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Amazon.co.jp ・本 (256ページ) / ISBN・EAN: 9784004314356
みんなの感想まとめ
デザインと機能の調和を追求した柳宗悦の思想が、彼の息子である柳宗理の作品にも影響を与えていることが感じられます。本書では、宗悦が提唱した「複合の美」という概念が中心に据えられ、さまざまな文化や地域の美...
感想・レビュー・書評
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大ファンである柳宗理氏のお父様。デザインと機能が共存する宗理シリーズの源流がここにあるのかもしれない。
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255P
柳宗悦は沖縄と東北の工芸とか日本の地方の民芸を絶賛してて、美術とか文化的な価値は欧米化に追従する東京みたいな都会よりも優れているって本当にそう思う。東京とか都会の良さって人口の多さと交通の便の良さしか無いよ。日本的な美は全て地方にあると思うし食べ物も地方の方が断然美味しいし自然も素晴らしい。
やっぱり柳宗悦は白洲正子みたいな美術評論だけではなく、神学とか仏教みたいな宗教もがっつり研究してるから面白いんだよね。アカデミズムに違和感を覚えて山に行って観察眼を養ったりスタンスが好きだな。
柳宗悦があんだけ朝鮮の美術を絶賛してたのに、韓国はそれを植民地イデオロギーの一助だとか言ってるのが韓国だなって感じで気持ち悪い。お前らとは関わりたくないよ。
赤城山に連れて行かれ、自然に親しみ観察眼を養った
宗悦は、神学に興味を持っており
アカデミズムに対する違和感を覚え
声楽家の中島兼子と結婚
1916年(大正5年)以降、たびたび朝鮮半島を赴き、朝鮮の古仏像や陶磁器などの工芸品に魅了された
「直観」を重視するブレイクの思想は柳に大きな影響を与え、柳の独自な思想の基となったともされ、ブレイクとの出会いをきっかけに柳の関心はしだいに東洋の老荘思想や大乗仏教の教えに向けられていったともいう
同志社大学と同志社女学校専門学部[33]、関西学院の講師となる[32]。木喰仏に注目し、1924年から全国の木喰仏調査を行う[14][25]。
また沖縄・台湾などの南西諸島の文化保護を訴えた[14]。
中島兼子と結婚、兼子は近代日本を代表するアルトの声楽家だった。インダストリアルデザイナーの柳宗理は長男、美術史家の柳宗玄は二男、園芸家の柳宗民は三男。甥(兄・悦多(よしさわ)の子)に染織家の柳悦孝、柳悦博。他に美術史家の石丸重治、法学者の今村成和がいる。
当時ほとんどの日本の文化人が朝鮮文化に興味を示さない中、朝鮮美術(とりわけ陶磁器など)に注目し、朝鮮の陶磁器や古美術を収集した。
朝鮮民画など朝鮮半島の美術文化にも深い理解を寄せた。
柳の歴史的評価を明確にしていないという非難も起きた。「朝鮮を愛した日本人」と捉えるか、「植民地イデオロギーの一助」を担ったとして否定するか韓国での捉え方は未だに分かれている[47]。
沖縄文化を生涯にわたり紹介し、1938年〜1940年にかけ沖縄県に4度滞在調査した[注 7][49]。
江戸時代に全国各地を廻国し造仏活動を行い、独特の「微笑仏」を残した木喰行道や妙好人の研究を行った。特に木喰研究は柳宗悦の木食仏発見が契機となったことで知られる。
『柳宗悦 「複合の美」の思想 (岩波新書 新赤版1435)』 中見真理 #ブクログ #読書 #KindleUnlimited
https://booklog.jp/item/1/4004314356
中見真理(なかみまり)
1949年生まれ。清泉女子大学名誉教授、公益財団法人日本民藝館理事。専門は国際関係思想。一橋大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。清泉女子大学教授在職中に、プリンストン大学東アジア学部客員研究員、清泉女子大学副学長
「 第一には、ポストモダンの理論を使って既成概念を「脱構築」する学問が盛んになったことと関係がある。これは、偶像や神話を破壊しようとする傾向と言い換えることもできる。この流れのなかで、民芸の世界において、これまで神のように扱われてきた柳が、脱構築の恰好の対象として取り上げられてきたのである。この結果、柳の民芸理論が、いかに個人作家や工人(職人)を拘束し、彼らから自由な創作力を奪ってきたか、柳が民芸理論を自分の独創であると強く主張していたにもかかわらず、それがいかにウィリアム・モリス(一八三四 ~九六、英国のデザイナー・社会思想家・詩人)をはじめとする他の思想家のアイデアの「模倣」のうえに成り立つものであったか、等々を暴き出す研究がさかんにおこなわれるようになった。 第二は、学問の関心が、「中心的」事象から「周辺的」事象へと大きくシフトした結果である。これにともなって、これまで描かれてこなかった側面が新たに着目され、中央から地方へ、大思想家から民衆へ、男性中心から女性へ、政府の動向中心から一般の人々の日常生活へと、関心が移行してきた。柳は、民俗学者や言語学者を別とすれば、戦前の日本人のなかでもっとも早く、帝国日本の「周辺」地域を視野に入れた人物のひとりであった。これらの地域や人々(朝鮮、台湾、沖縄、北海道アイヌ)について、多くの記述を残しているために、研究者に史料を提供しうる数少ない事例として、注目されることとなった。さらに民衆の日常生活にかかわる民芸運動を展開したことによっても、一層の関心を集めた。運動の内部に目を向け、運動が有名な個人作家ばかりでなく、いかに周辺的人物によって支えられてきたかを明らかにする研究もさかんになった。加えて、民芸運動が男性中心の運動であったとの批判的観点からの指摘もなされつつある。 第三に(第二と関連するのだが)、これまで政治に直接結びつかないとみなされがちだった、文化の政治性を考えようとする傾向が強まってきたことである。カルチュラル・スタディーズの流行にともない、さまざまな事例が、その観点から取り上げられるようになり、エドワード・サイード著『オリエンタリズム』(一九七八)の理論を応用した研究が盛んにおこなわれるようになった。そのなかで、オリエンタリズムあるいは「オリエンタル・オリエンタリズム」の事例として、柳や民芸運動が取り上げられ、植民地や戦争との関係を問う研究が増えてきたのである。 以上の結果、研究が進めば進むほど柳は叩かれることの多い思想家となり、柳研究があたかも柳叩きでなければならないような状態ともなった。ただしこのような角度からの研究が勢いづくことによって、それまで民芸の世界で絶対視されてきた「柳神話」が解体され、より客観的な検討がなされるようになってきたのは好ましい。とくに英語圏での最近の研究は、柳の思想や民芸運動を、柳個人や日本に特殊のものとみるのではなく、国際的視野に立って、他の地域の同種の動きとの類似性に着目する観点から、研究を大きく前進させている。」
—『柳宗悦 「複合の美」の思想 (岩波新書)』中見 真理著
「ここではさらに、韓国での研究動向や、ごく最近の日本での傾向についても触れておきたい。韓国ではかねてより、柳の朝鮮芸術論に強い関心が寄せられ、柳は、戦前期に朝鮮人をもっともよく理解した日本人のひとりとして、六〇年代の終わり頃までは高く評価されてきた。ところが近代化が進み、韓国の人々が自文化に目を向ける余裕をもち始めると、柳への賞賛は影を潜め、彼の朝鮮観は強い批判にさらされるようになる。とくに韓国美術の研究は、柳による「朝鮮の美」の性格づけと対決し、それを乗りこえることで自民族の美意識を確立したいという強い願いをともなっていたために、柳はむしろ叩かれることのほうが多くなった。しかし九〇年代頃からは、より冷静かつ学問的に柳と向きあい、評価すべき点は評価しようとする傾向が生じている。」
—『柳宗悦 「複合の美」の思想 (岩波新書)』中見 真理著
「父親の楢悦は、一八三二年津藩の江戸下屋敷で出生の後、七歳のとき津に移り住み、主に和算や測量術を学んだ。一八五五年、幕府によって長崎に海軍伝習所が開設されると、津藩から選ばれて派遣され、同伝習所で三年間オランダ人教師のもとで洋算(西洋数学)や航海術等を習得した。明治維新後は東京に出て、新政府の海軍創立にかかわり、一八七一年の兵部省海軍部水路局の創設とともに、その初代局長に就任している。とくに日本の沿岸を測量し、水路図の作製に力を尽くしたことで知られる。一八七八年には約七カ月間、欧米視察の旅行をしている。海軍内に水路学会を設立するとともに、海軍外でも東京数学会社や大日本水産会の創立にかかわり、和算や水産学の業績も残している。御木本幸吉による真珠の養殖を成功に導いた人物でもあり、御木本は、楢悦を生涯の恩人として讃えていた。楢悦は、一八八〇年には海軍少将となり、宗悦生誕前年の一八八八年には海軍を退役し、その後元老院議官を経て、一八九〇年には貴族院議員に勅任された。だが一八九一年、インフルエンザをこじらせ亡くなっている。宗悦が二歳に満たない幼少時のことだった。」
—『柳宗悦 「複合の美」の思想 (岩波新書)』中見 真理著
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「柳家には爵位はなかったが、父親の生前の地位により、宗悦は、当時限られた階層の子弟のみに開かれていた学習院に学ぶこととなった。一八九五年に初等学科に入学し、一九一〇年の高等学科卒業まで学習院に在籍した。 学習院では、のちに日本を代表する思想家・学者となる人物を含む多くの優れた教師と出会っている。例えばドイツ語教師としての西田幾多郎、英語教師の神田乃武や鈴木大拙等である。柳がもっとも親しみをもったのは、植物学者であり R・ W・エマソンの愛読者でもあった服部他之助という中等学科時代の英語教師であった。服部は柳をしばしば赤城山に連れ出し、柳は、そこで自然を見る目を養うことができた。生家の広大な庭も自然が豊かであったし、のちの我孫子手賀沼のほとりでの生活とともに、柳は早くから自然界の美を観察する環境に置かれていた。オーギュスト・ロダンの書物にも学びながら、日常的に自然と接する機会を得ていた柳は、ここから「自然界にみられる美をこえる美はない」という美意識を育んでいくこととなる。学習院での柳は勤勉な優等生として知られ、高等学科卒業時には恩賜の銀時計を授与されている。」
—『柳宗悦 「複合の美」の思想 (岩波新書)』中見 真理著
「 『白樺』に参加した柳が、当初強い関心を示していたのは神学であった。このことを反映し、『白樺』に最初に寄稿したのは、「近世における基督教神学の特色」(一九一〇年六月号)という論文であった。一九一〇年九月には「宗教に関する人生問題」への「積極的解決」を求めて、東京帝国大学文科大学の哲学科へ入学する。大学時代の柳は、人生問題に対するそれまでの「宗教的哲学的解釈」に不満をもちながら、「実験と観察とにもとづいた科学」としての心理学に強く期待し、とくに老病死の問題に、科学がどこまで答えを与えることができるかに関心をもって心理学を専攻した。一九一一年には第一作『科学と人生』を上梓している。同書には、人が楽天的思想をもって「調和ある自然の生涯」(「順生涯」)を送り、「平和なる自然死」にいたるとき「一切の問題」が「解決」されると述べられている。柳は、そのためには厭世思想を改変し、健康の害となることをやめ、個人を充実させる必要があると説いていた。同書は、この頃流行していた心霊研究に、柳が強い関心を寄せていたことをも明らかにしている。」
—『柳宗悦 「複合の美」の思想 (岩波新書)』中見 真理著
「 柳は、学習院卒業の頃に、声楽を専攻していた東京音楽学校本科生の中島兼子と出会っている。のちに高名なアルト歌手となる人物である。二人は交際を重ねた末、一九一四年に結婚した。 兼子は一八九二年に東京下町の本所に生まれた。生家は、祖父の中島成道が開設した鉄工場を経営していた。成道は、幕府の命令によって、榎本武揚とともにオランダに留学し、機械や煉瓦の製造技術を習得した人物であった。」
—『柳宗悦 「複合の美」の思想 (岩波新書)』中見 真理著
「 『柳宗悦全集』には宗悦が兼子に宛てた百四十九通もの恋文が収録されている。兼子によって書かれた手紙(未刊)とあわせ読むと、二人が互いの関係をどうとらえ、あるべき未来像をいかに考え語りあっていたかを知ることができる。宗悦は、女性が家庭をもつことと芸術家であることとの両立は難しいが、両方を活かさねばならないと強く説き、これらのよき「調和者」になることが「自分の一つの使命」であると述べていた。宗悦が兼子に宛てた手紙のなかには、自身の仕事の進捗状況を報告するものも多く、兼子から積極的な愛を示されることが仕事の源泉になるとしばしば書いていた。同時に、兼子自身の仕事への積極性と自立心も求めていた。宗悦が理想ととらえていた女性像はモーリス・メーテルリンクやアリギエリ・ダンテの妻であった。一方、レフ・ N・トルストイの家庭は、悲劇の例として引き合いに出されていた。その「家庭は愛で温かった」が、妻が「夫の精神的仕事」を「理解することができなかった」からである。このように二人は、西洋の偉人たちの家庭のあり方に関心を寄せながら、互いを高めあっていこうとしていた。一九一一年七月には、読むべき本を紹介してほしいとの兼子の求めに応じてではあったが、宗悦は、読書用リストとして、芸術・哲学・宗教に関する思索的な書物(西田幾多郎の『善の研究』を含む)を一挙に二十五冊前後もあげていた。当時兼子が十九歳の音楽学校生であったことを思うとき、驚かされる。」
—『柳宗悦 「複合の美」の思想 (岩波新書)』中見 真理著
「ところで、心理学を専攻した柳が卒業論文として選んだ論題は、「心理学は純粋科学たり得るや」であった。柳は、心理学が人間の心を対象とする限り、科学的探究だけでは不十分だと考えるにいたり、結局、心理学は純粋科学たり得ないとの答を導き出すこととなった。柳の卒業論文は残されていない。しかしのちに書かれた回顧文によると、この論文の問題設定と結論は、実験心理学を主流とした当時の大学での心理学に対して「反逆的」なものであり、よい評価が得られなかった。宗悦は、中退組の多い白樺派のなかでは珍しく大学を卒業している。しかし卒業試験を終えた直後に、兼子に宛てて「もう二度と大学へは足を入れたくない気がしている、 Academy of Academyとは永遠の縁が切りたい」と述べていたように、アカデミズムにはなじまなかった。それ以降は、内発的な独自の学問を形成していくこととなる。 その後も柳は、科学を否定してしまうことはなく、論理を重んじ続けてはいたが、次第に芸術に心動かされることが多くなり、論理以上のものを求めるようになっていった。このような変化の要因としては、声楽家をめざす兼子から学んだものが大きかった。宗悦は、白樺派同人としてもちろん芸術への関心は強く、オーギュスト・ロダン、オーブリー・ V・ビアズリー、ハインリヒ・フォーゲラー等について文章を書き、『白樺』の編集や展覧会の開催に際しては、他の同人をはるかにしのぐ美的センスを発揮していたが、それでも当初は科学や宗教により強い関心を寄せていた。しかし兼子とつきあううちに芸術への傾斜を深め、その後力を注ぐこととなった哲学の研究をできるだけ芸術に近づけていきたいと思うにいたる。その結果、論理だけの学問にはさらに飽き足らなさを感じるようになるのである。」
—『柳宗悦 「複合の美」の思想 (岩波新書)』中見 真理著
「しかし柳は、共感できる研究対象にすんなりと出会うことができたわけではなかった。アカデミズムの学問観から抜け出し、自己のテンペラメントに合致する学問をめざしていきたいとしながらも、あれこれのテーマが柳の頭をかけめぐり、なかなかひとつに絞りきれない焦りの日々が続いていた。読書家だった柳はすでに、ウォルト・ホイットマン、ラルフ・ W・エマソン、クロポトキン、ウィリアム・ジェイムズ、アンリ・べルクソンにも強い関心をもっていた。一九一三年に志賀に宛てて書かれた手紙には、「自分にはすべてのものがアトラクティーブだ。ほとんど皆同一の力で自分をひきつける。哲学も科学も芸術も自分の心をセデュース(ひきつけるの意味──中見註)する」と述べられていた。同じ頃兼子に宛てた手紙のなかでも次のように記していた。「すべての芸術と、すべての哲学と、すべての科学と、またはすべての社会の問題はほとんど等しい力で私の心をひきつける。昨日カントの認識論に心をおどらした、そうしてまたシャヴァンヌの画に限りない尊敬の心を起こした、そうして夕に私はトルストイの伝記を強い愛着と畏敬との心で読むことに余念なかった。しかも私には近世の電子論と、進化の学説とが頭を離れなかった、いかばかり世には偉大な問題が数限りなくわれわれの前に置かれてあるのだろう、多くの問題は多くの注意を人の心に起こさせる、しかし人はそのいずれかを強く捕らえて、そこから出発しなければならない」。」
—『柳宗悦 「複合の美」の思想 (岩波新書)』中見 真理著
「宗教の分野においていま柳は、キリスト教よりも仏教の研究者として知られている。しかし柳が仏教に関心をもつにいたるのは、キリスト教神秘思想の研究を通じてであったことにも注意を払っておきたい。」
—『柳宗悦 「複合の美」の思想 (岩波新書)』中見 真理著
「朝鮮での活動は、次第に確立されつつあった柳の平和思想を、内面化させ定着させていくことともなった。そもそも柳が、日本国家による軍事拡大路線に疑問を抱き、平和の問題に関心を寄せ始めたのは、日露戦争が終わる頃であった。白樺派への参加以降は、日露戦争中にトルストイに心酔し非戦論者になっていた武者小路実篤や、内村鑑三の非戦論に強い感化を受けていた志賀直哉、一年間の入隊生活以来反戦思想と国家批判の観点をもつにいたっていた有島武郎等に触発されながら、自らもトルストイを熱心に読み、反戦感情を育んでいった。そのような感情は、第一次世界大戦期に日本に滞在していた英国人ジャーナリストの J・ W・ロバートソン゠スコットと、戦争について議論をたたかわすことによって、思想へと深まっていった。その過程で柳は、クエーカーの平和思想を学び、バートランド・ラッセルの平和論も熱心に読んでいた。一九二一年七月二十八日には、来日したラッセルの講演を慶応義塾大学まで聴きにいっている。三一年頃からは、ガンディーの活動に関心をもち始め、のちには、ガンディーが非軍事的な方法によってインドを独立に導いたことをきわめて高く評価するにいたる。 非戦思想を内面化させる一方、柳には独自の「複合の美」の観点(第 4章参照)もみられた。それは、当時の最先進国・英国のリーチやロバートソン゠スコット、植民地として低くみられていた朝鮮の人々等、政治経済的にみて世界の両極に位置する友人たちとの交流によって、堅固な平和思想として柳に定着していった。」
—『柳宗悦 「複合の美」の思想 (岩波新書)』中見 真理著
「ところで、朝鮮とのかかわりを深め、朝鮮の芸術への関心を一層強めていくうちに、柳は民芸に開眼することとなる。一九二一年一月には「陶磁器の美」という文章を発表している。それまで宗教哲学者として知られつつあった柳が、急にこのような一文を発表したことは世の人を驚かせ、彼の将来を案じる人もいたという。そのような反応を予想して柳は同文を「読者は恐らく宗教哲学を専攻する私から、このような題目を得ようとは、よもや予期しなかったであろう」と書き出している。しかし柳自身はこれを急転回とは考えていなかったはずである。というのもこれ以前から柳には、哲学・宗教・芸術・科学の四分野を統合した「統一的学」の樹立をめざしたいという志があったからである。したがって民芸についても、それを例えば宗教と切り離されたものとはみておらず、それらがいずれはひとつのものへと収斂していくと想定していたのである。」
—『柳宗悦 「複合の美」の思想 (岩波新書)』中見 真理著
「なお柳がその後、西洋を旅したのは、一九三三年に、ハワイ大学に招聘されて二カ月間東洋の宗教と芸術について講義したときと、五二年五月末から翌年二月にかけて毎日新聞社の文化使節として、欧米諸国を歴訪したときの二回であった。 ここで注意を払っておきたいのは、実は、欧米での生活を経験したのは、宗悦よりも妻の兼子のほうが早かったということである。兼子は、一九二八年四月から半年以上にわたって、声楽の勉強のためにドイツに留学している。生まれたばかりの幼子(宗民)を家族のもとに残しての渡欧であった。留学をめぐる宗悦との話しあいは難航を極めるが、そのとき助け舟を出してくれたのが、宗悦の姉直枝子と夫の谷口尚真であった。兼子はとくに直枝子には、生涯感謝し続けたという。兼子がドイツ滞在中に宗悦に送った手紙は、若き日の二人の決意を実現させることが、現実の生活のなかでいかに苦労をともなったかを伝えている。兼子が後年語ったところによると、宗悦は帰国の催促を矢のように書き送ったようである。兼子はドイツでのリサイタルを成功させた後、一二月には急ぎ帰国している。宗悦が欧米への旅に出たのは、その四カ月後のことであった。兼子は翌三〇年春には米国の宗悦のもとに向かい、約四カ月のボストン滞在の後、夏にともに帰国している。」
—『柳宗悦 「複合の美」の思想 (岩波新書)』中見 真理著
「そのなかで柳は、一方では民芸運動を守り発展させるために、国策としての地方文化運動には協力し、内閣情報局や大政翼賛会との関係も近くなった。しかし他方、天皇のために死ぬことを奨励したり、戦争を煽り立てることなく、戦時下を貫きとおした。その間、柳は、東北を含む日本各地を精力的に歩きまわり、そこで見出した優れた工人たちを励まし、彼らの製作物がより良質なものになるよう力を尽くし続けていた。さらに植民地等への皇民化政策にも、くみしなかった。第 5章で詳しく述べるように、柳の皇民化政策への抵抗姿勢は、一九三九年に沖縄「方言」論争を起こしたことや、四一、四二年に書かれたアイヌに関する文章のなかにも読みとることができる。」
—『柳宗悦 「複合の美」の思想 (岩波新書)』中見 真理著
「なお一九四五年九月に同心会(のち雑誌『心』を刊行)が結成された頃からは、学習院時代の恩師鈴木大拙と改めて学問的交流を深めていった。四九年には、柳を松ケ岡文庫(大拙が一九四五年に鎌倉の東慶寺境内に設立した仏教研究の拠点)の後継者とすることが大拙によって公表されるまでになっていた。戦後の柳は、老いてなおかくしゃくとして、日本の文化を世界に向かって英語で発信し続ける大拙に、理想的な国際人の姿をみていた。」
—『柳宗悦 「複合の美」の思想 (岩波新書)』中見 真理著
「一九六一年四月、柳は「無対辞文化」という短文を雑誌『心』に発表した。ここには柳の思想的到達点が簡潔に表現されている(第 6章参照)。そして同年五月三日、七十二年間にわたる実り豊かな生涯を終えている。逝去の知らせを受け、急ぎかけつけた鈴木大拙は、柳の遺体を前に泣き崩れたという。戒名は大拙によって「不生院釈宗悦」とつけられた。 なお一九五七年には、「民芸理論の確立・日本民芸館の設立・民芸運動の実践の業績」により文化功労者に顕彰され、没後の八四年には、韓国より宝冠文化勲章を授与されている。」
—『柳宗悦 「複合の美」の思想 (岩波新書)』中見 真理著
「前章でみたようにきわめて多彩な生涯を送った柳だったが、そこに一貫して特徴的だったのは、相対立する価値をそれぞれに重んじ、互いの持ち味を活かしあうことによって、そこからより創造的なものを生み出したいと願い続けていたことであった。柳の関心は、「東洋と西洋」、「仏教とキリスト教」、民芸運動における「個人作家と工人」、さらには日本と朝鮮、ヤマトと沖縄やアイヌ、「地方と中央」、「手仕事と機械」の関係にも及んでいた。これら相対立するものをどう調和させるかという問題は、当時「二元の問題」と呼ばれ、思想家たちの関心をひいていた。柳はとくに社会的な力に格差のある二者の関係に着目していた。圧倒的な力をもって世を席巻する「強者」に対して、「弱者」が自己の存在意義を見失わずにいかにすれば本来もっているはずの特色を遺憾なく発揮することができるのか、という問題に強く心を奪われていたのである。」
—『柳宗悦 「複合の美」の思想 (岩波新書)』中見 真理著
「現在、日本民芸館に保管されている柳の蔵書には、五冊のクロポトキンの著書が残されている。『ある革命家の思い出』、『パンの略取』、『田園・工場・仕事場』、『相互扶助論』、『ロシアにおけるテロル』であり、いずれも英語版である。柳は多くの書き込みをしながら読書する習慣をもっていたが、このうち最も熱心に読んだ形跡を残しているのは、『相互扶助論』と『パンの略取』である。柳自身の書き込みによると、『相互扶助論』を一九〇九年十一月五日から読み始め六日に読了、引き続き『パンの略取』を七日から九日にかけて読んでいる。さらに翌年一月二十八日には『ロシアにおけるテロル』を読みあげている。また「墳水」という執筆年不明の原稿には、「自分はかつてクロポトキンの Conquer of Breadを読んで、泣かされたことがある、不幸にして逝いた幸徳秋水の言には未だクロポトキンのような大なるドクトリンになっていないことを悲しく思う」と書かれている。これらのことは柳が、一九〇九年末から一九一〇年にかけて、クロポトキンの著作を熱心に読み、幸徳秋水にも関心を払っていたことを示している。貴族の生まれでありかつ高潔な人格によって知られたクロポトキンに、柳が好感を寄せたであろうことは容易に想像される。」
—『柳宗悦 「複合の美」の思想 (岩波新書)』中見 真理著
「しかしおそらくは、米国留学からの帰途、ロンドンで直接クロポトキンに会った有島武郎を経由して得られた情報が、柳に強いインパクトを与えたのではないかと考えられる。有島は留学中にクロポトキンに関心をもち、一九〇五年から翌年にかけてクロポトキンの著書をむさぼり読んでいた。一九〇六年九月に米国を去り、ヨーロッパを経由して一九〇七年二月二十三日に帰国したが、帰国直前の二月にロンドンでクロポトキンを訪問している。そして帰国後の一九〇八年十月一日には、クロポトキンから便りを受け取っている。有島は一九二二年に、父親から譲り受けた北海道狩太の農場の地主としての権利を放棄、それを小作人に無償で提供し、彼らの共同所有に移す「共生農場」の試みをおこなった。その発想には、クロポトキン思想の影響があったと言われている。」
—『柳宗悦 「複合の美」の思想 (岩波新書)』中見 真理著
「ここで白樺派同人と日本の代表的アナキストたちが、ある時期までは、かなり近い距離にいたことに注意を喚起しておきたい。武者小路実篤と有島武郎は、一時期『平民新聞』の熱心な読者だった。彼らは、大杉栄や石川三四郎とも面識があった。有島武郎は、弟の生馬や里見弴ほど大杉と親しかったわけではなかった。だが彼は、大杉が一九二三年にベルリンで開催された国際アナキスト大会に出席するため、資金の工面に難航していた際には、渡航費として当時としては大金の千円の援助を与えている。なお里見には、「春めいた日の出来事」という文章がある。一九二二年のある日、大杉が愛嬢を連れて里見の家を訪ねてきたときの印象を記したもので、そこでは大杉の「円転滑脱な」人柄に好感をもったと書かれている。 白樺派と大杉たちは、互いの雑誌(『白樺』と、一九一二年に大杉と荒畑寒村によって創刊された『近代思想』)を交換しあっていた時期もあった。『近代思想』は、大逆事件以後、政治活動が厳しく弾圧されていた状況下に、政治からの一時避難的な手段として考案された文芸雑誌であった。大杉はその頃、「今日の日本の文芸雑誌のなかで、僕は『白樺』が一番好きだ」と述べ、白樺派同人にクロポトキンのイメージをだぶらせ次のように語っていた。「白樺の人たちは貴族の坊ちゃんと言われるのが何よりも嫌いだと言う。しかし事実は事実にちがいない。そして僕はこの事実から、あの人たちの行動を少なからざる興味をもって見ている。……貴族の血を受けて、そして一面において父祖からの悪弊に反抗すると同時に、他面において成上りのブルジョワジーに反抗する、若い貴族の人たちから成る。僕らは白樺を見るたびに、いつもトルストイやクロポトキンの少年時を想う。トルストイやクロポトキンは、白樺の連中のような若い貴族が、さらにもう一つ改宗した人じゃあるまいか」。」
—『柳宗悦 「複合の美」の思想 (岩波新書)』中見 真理著
「ブレイクの『無垢の歌』のなかに「黒人の小供」という詩がある。そこには黒人の男の子が、「イギリスの子どもは色が白いのに、僕はまるで光がないみたいに真っ黒だ」とつぶやく一節がある。男の子は、母親の膝に抱かれながら、神がなぜ黒い身体を与えたのかを教えられる。この詩には、黒人と白人の子供たちが、肌の色の違いをこえて仲良くなるようにという願いがこめられており、肌の色が違っても人は皆平等だというブレイクの主張が表現されている。柳の蔵書中の John Sampson編 The Poetical Works of William Blake, Oxford University Press, 1913(柳は、ブレイク論執筆の際、この本を主に使っている)所収の ʻʻ The Little Black Boy ʼʼという詩の箇所には赤線が引かれている。柳はブレイク論のなかで、「すべての読者はあの『黒人の小供』を愛誦せずして過ぎゆくことはできない」と述べており、この詩から強い印象を受けていたことがうかがわれる。」
—『柳宗悦 「複合の美」の思想 (岩波新書)』中見 真理著
「 「東洋的なるもの」に一定の自信をもちえてのちの柳は、もはや西洋最先端の潮流を追うことなく、柳が東洋的とみた性質を究める方向に進んでいく。それとともに、東洋と西洋の関係に関しては、両者がそれぞれの特質を明確にすることが大切だと思うにいたっている。東洋と西洋の相互扶助が成り立つためには、東洋が西洋に対して存在理由を示すことができなければならない、そうしてはじめて、西洋と東洋が、互いに尊敬し理解しあえるようになると考えたからである。したがって「各々が自己の主義性格を固守」し、「真実の泉が迸る究極の根元まで自己を深く掘り下げてゆく」ことが重要である。こう考えながら柳は、一九一〇年代なかばには「東洋的なるもの」の特色の探求にさらなる熱意を示し、一六年の八月から十月にかけて、初めて朝鮮と中国を旅行している。 ところが芸術の領域に期待し、日本、中国、朝鮮の美について学ぶうちに、柳は、一九一九年頃までには、日本の国宝とされている美の多くが、朝鮮や中国のものもしくはその模倣であるとの認識をもつにいたる。その結果、次第に日本文化の独自性に疑問を抱き始める。これは柳にしてみれば困惑させられる事態だったにちがいない。なぜなら日露戦争後の柳は、恐らく他の多くの日本人と同様に、東洋においては日本こそが西洋と肩をならべることのできる国だという自負をもち、よもや日本が東洋において文化的後進国だとは考えていなかったにちがいないからである。そもそも柳は、近代西洋文明に劣らない東洋文化の独自性を探るために、芸術に目を向けてきた。しかしここにいたり、今度は日本の優れた美が、東洋のなかでは「周辺」に位置する、と気づかされることとなった。この「発見」以降の柳は、中国や朝鮮の芸術を前にして、日本が誇ることのできる美とは何か、の探求に向かわざるをえなくなる。なぜなら相互扶助を重視する以上、中国、朝鮮、日本との間にもそれぞれ相互扶助の関係が成り立たねばならないからである。まさにこのことこそ柳を民芸の発見へと促していった。」
—『柳宗悦 「複合の美」の思想 (岩波新書)』中見 真理著
「民芸運動開始後の柳は、民芸運動がモリスのアーツ・アンド・クラフツ運動の模倣だと言われることを嫌い、強く反発していた。それは柳が、そもそも西洋との間に相互扶助を可能にするような文化の確立を強く意識して、東洋の芸術に目を向け、しかも中国や朝鮮の美とも差異化できる日本の美を探った結果、民芸に開眼し民芸運動を展開するにいたったからであった。それをモリスの運動の模倣と言われたのでは、柳のそれまでの思想的営為が無に帰してしまう。 しかも柳が民芸運動を開始するに際して当初もっていた問題意識は、モリスのものとは明らかに異なっていた。前述のように柳の民芸運動の出発点には、日本文化の個性を見出さねばならないとする切実な課題意識があった。そのため民芸運動は、民衆を強調しながらも、日本民族の文化の特色の探求とその確立を優先的課題にし続けることとなる。その点において民芸運動は、第一次世界大戦前後から日本に台頭していた民衆芸術論(民衆のための芸術論)のなかでは、特異な位置をしめるものであった。それは、産業化が労働者から働く喜びを奪ったことを問題視し、民衆の境遇改善をめざして美の観点から社会批判を展開していった、英国の思想家ジョン・ J・ラスキン(一八一九 ~一九〇〇)やモリスがもっていた問題意識とは、少なくとも開始時点においては異なるものだったのである。しかし運動を展開していくうちに、柳は、モリス等が取り組んだと同様の問題にも直面し、運動推進のための方法をモリスにも学びながら考えていくこととなる。」
—『柳宗悦 「複合の美」の思想 (岩波新書)』中見 真理著
「柳は、民芸運動のなかの個人作家と工人の間にも、相互扶助を成り立たせたいと考えていた。それはどのような形をとることとなったであろうか。まず柳は、「自然」のなかに「すべての形、すべての模様」が宿っているとみていた。それは赤城山や手賀沼での自身の自然観察から導き出されるとともに、「自然は常に完全」であり「一切のものは自然のうちに含まれている」とするロダンの自然観に学んだものでもあった。そこから柳は、自然をこえる美はないという確信をもち、次のように考えていく。 「美は自然を征御する時にあるのではなく、自然に忠実なる時にある」、「意識と技巧」は「醜い工芸」を生む、それゆえ「すべては作為から放たれねばならぬ」。人々に作為的姿勢をもたらした近代は、美を堕落させてしまった。したがって優れた美を生み出すためには、近代的「小我」的個人主義から脱却し、無心となって、そこに自然がより多く働くようにしなければならない。文明に毒されず、人間が本然の状態に近ければ近いほど、そして自己を「寂滅」し他力に徹すれば徹するほど、人は「自然の加護」を受け、そこから優れた芸術を生み出すことができるはずである。」
—『柳宗悦 「複合の美」の思想 (岩波新書)』中見 真理著
「そこで柳は、個人作家が、自分たちの失ってしまった無心を取り戻すために工人から学び、他方、方向性をもてない工人を、個人作家が技術面も含め導いていくことができれば、両者間に「相互扶助」が成り立ち、それぞれが特色を活かしあってそこから豊かな美を生み出すことができるはずだと考えるにいたった。そして個人作家に対しては、「一人でなければ現わせない美」よりも、「協力によってのみ現わせる美」のほうが「多くの幸福を社会に約束する」と述べて、「自分一人」のみならず、「民衆をも高める道に出る」ことを推奨していった。柳が、ギルドの形成と、そこでの個人作家と工人の協同生活の必要性を力説し、上加茂で試みが失敗してから以降もギルド方式にこだわり続けたのは、このような考えに立っていたからであった。」
—『柳宗悦 「複合の美」の思想 (岩波新書)』中見 真理著
「 ところで柳は、一九一六年八月から十月にかけて、初めて朝鮮と中国へ旅行している。九月中旬まで朝鮮に滞在し、その後中国へ向かった(この時、日本を離れ北京に在住していたリーチと会っている)。朝鮮へは下関から船で釜山に入り、そこで浅川伯教の出迎えを受けた。同地で早速「鉄砂雲竹文壺」を購入している。その後、海印寺、仏国寺等を訪問し、慶州の石窟庵には三度も足を運び、その美しさに深く感動している。 この朝鮮訪問の際に、柳は京城ではじめて浅川巧に会っており、彼の家に滞在しながら各所を訪れている。巧は、一九一四年五月に兄の伯教を追って朝鮮にわたり、総督府の農商工部山林課林業試験場に勤務した。樹木の養苗に関する仕事に従事するかたわら、工芸の研究をおこなったことでも知られている(一九二九年には『朝鮮の膳』を出版)。伯教も巧もメソディスト派のキリスト教徒であった。巧は、兄とともに柳による朝鮮民族美術館の設立を助けたほか、朝鮮人と親しく交わり、柳の朝鮮観にも大きな影響を与えた。しかし一九三一年に風邪をこじらせ四十歳の若さで亡くなる。そのとき柳は、巧の死について「取り返しのつかない損失」だと書き、その後も巧に対する敬愛の念を抱き続け、彼の写真を終始書斎の机の上に置いていたという。」
—『柳宗悦 「複合の美」の思想 (岩波新書)』中見 真理著
「このとき、これが朝鮮人自らの要求にもとづく独立運動であることを理解し、日本の政策に対して批判的見解を示すことができた日本人は、吉野作造、石橋湛山、柏木義円(群馬県安中の日本組合基督教会牧師)等、十名にも満たなかった。日本人の多くは、これを米国人宣教師等に煽られた一部の朝鮮人による暴動とみなし、彼らが独立してやっていくことなどできようはずがないとみて、事態を重大視しなかったのである。 そのなかで柳は、抗議の声をあげた少数者のひとりとなった。彼は『朝鮮とその芸術』(一九二二年九月)の「序」のなかで、同書執筆の機縁となったのは「朝鮮問題に対する公憤」と、朝鮮の「芸術に対する思慕」のふたつであったと述べている。朝鮮について専門的知識をもっているわけではないので、本来ならば言説をつつしまねばならないが、あえて書を著すという「冒険」をするのは、「目前に悩ましい光景が開展されて」おり、「黙していることが私には一つの罪と思えたからである」と述べている。「思索は活きた問題において、一層深められる」との自覚とともに、「生命の問題や運命の問題」が「目前に具象化」されているとき、「どうして黙していられよう」という感情が、柳を突き動かしたのである。」
—『柳宗悦 「複合の美」の思想 (岩波新書)』中見 真理著
「なお柳はここで、日本の古芸術が朝鮮に恩を受けたにもかかわらず、今日の日本は朝鮮固有の芸術の破壊によってそれに報いようとしているとも指摘していた。引き続き発表した「石仏寺の彫刻について」(柳は石窟庵を石仏寺と称している)においても、「倭寇の災禍」が石窟庵にまで及ばなかったのは「感謝の至り」だと述べながら、「文禄壬辰の役」が朝鮮の芸術に「恥ずべき無意味な迫害」を加えたと批判している。なおこの文章は、一九一六年にそこを訪れたときの実見にもとづいて、三・一独立運動以後の一九年六月に『芸術』に発表された。柳は同文の「附記」で、「世界の傑作」である石窟庵がまだ一般に知られていないのを「心惜しく」思い、あえてこれを広く紹介する「最初の一人」になったと述べている。」
—『柳宗悦 「複合の美」の思想 (岩波新書)』中見 真理著
「柳は、山登りのたとえを好み、さまざまなところで用いていた。そこでは、このような宗教のとらえ方が、わかりやすく表現されている。例えば、柳が一九一五年十一月にリーチに宛てた手紙のなかで、それは次のように説明されている。「われわれが登ろうとめざしている頂きは普遍的な『一つ』のもの」である。しかし、「その頂きに至る道程は『多数』ある」。それぞれの道は、「個人の気質(性格・内的原因)とその環境(外的原因)によってかなり異な」るのである、と。 つまり柳は、異質なそれぞれの宗教、宗派を、同じ山の頂にいたる異なった道としてとらえていた。どの道を選ぶかは、その人の性格や外的環境等の偶然によって左右される。したがってどの道を選んでもよい。大事なことは頂上を極めることである。頂上にいたったときには、異質なそれぞれの宗教が、ひとつの「普遍」に到達する、というのであった。」
—『柳宗悦 「複合の美」の思想 (岩波新書)』中見 真理著
「第一に、君主は、気前が良いよりもけちでなければならない(第一六章)。マキァヴェッリによれば、気前が良いという評判は、たしかに有益であるが、君主がそれに固執するならば、気前良さは、有害である。気前が良ければ、自分の財産を浪費することになり、さらにはそれを補うために臣民に重税を課さざるをえない。それゆえ、気前良さよりもむしろ、吝嗇、つまりけちという性質こそ、君主が統治するうえで必要である。彼の挙げる実例は、教皇ユリウス二世やスペインの「カトリック王」フェルナンド二世であり、彼らは、けちであることやその評判に頓着しなかった。それゆえに彼らは、戦争を遂行し、勝利しえたというのである。 第二に、君主は、憐れみ深いよりも残酷でなければならない(第一七章)。マキァヴェッリの挙げる事例によれば、フィレンツェ共和国は、残酷であるという評判を恐れて、結局のところ、ピストイアを無秩序にしてしまった。他方、チェーザレ・ボルジアは、残酷であったがゆえにロマーニァ地方に秩序と平和をもたらした。マキァヴェッリの考えでは、残酷さは、結果的に憐れみ深さをもたらすのである。 第三に、君主は、愛されるよりも恐れられねばならない(第一七章)。マキァヴェッリによれば、人間は一般的に、恩知らず、移り気、猫かぶり、貪欲である。そのため彼らは、君主が恩恵を施している間は、自らのすべてを捧げようと言い寄ってくるが、君主が窮地に立つならば、敵に寝返ってしまう。したがって君主は、彼らの言葉を安易に信用してはならない。君主は、彼らから愛着を期待しえないとすれば、臣民を君主から離れさせないためには、むしろ処罰の恐怖こそ有益である。 第四に、君主は、信義、つまり約束を破ってもかまわない(第一八章)。マキァヴェッリによれば、君主は、ライオンとキツネという野獣の性質を具えねばならず、ライオンのように力を持つとともに、キツネのように策略を用いなければならないのである。また、マキァヴェッリによれば、君主は、良い資質を持っている必要はないが、それらを持っているように見せかけることが肝要である。この教えは、キケロの教えとは対照的に、偽善の勧めであると言いうる。」
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複合の美 素晴らしい本だ
世界中に一種類の花しかなかったら世界は美しいだろうか?
山の頂は一つでもそこに至る道は民族・地域で様々である -
記録
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【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/687497 -
美術
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柳宗理の父親。民芸の柳だが、実にさまざまな活動をしていたという。
「複合の美」とは宗悦の言葉で、野に咲く花は様々あって美しいさま。 -
民芸運動の旗手という狭い枠から柳を解き放ち、「複合の美」という観点からその平和思想的側面をあぶり出すという軸のもとに書かれた好著。
柳の思想的遍歴を辿りつつ、現代的諸課題への対応についての可能性を、著者は「複合の美」という視点から捉える。またキリスト教、禅宗、そして真宗への傾倒と時代を追って深まる柳の宗教思想家としての側面も大いにクローズアップされており、勉強になった。 -
柳宗悦の著作は未だ読んでいないが、もの作りをする者として知っていなければならぬ人物と思い、そのガイドとなるのではと思って本書を読み始めた。
僭越な言い方をすれば、これほどの人物も西洋に気触れ、日本のアイデンティティの模索を始めている。そこに僕自身の思考過程を重ねることが出来、親近感を持ちながら読んだ。
この本から受ける柳の印象は、論理の人であると思った。西洋に対する日本の論理の構築を目指している人であって、柳自身が民藝の中に見いだそうとしていた無心さえ、論理の西洋vs無心の日本を導こうと必死であった印象を受けた。時代は異なるが岡本太郎のように直観で日本を良さを見いだす人とは真逆であると思った。極端な言い方をすると、西洋コンプレックスから、消去法で民藝を見いだしたようにさえ思えた。
作家性を廃しギルドで手仕事を行うこと、社会主義的、アナーキーなところは今の僕らにはとても理想主義なところがある。資本主義の行き過ぎた社会のなかでは柳の思想はギャップがかなりある。ヒントはこの本を読んだだけでは見いだせない。
ただ少なくとも、柳は思案に留まることなく実践した者なのだから、素晴らしい。この本を入り口として柳宗悦の著作も読んでみて、引き続き自分なりのヒントを探してみたいと思った。 -
伝記的な事柄を色々と勉強させていただきました。ただ、柳という人物を現代にいかに活かすか、という議論はあまりに紋切型で楽観的だったように思う。
肯定的に描くという戦略は意識的に採られたわけなんだが、その結果として論が一本調子になった面はあるだろう。
批判的な捉え方が欲しかったし、そちらの方が、人物の像としてふくらみが出たように思うんだ。 -
なぜ多様性が必要なのか、全部統一した方が効率的でいいじゃないか、という主張に、「多様性のない世界はつまらないでしょう」と反論して納得させるのは難しいけど、それが1番じゃないかと思う。
民芸運動で有名な柳宋悦の主張から紡ぎ出した「複合の美」の思想もそんな所にあるのでは。異なる文化から学ぶ姿勢が大事。
宋悦に傾注しすぎて若干かいかぶり気味な点も多い。
彼は単なる芸術品の評論家の立場からでしかモノを言っていない、と言われればそうだから。
「多民族・多文化の共生が重視されている今日、それを非暴力的方法によって実現していくためには、どのような精神態度が求められるかを示唆している」
クロポトキンの相互扶助的思想
「国民の深玄なる美意識は、自らの源泉より流出してこそ、うるわしく貴い」
「中国や朝鮮の芸術を前にして、日本が誇ることのできる美とは何か、の探求に向かわざるを得なくなる・・・・・・まさにこのことこそ、柳を民芸の発見へと促していった」
「個人作家が自分たちの失ってしまった無心を取り戻すために工人から学び、他方方向性を持てない工人を、個人作家が技術面も含めて導いていくこができれば、両者間に相互扶助が成り立ち、豊かな美を生み出すことができる」
「最もいきいきといまなお確実な民芸品を作っているのは、日本国中で最も貧しいと言われる東北と琉球である」
「地方の人たちは、自分達の文化を都会のものから遅れた価値のない文化とみなして自らを蔑まず、劣等感に起因する不必要な模倣をすべきではない。自己を抑圧せずに誇りを取り戻し、もてるものを十分に発揮することが大切である。むしろ高いところに入りすると自負する中央こそ、地方に学ばなければならない。日本が世界誇ることのできる文化の基盤は、地方にあると認識すべき」
「他力に徹した時、より多く神や神の創造した自然の力が作用し、そこに優れた美が生まれるとの考え」
「強者は弱者を踏み台にし、弱者もまた、自己をあえて強者の踏み台として提供することによって、主流の価値観の中で生きていこうとしている」 -
世界人という印象。
あまりに早く生まれすぎた感もある。
さぞかし、日本人の誰もが彼を理解しがたかったでしょう。
今の時代になってやっと、このような紹介書があって、ようやく理解できる気もする。
民芸だけの柳宗悦と思っていたけれど、ものすごい博愛主義者で、行動派で、世界の中で生きた人だったことがよくわかりました。 -
「民芸運動」で知られる人物であるが、私的にはその思想に強く惹かれるものがある。彼が共鳴し、思想の根幹とも思われる二元論は今後の人間のあるべき姿を描き出しているようにも思われる。
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