近代発明家列伝 世界をつないだ九つの技術 (岩波新書)

  • 岩波書店 (2013年5月23日発売)
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Amazon.co.jp ・本 / ISBN・EAN: 9784004314288

作品紹介・あらすじ

大航海時代から産業革命を経て、交通と通信の革命が到来する。世界を制するとは、時間と空間を制することだった。世界時間が定まり、エンジンを搭載した輸送機械が作られ、電話と無線が地球全体をつなぎ、現代世界が生まれた。ワット、エジソン、ベル、ライト兄弟ら、鍵となった九つの技術をめぐる発明家の苦闘と意外な結末を描く。

みんなの感想まとめ

技術革新の歴史を辿り、発明家たちの挑戦と成果を描いた本書は、近代の進展を支えた九人の発明家に焦点を当てています。彼らは時間と空間を制するために、蒸気機関や電話、無線通信、飛行機、さらには宇宙ロケットと...

感想・レビュー・書評

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  • ★ベルの業績は「科学全体にまたがって」おり、しばしば貪欲に新たな興味ある領域を捜すためブリタニカ百科事典を読みながら眠りについたという。

    橋本 毅彦
    (はしもと たけひこ、1957年6月10日 - )は、日本の科学史家、東京大学総合文化研究科教授。科学史・技術史が専門。東京都生まれ。1980年、東大教養学部教養学科科学史・科学哲学分科卒。1982年、東京大学大学院理学系研究科科学史修士課程修了。1984年からジョンズ・ホプキンス大学博士課程在籍。1991年、同大学大学院科学史博士課程修了し博士号取得[1]、同年東大教養学部専任講師(科学史・科学哲学)。1993年10月助教授、1996年東京大学工学系研究科助教授、1999年教授、2006年東大総合文化研究科教授。

    ①ジョン・ハリソン
    時計
    (John Harrison、1693年3月24日 - 1776年3月24日)は、イギリスの時計製作者である。渡洋航海に必要とされる経度の測定が可能な精度をもった機械式時計(クロノメーター)を初めて製作した。ヨークシャー州ウェイクフィールド近郊のフォールビーで、木工・大工職人の息子として生まれた。6歳の時、天然痘にかかって静養していた折に、父親が贈った時計の動きに心を惹かれた。成長すると、父親の仕事を手伝いながら、独学で物理学や機械工学を学んだ。1713年に、大工仕事の合間に自力で製作した時計が、性能の良さで近所の話題となり、注文や修理の依頼が相次いだ。このため、いつしか時計の仕事だけで生計が立てられるようになった。1722年頃には、グラスホッパー脱進機を発明している。ジョン・ハリソンが21歳になった1714年3月25日、イギリス海軍とロンドンの貿易商人・商船船長達が合同で経度に関する請願を英国議会に提出した。ジョン・ハリソンは、開発資金を援助してもらうため1730年にロンドンへ行き、王立天文台長であったエドモンド・ハレーに会って自分の経度時計のアイデアを伝え、当時すでに時計師として有名になっていたジョージ・グラハムを紹介してもらい、資金援助を受けることができた。

    ②ジェームズ・ワット
    動力機関、複写機、機関車、エジソン並、産業革命、
    (James Watt FRS FRSE, 1736年1月19日 - 1819年8月25日)は、スコットランド出身の発明家、機械技術者。ニューコメン型蒸気機関へ施した改良を通じて、イギリスのみならず全世界の産業革命の進展に寄与した。グラスゴー大学で計測器製作の仕事に従事していたころ、ワットは蒸気機関技術に興味を覚えた。そこで、当時の機関設計ではシリンダーが冷却と加熱を繰り返しているため熱量を大量に無駄にしてしまっている点に気づいた。彼は機関設計をし直し、凝縮器を分離することで熱量のロスを低減し、蒸気機関の出力、効率や費用対効果を著しく高めた。ワットはこの新しい蒸気機関の商品化を試みたが、1775年にマシュー・ボールトンという協力者を得るまでは資金面で大変苦労した。新会社ボールトン・アンド・ワット商会は最終的に大成功を収め、ワットは資産家になった。引退後もワットは発明を続けたが、蒸気機関ほど影響を及ぼすようなものは完成できなかった。ワットは1819年、83歳で死去。彼の栄誉を称え、国際単位系(SI)における仕事率の単位に「ワット」という名称がつけられた。ワットは1736年1月19日、スコットランド中部のレンフルーシャー(英語版)にあるクライド湾沿いの港町グリーノックで生まれた[1]。父親ジェームズは船大工で、請負のほかに船を持つ貿易商人でもあり[2]、町の役員も兼ねていた[3]。母親アグネス・ミューアヘッドは名門の出で教養があった。2人はともに長老派教会員であり、国民盟約を強く支持していた[4]。ワットの祖父にあたるトーマス・ワットは数学教師であり、カーツバーン男爵(英語版)家に仕える家臣でもあった[5]。ワットは当初あまり学校に通わず母親からホームスクーリングを受けていたが、中学からはグリーノックの学校に入った[6]。彼は、手先の器用さや数学の素質を発揮したが、ラテン語やギリシア語には関心を示さなかった。工房を開いた4年後、ワットは友人ジョン・ロビンソン(英語版)教授を通じて蒸気機関を知った。それまで蒸気機関が動作しているのを見たことがなかったが、ワットは興味を持ち、設計を試み実験を行った。ワットが作った模型は満足に動かなかったが、彼は実験を続け、考察に取り組んだ。そして、熱の基礎的知識をワットに教えた[10]ジョゼフ・ブラックが数年前に至った結論と同じく、動力機関を理解するには潜熱が重要だということに独自にたどり着いた。グラスゴー大学はニューコメン式の蒸気機関の模型を所有していたが、当時ロンドンに修理に出されていた。ワットは大学にかけあって蒸気機関をグラスゴーに取り寄せてもらい、その修理を任されることとなった[7]。ワットは実験を重ね、シリンダー内に噴射される冷水によってシリンダーが毎回冷却され、次に蒸気が導入されたときに、熱の80%がシリンダーの加熱に費やされてしまっていることを突き止めた。ワットの発見の要所は、ピストン部分とは別に設けたチャンバー(分離凝縮器、復水器)で蒸気の凝縮過程を行い、シリンダーを常に注入蒸気と同じ温度にしたことである。ワットは1765年に、改良して実際に動作する模型を製作した。また、熱出力におけるピストンとシリンダーのバランスの悪さにも着目し、適切な寸法比を導き出した[7]。ワットの蒸気機関の用途が広がったのは、ボールトンがワットに対して研磨や紡績、製粉などにも使えるよう、ピストンの往復運動を回転運動に変換する機構を開発するように要請してからであった。クランク機構を使えばこの運動方向変換問題はすぐに解決するように見えたが、これはジェームズ・ピッカード(英語版)がすでに特許を取得しており(ピッカードが技術を盗んだという説もある[7])、ピッカードは分離凝縮器特許とクランク機構特許とのクロスライセンスを提案した。ワットはこれに強硬に反対し、1781年に惑星歯車(英語版)の特許を得て、特許問題を回避した。1794年、ワットとボールトンは蒸気機関製造会社ボールトン・アンド・ワット社を設立し、これは大企業へ成長した[16]。1824年までに製造した蒸気機関の通算台数は1,164台に至り、馬力は26,000に達した[17]。ボールトンは商才を発揮し、2人は一財産を築いた。1780年以前、手紙や絵などを複写する有効な手段は無く、せいぜい複数のペンを連結した器械がある程度だった。ワットは当初この方式の改良に乗り出したが、あまりに煩わしい機構にこれを放棄し、別な解決策を模索した。彼は、インクが裏まで染み込みやすい薄い紙を使い、それに別の紙を重ねて圧力を掛けることによって、紙から別の紙に内容を転写する手法を考案した[20]。ワットは若い頃から化学に興味を持っていた。1786年末、パリ滞在時にクロード・ルイ・ベルトレーが二酸化マンガンと塩酸を反応させて塩素を発生させる実験を見る機会を得た。既に塩素の水溶液は繊維の漂白に効果を持つことがベルトレーによって発表され、多くの競争相手が高い関心を寄せていた。ワットはイギリスに戻ると、早速商業的に折り合う事業化を目指した実験へ着手した。彼は、塩と二酸化マンガンおよび硫酸を用いて塩素を作り出すことに成功し、安価な生産手段に繋がる端緒を掴んだ。そして、薄いアルカリ液に塩素を通し、漂白効果を持つ混濁液を作り出した。ワットはすぐにグラスゴーで漂白の仕事をしていた義父ジェームズ・マクレガーにこの実験結果を伝えた(製法を秘密にしていたともいわれる)[22]。ワットは豊かな想像力を持つ熱心な発明家だった。彼は手先の器用さのみならず、系統的な科学的測定を行うことで自身の開発品を定量的に評価することが出来、その機能を深く理解していた。ハンフリー・デービーはワットについて「ジェームス・ワットのことを実務的な機械屋だと考えている人は、彼のキャラクターをひどく誤解している。同様にワットは自然哲学者とも違うし化学者とも違う。発明品を見れば、ワットがこれらの科学分野の豊富な知識と天才的なキャラクターを持っていることを見て取れるし、そしてそれらが合わさって実用化が果たされているのも分かるだろう」[25] 彼は産業革命を押し進めた多くの有能な人物たちから尊敬を集め[26]、ルナー・ソサエティの重要メンバーであり[2]、仲間と思慮深い討論を行う人物で、いつでも自らの視野を広げることに関心を持っていた[27]。彼は友人知人と良い関係を長く続けることができた。彼は事業家としてはあまり有能と言えず、蒸気機関の使用希望者との費用などの交渉を特に嫌った。退職するまでいつも収益状況に敏感な心配性の人物だった。健康にも優れず、神経症の頭痛と鬱屈に悩まされていた。ジェームズ・ワットが改良を加えたニューコメン蒸気機関は、発明後50年間誰も工夫を加えなかった。ワットは、動力の発生と応用に工夫を加え、労働形態に変革をもたらすことで産業革命を呼び起こす重要な役割を担った。重要な点は、鉱山で用いられる程度であった蒸気機関を工場の動力として使われる道を開き、そこで整備士や技術者など多くの人間が効率や能力向上に向けた英知を集める効果が生まれた所にある。これは何世代にもわたって機関に発明がもたらされる基礎となり、さらなる技術の発展や、機関車や汽船など輸送手段への導入をもたらした。これらから、立地や気候など水資源に限定される傾向にあった工場建設地の自由度が高まり[7]、また小家屋中心であった工業の規模を拡大させる事も可能となった。投下資本に対して得られる利益は増加し、製造業の生産性は高まった。そしてこれらがさらに機械の発明や改善に繋がる好循環を生み出した。これらの呼び水となったものが、ワットの蒸気機関である。イギリスの作家オルダス・ハクスリー(1894年 - 1963年)はワットの発明について以下のように書いている。「我々にとって、『午前8時17分』という一瞬には意味がある。この時刻が毎日の電車の発車時刻だとしたらとても重要だ。我々の先祖にとってはこんな、キリが悪くて中途半端な瞬間などそれほど大切ではなかっただろうし、そんな概念自体がなかっただろう。ワットとスティーブンソンは、機関車の発明を通して時間の発明にも寄与したのだ。」ワットの生誕地グリーノックにも彼が生まれた土地近郊に像が立ち、彼を記念している。また、いくつかの住所や通りにも彼の名を由来とするものがある。1816年に彼から受けた科学の本の寄贈を契機に設立されたワット記念図書館も知られている。これはワットの息子が設立したワット財団の一部となり、現在ではジェームズ・ワット・カレッジ(英語版)となっている。1974年、運営は地方政府に引き継がれ、ライブラリーはインヴァークライドの地方史資料館でも保管されるようになった。そこにも、椅子に座るワットの像がある。他にも、彼の像はグラスゴーのジョージ・スクエア(英語版)、エディンバラのプリンセス・ストリート(英語版)にもある。ワットの名を冠した通りはイギリス中で50本以上ある。類まれなる才能を傾け、蒸気機関の改良のため研究の先駆けとなる。母国の資源拡張に貢献し、人類の力を高め、より高い段階へと導いた、もっとも輝かしい科学の徒にして世界の恩人。


    ③イザムバード・キングダム・ブルネル
    (Isambard Kingdom Brunel [ˈɪzəmˌbɑːd bruːˈnɛl]、1806年4月9日 - 1859年9月15日[1])はイギリスのエンジニアである。グレート・ウェスタン鉄道の施設や車両を設計した技術者で、また当時としては大型の蒸気船を製作した。名のイザムバードをアイザムバードと読むこともある。また姓のブルネルをブリューネルと表記することがあるが、英語読みではブルーネルとなる。2002年、BBCが行った「100名の最も偉大な英国人」投票で第2位となった。有名な技術者サー・マーク・イザムバード・ブルネルの息子で、イギリスのポーツマスに生まれ、フランスで教育を受けた。20歳で父親のテムズ川のトンネル工事に技師として加わったが2年後出水事故で負傷したためその仕事から離れた。1833年にロンドンとブリストルを繋ぐグレート・ウェスタン鉄道の技師となり、橋梁、トンネル、駅舎を設計し、監督した。グレート・ウェスタン鉄道は安定性と乗客の乗り心地の改善のために2140 mmの広軌を採用した。優秀なデザインの鉄道車両や鉄道施設などに贈呈されるブルネル賞は彼に由来する。1830年王立協会フェロー選出。


    ④ トーマス・アルバ・エジソン
    • 電球・照明器具
    形や中身はLEDなどに変わったが、「家庭で使う電灯」という商品そのもの。
    • 電力インフラ(電気そのもの)
    発電所・配電網・電気料金システム。
    家電を動かす前提商品。
    • 音楽再生機器
    レコード → CD → デジタル音楽。
    「録音された音を再生する商品」の原型。
    • 映画・映像機器
    映画館、カメラ、動画配信。
    「動く映像を商品として見る」文化。
    • バッテリー(蓄電池)
    充電池、産業用バッテリー。
    電気をためて使う商品。
    • スイッチ・ソケット類
    家や建物に必ずある電気部材。
    (英: Thomas Alva Edison[1][注 1]、1847年2月11日- 1931年10月18日)は、アメリカ合衆国の発明家、起業家。メロン財閥とアメリカの電力系統を寡占した[2]。Life誌が1999年に発表した「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」において第1位に選出されている[3]。傑出した発明家として知られ、生涯におよそ1,300もの発明と技術革新を行った人物である。たとえば蓄音器、白熱電球[4]、活動写真である[5][注 2][注 3]。エジソンはJ・P・モルガンから巨額の出資・援助をしてもらい、Edison General Electric Company(エジソン・ゼネラル・エレクトリック、現・ゼネラル・エレクトリック=GE)を設立した。GEは電球などの家電だけでなく、発電から送電までを含む電力系統の事業化に成功した。エジソンは合計14の会社を設立している。助手には一人だけ日本人(岡部芳郎)がいた[6]。LIFE誌が1999年に発表した「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」において第1位に選出されている[3]。エジソンは様々の異名を持ち、しばしば「発明王」と呼ばれている[6]。また、研究所が置かれたニュージャージー州メンロパークにちなんで「The Wizard of Menlo Park(メンロパークの魔術師)」とも呼ばれた。メンロパークは、今ではエジソンと改名している。リュミエール兄弟と並んで「映画の父」とも言われている。このほか、自らの発明の権利を守るため訴訟を厭わなかったことから「訴訟王」の異名も持つ[注 4]。エジソンは「努力の人」「非常な努力家[5]」「不屈られないという困難に見舞われたが、図書館などで独学した[5]。新聞の売り子(販売員)として働くことでわずかなお金をコツコツと貯め、自分の実験室を作った逸話などでも知られている[5]。16歳の頃には電信。オランダ人系とスコットランド人系の両親から生まれたエジソンは従って、オランダ人系統オランダ系アメリカ人)と考えられている。幼少時代のトーマスは、異常なほどの知りたがり屋であった。小学校に入学したものの、教師からの理解が得られず、わずか3か月で中退した。当時の逸話としては、算数の授業中には「1+1=2」と教えられても鵜呑みにすることができず、「1個の粘土と1個の粘土を合わせたら、大きな1個の粘土なのになぜ2個なの?」と質問したり、国語の授業中にも、「A(エー)はどうしてP(ピー)と呼ばないの?」と質問したりするといった具合で、授業中には事あるごとに「なぜ?」を連発し、教師を困らせていたという。これらが重なった挙句、最終的には担任の教師から「君の頭は腐っている」と吐き捨てられ、校長からも「ほかの生徒たちの迷惑になる」と言われ、前述の通り入学からわずか3か月で退学することとなった[注 5]。学校教育に馴染めなかったトーマスは、自宅で独学することになった(ホームスクーリング)[10]。トーマスが特に興味を示したのは、化学の実験であった。少年時代のエジソンは持ち前の好奇心が高じて、自らの手で新聞を作り、列車の中で売って評判になったことがあった。エジソンは13歳までに週50ドルの利益を上げ、そのほとんどは電気および化学実験用の機器の購入にした[13]。しかし、ある人物を皮肉った内容の記事を新聞に載せたところ、これを見て激怒した本人から暴行を受け、これに懲りてエジソンは新聞作りをやめたという。1864年、17歳の頃のエジソンはカナダの駅で夜間電信係として働いていたが、「何事もなければ、一晩中1時間おきに勤務に就いていることを示す信号を送るだけ」という退屈な仕事に飽きてしまい、時計を使って電信機が自動で電信を送る機械を発明した。電信を機械に任せて自分は寝ていたところ、それまでと違って全く誤差なく正確に1時間おきに電信が届くようになったことを不思議に思い様子を見にきた上司に「お前が寝ていたら定時に連絡する意味がないだろう」と怒られ、クビになってしまった。これがエジソンの最初の発明だった。[14]。フォードはエジソンの親友ではあったものの「発明家としてはともかく、経営者としては三流」とエジソンの経営者としての手腕ははっきりと酷評していた。エジソンの功績はたぐいまれなものがあるが、改良発明も多く、盗作疑惑のあるものや、誹謗中傷を受けたものも多い。これは彼自身の性格に起因する面がある一方、エジソンの遺産相続の紛糾に起因する面もある。発明の中には、エジソンがゼロから思いついたものなのか、他人のアイデアを改良したものであるのかが、既に分からなくなってしまっているものもある。アメリカの発明家チャールズ・ケタリングの「成功の99パーセントは、いままでの失敗の上に築かれる」という言葉から分かるように、エジソンの発明の「本当に最初の」発明者を決めるのは困難である。1905年、左の乳様突起膿瘍の除去手術を受けた。病を機に、肉を完全に断つ菜食主義を実践した。そして、他の生き物に危害を加えない非暴力こそが、最高の倫理につながり、進化の目標であると説いている[33]。エジソンには超自然的、オカルト的なものに魅せられていたという一面もあった。ブラヴァツキー夫人やバート・リーズの降霊術を信じており、ブラヴァツキー夫人の開く神智学会に出席したこともある。また、来世を信じ、後半生は死者と交信する電信装置(Spirit Phone)を研究していた。ただし、あくまでエジソンは合理主義者を自負しており、1920年代を通じて常に自由思想家協会を支持していた[注 7]。エジソンは「人間の魂もエネルギーである」と考え、「宇宙のエネルギーの一部である」と考えていた。「エネルギーは不変なので、魂というエネルギーは人間の死後も存在し、このエネルギーの蓄積こそが記憶なのだ」と考えていた。エジソンの言葉によれば、自分の頭で発明をしたのではなく、自分自身は自然界のメッセージの受信機で、「宇宙という大きな存在からメッセージを受け取ってそれを記録することで発明としていたに過ぎない」のだという。

    名言
    Genius is one percent inspiration, 99 percent perspiration.
    一般に日本語では「天才は1%のひらめきと99%の努力」であると翻訳され[34]、努力の重要性を物語る発言として広く知られているが、日本の政治家である浜田和幸は、この表現の本当の意味を「1%のひらめきがなければ99%の努力は無駄である」とした[35]。しかし適切な翻訳にはバックエンドを加味する必要があり、エジソンが多数の失敗を乗り越えて発明を繰り返してきた経歴を鑑みると、努力を無駄とする翻訳はエジソンが主張したかった点を取り違えている可能性がある。また、エジソンはさまざまなインタビューにおいて努力こそがひらめきに必要なものであり、努力がもっとも重要であるという趣旨の発言を多くしている[36]。また当の発言はエジソンの死後1932年に発表されたものであり、まったく同じ発言をしたという明確な証拠はない[37]。現代アメリカでも「天才には努力が必要」の意味で用いられている[要出典]。
    I never did a day’s work in my life. It was all fun.
    僕は一日たりとも、いわゆる労働っていうものはした事がない。何をやっても楽しくてたまらないからさ。
    If there is no good initial inspiration, it’s useless even if much effort. But people that effort alone, not only are wasting energy.[要出典]
    最初のひらめきが良くなければ、いくら努力してもダメだ。ただ努力だけという人は、エネルギーを無駄にしているにすぎない。
    Just because something doesn't do what you planned it to do doesn't mean it's useless.
    何かが君の考えたとおりに運ばなかったからといって、それが役立たずだという意味にはならない。[注 8]
    I have not failed, I've just found 10,000 ways that won't work.
    僕は失敗なんかしちゃいない。うまくいかないやり方を10000通り見つけただけさ。

    アメリカ国内の電力・配電会社の社名でエジソンの名前を冠しているところは少なくない。コンソリデイテッド・エジソン(ニューヨーク)、サザンカルフォルニア・エジソン(ロサンゼルス)、コモンウエルズ・エジソン(シカゴ)などが挙げられる。

    ⑤アレクサンダー・グラハム・ベル
    電話、百科事典読む、

    • 電話(固定電話・スマートフォン)
    声をリアルタイムで遠くに伝える商品。
    形はスマホに変わったが、中核はベルの電話。
    • 通話サービスそのもの
    音声通話、コールセンター、音声通信インフラ。
    「声を売る/つなぐ」ビジネスの原点。
    • ヘッドセット・マイク
    電話用マイク、通話用ヘッドセット、インカム。
    音声入力機器として現在も必須。
    • 補聴器・聴覚支援機器
    聴覚研究が基礎。
    医療・福祉商品として継続的に進化。
    • 音声通信技術(派生)
    VoIP、オンライン会議、音声チャット。
    すべて「電話の延長線上の商品」。
    • 水中翼船(実用研究)
    旅客用高速船、実験船。
    限定的だが今も商品・技術として存在。
    (Alexander Graham Bell、1847年3月3日 - 1922年8月2日)は、スコットランド生まれの科学者、発明家、工学者。世界初の実用的電話の発明で知られている[注釈 1]。その後もさまざまな発明をしており、光無線通信・水中翼船・航空工学などの分野で重要な業績を残した。1888年にはナショナルジオグラフィック協会創設に関わった[8]。その生涯を通じて科学振興および聾者教育に尽力し、人類の歴史上もっとも影響を及ぼした人物の1人とされることもある[9]。デシベル (decibel; dB)などに使われる相対単位「ベル」などにその名を残す。幼いころから感受性が高く、母から芸術、詩、音楽を教え込まれ才能を発揮した。正式な訓練を受けずにピアノ演奏を習得し、一家のピアニストになった[17]。普段は物静かで内省的であるにもかかわらず、訪問客があると物真似や腹話術のような「声のトリック」でもてなし、楽しませた。また母の聴覚障害が進行したことにも深く影響を受け(彼が12歳のとき聴力を失い始めた)、手話を習得し、母の側に座り家族の会話を手話で同時通訳した[18]。さらに、母の額に直接口を当てて明瞭に発音することで、母がそれなりの明瞭さで聞き取れるというテクニックも生み出した[19]。母の聴覚障害について没頭するあまり、音響学を学び始めることになった。幼少期のアレックは兄弟たちと同様、自宅で父から教育を受けた。それ以外に早くからエディンバラのRoyal High Schoolに入学したが、最初の4学年まで修了した15歳のときに退学している[21]。学校での記録によれば、欠席常習者で成績も平凡だった。彼が興味を持っていたのは科学、特に生物学だったが、ほかの教科にはまったく無関心だった[22]。退学後、アレックはロンドンへ行き祖父のもとに身を寄せた。祖父と過ごす間に向学心が湧き上がり、真剣な議論や学習に時間を費やすようになる。祖父はベルを教師にするために必要な信念と明瞭な話法を教え込んだ[23]。16歳のとき、スコットランドマレーのエルギンにあるウェストンハウス学院で弁論術と音楽の教師の職を得た。同時に学生としてラテン語とギリシャ語を学びつつ教師も務め、1回の授業あたり10ポンドの給料を得ていた[24]。翌年、兄メルヴィルが前年に入学したエディンバラ大学に入学。カナダに移住する直前の1868年、ロンドン大学の入学試験に合格している[25]。その中で父は、聾唖者(当時の呼称)に単語の発音を教える技法や、読唇術で他者が何をしゃべっているかを推測する技法を説明している。父はアレックや兄弟に視話法の書き方だけでなく、さまざまなシンボルとそれに付随する発音の識別法を教えた[20]。ベルはそれに熟達したため、父の公開デモンストレーションでも実演し、聴衆を驚かせた。彼は視話法で書かれていればどんな言語でも事前知識なしに正確に発音でき、ラテン語、スコットランド・ゲール語、さらにはサンスクリットなどを発音して人々を驚かせた[20]。1870年、23歳のとき、ベルと兄の未亡人キャロライン[39]と両親はネストリアン号という船でカナダに向かった[40]。ケベック・シティーに到着すると列車でモントリオールに向かい、さらに一家の友人トーマス・ヘンダーソン牧師のいるオンタリオ州パリに滞在。まもなく近くのブラントフォードに程近い10.5エーカー(4万2,000平米)の農場を購入。農場には、果樹、大きな屋敷、馬小屋、豚小屋、鶏小屋、車庫があり、エリー湖に注ぐグランド川に面していた[41][注釈 7]。ベルは車庫を改造して仕事場とし[43]、その裏の川岸にある凹みを「夢見る場所(dreaming place)」と呼んだ[44]。カナダに到着したころは病弱だったが、気候と環境がよかったせいか、みるみる健康を取り戻していった[45][注釈 8]。音声についての研究を続け、グランド川の対岸に先住民の居留地 (Six Nations Reserve) があることに気付き、そこでモホーク語を学び、その語彙を視話法のシンボルに翻訳した。その業績はモホーク族に喜ばれ、ベルは彼らの頭飾りをつけ伝統的なダンスをともに踊り、モホーク族の名誉酋長となった[46][注釈 9]。ベルといえば電話だが、彼の興味の範囲はもっと幅広い。ベルの伝記を書いたシャーロット・グレイ(英語版)によれば、ベルの業績は「科学全体にまたがって」おり、しばしば貪欲に新たな興味ある領域を捜すためブリタニカ百科事典を読みながら眠りについたという[119]。その発明の才の範囲は、単独で取得した18の特許と連名で取得した12の特許である程度表されている。そのうち14は電話と電信に関するもので、4つはフォトフォン、1つは蓄音機、5つは航空機、4つは水中翼船、2つはセレン光電池に関するものである。ベルの発明は彼の興味の範囲を表しており、呼吸を補助する金属ジャケット、難聴を検出する聴力計、氷山の位置を特定する機器、海水から塩を分離する研究、代替燃料についての研究などがある。電話の普及とともにベルの名声は高まり、さまざまな栄誉と賛辞が贈られた。多数の大学から名誉学位を贈られた[156]。存命中にもさまざまな賞を受賞し、賛辞を受けている。1880年、アカデミー・フランセーズからボルタ賞(英語版)と副賞5,000フランを授与された。審査員にはユーゴーやデュマといった有名人もいた。ボルタ賞はナポレオン・ボナパルトが1801年に創設した賞で、アレッサンドロ・ボルタを記念した賞である。ベルは歴代3位の賞を授与されている[157][158][148][159]。ベルはこの賞金を使って基金(ボルタ基金)を創設。その基金によりワシントンD.C.に聴覚障害の研究機関が創設されている。トーマス・エジソンが蓄音機に使った蝋管はその研究所で発明された[160]。フォトフォンの研究もその研究所で行った。その研究所はのちにAlexander Graham Bell Association for the Deaf and Hard of Hearingに組み込まれた。フランス政府はレジオンドヌール勲章を授与。英国ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツは1902年、アルバート・メダルを授与。1907年にはジョン・フリッツ・メダルを受賞。1912年、フランクリン協会(英語版)からエリオット・クレッソン・メダルを授与された。

    ベル生誕150周年の1997年、ロイヤルバンク・オブ・スコットランドが記念の1ポンド紙幣を発行した。紙幣の裏面には、ベルの横顔、署名、電話を利用する人々、音声信号の波形、電話機、手話、航空工学への興味を与えたガチョウ、遺伝学を理解するために研究した羊などが描かれている。同じく1997年、カナダ政府は100カナダドルの記念金貨を発行した。また、2009年にはカナダでの(ベルの指導で設計されたシルバーダートの)初飛行100周年を記念した銀貨を発行した。ほかにも世界各国でベルの肖像や発明品が硬貨や紙幣のデザインに採用されてきた。

    ベルの名は世界各地の教育機関・企業・通り(avenue)・地名などの名前に使われている。BBCが2002年に行った100名の最も偉大な英国人の投票でベルが57位となった。また、2004年のTop Ten Greatest Canadiansでも、2005年のthe 100 Greatest Americansでもランクインしている。2006年、スコットランド史上もっとも偉大な10人の科学者に選ばれ、スコットランド国立図書館(英語版)の"Scottish Science Hall of Fame"に挙げられた。LIFE誌が1999年に選んだ「この1000年でもっとも重要な功績を残した世界の人物100人」にも選ばれている。

    1898年にはベルが来日し、東京と京都で講演したほか、天皇にも謁見し、勲三等を受勲するなど外国人としては破格の優遇を受けた。講演では米国聾教育事情の紹介と日本への提言のほか、全米地形地質学会の会長でもあったベルは、雨量と山岳の多い日本は水力エネルギーの宝庫であると指摘し、日本の将来を鼓舞した。東京での講演は伊沢修二が『唖子教育談』としてまとめ、京都での講演については京盲文書が『ベル氏来院記』として出版した(2013年に『ベル来日講演録 ―東京・京都―』(近畿聾史グループ編)として復刻)。

    ⑥ リー・ド・フォレスト
    (Lee De Forest、1873年8月26日 - 1961年6月30日)は、180以上の特許を取得したアメリカの発明家、電気・電子技術者。三極管の発明者として名高く、電子工学の発展に寄与したことから、エレクトロニクス時代の父と呼ばれる一人である。また、映画に音声をもたらした基本的発明の1つもド・フォレストのものである。マサチューセッツ州の中高一貫学校で学んだが、周りに溶け込めず、同級生からサル顔と呼ばれた。1893年、コネチカット州にあるイェール大学のシェフィールド科学学部 (en) 機械工学科に入学した。朝4時に起床し、芝刈りのアルバイトをするなど、苦学生ではあったが成績はきわめて優秀だった。好奇心が強く、イェール大学キャンパスの電気系統をいじって全体を停電させてしまい、停学になった。ただし、後に許されて無事に卒業している。大学時代にクラスの投票で一番の嫌われ者に選ばれるが気にしなかったそうだ。このころから機械やゲームを発明し、その収入を授業料の一部に充てていた。1896年、学士号を取得。その後もイェール大学の大学院に残り、電波についての論文で1899年に Ph.D. を取得した。

    世界初の公共ラジオ放送を行ったとされている[5]。1910年1月12日に行った最初の実験放送では、オペラ『トスカ』の上演の生音声の一部を放送し、翌日の放送ではイタリア人テノール歌手エンリコ・カルーソーがニューヨークのメトロポリタン歌劇場で行った舞台の音声を放送した[6][7]。

    1916年、ニューヨークの実験ラジオ局 2XG を立ち上げ、世界初のラジオ広告を放送した(自身の製品のCM)。また、同年11月にはチャールズ・エヴァンズ・ヒューズとウッドロウ・ウィルソンが争った大統領選挙のレポートを初めてラジオで放送した。数ヵ月後、送信機をニューヨークのハイブリッジに移した。商務省からラジオ実験局のライセンスを得ていたが、1917年4月に第一次世界大戦が始まると全てのラジオ放送が禁止された。1920年4月から1921年11月まで、サンフランシスコのカリフォルニア劇場に設置した送信機でラジオ実験局 6XC の放送を行った。1921年末にはオークランドにその設備を移し、ラジオ局 KZY とした[10][11]。


    ド・フォレストは共和党保守派であり、共産主義とファシズムには断固として反対の立場だった。世界恐慌の最中に行われた1932年の大統領選ではフランクリン・ルーズベルトに投票したが、後にその政策に憤慨し、ルーズベルトをファシスト呼ばわりしている。1949年には全国会議員に共産主義的政策(医療保険制度、補助金制度、超過利益税など)に反対票を投じるよう主張する手紙を送った。1952年には副大統領リチャード・ニクソンに政府機関内にいる共産主義者を全員追い出すことを提案する手紙を送った。1953年12月には、The Nation 誌(現在は明確に左翼系雑誌とされている)が徐々に共産主義に擦り寄っているとして購読をやめた[15]。

    ⑦ カール・フリードリヒ・ベンツ
    (Karl Friedrich Benz、1844年11月25日 - 1929年4月4日)は、 ドイツのエンジン設計者、自動車技術者である。世界初の実用的なガソリン動力の自動車を発明し、妻のベルタ・ベンツと共に「メルセデス・ベンツ」の基盤を築いた。同世代のゴットリープ・ダイムラーとヴィルヘルム・マイバッハも同様の発明をしていたが、互いのことは知らず、1879年にベンツがエンジンについて最初の特許を取得、1886年に内燃機関を自動車の動力に使うためのあらゆる最初の特許を取得した。大学卒業後は様々な機械工場を転々として技術者としての腕を磨いたが、どこも彼には合っていなかった。カールスルーエからマンハイムに移り、天秤ばかりの工場で設計と製図描きの仕事に就いた。1868年プフォルツハイムに移り、橋梁建設会社 Gebrüder Benckiser Eisenwerke und Maschinenfabrik に就職。ウィーンで鋳鉄を使用する建設会社で短期間働いている。

    ベンツは生涯、自転車を趣味としており、その関係でマンハイムで自転車修理店を営むマックス・ローゼ(Max Rose)とフリードリヒ・ヴィルヘルム・エスリンガー(Friedrich Wilhelm Eßlinger)と出会った。1883年、3人で産業機械を製作する会社 Benz & Cie.(Benz & Compagnie Rheinische Gasmotoren-Fabrik、ライン川ガスエンジン工場)を創業。間もなく25人の従業員を抱えるまでに成長し、据置型のガスエンジンなども生産しはじめた。


    会社が成功して余裕が生まれ、ベンツにはかつて夢想した自力走行する車両を設計する機会が訪れた。自転車好きのベンツはその知識を応用して自動車を作った。三輪車であり、馬車のような木製の車輪ではなく自転車のようなワイヤを使った車輪を使用し[7]、自分が設計した4サイクルのガソリンエンジンを2つの後輪の間に置き、最新式のコイル点火装置を装備し、ラジエターが無く水タンクへの自然対流式冷却方式の水冷だった[7]。エンジンの動力は2つのローラーチェーンで後輪の軸に伝達される。1885年に完成したこの自動車をベンツ・パテント・モトールヴァーゲンと名付けた。

    カール・ベンツはこの新会社でも取締役に名を連ねた。新しいロゴとして3方向に伸びた星形を採用(ダイムラーのモットーである「陸と空と海を制す」を表している)し、それをベンツの伝統的なゲッケイジュの意匠で取り囲んでいた。

    ⑧ ライト兄弟
    (ライトきょうだい、英: Wright Brothers)は、アメリカ合衆国出身の動力飛行機の発明者[注 1]かつ世界初の飛行機パイロットの兄弟。2人とも女性に興味がなく、生涯独身であった。同性・異性を問わず性的な接触をした証拠は見つかっていないという[5]。

    それまでの他者による飛行の試みの多くが跳躍かその延長のものでしかなかったのに対して、主翼をねじることによって制御された飛行を行ない、飛行機の実用化に道を開いた。しかし、当初世間はこれを理解しないどころかむしろ冷淡であり、国内では様々な事情から特許権関係の問題を突きつけられたりさえしていた。

    ライト兄弟は、飛行機開発に乗り出した最初期に、すなわち最初の1899年凧の段階で、既に正解を得ていた。自転車を趣味としていた経験からバンク旋回の必要性に気づいて、ロール運動の手段としてたわみ翼を考案した。その結果、第一次世界大戦期の主力構成であった、矩形翼の複葉機構成を採用しており、しかもたわみ翼をたわませる仕組みにとって矩形翼の複葉機構成がほぼ必須であったため、他の翼形状(コウモリのような翼)や他の翼構成(昆虫のような翼)を試すなどして技術的に迷走する余地がなかった[16]。

    ⑨ ヴェルナー(ヴェルンヘル)[1]・マグヌス・マクシミリアン・フライヘル(男爵)・フォン・ブラウン(Wernher Magnus Maximilian Freiherr von Braun, 1912年3月23日 - 1977年6月16日)は、工学者であり、ロケット技術開発の最初期における最重要指導者のひとりである。第二次世界大戦後にドイツからアメリカ合衆国に帰化し、研究活動を行った。ソビエト連邦(ソ連)のセルゲイ・コロリョフと共に米ソの宇宙開発競争の代名詞的な人物である。

  • ●ハリソン…世界時刻の計測
    温度の影響により振り子の長さが変わるのを防ぐ技術。
    ●ワット…産業革命の原動力、蒸気機関
    平均的な馬が1分間に22,000フード・ポンドの仕事をこなすことができる。ワットは、その1.5倍の能力を「一馬力」として定義した。。
    ●ブルネル…大英帝国の技術ビジョン
    産業革命期のイギリスで、鉄道建設や蒸気船の建造に活躍した。
    ●エジソン…電話発明の副産物として蓄音機を発明、電気照明の事業化。電磁気学の基礎を学んでいないエジソンにとって、交流の長所を理解することは困難だった。
    ●ベル…電信から電話
    ●でフォレスト…無線通信とラジオ放送。無線の発明家マルコーニに対して、ラジオの父と呼ばれる人物。
    ●ベンツ…ガソリンエンジン搭載の自動車
    ワットの蒸気機関は高圧式にすることで軽量化した。しかし普通の道路を走行するには重すぎた。
    ●ライト兄弟…飛行機は世界を一変させた。ほんの100年前の出来事。
    ●フォン・ブラウン…宇宙ロケットとミサイル。ナチスドイツのV2ミサイルの生みの親、冷戦下のアメリカでアポロ計画のサターンロケット開発の中心となった人物。

  • ワット、エジソン、ライト兄弟、フォン・ブラウンなど歴史に名を残した有名な発明家・実業家の事績を簡潔に記した文庫本である。一人ひとりの事績を追うならもっと詳しい本はたくさんあるし、むしろそっちを読んだ本がいいのだが、これを手に取った理由は、珍しくイサンバード・ブルネルが載っていたからだ。

    ブルネルはイギリスの技術者で、鉄道建設や蒸気船事業などに取り組んだ人物である。イギリスでは知らない人はいない人物で、アメリカの大学でも、尊敬する偉人ランキングなどで上位に入っているようだ。恥ずかしながら、そのニュースを読むまで自分は知らなかった。

    ブルネルは父も有名な技術者であり、出自も裕福である。父の事業を継いだこともあって、エジソンなどから比べるとやはりストーリー性には乏しいように感じる。日本で有名にならないのも無理は無いように感じた。

    しかし、技術が急速に発展していった時代に抜け目無く鉄道や蒸気船といったインフラ事業に乗り出していった点は素晴らしいと思う。特に鉄道建設などは黎明期で今のような技術やノウハウが確立されておらず、困難を極めたようだ。

    また、彼はイギリス以外にもイタリアやインドなど、他地域の鉄道敷設にも尽力している。交通が不便だった時代において、フロンティアである鉄道事業は本当に魅力的な事業だったのだろうと思う。

    また、彼の作った蒸気船はイギリスと大西洋をつなぐ海底電信ケーブル敷設に用いられたそうだ。海底ケーブルは後に日本とも繋がったというが、こちらの方が縁がありそうである。

  • ワット、エジソン、ベル、ベンツなど9名の稀代の発明家のエピソードを散りばめた一冊。一部読みにくい部分もあるものの、興味深い苦労話が多く、参考になった。

  • ハリソン:時計
    ワット:蒸気機関
    ブルネル:蒸気船
    エジソン:いっぱい
    ベル:電信
    ■デフォレスト:三極管、ラジオ
    ベンツ:ガソリンエンジン自動車
    ライト兄弟:飛行機
    フォン・ブラウン:ロケット

    デフォレストは、知らなかった。三極管=信号増幅=発振というアイデアがどうやって生まれたのかは、非常に興味深い。
    また明治維新のころには大西洋横断通信線が敷設されようとしていたことは驚きである。

  • 面白かったです。

  • 地元の図書館で読む。

  • 橋下毅彦『近代発明家列伝 世界をつないだ九つの技術』岩波新書、読了。本書は現代世界の基盤となる9つのイノベーションと発明家を取りあげ、経緯や背景を辿る中で世界の変化を解説。ハリソン、ワット、ブルネル、エジソン、ベル、デフォレスト、ライト兄弟、フォン・ブラウンが本書の主人公だ。

    ハリソン、ワット、ブルネルは地球規模で一体化する基礎を、エジソン、ベル、デフォレストはメディア技術の基礎を、ベンツ、ライト兄弟、フォン・ブラウンは交通技術を飛躍的に拡大する基礎となった。エピソードも豊富で現代世界誕生の経緯がよく分かる。

    ハリソンの時計は今も正確な時間を刻み、ベルは晩年特許裁判に明け暮れた。ベンツやエジソンが協業で事業化に成功させる話は、独創的職人の時代は終わり、専門家集団による協同研究への推移を予期させるものである……等々。

    「各章の最後の1ページで、『ワット=蒸気機関』『エジソン=電球や蓄音機』『ライト兄弟=飛行機』という結びつきがいかに歴史を単純化しているかがよくわかります」(編集者)。 

    http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN978-4-00-431428-8 

    読み物としても面白い一冊

  • 「伝説の天才」として描かれておらず、
    特許紛争、資金繰りの苦労、事業化の模索、など、
    リアルな感じがよかった。

    歴史に名を残す発明でも、決して単発ではない。
    それ以前の無数の誰かの「発明」と、
    同世代の関連技術の誰かの「発明」と、
    それ以降の改良や発展につながる誰かの「発明」がある。
    人間ってすごいな、と思う。

  • ちょっとしたアイデア企画ですね。
    巧みの時代ほどでなくても、少年の発明心をくすぐるかもしれない。
    目新しい内容ではないので、若いヒト向けなのでしょう。
    それにしても、この200年近くの人間の歩みというのはものすごいものですね。
    もちろん、現在はその10倍近い速度で進歩しているのでしょうが・・・・。

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著者プロフィール

東京大学大学院総合文化研究科教授。科学史家。

「2010年 『〈科学の発想〉をたずねて』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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