- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004314400
感想・レビュー・書評
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この本を読むと、著者のライフワークである「生命誌」の根底となる考え方がよくわかる。
僕は中村桂子先生の本は文庫、新書であれば全部読みたいと思っており、本書は2013年の出版ながらその存在をお粗末ながら、書店で偶然見つけて知った。当然、さっそく手に取る。
著者は、2011年の東日本大震災後、科学科学技術が自然と向き合っていないとこを問題視する。それは、科学技術者が漏らした「想定外」とうい言葉にある。
自然が全て解明されていないのに、特定の数字をきめて計算するうちに、人間がすべてを設定できるという気分になり、その数字の中で考えるようになる。その結果、傲慢になる。科学者が日常的な生活者としての感覚をもっていないということだ。
「人間は生きものであり、自然の中にある」ことを繰り返し主張する。「活きた自然のと一体感」が重要。
この問題の解決方法を大森荘蔵を引用し、「密画的世界」(科学による理解)と「略画的世界」(日常的感覚での世界)との「重ね描き」と説く。
最終章で、日常感覚や思想性を求められるのは研究者に限らない。政治家、官僚、企業人などすべての人が、その専門からだけでものを見るのではなく、生活者、思想家であることが求められると説く。
企業人である僕は、思わずドキリとし、この本を読む価値に改めて気づかされた。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
うーむ
人間と言うより個人的見解ではないか
中村さんの意見であればいいが「科学者が」と主語が大きすぎる -
言葉は優しいが、厳しい問いかけである。「役に立つ」研究への「選択と集中」が、何をもたらしているのか。研究者が本来持つべき資質とは。
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上品で淡々とした筆致だが、考え抜かれた言葉と表現。そして、根底にある信念。見事な本であった。個人的には、宮沢賢治についての、本当の幸せ、本当の賢さ論が発見であった。
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震災で露呈してしまったいわゆる専門家といわれる連中の限界。
そしてそれ以上に彼らの醜態・無責任さ…同じ科学者側の立場として身を切られるような辛さを中村が味わい、焦り、苦しんだのがひしひしと伝わってくる。
科学者、技術者以前に一人の人間であるということを今の彼らが忘れているという中村の危惧は世の中のあちこちに見受けられる。
地球の、生命の一部、そして人間であるからには当事者であることは免れないのに、それを忘れているような言動が彼らの、ひいては科学者への不信感につながっている。
その当事者意識を忘れることなく生命に向き合うという中村の態度は素晴らしいと思う。
現実の世界での中村に対する障害は予想以上であろうが、敢えてそれを受け止めつつ前に進もうとする彼女の心意気が良い。
清水と違ってデカルトを現状の科学の様々な問題の遠因とする見方だが、それが意識ある人たちの一般的な見解でもあるのか?(そうでないという見方も大切)
清水博、蔵本由紀、ベルタランフィ、ジャコブ、中村桂子…彼らの視点は常に謙虚で真摯であり、いかに人間が偏った見方しかできていないのかを十分に理解している。
だからこそ彼らの言葉が心に沁みるのだと思う。 -
サイエンス
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☆大森荘蔵「死物を扱ってはいけない」 機械論から生命論へ。
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1 「生きものである」ことを忘れた人間(「生きものである」とはどういうことか;「ヒト」の特徴を考える;近代文明とは何だったか―「生命」の視点から)
2 「専門家」を問う―社会とどう関わるか(大森荘蔵が描く「近代」;専門家のありようを見直す;社会に対する「表現」;生活者として、思想家としての科学者)
3 「機械論」から「生命論」へ―「重ね描き」の提案(近代科学がはらむ問題;「密画化」による「死物化」;「重ね描き」という方法;自然は生きている;「知る」ことと「わかる」こと)
4 「重ね描き」の実践にむけて―日本人の自然観から(日本人の自然観;「重ね描き」の先達、宮沢賢治;「南方曼陀羅」と複雑系の科学;重ね描きの普遍性)
5 新しい知への道―人間である科学者がつくる(生命科学の誕生;アメリカ型ライフサイエンスの問題点;何を変えていくか;生命誌研究館の二〇年とこれから)
著者:中村桂子(1936-、東京都、生命誌研究者) -
略画と密画を重ねて社会を見ること。