なつかしい時間 (岩波新書)

  • 岩波書店 (2013年2月20日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (240ページ) / ISBN・EAN: 9784004314141

みんなの感想まとめ

日常の大切さや感受性について深く考えさせられる一冊で、著者の言葉が心に響きます。テレビ番組「視点・論点」での17年間の出演を通じて、さまざまなテーマが語られ、読者を懐かしい時間へと誘います。特に、自作...

感想・レビュー・書評

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  • 仕事で疲れた身には、TVの「視点・論点」の短さと簡潔さが心地よかった。
    数少ない好きな番組で、長田さんが登場されると嬉しくて、じっと聞き入っていた。
    この本は、あの頃を懐かしく思い出させる。
    読んで驚くのは、17年間に渡って実に48回も出演されたということ。
    ああ、たぶん私は半分も知らない。。
    初回は95年の8月28日。「国境を超える言葉」というタイトルで最初に登場する。
    その後は時系列に並べられ、忘れているものもかなり多いという事実にもう一度驚く。
    初版が2013年2月20日。亡くなられる2年前の本ということだ。

    折々に自作の詩が差し挟まれ、より説得力を増している。
    不思議なもので、何十行もの文章よりも、数行の詩の方がより雄弁だ。
    言葉を大切にする生業の詩人らしく、言葉に出来ないものを愛おしく思う気持ちが端々にあらわれている。習慣、風景、時間、会話、そして何よりも本の話。
    しかし詩人の言葉は、時に鋭い社会時評にもなっている。
    私の好きなエミリー・ディキンソンの詩が載っている章もある。
    「他山の石」「不文律を重んじる」「文化とは習慣である」「一日を見つめる」が心に残る。
    すべてが、「ほら、わすれものだよ」と、そおっと差し出されたかのような文章。
    「ああ、ここにあったんだ。良かった、見つかって」と、読みすすめた。

    前述した「玉虫厨子」からの流れで、「美しいもの」に出会いたくて読んだ一冊。
    まとめて下さった岩波さん、ありがとう。長田さん、ありがとう。

    • goya626さん
      長田弘さんの本は、昔、幾つか読んだなあ。味わいがあります。
      長田弘さんの本は、昔、幾つか読んだなあ。味わいがあります。
      2019/10/17
    • nejidonさん
      goya626さん、こんにちは(^^♪
      長田さんはいいですね。心を浄化してくれる力があります。
      私は昔も今も読んでおりますよ。
      小説を...
      goya626さん、こんにちは(^^♪
      長田さんはいいですね。心を浄化してくれる力があります。
      私は昔も今も読んでおりますよ。
      小説を読むとものすごく疲れるので、そういう時の癒しアイテムです。
      でもそんな読まれ方は、たぶん長田さんは不本意だと思います・笑
      2019/10/18
  • NHKテレビ「視点・論点」で1995年から17年にわたって語った48回の元原稿を初めてまとめた全篇に別の3篇を加えたものだそうです。
    「なつかしい時間」とは日々に親しい時間、日常というものを成り立たせ、ささえる時間のことであり、誰にも見えているが、誰も見ていない、感受性の問題をめぐるものであるそうです。
    他には、ことば・時間・風景・本・対話・自作の詩などを中心に語られています。

    1995年に放送された第1回目の「国境を越える言葉」では、「言葉以上におたがいを非常に親しくさせるものはありません。にもかかわらず、その言葉を共有しないとき、あるいはできないとき、言葉くらい人をはじくものもありません。国境を越える言葉というものは、ないものについて言うことのできる言葉ではないだろうかと思うのです。自由。友情。敵意。憎悪。そういった言葉は誰も見たことがないけれども、そう感じ、そう考え、そう名づけて、そう呼んできた、そういう言葉です。国境を越えそれぞれの違いを越えるのは、言葉でなくて、言葉が表す概念です。おたがいを繋ぐべき大切な概念を共有することが、じつは言葉を異にするおたがいの共生を可能にしてゆくのだ、というふうに思うのです」
    という話を宮沢賢治とペルーのセーサル・バジュッホという二人の詩人が共有していた、死者への深い祈りと沈黙とを例にあげて語られています。

    人間にとって大切なことを忘れそうになったとき、繰り返して読みたい一冊であると思いました。

  • 1995年から2012年までの17年間、NHK「視点・論点」で著者が担当した48回分と同じ時期に話した別の3篇をあわせて収録したエッセイ集です。

    現代において「時代の影」へと追いやられてしまった尊いものに目を向けるような問題提起のエッセイ集といったふうでした。「そこが問題なのではないですか」にいたるまでの分析や感じていることが細やかです。だから読んでいて「うん、たぶんそうなんだろうなぁ」とこちらが思えるという、理解する上での納得という土台に乗っかるような問題提起なのです。少なくない章でその具体的な答えを探し実行するのを読者に委ねていましたが、その問題提起に至るまでのなかで、近代の古典などを引いたり紹介したりしながらですから、読んでいてもなかなかおもしろみがあるのです。文学世界の碩学の話を聞いている気分になります(著者は詩人です)。

    どういった事柄を問題として提起しているか。たとえば、発信力ばかり叫ばれる今、受信力だって同じくらいいやそれ以上に大切ではないか、というようなことを述べていらっしゃる。これは98年の時点でこう考えておられるのでした。受信力については、リテラシーを磨こうという言説が今、これに対応しだしていますが、本書の後半で著者もリテラシーについてしっかり書いています。

    また、風景の中で自らの小ささを感じる経験がとぼしいから、尊大な人が増えたのではないかという説にも、そうかもしれないと思いました。「風景の中にいる」ってことをしないですよね、なかなか、自分も含めて多くの人がそうなのではないでしょうか。

    といったように、本書では言葉や記憶や風景や対話、そして時間といったものを、温故知新のように、かつての在り方を知り今また再び確かめることの大切さを問い、訴えたものだと言えるでしょう。とはいえ、説くとか訴えるとかの言葉を使ってでは本書の感想としてはズレてしまいます。もっと、解きほぐされた言葉で、言葉にならないものがあることを見据えた上で語りかけてくれています。

    著者自身の豊かな世界観から発せられる数々の考察は、現代人の貧しい世界観を自問するきっかけとなるものだと思います。世界観なんてものを俎上に載せると、正しいか正しくないかでの二択で世界観が語られたり、散文的に乱立する世界観をイメージしたりしがちかもしれません。でも、この本から学べることはそういった種類の見方ではなく、その世界観が豊かなのか貧しいかです。

    僕がそこから感じたのは、まず豊かな世界観を持つようになってから、たとえば経済を考えてみてはどうなのだろう、ということでした。多様性といわれますが、多様性の前段階に豊かであること。そうした豊かさの基盤が、多様性だって根付かせてくれるのではないか。同じフィールドで共存しうるというのはそういうことなんじゃないでしょうか。

    ……などなど、きっと何度も本書を読み返せば、いっとき豊かな気分になったその効果が板についてきそうな気がするのでした。

  • やはり、本に興味があるので、読書のページでつい手が止まってしまう。

    〇挨拶という言葉の本は、アイは「押す」、サツは「押しかえす」という意味の、相手あっての言葉です。(p15)

    ☆相手を見て、笑顔で挨拶したい。

    〇自分の日常のなかに、とにかく一冊の本がある、なければ置く。(p103)

    ☆読書の原点。だから、本の内容が分からなくてもいい。こういう話を読むと、小学6年生のときの担任が「モモ」を読んでくれたことを思い出す。あんな分厚い本読んでもらわなければ親しめなかっただろうよ。

    〇人を人たらしめるのは、「習慣」の力なのだ。(p161)

    ☆日々、何を重ねるかが大事
    ①自分に嘘をつかない。
    ②おいしいものを作る。
    ③自分が本当に好きなことをする。
    この辺りを大切にしたい。

  • 1年間毎月高尾山を歩いたんだけど、4月下旬の高尾山で、比喩とかじゃなくて本当にこの自然が語りかけてくる感じが分かった。生命の産声の合唱みたいな音ではないんだけど、超音波みたいな。1年間毎月歩いたから分かったのかも。

    『なつかしい時間 (岩波新書)』 長田弘 #ブクログ #読書 #KindleUnlimited
    https://booklog.jp/item/1/4004314143

    「挨拶という言葉のもとは、アイは「押す」、サツは「押しかえす」という意味の、相手あっての言葉です。声を掛ける、それに応じる。そのための言葉が、挨拶の言葉です。言い換えれば、挨拶の言葉は、見知らぬ者同士が、声を掛け合うことで、おたがいをそこに認める言葉でした。そうして挨拶の言葉は、なにより労りを込めた言葉でした。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「古い本と言っても、遠い時代のいわゆる古文書や骨董本や稀覯本のような本でなく、たとえば昭和の戦争後の一九四〇年代後半から五〇年代にかけてのころの、上等なつくりの本ではないけれども、一冊一冊の本が大事に読まれた時代に世にでた本です。  ときどき街の古本屋の店先で、思いもしなかった本に出会うと、古い本のページのあいだから何かが立ち上がってくることがあります。古い本にはいい時間の感触があり、自分がつい無くしてしまったか、どこかに置き去りにしてしまった時間が、いまでもその古い本のなかにはのこっているという親密な感じを覚えるのです。  わたしたちのあいだになくなっているものを鮮やかに思いださせるちからが、古い本にはあります。それは、言葉がちからをもっていた時代というものを思いださせ、いまのようにめぐまれた時代ではなかったにもかかわらず、本というのがいまよりずっと丁寧に、こころを込めて書かれ、つくられ、そして読まれていたことを思いださせるためです。  実際、そうした本を手にすると、その本のそこここにうかがわれる、本をつくるということへのうつくしい配慮に、舌をまくこともしばしばです。紙も印刷も製本もいまに到底およばない。しかし、そこには本をつくることへの自負があり、それが新しい本のありようにはない、古い本の独特の雰囲気をつくっています。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「明治から大正にかけて生きた、山村暮鳥という詩人がいました。一八八四年(明治一七年)に生まれ、一九二四年(大正一三年)に亡くなりました。その生涯は苦労の多いものでした。クリスチャンになり、日露戦争に従軍し、ボードレールに熱中して、詩を書きはじめます。萩原朔太郎や室生犀星らとともに雑誌をつくり、とてもうつくしい詩を書いていましたが、のちに生まれたばかりの子どもを亡くした苦しみから、いままでと一変して、穏やかで平明な心の風景を詩に書くようになります。人生を何度も自分で再発見しながら生きていったような詩人なのですが、その山村暮鳥の詩に、「地を嗣ぐもの」という詩があります(『全詩集大成・現代日本詩人全集』第四巻、創元社による)。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「記憶というのは、「覚えている」ということではなく、「自ら見つけだす」ということです。というのも、すべてを覚えていることはできないために、人の記憶は本質的に不完全であり、そのために記憶というのは、断片、かけらを集める、そしてまとめることだからです。記憶は心に結ばれる像の、イメージの倉庫でした。「心の中」という言葉は、「記憶の中」と同じ意味をもっていました。大切な事柄は「あなたの心の中に記しておきなさい」と言った、とされます。  記憶は、言いかえれば、自分の心の中に、自分で書き込むという行為です。驚きを書き込む。悲しみを書き込む。喜びを書き込む。そうやって、自分でつくりあげるのが、記憶です。  フランスの映画監督のアラン・レネはパリ国立図書館のドキュメンタリーを撮って、『世界のすべての記憶』と名づけました。そこには、記憶とは、人間をつくってきた歴史であり、人間がつくってゆくだろう歴史であり、図書館はその倉庫なのだという考え方があります。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「記憶は、過去のものではない。それは、すでに過ぎ去ったもののことではなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。とどまるのが記憶であり、じぶんのうちに確かにとどまって、じぶんの現在の土壌となってきたものは、記憶だ。記憶という土の中に種子を播いて、季節のなかで手をかけてそだてることができなければ、ことばはなかなか実らない。じぶんの記憶をよく耕すこと。その記憶の庭にそだってゆくものが、人生とよばれるものなのだと思う。  人の考える力、感じる力をつくってきたのは、つねに記憶です。けれども、もっぱらコンピューターに記憶をゆだねて、自分を確かにしてゆくものとしての生きた記憶の力が、一人一人のうちにとみに失われてきているように見える今日です。あらためて、人間的な記憶を日々に育ててゆくことの大切さを、自分の心に確かめたいものです。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「けれども、発信することの大事さが強調されればされるほど、逆に、いつかすっかり衰えてきているように思えるのが、「受信する」ちからです。  他者の発しているシグナル。他者の求めているコミュニケーション。他者の言葉。他者の沈黙。そうした他者の存在というものを、自分から受けとめることのできる確かな受信力が、ずいぶん落ちてしまっているのではないか。そしてそうした受信力の欠如が、今では、社会のあり方を歪ませるまでになっていないか、どうなのか。  受信するちからを、自分のうちに、生き生きとたもつことができるように、もっと苦心しなければならない、と思うのです。そうでないと、大切なものを自分に受けとめて、自ら愉しむということが、いつかできないままになってしまう。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「良寛の心の中につねにあったのは、中国の寒山の生き方です。寒山は、仕官立身の道を離れて、山深く入って住んで、隠者の道を選んだ人ですが、隠者という生き方を自ら選んだとき、「おそらく彼自身も予期しなかった新しい世界への目」が、寒山には開かれることになったのではないか。  入矢さんによれば、「山も水も草木も、そして月までも、今までのそれとは違った姿を彼に開示した。眺める人と眺められる景物との不思議な融会が彼を領したのである」と。良寛が自分にのぞんだのも、寒山がのぞんだのとおなじです。  日々のあり方を変える。そうすることで、へつらいのない言葉を可能にするような「箇中」の生き方、一人の生き方をもとめた。良寛がのぞんだのは、世にむけて発信する言葉ではなく、自ら生きる方法としての言葉でした。  「発信する」ばかりの人は「自ら称して有識と為す」人だ、と良寛は言います。ですから「諸人みな是となす」。けれども「却って本来の事を問えば、一箇も使う能わず」。大事なのはどんな言葉か。言いつのる言葉ではない言葉、受けとめる言葉のあり方です。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「それで終わりではありませんでした。そののち、わたしがもっとも大きく揺さぶられた本に、桑原さんの二つの思いがけない翻訳、それもどちらも明治の日本人の翻訳があります。どちらも岩波文庫ですが、一つは一九六五年にでた中江兆民の『三酔人経綸問答』。一九六〇年代にもっともつよい影響を受けた本を挙げよといわれたら、対話的世界の可能性を教えられたこの本を、わたしは第一に挙げます。もう一冊は、その十二年後の一九七七年にでた『 木ローマ字日記』です。日本語で書く一人として、 木がローマ字で書き、フランス語を専門とされた桑原さんが現代の日本語に訳されたこの本は、問いかけをもった本です。桑原さんがあらためて世に突きつけるまで長く忘れられていたこの本ほど、言葉を書くということが何を表現し、何を意味することかを、読むものに考えさせる本はありません。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「たとえば、学校が学歴として語られること、また、学校が偏差値で測られる格付けのような仕方で語られることは、けっして好ましいことではありません。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「後になって、とりわけ学生時代などの思い出の核となるのは、若いときにどんな気風の下に日々を過ごし、自分自身を見いだしたかということです。自分がそのなかにいた時代の空気、学校の環境、街の雰囲気、個性ある先生に学んだことや、同級生たち、友人たちと分け合った気分などなど、自分を育ててくれたものとは、自分がそのなかに生きた気風です。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「それほどまでして行った大学ですが、校舎は「世にもひどい教室」で、雨の日は教室で本も読めないほど薄暗く、講義も魅力はない。しかし、誰もが文学に夢中だったと、広津和郎は書いています。翻訳のないロシア文学を英語で夢中になって読んだ。  広津和郎という一人の作家を育てたのは、明治大正の早稲田のもっていた気風です。そうした気風を育てたのは早稲田の街だと言ったのは、広津和郎より二十歳ほど早稲田の後輩になる井伏 二です。井伏は早稲田の森について書き、早稲田という大学は街のなかの杜だったと書きました(『早稲田の森』新潮社)。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「芥川龍之介は、退屈することを非常にきらい、退屈を極端なほど怖れた人でした。人と話すか、本を読むか、考えているか、書いているか、散歩するか、とにかく二六時中なんとかして心を働かせないではいられない、そういう人でした。現代の風景のなかに寒山拾得をよみがえらせようとした芥川ですが、芥川自身はその人生を自殺によって閉じています。ある意味では、芥川を打ち倒したのは、人生の耐えられない退屈さです。  話を最初に戻せば、人生のかたちを決めるのは、人生の「退屈」とどう付き合うかではないでしょうか。そして今は、「退屈」を、ゆっくりした時間、ゆったりした時間としてすすんで捉えかえすべきときではないでしょうか。いつも心の風景のなかに、寒山拾得の笑顔を思いだすようにしたい。たとえ適わぬ生き方であってもです。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「二十世紀がはじまってまもないころ、わたしのもっとも好きな作家の一人ですが、幸田露伴が、こんなふうに言ったことがあります。「鰻 の頭や骨ばかりを はせて呉れるやうな教育」に甘んじないで、「不味い魚でも宜いから、骨と頭とのみで無いところを べ」る。そうして「も少し実際生活に空疏で無く歳月を経る習慣」をもってはどうだろう、と。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「二十世紀がはじまってまもないころの露伴のこうした危惧は、二十世紀最後の年となった今もまだ、変わらぬ危惧としてのこっています。「むかしは明日の鏡」ということわざがあります。むかしというもの、過去というものを明日への「他山の石」とする。それが歴史というものであり、歴史がくれる考えるちからなのだと思うのです。わたしたちをつなぐ垂直なコミュニケーションが、わたしたち一人一人にとっての歴史です。  人生を理解するというのは、人生に対する視点を選びとること、自分の立つ位置を選びとるということです。どこまでも水平に、どこまでも素早くひろがってゆくコミュニケーションが圧倒的な、今のような知識の時代にこそ、切実に求められるのは、どこまでも、「実際生活に空疎ならぬように」生きるのに必要な知恵をたくわえた言葉です。  新しさをさがす知識、なにより楽観をもとめたい知識とはちがって、どうしたらよいかと、自ら日々の生き方をたずねる心に働きかけるのが、他山の石としての歴史という垂直なものがくれる知恵だと思う。知恵が人びとのあいだに育てるもの、育ててきたものとは、それぞれの時代に、それぞれの人生を幾重にもくぐりぬけてきた、「実際生活」の足元を照らす思想、足元の哲学の言葉です。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「西郷の言う「温飽」の世にあって、たずねられなければならないのは、「もっともっと手に入れる」という生き方とは違う、それぞれの生き方です。ただただ「手に入れる」だけの文化から、「使い方」の哲学をもつ文化への、価値観の転換。いまという時代は、なにより「使い方」の哲学を、切実に必要としています。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「 「居場所」の場は、自分はどこにいるかという問いの場です。そのように「場」という言葉に表されてきたのは、人と人のあいだのコミュニケーションの光景であり、風景です。ものを引き寄せる磁力がはたらく場が「磁場」といわれるように、人と人の係わり、交わりのあるべきところが、場です。  人生が見えてくる「場面」があり、「場所」があります。場面も、場所も、人生の場です。「場を得る」、逆に「場を失う」というように、人のありようを左右するのも「場」です。「場数」を踏むというのは、経験の意味を自ら手に入れるということです。今はほとんど見られなくなりましたが、議論小説、座談小説ともいうべき、議論、座談のおもしろさが物語をおりなす文学の楽しみが、かつてありました。その一つに、石川 木の『我等の一団と彼』という小説があります(『石川 木集』古谷綱武編による)。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「アジサイと言われれば、花の名とわかります。しかし、ハイドランジアと言われると、なかなかわかりません。ハイドランジアはセイヨウアジサイの名です。あるいは、バーベナ。バーベナはふだんに目にすることも多い身近な花ですが、それでもバーベナと聞いてそれがビジョザクラのことだとは、知識がなければわかりません。  名詞はもともと名指す言葉、名乗る言葉です。けれども、地名なども由来を無くした言葉がめっきり多くなり、人の肩書、大学の学科などでも、ただの記号になっています。もじり、つぎはぎ、語呂あわせ、おもしろがり、その名を聞いてすぐにわからないような名詞が氾濫し、人の名にしても無理読みがどんどん増えて、ふり仮名なしには読めないほうが、もはや普通と言うべきかもしれません。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「絵本という本について考えてみたいと思います。子どもの本というと、しばしばそれは子ども時代の本が子どもの本であると考えられています。そのため、子どもの本は、なかでも絵本は思い出の本のように語られがちです。新しい本でさえも、よい思い出になるかどうかで測られたりします。  しかし、そうではなく、絵本は絵本という本であり、本としては変わった本ですが、変わった本というより、原型としての本と言っていい本です。わたしはいま、十四冊の絵本をぜんぶ自分で選んで訳して「詩人が贈る絵本」というシリーズでだしていて(みすず書房刊)、絵本という本を通して、本という文化のつくってきた大切なもの、絵本が本とは何かということを感じ、考えさせる本であるということを、あらためて深く感じています。  絵本は、まず第一に、絵と言葉(文字)でできています。つまり、言葉と絵の対話からなる本です。モノローグが基となる大人の本と違い、絵本は対話を本質にもつ本です。  第二に、色のある本です。色それ自体に意味があり、広がりがあることを示す本。この絵本の場合、空の色、雲の色が、この絵本の語りたいことすべてを語っています。あるいは、墨一色であっても、たとえば、この絵本のような影のうつくしさ。あるいは、このようなクモの巣を描く線のうつくしさ。絵本では色は、言葉なのです。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「そのうえ、絵本はしばしば独特のかたちをもっています。大きい本があり、小さい本があり、縦長の本、横長の本があり、決まったかたちをもっていません。むしろ、かたちをつくりだして、こころにかたちをあたえる本が絵本と言っていいかもしれません。  読み方もそうです。見る本であり、読む本であり、黙って読む本であり、声にだして読む本であり、自分に読む本であり、人に読んであげる本でもある。年齢によって、経験によって、立場によって、さまざまに読みとることができるのが、絵本という本です。  そんなふうに考えると、本であることに意味のある本が絵本という本です。その意味でも、どんな本でだしても本は本という、いわゆる大人の本とは違います。「その本」でなければいけないという本。それが、絵本という本であり、絵本のもつ魅力、おもしろさはそこにあります。  たとえば、「どこでもないところ」がとても重要なのが絵本です。「詩人が贈る絵本」の一冊、『夜、空をとぶ』という絵本の場合、絵本の世界は夢のなかにあって、現実には「どこにもないところ」です。そうした「どこでもないところ」という想像力の働く場所をつくるのが、絵本という本です。  くわえて、登場人物です。絵本の世界には、「ばけもの」「かいじゅう」といった「だれでもないもの」「どこにもいないもの」が、なぜでてくるのか。「ここにいない人」「ここにいないもう一人」がいるのが、絵本の世界です。姿のないものの存在によってゆたかにされる世界があります。わたし自身、『森の絵本』という絵本を書いたとき、その主人公にしたのは、じつは姿をもたない声でした。  「目をつぶって物を見る」ことの大切さ。目をつぶっているほうが、物の姿がありありと見えることがある。『まぼろしの小さい犬』や『トムは真夜中の庭で』などの物語でわたしたちにも親しい子どもの本の作家フィリパ・ピアスは、「大切なものは目をこらしてじっと見つめ、それから目を閉じると、ことさらにあざやかに見えてくる」のだと言いました。  絵本の風景は現実の風景でなく、現実をじっと見つめて目を閉じる。そうして見えてくる風景です。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「絵本によって、わたしたちは何を自分のものにするのか、あるいはできるのか。そのことを考えるとき、思いだすのは、『風にのってきたメアリー・ポピンズ』の作家 P・ L・トラヴァースの言った言葉です。幼いトラヴァースが、怖いハサミ男がでてきたり、インクの壺で生き物が れて死んだりする、絵本をふくめた子どもの本から幼いときに実感をもってまなんだのは「死」でした。  「死」というのは概念です。人を人たらしめてゆくのが概念のもつちからですが、その「概念」を子どもたちに伝えるのが、大人の仕事です。  絵本という本のあり方のもっとも大きな特質は「手わたす」本であるということ。それは絵本がくれるのが、この世界の楽しみ方というより、実はこの世界の読み方だからです。ですから、今日確かめたいのは、絵本という本の「手わたし方」、「贈る本」としての絵本のあり方です。誰が、誰に、どのように、本を贈り、手わたすのか。  絵本という本をもっとも必要としているのは、もしかしたら子どもたち以上に、大人たちではないのだろうかと思うのです。絵本を読もうというのは、ですから、子どもたちよ、絵本を読もうというのでなく、まず大人たちよ、絵本を読もうということです。いま、大人たちが子どもたちに手わたしたいもの、しかし自分たちはなくしてしまったもっとも大切なものを見つけたければ、一冊の絵本を開くことからやってみるのがいちばんかもしれません。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「読んでおしまいというのではなく、読み終えたところからはじまる本があります。ふりかえってみて、そこが入り口だったという本です。『王様の嘆き』はわたしにとってそういう本でした。あるいは、そういう本のあり方、読書のあり方をおしえてくれた本でした。お話ししたかったのは、人の心を棲まわせる、そのような一冊の本の話です。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「読書というのは、本を読むことだと考えられています。本を読んで、何が言われているか、どう受けとめるか、きちんとまとめることができて、初めて本を読んだと言えるのではないか。読書とはそういうふうに、内容をとりだすことだと、捉えられがちです。  けれども、そうした読書の捉え方、感じ方こそ、読書からとりわけ子どもたちを遠ざけてきたものではないかと思うのです。読書とは本を読むことではないと、わたしは思っています。読書は本を読むことでなく、本に親しむという習慣のことであるからです。  本は読まなくても困らないし、読んでわからなくてもかまわない。読書の原点となるのは、自分の日常のなかに、とにかく一冊の本がある、なければ置く、ということであり、ともかくそこに本があるというところから、読書という経験ははじまります。  読書という経験がのこすのは、わかるかわからないか、理解したか理解しなかったかではなくて、そこに本がある、本があったという日々の記憶であり、感覚です。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「物語の主人公の良平という子どもは作家自身ですが、そこで繰りかえし語られるのは、本に親しむという経験の真ん中にある、わからないという経験の大切さです。わからない、わからない、だけれども、おもしろいという気もちを一人の子どものなかに育てるのが、本に親しむという経験なんだということです。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「 「わからぬ。それでも気持ちがいい」。そのような、包容力を育てるものとしての読書のあり方が、いまは忘れられたままになっていないかということを考えます。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「豊かな社会、文明技術がわたしたちにもたらしたのは、「独りでいる」というあり方です。わたしたちの社会は、「独りでいる」というあり方をどんどん日常につくりだしてきた社会です。一緒にそこにいても、「独りでいる」。高齢化。少子化。引きこもり、オタク。ホームレス。独身。離別。いずれも「独りでいる」社会の表情です。  「なじみ」「いつもの」がなくなった街。言葉が人と人を繫がなくなっている例が、コンビニやファストフードをはじめとする店のあり方。そして、メールやネットです。メールやネットがもたらしたのは、独白のコミュニケーションです。  独白の言葉はいわば一方通行の言葉。他の人にとっては向こうから一方的にやってくる言葉。マニュアルの言葉はそうした独白の言葉の一種です。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「なかんずく、今という時代の骨格をなしている新しい情報技術は、なくてはならない場所、という考え方、感じ方をなくして、場所からの自由を、際立った特徴にしています。場所のいらない文明と言うか、場所をもたない文明と言うか、文明とよばれているものは、特定の場所、動かしがたい場所、にしばられないことをのぞんでいます。  文明というのは、「子供の私」をつくった風景をもたない。そう言ったのは、物理学者で随筆家の寺田寅彦でした。「私」をつくった風景と言っても、それは何も特別な風景ではありません。肝心なのは色々なもの全体をひっくるめて、「子供の私」をつくった日々の風景が、故郷という場所を、なくてはならない場所にしてきた、ということです。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「芥川龍之介に、「大川の水」という小品があります。一九一二年、明治が終わって大正が始まる年に書かれた文章で、「自分は、大川端に近い町に生まれた」という書き出しに始まる文章です。  大川というのは隅田川です。芥川は幼い頃から大川を見て、毎日を過ごした。幼い自分がどんなに大川の水を愛し、大川のある日々の風景を愛していたか、大川に育まれた子供の「自分」の感受性の歴史を綴った、彫刻画のようにうつくしい文章です(『芥川龍之介全集』第一巻、岩波書店)。  川の水、川の流れの「何」が、芥川の心をとらえたか。自分の幼い心をその岸の柳の葉のようにおののかせたのは、「川のながめ」であり、その川の流れの「さびしい、自由な、なつかしさ」だった、と芥川は思いだしています。冬の川。夏の川。夜の川。その水の音。「あゝ、其水の声のなつかしさ、つぶやくやうに、拗ねるやうに、舌うつやうに、草の汁をしぼつた青い水は、日も夜も同じやうに、両岸の石崖を洗つてゆく」」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「本について言えば、本はいまは、つかのま消費されるものであって、人生の習慣をつくりだすものではなくなっています。しかし、かつて読書が力をもっていたのは、それが日々の習慣、人生の習慣をつくる力をもっていたためでした。  人の生き方の姿勢をつくるのは、日々の習慣、人生の習慣です。そうして、かつてその人をその人たらしめる日々の生き方を確かにした習慣だったのは、読書という習慣でした。  わたしがあらためてそのことを痛感したのは、『知恵の悲しみの時代』という本で、若くして死んだ、ある一人の読書家の短い人生をたどったときです(みすず書房)。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「そうしていま、わたしたちは、日々を確かにすべき新しい「習慣」を、まだもてずにいる、そのことが、いま、さまざまな難題を、わたしたちの社会にもたらしている、ということを考えます。秩序や規範にではなく、人の個性、社会の個性、文化の個性を、ゆっくりと確かにしてゆく「習慣」の力、日々をゆるやかにささえるものとしての「習慣」の力に、もっともっと自覚的でありたい。「習慣」は人を裏切らないからです。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「そうしていま、わたしたちは、日々を確かにすべき新しい「習慣」を、まだもてずにいる、そのことが、いま、さまざまな難題を、わたしたちの社会にもたらしている、ということを考えます。秩序や規範にではなく、人の個性、社会の個性、文化の個性を、ゆっくりと確かにしてゆく「習慣」の力、日々をゆるやかにささえるものとしての「習慣」の力に、もっともっと自覚的でありたい。「習慣」は人を裏切らないからです。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「本というもの、そして言葉というものは、もともと誰かの所有に帰するものではない。わたしはそう考えています。本というもの、言葉というものは、本来、所有するものでなく、預かり物です。書くことが言葉を自分の手に預かることであるように、本を求めるというのは、お金を出して、その本を気のすむまで預かることです。  本を壊して必要なところだけをわがものにするまで読むという人がいます。読む本の勘所に二色三色のボールペンで線引きし徹底して読むという人もいます。それはわたしは違うと思う。自ら本を壊したり、本に消せない線を引いたりすれば、自分からすすんで預かった本を、後の時代に返せなくなる。  そうでなく、前の時代、同時代から預かって、そうして、次の時代に返す。読まない読書というのは、本は読んで終わり、なのではないということです。手わたされて、手わたしてゆく。手わたしの、そのつながりのなかに、じぶんを置くということです。  言葉というもの、そして本というものは、そうやって繰りかえし手わたされていって、再生されるべきものは繰りかえし再生されてゆく。読書というのはそういうものなのだろうと、わたしは考えています。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「詩というのは、人間のもつもっとも古い言葉のかたちですが、つねに世界の「風景」を見つめる言葉として、そう言ってよければ、なによりデジタル的な言葉でありつづけてきた言葉です。  「風景」というのは、砂漠や海や山だけでなく、都市や遺跡がそうであるように、「自然」とは違います。人間ができることは「風景」を見いだし、「風景」をつくること。けれども、「風景」をつくりだすのは人間だけれども、のこるのは人間ではありません。「風景」です。そのように「風景」がこの世をつくってきたし、つくっているということを忘れるべきではない。そう思うのです。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「 「本」というのは、辞書を引くと、もと、大もと、物事のはじまり、もとづくところ、もとからあるもの、中心となるもの、仮のものでないもの、いま問題であるところのもの、本人の本、つまり自分自身、本草の本、つまり根のある植物、一本勝負の一本、つまり物事を決するもの、そういう意味を日常的にもっている言葉です。それが、「本」というもののイメージの、それこそ、もとになっています。  人というのは、生きている本だと思うのです。ですから、死んだ人間は、誰もが「一冊の本」をのこして死んでゆく。それが書かれた本であろうと、書かれなかった本であろうとにかかわらず、です。死者と語らうというのは、死者ののこしていったその本を、一人読むことだと思うのです。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「読むことは歩くことである。歩こう。空で、鳥の声がした。街へでる。じぶんの街を、初めて歩く街のように歩くのだ。新鮮な八百屋があった。魚屋があった。花屋があった。菓子屋があった。広告塔があった。ドラッグがあった。唐物屋があった。本屋があった。およそ遊星のなかで、地球がいちばん愉快な所だ。鞠をかがる青い糸や赤い糸のように、地球をぐるぐる歩いてゆきたい。二十三歳の青年は、そう思っていた。何処へどう歩いたのだろう。それから長い間、街を歩いていた。信号が赤に変わった。立ちどまった。京都、河原町三条の交叉点だった。正午の舗道に、老人が一人立っていた。いかつい横顔に、微笑を浮かべて。だが信号が、青に変わったとき、老人のすがたは、どこにもなかった。幸福な感情がふっと消えたような気がした。そのとき、気づいた。消えた老人は、百四歳のモトジロウだった。夢という宿痾を、終生、胸にじっと隠しもっていたカジイモトジロウ。人は死ぬが、よく生きた人のことばは、死なない。歩くことは読むことである。老人は掌に、檸檬を握っていた。京都の丸善が店を閉じた年の話である。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「梶井基次郎というのは、もちろんわたしがその本を読むずっと前に亡くなった作家ですが、いまでも京都に行ったら、必ず一度、朝、河原町三条の交叉点にゆくことが、長い習慣です。河原町三条の交叉点に別に何があるわけでもありません。ごくふつうの、京都の町の交叉点の一つにすぎません。それでも、その何でもない場所が自分にとっての特別の場所なのは、わたしにとっては、そこが「檸檬をもっていた老人」と出会った特別の場所だからです。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「季節の変わり目は、風景全体が声をもって語りかけてくるときです。空模様も、日差しも、鳥の声も、風向きも、草花も、声もつもののようにすぐそばに感じられ、その声に耳澄ましている自分に気づきます。とりわけ春が近づく日々は、風物や事物、一瞬の情景や一日の時間との無言の対話にいざなわれる季節です。  なによりもそうした対話をいざなうものは、野草、雑草です。雑草とは何か。雑草というのは自然なのだと、園芸研究家の柳宗民さんは、『柳宗民の雑草ノオト』(ちくま学芸文庫)という本に書いています。春にそこここに咲く野草、雑草は、ホトケノザ、オオイヌノフグリ、レンゲソウ、タンポポ、スミレ、そしてムラサキサギゴケなど個性ゆたかなうつくしい花が多く、そのいずれも、春の柔らかい日差しと、春霞によく似合う。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「自然というのはその意味で、本質的に対話的な風景です。風景と生きとし生けるものとの対話の時間が、季節です。たとえば百人一首のような和歌はまさにそうだと思いますが、詩、歌というのはずっとそうした対話の記録、人と季節の対話の記録だったのでした。  柳宗民さんはすでに亡くなられましたが、そのような野草、雑草たちの世界にみられるようなゆたかな対話の時間の保ち方は、今日まで人と人とがつくってきたおどろくほど人ばっかりな社会のあり方のなかからは、いつかすっかり無くなってきてはいないか、不安に思うのです。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「うつくしいものの話をしよう。いつからだろう。ふと気がつくと、うつくしいということばを、ためらわず口にすることを、誰もしなくなった。そうしてわたしたちの会話は貧しくなった。うつくしいものをうつくしいと言おう。風の匂いはうつくしいと。渓谷の石を伝わってゆく流れはうつくしいと。午後の草に落ちている雲の影はうつくしいと。遠くの低い山並みの静けさはうつくしいと。きらめく川辺の光はうつくしいと。おおきな樹のある街の通りはうつくしいと。行き交いの、なにげない挨拶はうつくしいと。花々があって、奥行きのある路地はうつくしいと。雨の日の、家々の屋根の色はうつくしいと。太い枝を空いっぱいにひろげる晩秋の古寺の、大銀杏はうつくしいと。冬がくるまえの、曇り日の、南天の、小さな朱い実はうつくしいと。コムラサキの、実のむらさきはうつくしいと。過ぎてゆく季節はうつくしいと。さらりと老いてゆく人の姿はうつくしいと。一体、ニュースとよばれる日々の破片が、わたしたちの歴史と言うようなものだろうか。あざやかな毎日こそ、わたしたちの価値だ。うつくしいものをうつくしいと言おう。幼い猫とあそぶ一刻はうつくしいと。シュロの枝を燃やして、灰にして、撒く。何ひとつ永遠なんてなく、いつかすべて塵にかえるのだから、世界はうつくしいと。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「世紀末ウィーンの画家クリムトは、思いがけない数の樹木と花々の絵を遺しました。それらの樹木と花々の絵のほとんどは、これまで知られることが少ないままでしたが、わたしはつねにその樹木と花々の絵につよく惹かれてきました。というより、クリムトの樹木と花々の絵そのものが、『詩ふたつ』の「花を持って、会いにゆく」と「人生は森のなかの一日」という、ふたつの詩のモチーフとなったものだったのでした。  樹木と花々で埋め尽くされたクリムトの絵。そこに残されている巡り来る季節の風景の姿に静かにかき入れられた死と再生の画家の祈り。詩と絵の間にはざっと百年の隔たりがありますが、その隔たりをはさんで、詩と絵が一冊の本のなかでフーガのように応答しあうそのような本は可能だろうかというところから、本をつくる時間がはじまりました。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「 「海を見にゆく」ということは、古来わたしたちの感受性を深く培ってきました。海辺に立って、浜辺に座って、ただ海を見る。遠くを見つめる。あるいは、朝まだき、日の出を見にゆく。夕方、海に落ちてゆく夕日を眺めにゆく。  島国であることは、四囲は海であるということ、海辺、浜辺に隈どられているということです。海辺、浜辺は独特の遠近法をもつ、「あいだ」です。海山のあいだ。空と海のあいだ。「あいだ」の場所というのは、塀のようにこっちとそっちを隔絶するというものでなく、潮が満ちれば海、潮が引けば陸という、あいまいな領域です。海辺、浜辺の「べ」「辺」というのはそのへん、その辺り、でもあって、境目であって緩衝帯でもある、そういう場所です。  ですから、それは生と死の境目でもあると感じられる場所でもありました。彼方を望む場所、苦海浄土、苦海という果てのない先に浄土を見る、そういう「あいだ」であり、「あたり」です。万葉集のむかしのころからずっと、海を見ること、寄せては返す白波を見つめることは、この世のさまに思いを致すことでした。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「 「昔も今にかはらぬ人の心のつらさ、懐かしさ、悲しさ」を見つめることができるように、海を見にゆく。「あの青いところのはてにゐて  なにをしてゐるのかわからない」亡くなった人に無言の悼みをささげようとして、海を見にゆく。いや、なんのためでもなく、ただ海を見にゆく。それだけでいいのだと、」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「海を見にゆく。ときどきその言葉に内がわからふっとつかまえられて、よく海を見にいった。  どこでもいいのだ。目のまえに、海が見えればそれでよかった。何もしない。じぶんが身一点に感じられてくるまで、そのまま、ずっと、海を見ている。  水平線がぐらりと沈んでゆくように見える日もあれば、空が水平線を引っぱりあげているように思える日もある。  夕暮れの海にはいつでも、どこでも子どもたちがいた。遊んでいる。喚声をあげて走りまわっているのだが、声は聴こえない。犬は波が好きだ。  海をまえにするとき、言葉は不要だと思う。  わたしはただ海を見にいったのだ。海ではなかった。好きだったのは、海を見にゆくという、じぶんのためだけの行為だ。  海を見にゆく。それはわたしには、秘密の言葉のように親しい言葉であり、秘密の行為のように親しい行為だった。何をしにゆくわけでもなく、ただ海を見にゆくということにすぎなかったが、海からの帰りには、人生にはどんな形容詞もいらないというごく平凡な真実が、靴のなかにのこる砂粒のように、胸にのこった。  一人の日々を深くするものがあるなら、それは、どれだけ少ない言葉でやってゆけるかで、どれだけ多くの言葉でではない。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

    「海辺というのは、たぶん、わたしたちの日々にのこされているもっとも古い世界です。海辺が、浜辺が、訪れるものにいつのときも語ってきたのは、地球というものを原初からずっとささえてきて、いまもささえているもの、地球を地球たらしめている調和というもの、そういうものを思いださせる秘密ではないでしょうか。その古くからの秘密こそ、ずっとむかしから今にいたるまで、「海を見にゆく」ということが、わたしたちの心を誘ってやまないものなのだろうと思うのです。」

    —『なつかしい時間 (岩波新書)』長田 弘著

  • 著者が言葉を大切にする詩人のゆえか、心に響く、あるいは留まる箴言、名句等々、が散りばめられており、じっくり味わいながら読みおえた。

    例えば「読書というのは、振り子です。たとえ古い本であっても、過去に、過ぎた時代のほうに深く振れたぶんだけ、未来に深く振れてゆくのが、読書のちからです。P31」

    例えば「『退屈』こそ、じつは万物の母なのではないでしょうか。『退屈』を、ゆっくりした時間、ゆったりした時間としてすすんで捉えかえすことができれば、『退屈』のない多忙、興奮のみをよしとする日々の窮屈さに気づくはず。P56」

    例えば「本を開くということは、心を閉ざすのではなく、心を開くということです。・・・本に親しむという習慣を通して、わたしたちは、言葉を大事にすること、本を読むということへの信頼を、自ずから手にしてきたし、これからも手にしてゆきたいというのが、わたしの希望です。P106」

    本書を読んでいる間は、表題通り「なつかしい時間」を過ごしているようであった。

  • 長田弘は詩人である。ともすれば難解なイメージをもたれがちな現代詩の書き手の中で、難しい言葉を使わず、易しい言葉を使って、言うべきことを短く語る、そんな詩人だ。

    その詩人が、NHKテレビ「視点・論点」で毎回語った元原稿に手を入れた四十八篇に、同時期に別の場所で話した三篇を加えたものである。もともとが放送原稿であるため、いつもの文体とは異なる「です・ます」調で書かれていることに若干の違和感を持つものの、内容はいつもの長田弘。

    『深呼吸の必要』という詩集を行きつけの書店で見つけ、買って帰ったのが、この詩人とのつきあいの始まりだった。ありふれた日常の風景に眼をとめ、吟味された日常語を駆使して、たしかな思考を紡ぐ、その詩篇をことあるごとに読み、口の端に上せた。

    その方向性に、いささかの変化もなく、言わんとすることは同じなのだが、番組視聴者の年齢層を配慮してか、詩人自身の年のせいか、インターネットその他現代の諸相に感じる違和感の表明が多くなり、挨拶言葉など失われつつあるものに寄せる愛惜の言葉が増えているのが気になった。

    また、古今東西の文献からの引用や、世界を旅して見てきたことの紹介に、いつも新鮮な驚きを感じさせられたものだが、引用は日本近代の文人、露伴、杢太郎、龍之介などよく知られた文人中心に選ばれているようだ。テレビ番組ということもあり、耳で聞いて覚えやすいものが選ばれたということもあったのかもしれない。

    十七年、四十八回という長きにわたっているのに、言葉の大切さ、本というもの、読書の持つ意味、と言いたいことに全くブレのないのが、いかにもこの人らしい。

    忙しく動き回っているときには忘れていても、何かがあって立ち止まることを余儀なくされたときなど、ふと思い出されて、読んでみたくなるような言葉があふれた一冊。本のもつ質感までも大事にする詩人ではあるが、そんな時には、新書という手軽さが生かされていい。

  • 自分の中にはない感覚が取り込まれて行くのがよくわかる。
    価値観とか、世界観とか、ものの感じ方とか色々見えてくる。
    こういう本大好き。
    図書館で読んだのですが、後日購入しました…!!

  • よい!!
    人との関係、対話について、場づくりについて、とても共感できる。
    視点論点のまとめだそうで・・・そんなの出演していたなんて、知らなかった・・ショック。。。
    長田弘は大学生の頃に出会って、当時は鬱々すると、詩をよく書き写していた。
    内田樹、外山滋比古などの言っていることに通じるなーと、思い出した。
    日々の中で、学びと気づきと生きる力、指針を見出す感性と思考を持つことを思った。詩人なので、言葉がとても美しい。

    下記引用
    「この世界の子どもたちである私たちに必要なことは、一か八かといった一発勝負ではなく、創造というのは再創造であり、発見というのは再発見なのだという考え方、受け止め方を、毎日の生活のなかに、自分の生き方、感じ方のなかに、蘇生させてゆく努力なのではないでしょうか。」

    • 8minaさん
      akaneirosoraさん、はじめまして
      私も本書を読んで、語りかける言葉の深さを感じていました。今でも折に触れて読み返します。
      akaneirosoraさん、はじめまして
      私も本書を読んで、語りかける言葉の深さを感じていました。今でも折に触れて読み返します。
      2013/11/09
  • なつかしい時間が失われている世の中になっている。
    かつて家の周りには、自然があったし、人もいた。
    しかし、今は敢えてその自然や人から遠ざかったりすることで、固くるしい世の中になっている。
    敢えて、自然の中に身をおいて、なんでもない時間をすごしてみることが大切。

  • 1日がめまぐるしくなった、この時代だからこそ立ち止まって考えたいと思った
    急がずじっくり過ごしていきたいですね_φ(・_・

    2021-9-6 ☆4.8

  • いろんな、本が紹介されてる

  •  私の詩人長田弘のイメージは、いつも大きな樹と寄り添う物語の人があります。樹はその人の原風景であり、自然とのつながりでもあります。NHK視点・論点で長い間語られた物語の終結として、今の時代を深く振り返る鏡でもあるようです。
     一人一人の生きてきた証としての原風景、良き時代という安易な表現ではなく、人と人、人と自然が相対して寄り添ってきた記憶をもう一度手に入れたい。
     3.11以降に人々の中に生まれてきた、本来の繋がり、人と人とのつながる社会への思索として、読み返してみたいと思う。

    • 猫丸(nyancomaru)さん
      「大きな樹と寄り添う物語の人」
      そうですねぇ、、、木の幹に耳を当てて静かに、木の音を聞きたくなります。
      「大きな樹と寄り添う物語の人」
      そうですねぇ、、、木の幹に耳を当てて静かに、木の音を聞きたくなります。
      2014/03/10
    • 8minaさん
      nyancomaruさん こんばんは。
      コメントありがとうございます。
      深い森や、明るい林で、木の音や鳥の声を聴くのもよいですね。
      nyancomaruさん こんばんは。
      コメントありがとうございます。
      深い森や、明るい林で、木の音や鳥の声を聴くのもよいですね。
      2014/03/11
  • 真っ直ぐで明るい言葉が、今もこれからも必要なんだと思う。。。

    読むと言う行為の中に「見つける」と言う素敵な営みがある。それが出来ずに読んだ本をツマラナイとしか言えない人は可哀想な気がする、、、

    岩波書店のPR
    「言葉、風景、人たち、本……。この国の未来にむかって失われてはいけない大切なもの。20世紀の終りから21世紀へ、そして3・11へという時代に立ち会いつつ、再生を求めて、みずからの詩とともに、NHKテレビ「視点・論点」で語った17年の集成。 」

  • 本著は、過去と未来と「風景の中で生きる」今を繋げるテーマで綴られるエッセイである。
    なつかしさを感じるのは、今抱いた今現在の私であると説く。過去に生きた私も先人もあの時代も出来事も全部、振り子のような関係で繋がっていると主張する。
    確かに過去を振り返らない人間はいない。その過去を振り返るその瞬間に抱いた「なつかしい」気持ちは今抱いている感情であると改めて認識してくれる。その「なつかしい」という気持ちは私やあなたという中に「風景」として残り、心を形作るのであろう。その振り返る時間は今や未来とも繋がることをエッセイという詩を通じて現代の喧騒の中で見過ごされがちな「なつかしい時間」の価値を育むべきだ。
    時代は常に昔も今も未来も変わるだろう。だが、辛い過去らも、楽しかったあの時代らも今の自分も今ここにあるというまなざしを通して大切にし、未来へ個々が育み運び繋げることであるだろうというメッセージが存分に込められた良書である。

  • 手に入れる哲学ではなく、使い方の哲学が問われているという言葉が響いた。

  • f.2025/2/10 (2025-010)
    p.2021/6/7

  • 本を開くということは、心を閉ざすのではなく、心を開くということです。
    いま、自分の目のとどくところに、あるいは、自分の手に、どんな本があるか。そのことを自問することから、読書というのははじまる。そうやって、本に親しむという習慣を通して、わたしたちは、言葉を大事にすること、本を読むということへの信頼を、自ら手にしてきたし、これからも手にしてゆきたいというのが、私の希望です

    この文章のように、これかも本に親しんでいきたい。

  • 時間に追われ視野が狭くなっていることに気付かされた
    自分も社会もどことなく薄っぺらい

  • ゆっくりと少しずつ何かを読みたいときに。

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著者プロフィール

福島県出身。詩人、児童文学作家、文芸評論家、翻訳家、随筆家。1960年、安保闘争で社会が大きく揺れている最中、早稲田大学の学生の時に「詩は書かれざる哲学を書くこと」と詩作を始める。1965年に詩集『われら新鮮な旅人』でデビューし、その後、『深呼吸の必要』(1984年)、『世界は一冊の本』(1994年)などで読者層を広げ、詩人として第一線で活躍し続けた。世界各地を旅して見聞を広め、人間の根源的な生き方について思索を深めた。その一方で、NHKの『視点論点』への出演や随筆集の執筆など、評論の分野でも活躍し、ほかにも『たべもの新世紀』『クローズアップ現代 2004年を読む アメリカ 超大国の不安』などに出演した。

「2026年 『世界はうつくしいと』 で使われていた紹介文から引用しています。」

長田弘の作品

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