授業を思い出し、文法を毛嫌いするなかれ。それら時の助動辞は、何と意味・音を互いに関連させ、一つの世界を作っていたのだ。では、なぜ現代は「〜た」一辺倒になったのか。哲学・言語学など大きな広がりをもつ刺激的な一冊。
感想・レビュー・書評
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古の日本語には、過去を表す助動辞(助動詞)が、6種<き、けり、ぬ、つ、たり、り>あった。そして、それぞれに、違った時制を持っていたのである。今の日本語が過去を表す助動辞は、<たり>の変化した<た>の1つだけだ。言葉が時を下ることで、簡易、単純化していくのは世界どこでも見られる傾向だが、簡易、単純化しているのは言葉だけなのだろうか。今日の自分たちは、時間を過去、現在、未来の3時称で捉えることを普通としているが、昔からそうだったとは限らない。もっと多元的な時空世界を生きていたのかも知れない。冒頭に上げた過去を表す助動辞も、”過去を表す”というのは、今の日本語からみた当て推量に過ぎないのである。筆者の”非過去”という呼称はとても興味深い。また”krsm四面体”なる野心的取り組みとあわせて示唆的である。
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自分の修士論文に関係する内容だったので、図書館入りを待たずに購入。
詩人の感性って新鮮! 目を開かれた思いがしました。
この本をきっかけに『言語学大辞典』も読むように。 -
2020.12―読了
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ことば
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756円購入2011-02-09
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昔の人は、時間を表す助動詞、き、けり、ぬ、つ、たり、り、けむ、あり、などを使い分けしていた。これらが、現代では、た、になってしまった。これらの助動詞の使われ方を述べる。高校の古文の知識も薄らいでいるので少し難しかったなあ。
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結局今ひとつ違いが分からない。
「尼になりにける」は語る現在までにもう尼になってしまっていまにあることを言い…
ヌは間もなく起こらんとすることを言うのでは。 -
昔の日本語には、過去形が6種類あり、「き」「けり」「ぬ」「つ」「たり」「り」それぞれが意味するところが違うという。かつて英語の授業で、過去形と完了形の違いを念入りに教えられたが、それ等よりもっと微妙でナイーブな違いがあるらしい。著者は、多くの例文で解説を試みるが、残念な事に読者(私)の方に、読みこなす力量がない。正直言うと、古文の解釈や文法論は、ほとんど理解できなかった。しかし、昔の日本語は、今よりも表現の幅が多かったこと、そして、それらが時を経て合理的(?)・機能的(?)な方向に収れんされて、現代日本語に至っている事はわかった。前述の6個の助動辞は、すべて「〜た」という現代の日本語になったようだが、世の中には、時制という仕組みがない言語もあるらしい。そんな言語はどうするかというと、やおら「昨日は〜」とか「〜の頃に〜」といって話し始める。なるほど、ある意味、かなり合理的だ。
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古典語の時に関わる助動詞(筆者は助動辞という)について、どういう整理がなされるのか、期待しながら読んだ。
それに、近代の文法理論で捉えきれない論理があるのかも、と期待するところもあった。
残念ながら、期待に応えてもらえなかった気がする。
まず、私が躓いたのは、krms四面体のくだり。
たしかに、けり/けむのように、「k-i」は過去に関わっているとは理解できる。
「a-ri」が存在、ひいては継続相につながていくことも。
推量に関わる「a-mu」も加わるのも、これまでの説明とそう大きく変わらない気がする。
そこで語尾をつくる「-asi」を加え、これらを四面体の四つの頂点とする立体図を考えているのだが・・・
ついていけないのは、それぞれの頂点となる要素は、語を構成する要素yだとしても、同等の地位にはないものが並列的に扱われてしまっていることだ。
頂点kとrを繋いで、「けむ」が得られ、頂点sとrを繋いで「らし」が、同様にrとmで「らむ」、kとmで「けむ」なのだが、mとsを繋いでも何もできない。
rも、mも、他の要素の下につくものだからだろう。
しかし、本書41ページのように「立体図」にしてしまうと、不可解なことが出てきてしまう。
線分krの周りの空間が時間域なのに対し、頂点sの周りが形容域、頂点mの周囲が推量域という領域の不統一も、このモデルのすっきりとしないところだ。
説明の便宜のために考え出された図にすぎないのだろうが、かえっていろいろな誤解を与えそうな気がする。
さらに、「けり」と「き」の説明も、どうもすっきりしない。
「けり」には詠嘆の用法はないという部分は納得した。
また、「あり」を要素として含むので、現在と関わりをもつものだという説明も理解できる。
ただ、「き」は神話的過去というのはどうなのか?
筆者自身も徒然草では、体験的過去の「き」と伝承や伝聞の「けり」で書かれていることにふれている。
時代が下って、そのように用法が変化することもあるのだろうが、筆者の言う神話的過去と、そういった用法のギャップについては説明らしい説明がない。
また、「大鏡」や「愚管抄」の使い分けにいたっては「省略に従うほかない」とされている!
それは「神話的過去」という説明とは整合的な説明ができないということなのだろうか。
本書を最後まで読むには読んだけれど、このような点が多くて、どうしても筆者の姿勢に信頼が置けなくなってしまった。 -
新書としては、内容がちょっと固めでした。