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Amazon.co.jp ・本 (224ページ) / ISBN・EAN: 9784004313854
感想・レビュー・書評
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蔵書整理で手放すので、再び出会い読む日もあるか
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著した原稿を本にする
本にする原稿を書く
変体仮名 -
明治が日本語表記の「揺れ」の時代だったのではなく、それまでずっと揺れていた表記が明治以降に収束の方向に向かった。明治期までの日本語と現代の日本語で、表記の幅以外に本質的に異なるのは、漢語と和語の区別が曖昧になってきたこと。漢語が外来語として意識されなくなってきて和語の中に溶け込んでしまった。
教育の標準化による常用漢字表などの制定、新聞などの出版物によって不特定多数が読む文章が、表記法が統一されていく背景にあった。
古くは「手で書くように印刷する」もので、崩し字や続け字の活字まであった。それがいつしか「印刷するように手で書く」方向へ変わっていった。
振り仮名でもって和語、外来語に漢字を当てることで、非常に多様な表記(同語異表記・異語同表記)がされた。なるべく漢字で書きたいという欲求があった。
→日本語の音素の少なさによるか。平仮名ばかりでは読みにくいから。
「康煕辞典」。漢字の標準形。
唐音は主に江戸時代以降に中国から伝わってきた漢字の音で、白話(話し言葉)的な中国語の音。漢音、呉音とは区別されて、正統的な漢語の発音ではなかった。
ある漢語が、意味のつながりによりまた異なる漢語の表記に流用される。「基礎」と書いて「どだい(土台)」と読ませたり、「平生」と書いて「ふだん(普段)」と読ませたり。
→和語に漢語を当てるなら分かるが、もともと漢語であたものにわざわざ別の漢語を当てるとは、かなり不自然に感じられて面白い。が、著者は、漢語が和語化してきているのが分かるとするくらいで随分とあっさりとした解説。こういうところをもっと掘り下げてくれれば。
あとがきによると、細かい事実を丹念に拾い上げる「虫瞰」を旨としているそうで、それはなるほど納得。やたらな大風呂敷や声高な主張より、個人的にもそちらが好みである。しかし、もう少し考察面の踏み込みがあると楽しいかも。 -
P.82
明治期とは、「和語・漢語・雅語・俗語」が書きことば内に一挙に持ち込まれ、渾然一体となった日本語の語彙体系が形成された「和漢雅俗の世紀」であった。
100年前の日本語」というより「表記、語種が統一されていない明治時代の新聞」という感じになるのかなー。旧字新字「憺」「舊」や、変体仮名「志」「ハ」といった表記の話が多かった。
夏目漱石の直筆原稿や、明治時代の新聞、辞書などの写真が多用されていて、これからこういう情報が読み取れるのか、当時の「感覚」が伝わるし、参考になりました。明治時代の新聞の、振り仮名の活用されぶりがすごい。
一般人向けにわかりやすい、かもしれないけれど言葉遣いや語が論文を読んでる気がした。とても理解しやすかったですが。 -
日本では漢字、ひらがな、カタカナを自由自在に使って文書を作るのですが、世界のなかでこのような国があるのでしょうか。小学校から英語を教えるということですが、日本語教育のほうが大事であると思います。今回のノーベル物理学賞を受賞された教授が仰られたと記憶するのですが、日本語のほうが深く物事を考えることができたようです。日本語は素晴らしいと思います。柳瀬尚紀著『日本語は天才である』を読んだ時もそう思いました。
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【書き方の選択肢が幾つも存在した時代】
について当時の辞書や文学作品をもとに考察されている。
この時代を「豊か」と捉えるのか「乱れている」と捉えるのかは読者に任すと書かれている。
私は「揺れ(書き方の幅)」を面白いと感じた。 -
非常に興味深く読んだ。<揺れる>こと・多様であることを捨ててきた結果、現在の日本語が失ってしまったものについて考えさせられる。明治の人がもっていた漢語に対する鋭敏な感覚には驚いた。「普請」を『言海』は漢語と見てなかったなんてね。しかし、漱石は手書き原稿までこれだけ緻密に分析されて大変だ。混淆(ごたまぜ)、動揺る(ゆすぶる)のようなるびの振り方は、なんとぜいたくな・豊かなことばの使い方だろう。日本語は”るび”標準装備で教えて、解答文には”るび”を自由に振っていいよ、っていう大学入試が現れるとおもしろいかも。
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明治時代の日本の「書き言葉」について。多くの具体例を挙げながら現代との違いを説明している。現代の書き言葉は細かくルールを定め使用法を一つに収斂しようとする傾向にあるが、明治期においては選択肢が多く言葉の使用法に“揺れ”があった。現代には無い熟語の読み方が興味深い。俳優【やくしゃ】、準備【したく】、商量【そうだん】など。和語を漢字で書き表すための試行錯誤が窺える。いま話題のキラキラネームを連想した。日本語としておもしろいと思うけど、氏名への振仮名記入が義務化されないかぎり社会生活への支障が大きいだろうな。
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漱石の「それから」の手書き原稿(1909年)で、漱石はどのような漢字を書き、禁則処理などをしていたのか。変体仮名の「し(志)」などがいつまで多く使われていたのか?「っ」、「ん」、濁音などが広まっていった経緯。活字印刷の普及、また教科書で50音の仮名文字を定めたことが書き言葉が確立していく上で大きな役割を果たしたことは当然のことながら大きい。しかし、漢文式の表記が明治期にかなり残っていたとは面白い。日本語文の書き言葉には明治維新はなく、長い揺れた時代があり、明治の終わりごろが、その収斂の動きが始まっていた時になるというのは、その結果によるもの。著者が言うように、今の書き言葉が定着しているのが、歴史上むしろ珍しい時代であるということは普段あまり意識できないことである。
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一つの語の書き方は一つ。それが当たり前でなかった百年前、すなわち明治時代。「揺れ」=選択肢が許容されていた当時の書き言葉に焦点をあてる。その頃は送り仮名に悩まずにすんだのかなぁ…
It's amazing that Japanese writing about 100 years ago was totaly different from today's! -
書きことばが、だんだん振れなくなってきている、と言うのは何となく理解できました。送り仮名のつけ方がいろいろあったら、グーグルで検索するとき大変ですから。
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ことばが収斂するものを考える。
したほうがいいのか、わるいのか。
百年前の日本語について、主に書きことばにおいて、統計的、というよりは、幾つかの資料にぐぐっと絞って、とはいえ結構な量だと思うが、いかにいまの日本語と、どのように違うのか、そしてどうして違ってきてしまっているのか、ということを考察した本。
まあ、ことばは生き物だもんね、そりゃその時々場所世代で違ってくるの当たり前だもんね、というのはまあその通りだが、書きことばにおいては、それを必要とするひとびとの数が増えてくることによる、よりわかりやすい共通認識の構築のための書きことばの多様性の収斂、単純化、というおおきな理由があるのではないか、と書いてあった。たしかにそうだと思う。
で、いまを足場にして百年前をみてみると、みえてくるいまがあって、だからこそこういう本は書かれるべきなのだと思うのだけれど、(主に公的な文書の上での決まりごととして単純化していった)書きことばは、ことばが書かれる「公的な」場所の多様化(インターネッツというやつだ、主に。そこにあるだけでそれはほぼ「公的」と同義になるはずだと思う)と、無言化、と言い切れるまでではないにしろ、あまり用いられなくなっているように個人的に感じる「公的な」「話しことば」の現状(というのはまあ予想、でしかないのだけれど)とあいまって、たいへんに多様になってきているのではないか、と思う。
と、考えていると、そういう書きことばの多様化による共通認識のずれの多発という意味でも、「炎上」というダメ出しが反動として発生しているのかもな、と思ったりもする。それがいいか悪いかは、うーん、どうだろ。どうなんだろう。うーん。 -
明治時代の日本語はどのようなものだったのか。現代の日本語との差異を明らかにし、当時の日本語に対する感覚を明らかにする一冊。
江戸以前の近世に叙述・印刷された日本語は現代に生きる私達にとってとかく読みにくい代物である。行書や草書といった慣れ親しみのない書体や変体仮名といった現在は消滅してしまった仮名。さらに語彙も現代とは大きく異なる。なぜこのような日本語の断絶が起こってしまったのか。近世から近代に移行するに従って文字や言語を取り巻く環境に大きな変化があったことを、著者は明治時代に出版された印刷物や手書きの草稿などを元に明らかにする。
本書では日本語の変化の原因としてまず「不特定多数の人間が読むことができるようにするという意識」が発生したことを上げている。これは近代において新聞や出版等の印刷物の流通が発展し、より多くの人が活字を目にするようになったためである。
明治時代においては様々な字形や字体の漢字が筆記され、仮名においても多くの変体仮名が利用されていた。印刷物においても手書きの文字に合わせて様々な活字が用意されていた。また熟語表現における漢字の利用においても、振り仮名の助けを借りる事によって現代と比べ物にならないほど多用な表現をしていた。しかし時代が下ると共に印刷物の届く範囲が広がり新聞や出版物の言葉の中に規範性が現れ、このため徐々に手書き文字の字体も楷書体となっていったし、多用な漢字表現は統一的なものへと整理されていった。国家によって標準的な仮名の字体が定められたことによって徐々に変体仮名の使用もなくなっていったことが明らかとなる。
また日本語の語彙の変化について、「漢語の地位の変化」という面から本書では検証している。近世から明治にかけて室町以前に日本に流入してきた漢語は日本人の語彙の中で和語と同じ地位を占めていた。このため和語では表せない漢語の意味の区別も近世日本人は行うことができたし、日本に定着した漢語と外来語としての中国語の区別をすることもできた。このような日本語の特徴は大正以降に徐々に失われていったとしている。
本書では、私達が読むことに苦労する近世以前の文章(いわゆる古文)と近代以降の文章(いわゆる現代文)の断絶はなぜ起こったのかということについて、一定の回答を与えてくれる。特に印刷物の登場により、より広範な読者を意識することによって日本語の整理が図られてきたということについてはなるほどありうるべき変化だと納得することができた。更に夏目漱石自身が印刷されることを意識することで手書きの文章の綴り方に対して逆にフィードバックされていること、その過程で現在正しいとされている綴り方が形成されてきたことを知るにつけて、印刷が人間の認識にもたらした様々な側面(国民意識の発生だとか・・・)にまた一つ大きなものが付け加えられたと思う。さらに振り仮名を利用することでより自由な文章表現方法を明治時代に得ていたことについては、この習慣が失われた事によって小説における多用な表現の実現という面から言えば損失があったかもしれない。現代においては振り仮名を利用する場面は限定的になっているが、文章表現の幅が広がるのであれば、もっと振り仮名の利用が活発になっても良いのかもしれない。
本書を読んで何点か気になった点もある。おそらく著者が国語学の専門家だからだと思うが、この日本語の変化に対する社会的な側面についての掘り下げについてはあまり触れられていない。本書の論調としては日本語表現の統一は多様性の消滅だとする評価があったように思われる。しかし明治時代においては情報の受け手の拡大によって今までインテリに限定されていた論述という行為が、より広範な人々によって行われる様になった。その時に近世のような複雑な文章は受容可能であったかどうかは検証される必要がある。とくに「言文一致運動」や正岡子規の写生文など様々な言語改革運動の影響などとの関係性について今後調べることが出来ればと思う。 -
読まずに期限アウト。
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勉強になりました。
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●:引用
●本書では、「書きことば」、「文字化された日本語」に焦点を絞って述べることにする。それらは、明治期から現代までの間に、どのように変わってきたのだろうか。(略)百年前の日本語においては、それが大きな「揺れ/揺動(fluctuation)」の中にあった、ということである。「揺れ」というと、不安定な状態を想像しやすいが、そうではなくて、むしろ「豊富な選択肢があった」と捉えたい。(略)日本語の「書きことば」に関して「維新」という表現を使うのであれば、そう呼ぶことができるような変化は、江戸期から明治初期にかけてではなく、むしろ明治期から現代に至る百年間で進行したといえよう。そして、その変化は「揺れ/揺動をなくす」、すなわち「選択肢をなくす」という方向へ進むものであった。言語は時間の経過とともに、何らかの変化をする。つまり「揺れ」を内包したものである。ところが現代は、使用する文字、漢字の音訓などに関して、できるだけ「揺れ」を排除し、一つの語は一つの書き方に収斂させようとする傾向が強い。このような状態になったのは、日本語の歴史の中で、ここ百年ぐらいの間であり、それまでは、「揺れ」の時期がずっと続いていた。現代こそが日本語の歴史の中では、むしろ特殊な状況下にあるのだが、現代に生きるわたしたちには、それがわかりにくい。そして、例えば明治期の日本語のありかたが奇異なものにみえてしまう。日本語に「明治維新」に匹敵する大きな変化があったとすれば、それは明治期にあったのではなく、明治期から現代に移行する間に成し遂げられたものとみるべきであろう。 -
鳥瞰ということばに対し、今野さんは虫瞰ということばを提唱し、そういう本もつとに出している。それは細部にこだわるということで、ぼくは前から今野さんの方法に興味を覚えていた。本書の「百年前の日本語」というのは明治時代の日本語のことで、今野さんは明治時代の日本語が表記に関し、いかに豊富であったかをわたしたちに示してくれている。変化は現在にまで続くものだが、それは今野さんのことばを借りれば日本語2000年の歴史の中でのわずか100年にすぎない。今野さんは漱石の文字遣いが変えられた本を書いているが、本書では、漱石が草書、行書、楷書を原稿で使用し、印刷所もそれに対応する活字を用意していたこと、しかし、のちに規格化されていったことを書いている。日本語の表記は結果的には画一化、統一化されていくわけで、それは日本語表記の確立、正書法からいうと望ましいことだが、逆にかつてあった多様性が失われていったわけである。ところで、明治における漢語の流行は有名だが、明治はある意味、漢語であれ、和語、外来語であれすべてを漢字で表記しようとした時代であった。したがって、そこには今では許容できないようなゆれが存在した。今では読めないような漢語が示されているにもかかわらず人々が読めたのはふりがなのせいである。ふりがなを打ってまで漢字を使いたかった心理とはなんだろう。(今野さんにはふりがなについての専著もある)たとえば、「商量」は中国語を知っているものにはなんでもない語だが、これに「そうだん」というふりがなを振ったからこそ、人々は容易に理解ができたし、逆に「商量」を見ても人々はこれをショウリョウとは発音せず、ソウダンと読んでいたかもしれない。後半の「辞書の百年」のところで印象に残ったのは、明治初期に出た『英和字彙』がロプシャイトの『英華字典』の影響を受けているといわれるが、そこでの「訳語」にはふりかながふられていた。それは、漢語を訳語として示したというより(こうした漢語は室町からあったのだし)、和語を訳語として示し、それを漢字で書いたのだという点である。明治期の漢語、漢字語についていろいろ考えさせられる本であった。
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