- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004313137
作品紹介・あらすじ
公教育は政教分離をとうに踏み越えていた?なぜ誰も気づかなかったのか?「中立・客観」的であると信じられている教科書の知られざる記述を仔細に検証する。海外での論争や試行錯誤も豊富に紹介。国際理解のための、そして自ら考えるための宗教教育とはどうあるべきか。そもそも中立的に宗教を語ることは可能なのか。
感想・レビュー・書評
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我々社会科教員は宗教を教える際、言葉を選びながら生徒たちに伝えなければいけないことは当然ですが、我々が知識のよりどころとする教科書自体に問題があるとするのが本書です。本書では高校の教科の中で最も宗教を扱う「倫理」の教科書をもとに問題を提起しています。本書ではまず問題点を2つ「教科書が、意図的ではなく結果的に、特定の宗教的信仰を受け入れさせようとしてしまっている」問題と「教科書がある宗教を他の宗教より優れているとしたり、逆にある宗教に対し差別的な偏見を示している」問題(「はじめに」より)と提起しています。そして本書の目的を「道徳教育の是非や宗教的情操教育の是非を論じるのではなく、そういった論争の前提の部分に、知られざるゆがみがあることを示す」とされています。
まず第一の問題点について、著者はある教科書で仏教については「ブッダの教えはあなたにとって大切な指針になる」という価値判断を下して生徒にそれを受け入れさせようとしているのに対し、キリスト教については「キリスト教はこう考える。キリスト教はこうである」とは書いているが「イエスの教えにあなたも学ぼう」というスタイルにはなっていないとのことです。さらにイスラームの記述は距離感のある、淡泊な扱いであるとされています。以上はとある教科書の例ですが、他の教科書でも特定の宗教の教えを人類普遍の教えのように書かれている個所があり、本来中立であるべき教科書として問題ではないかと述べています。そしてこの原因として「つまるところ、倫理の科目は、宗教そのものを理解する場ではなく、道徳教育のために宗教を題材として利用する場になっている。(44頁)」としています。また後者の問題点についても、「イエスやブッダを偉大な先哲として描こうとすればするほど、相対的にユダヤ教徒ヒンドゥー教は貶められるというしくみ(66頁)」と指摘しています。
こうした日本の教科書の問題点は、上記の「倫理という教科の特性」だけでなく、日本人である生徒は「特定の宗教の信者ではない」というのが前提となっているのではないでしょうか。また「生きる力」が学校教育の主題となって久しい今日、倫理という教科が持つ意義は大きいものです。「教科書を教える」のではなく「教科書で教える」というのが当然視されている現在、先哲の考えから生きる指針を伝えるのは有意義なことです。例えば仏教の持つ無常観、キリスト教の持つ隣人愛、イスラームの持つ弱者への救済などから学ぶことは大きいでしょう。学校教育で倫理を教える以上、「宗教」を扱えばそこに「中立性」が問題となるのは避けて通れないというより、100%客観的に教えることは無理なのではないでしょうか。また、現在倫理を教えるのが倫理を専門とする公民科の先生より、地理や日本史、世界史を専門とする地歴科の教員が多いというのも問題を深めています。教科の特性上どうしても宗教紛争や歴史における宗教対立、特定の宗教が起こした悲劇を教えなければいけません。それが(宗教に慣れ親しんでいない)生徒たちに宗教に対する偏見を助長してしまうことは目に見えています。少しでも偏見を持たないよう、前述のように言葉を選んで教えてはいますが、100の言葉も宗教に起因する事件の映像一つで吹き飛んでしまいます。
私は日本人は決して宗教に無関心であるとは思っていません。ただ、宗教への関わり方がキリスト教やイスラームとは違うから、それらを「宗教的態度の典型」と考えている人にとっては無関心に映っているに過ぎないのではないでしょうか。だからこそ「宗教」を教える方法・態度を我々教員は真剣に考えなければ行けません。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
日本のおもに倫理の教科書で扱われる宗教について論じた本。同じ著者の「世界の教科書でよむ〈宗教〉 (ちくまプリマー新書)」を併せて読むとより理解が深まる。
日本は政教分離制を取っており、教科書では特定の宗教に肩入れすることなく「中立・客観」的に各宗教を扱っていると、当然のように思い込まれていたが、実はそうでもないぞということが書かれている。
宗教教育は、宗教色の強い順に、「宗派教育」「宗教的情操教育」「宗教知識教育」の三つに分類される。公教育で「宗教的情操教育」を行うか否かが新学習指導要領の争点だったらしいが、それ以前から「宗教的情操教育」どころか「宗派教育」的な記載が教科書に存在していることを筆者は指摘している。
本書では、日本の教科書における宗教記述の偏りや、海外の教科書におけるさまざまな工夫が述べられたのち、公教育で宗教をどう扱うべきかという議論に踏み込んでいく。そもそもさまざまな宗教を中立的に扱うということが、さまざまな立場の人たちにとって本当に中立なのか?という問いもあり、興味深かった。
ちくまプリマー新書のほうを読んでいるときにも感じたが、教科書というものは、決して正しい知識を中立の立場で書かれたものとは限らず、各国の政府が自国民にどのような考えを持ってほしいかということが強く反映されるものなので、どういった価値観に基づいてそれが書かれているのかということは、常に気をつけないといけないと感じた。 -
「教科書に書いてあることは絶対」とまでは言わなくても、「とりあえず教科書に書いてあることを学んでおけば安心」みたいな感覚はあると思います。
しかし著者(宗教学者)によると、知らず知らずのうちに、宗教に関する差別や偏見が教科書に入り込んでいるというのです。
例えば、私たち大人も、「仏教は慈悲」「キリスト教は愛」と習った覚えがあるのではないでしょうか。
こういったものは、「教科書で推したい価値」であり、真実とは違うことも多々あるというのです。
宗教の教科書での扱い方に関して、本全体で問題提起されており、とても興味深く、自分にも問題意識が湧いてきました。 -
非常に読み甲斐のある一冊です。
日本の教科書における宗教のとりあげられ方を、おもに倫理のテキストを中心に解説しています。
また、世界史などでは、宗教が民族の対立要素になるといいながら、倫理では宗教は「愛」の教えである、というある種の矛盾を「つなぐ」存在が公教育に存在していないことの問題点を指摘しています。
後半では、世界各国での宗教の教科書をとりあげ、宗教に対する一方的な見方をもたせないための工夫、苦心についてもとりあげ、日本との違いを鮮明にしています。
実際に倫理の教科書作りに携わったこともある著者の苦悩、思いも深く伝わってきます。
もう一度、改めて読み直してみたいですね。 -
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途中まで
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学校教育で欠かせないモノの1つはやはり、「教科書」でしょう。しかし、「教科書」の内容そのものを批判的に読んだことがある教員は果たしてどれくらいいるのでしょうか。本書は、主に倫理の教科書から、世界各国の「宗教」の記述内容を分析しています。結果として、日本の教科書では「宗教」に対して無神経な記述になっている実態が浮かび上がってきます。政教分離を踏み越え(そもそも政教分離をきちんと理解できている人はどれくらいいるのでしょうか)、他者を尊重する姿勢が無く、偏見を助長しかねない。この実態を、社会科の教員だけではなく、教育に携わるすべての人が知り、考える義務があるでしょう。
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宗教学者として高校の倫理教科書の執筆に関わった経験には、かなりモヤモヤとしたフラストレーションがあったものと推察される。そのモヤモヤを世界の宗教教育に関する知見を元に分析したのが本書であるといえるが、ここに、日本の公教育においてどのように宗教を教える(考えさせる)べきか、正解が明らかにされているわけではない。それで、第6章末尾のような結論になるのだろう。著者同様、自分もモヤモヤしたが、その結論に納得したことに意味があるのであろう。
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[評価]
★★★★☆ 星4つ
[感想]
この本を読み、思い返してみると歴史的な事実としは宗教を学んだことはあっても宗教の教義や慣習に関してはほとんど学んでこなかった事に気がついた。
世界的な宗教であるキリスト教やイスラム教どころか、日本人にも身近な仏教や神道に関しても学ばないのは今になって考えるともったいない気がする。
しかし、現状としては早々に学べる体制を構築するのが難しいことも理解できたので、学校教育以外で自主的に学んでいく必要があるかな?