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Amazon.co.jp ・本 (256ページ) / ISBN・EAN: 9784004312925
みんなの感想まとめ
人が人を裁くことの本質に迫る本書は、裁判制度や刑罰の枠を超え、自由意志や社会秩序の維持といった深いテーマを探求します。裁判員制度の導入を背景に、法律や判例、冤罪、死刑の実務に関する議論を展開し、裁くこ...
感想・レビュー・書評
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日本に裁判員制度が導入されたのが2009年。本書の出版は2011年なので、その当時はテレビでも本制度のポイントを解説していたと思うが、改めて本質的な議論を確認してみるには良い本だった。
人が人を裁く。そこには裁くための法律、判例、罰則の適正、量刑を巡る議論、死刑の判断だけではなく執行する実務、冤罪、刑務所についてなど様々な付随するテーマが含まれる。深く考え、問題提起し、考察を与えるのが本書。犯罪に至る意思は、自由意思なのかという議論まで。
米国テキサス州で服役する死刑囚の一人が向精神剤を大量に飲んで自殺を図ったが、医療チームが病院まで飛行機で急行して一命を取り留めた。わざわざいったん助けた後で、その翌日に受刑者は処刑された。これは「裁く意味」を考えさせる一つの具体例だ。我々が処罰を望む本当の理由は何なのか。裁判も死刑も「儀式的な形」を必要とするものなのだろう。そこでは、裁く側の主権を絶対的なものにしておかねばならない。
ー 人間は自由な存在であり、自らの行為を主体的意志によって選び取る。だから、犯罪行為をなせば、その責任を負わねばならない。これが近代刑法の出発点だ。しかし大脳生理学や社会心理学の成果は、この大前提を直撃する。行為は自由意志によって引き起こされるのではない。意志が行為の原因をなすという因果論的枠組みでは、責任は定立できない。
内容が密で深く、一つ一つ切り込んで紹介するのは難しいため、取り扱われる設問として興味深いテーマを二つ。裁判員のような素人市民に判決を任せる是非について、それと、優秀な医師が被害者の命を救えた場合と救急車が遅れて被害者が亡くなった場合、同じ殺人行為でも片方は未遂、片方は殺人犯。詳しくは本書で、だが、これを考えるのは面白い。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
人が人を裁く事ができるか。本書はタイトルから現在の裁判制度への挑戦であるかの様な雰囲気が漂う。内容としては正にそれが可能であり、かつそれが正しい事なのかについて触れている。結論はここでは述べる事は出来ないが、果たしてそれが正しい事であるか深く読者に考えさせる内容となっている。
時期的には日本に裁判員裁判が導入された頃であろうか。法律素人の一般人が裁く事に加わった時に何が起こるか、起こり得るかについて考察を加えると共に、諸外国にも導入されている同様の制度(例えばアメリカなら陪審員制など)との違いについても触れている。制度が成り立った背景や、その日本とは異なる社会性などと比較をしながら、その国々にあった制度の成立過程を見ていくのは日本の制度について考える時、非常に参考になる。その根底には全て(一般市民が加わる加わらないに関係なく)人が人を裁くという事実だ。同様に冤罪事件の数なども日本と各国の違い、有罪率の比較など、あらゆる数字を用いて事実を並べながら考察を繰り返す。何故冤罪事件が無くならないのか、無くす事が可能なのか。本書はそれが起こりうる要因を、制度だけでなく人間の本質にまで迫っている。その背後にあるのは、ここでもやはり人が人を裁くという裁判制度そのものから見つめている。
そして最終的には善と悪の共存する社会自体の性格にまで触れていく事になる。人類が誕生し社会を築き上げ、その中で生まれた遥か以前の哲学者の言葉を引きながら、人間が人間たる所以、そして社会の中で必要な裁きのあり方など、読み進める程に今の自分の考え方が如何に浅く、他人や社会の影響に左右されているかに気づいていく。私という存在、私が考える正義や悪についての概念。そして善悪の判断基準の上にある実際の犯罪に対する認識。それらが真理に近い部分でせめぎ合い、そして裁判員裁判という制度のあり方に疑問が湧き上がる。
本書はタイトルこそ人が人を裁くという裁判制度を題材とした書籍に感じるかも知れないが、筆者が投げかける質問や、読者に対する考察への導きが優れた作品であると感じる。余計な事は頭から一旦消去して、人間について深く考える時間をくれる一冊だ。
今もし私の元に裁判員としての招集が来たとしたら、果たして私はそれに自信を持って参加できるだろうか。私に人を裁く事は出来るであろうか。深く考えなければならない。 -
「人が罰せられるのは、自由な意思決定に責任があるからではなく、社会秩序維持のためのスケープゴートとして必要だからである。」
著者は、裁判というものの「常識」を根底から問い直す。
単に司法制度論や刑罰論にとどまらず、社会心理学、哲学など、より根源的なところにまで及ぶ問いかけがなされる。
「どんな秩序であっても、反対する人間が常に社会に存在しなければならない。正しい世界とは全体主義に他ならないからだ。」
非常に多くの示唆に富む、何度も読み返す価値のある本。
第2部で引かれている刑事司法関係の資料が若干古いのが惜しい。 -
裁判とは何か、突き詰めて考えた本。
理性的に分析されていて、面白い。
人を裁くということは、誰かを犠牲にすることを意味していて、実はそれ自体が犯罪行為だという指摘にはドキッとさせられるけれど、それぐらいの重みを実感しないといけないと思った。 -
思考実験に最適でした。
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法とは何か。裁判とは何か。
それを考えさせられる良書である。
職業裁判官にしても、裁判員にしても、
人が人を裁くという構造は変わらない。
では、職業裁判官が裁くことと、市民が裁くことの意味はどのように違うのだろうか。
人が人を“正しく裁く”ということはできるのだろうか。
裁くという行為の裏側にあることを、
丁寧に掘り下げていく。
法体系も裁判の様式も国によって異なり、
裁判の意味さえも国によって異なるという。
真実を究明する場か、断罪する場か。
更生を求める場か、被疑者の恨みをはらす場か。
誰がさばこうが、冤罪のリスクは少なからず残る。
また冤罪を極力避けようとすれば、犯罪者をそのまま野に放つリスクが高くなる。
このトレードオフの構造の中で、
裁判は行われる。
人が判断することなので、完璧なものなどあり得はしないし、
簡単に、どの制度がよいとか論じられるものではない。
しかし、人が人を裁くというその行為がどんな意味をもっているのかは、
各自が自覚しておくことが必要なのではないかと思わされる。
裁判員に選ばれて、裁判に参加することは、
国民が勝ち取った権利なのか、それとも義務なのか。
いくつもの問いが浮かんでくる。
“なぜ市民が裁くのか。職業裁判官の日常感覚は一般人とずれているから素人に任せる方が良いというような実務上の話ではない。犯罪を裁く主体は誰か、正義を判断する権利は誰にあるのか。これが裁判の根本問題だ。誰に最も正しい判決ができるかと問うのではない。論理が逆だ。誰の判断を正しいと決めるかと問うのだ。人民の下す判断を真実の定義とする、これがフランス革命の打ち立てた理念であり、神の権威を否定した近代が必然的に行き着いた原理である。” -
前半の各国の陪審員制度の解説は、各国民の考え方が判って面白かった死刑制度の部分は、過去の歴史部分が興味深かった。アメリカとフランスの法概念の違いって、大きいんだと実感。
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一見すると、裁判のみに焦点を当てた本かと思うかもしれないが、心理学、社会学、哲学の分野に話が広がっているので、少し圧倒されるかもしれない。
けれども、様々な視点から問題を捉えようとする筆者の姿勢であると私は感じたので、評価に値すると思いました。 -
難しい本だったけど読んでためになりました。
冤罪のできる過程とか。
以前島田荘司さんの「奇想、天を動かす」って本で社会秩序を守るためにスケープゴートとして逮捕された人の話がでてきたけど、小説の中だけの話ではないと実感しました。しかし勿論それを肯定するわけでもなく否定もできないのかなと思いました。
何を基準に善、悪を決めるのか等答えのない疑問について書かれています。
1章、2章がそんなかんじだったけど、3章はなんか哲学っぽい話で読んでてよくわからんかった。
また時間ができたときにでも読み返してみようかな。 -
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内容が濃くて読むのに時間がかかるが、多くの人に読んでもらいたい本だ。犯罪を処罰することに対して、私たちの常識がいかに間違っているかがよくわかる。
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裁判員裁判の話かと思ったら、最終章はかなり哲学的なテーマに切り込んでいるのでよくみたらこの筆者は法律家ではないのでしたのね。パラドックスに満ち溢れた司法というものを垣間見た。いかに自白がつくられるかという部分は恐ろしくも感じた。犯罪はなくならない。犯罪のない社会はすっかり煮詰まって進歩もなく同じ考えで同じ価値観の同じ顔をした人間がうろつくだけの社会と同じ、というところにもなるほどなーと思うところがあった。2012年3月に読んだ。
2025年再読。この10年で制度が成熟した感じはあまりない。この著者の指摘した問題点の議論が進んだという感じもない。新たに問い直す必要があると思うのだが。 -
筆者は在仏30年になる社会心理学者。日本にも裁判員制度が導入されて久しい。市民参加の正当性,認知や記憶の曖昧さ,主体・自由意思の虚構性に光を当て,素朴な司法観を見直す好著。
本書は三部構成。まず裁判員制度をはじめとする司法への市民参加とそれを支える理念に触れる(裁判員制度をめぐる誤解)。次に自白や証言を引き出す過程でいかに記憶が捻じ曲げられるかを見て(秩序維持装置の解剖学),自由意思と責任の転倒した関係を論じる(原罪としての裁き)。
ヨーロッパにもアメリカにも参審制,陪審制といった裁判への市民参加が認められているが,その正当化根拠には違いがあるようだ。欧州では,裁判の目的を真相究明に求めることが多く,アメリカでは紛争解決に求めることが多い。欧州は国民を重視し,アメリカでは共同体を重視。もちろん,本当の真実というものは誰にも把握などできない。欧州裁判制度の追及する真実とは,国民自らの手で決定した事実。権力でなく市民が真実を決めるというスタンス。アメリカでは,地域共同体で起こった事件は自分たちで解決するというスタンス。中央政府は基本的によそ者。
どの国も,複数の市民が裁判に直接関与するが,人数,裁判官との役割分担など,制度設計によって裁判の内容が影響をうける。責任が稀釈されたり,同調や服従なども起こりうる。ただ,一回きりの参加にとどまる市民の判断は,犯罪を裁くのに馴れた職業裁判官よりも有罪判断に慎重な傾向。
冤罪の危険というのはどうしてもなくならない。自ら進んで犯行を認める者はいないし,捜査機関は被疑者が犯人であることを信じて追及することが多い。密室における取調べによって,逃げ場のなくなった被疑者が虚偽の自白をしてしまうケースが後を絶たない。日本でも外国でも同じ。
また,人間の認知能力,記憶保持能力というのは非常に限定的で,連日の執拗な取調べによって,真犯人でない被疑者が,犯罪事実を自分が起こしたように誤信する結果になることも稀ではない。目撃証言についても同じで,捜査機関が希望する証言内容を実際に見聞きしたと思込んでしまう証人も。
冤罪の種は尽きないのだが,それ以上に重要な問題提起が第三部でなされる。近代刑法の大前提として,人間は自分の行動を自由に選び取ることができる,自律的な存在だという考えがある。それにもかかわらず,犯罪に手を染めたという点が批難に値するため,処罰が正当化される。
しかし,生理学・心理学で得られた知見によれば,自由意思や主体の存在は極めて疑わしい。意識的な身体の運動に際しても,その運動を引き起こす神経の電気的指令は,動かす意思よりも前に生じることが分かっている(リベット実験)。身体の動作は完全に意識的に制御できるわけでない。
さらには私とか自己というのも実在するとは言い難い。自己は社会的に構築された幻想であるといっても間違いではない。それに人間誰でも遺伝と環境が作用して出来上がったものであり,それ以上でもそれ以下でもない。もとは単細胞の受精卵だった。そのような存在を裁くとはどういうことか。
結局,主体とか自由意思というのは,責任を問うために捏造された概念にすぎない。社会秩序を維持するためにそういうフィクションが必要とされたのだ。魔女狩り,動物裁判,死体の処刑のように,災厄のシンボルを破壊する儀式を通じて共同体の秩序を回復することは,常に行なわれてきた。
この第三部の責任論は,同著者の『責任という虚構』で詳しく論じられていた。「責任はフィクションである」なんて違和感があるかもしれないが,結構説得力のある話だと思う。
近代合理主義とその前提する人間観には科学的にみてかなり綻びが出てきてるように思う。ただ,その場合,逸脱行為にどう対処するかが難しい。まったく逸脱のない社会は全体主義であり,不健全・不自然。逸脱行為は必ず起きる。それを何らかの形でうまく扱っていかなくてはならない。 -
タイトルを読むとナラティブで情緒的な感じなのかな、
と思ってしまうけど、全然そういう本ではない。
ただこの著者の他の著作に比べると最後の方は
中途半端だったような(新書だから...?)。
第1章は何度も読み返したい感じ。 -
・社会の機能不全が原因で悪が生ずるのではない。その逆だ。悪は,正常な社会構造・機能によって必然的に生み出される。
・社会秩序は事故の内部に根拠を持ち得ず,虚構に支えられなければ根拠は成立しない。しかし同時に,社会秩序が様々な虚構のおかげで機能しているという事実そのものが,人間の意識に対して隠蔽されなければ,社会秩序が正当なものとして我々の前に現れない。つまり虚構の成立と同時に,その仕組みが隠蔽される必要がある。真理はどこにも無い。虚構であるにもかかわらず,現実の力を発揮できると主張するのではない。虚構こそが真理の正体なのだ。
・しかし真理はどこにもない。正しい社会の形はいつになっても誰にも分からない。だからこそ,現在の道徳・法・習慣を常に疑問視し,異議申し立てする社会メカニズムの確保が大切なのだ。 -
裁判員制度について日本や世界各国の観念について触れながら分析した本。第一章の内容に関心させられました。タイトルにもある「人が人を裁くということ」は本質的には大きな欠陥があります。そもそも善悪の判断はその時代の価値観で変化するものであり、また犯罪の真偽というものも検察官と弁護士の主張のどちらが「よりもっともらしい」かを判断する非常に頼りない原理です。そのため、裁判を成立させる論理として、フランスでは一般意思という神のごとき意思が存在することを仮定し、アメリカでは事件の真理の追究ではなく合意形成を図るだけとなっています。
翻って日本はどうか?裁判制度を成立させている論理は何なのか。私はそれは、お上に対する無条件の忠誠心だと感じています。日本は江戸時代に中央集権国家が完成して以来他国と戦争することがほとんどなかったせいか、権威者への反抗という概念が希薄だと思います。そのため、専門家や権力のある者の意見には渋々であっても従う。裁判で言えば裁判官のほうが裁判員よりも偉いという感覚。
欧米の人が全員裁判の論理的妥当性について考えているとは思わないが、日本も成熟社会を迎えたのだから、こういった哲学や思想について思考をめぐらす人が増えることが今後の国の立ち位置を決める上で重要になるのではないだろうか。 -
裁判は真相究明のためではなく、社会秩序維持の装置として存在する。『犯人=スケープゴート』という表現は中々に的を射るものかもしれない。はじめこそ実例を上げて説いていくが、哲学本。
答えの出ない問いへの向き合い方を考えさせられた。裁判員制度は他人事ではない今、裁判の仕組み、思想に触れられたのは良かった。 -
すごく整理されていて、日本の裁判員制度、世界の参審制などがよくわかった。三章はとても難しい。それでも、参審員の可能性もある日本人は、ぜひとも読んだ方がいいと思います。
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小坂井敏晶の作品
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