科学者が人間であること (岩波新書)

著者 :
  • 岩波書店
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本棚登録 : 189
レビュー : 24
  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004314400

作品紹介・あらすじ

大震災を経てなお変われぬ日本へ-大森荘蔵、宮沢賢治、南方熊楠らに学びつつ"自然""生命"から近代科学文明を問い直す。

感想・レビュー・書評

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  • 生命科学・生命誌を専門とする著者が、東日本大震災以降、改めて問い直したこれからの科学と科学者としてのありよう。「人間は生きものであり、自然の中にある」という考えの基盤が、繰り返し語られる。

  • 略画と密画を重ねて社会を見ること。

  • 大森荘蔵、和辻哲郎、南方熊楠などを読みたくなった。

  • 3ヶ月にわたって本書を紹介したものです。

    その1
     はからずも本書が2017年度入試に取り上げられていました。滋賀県の膳所高校・特色選抜(京都でいう前期選抜)小論文の題材としてです。
     著者の中村桂子さんは生物学者です。同じく生物学者で先日亡くなられました岡田節人先生と大阪は高槻市にある生命誌研究館での活動を続けてこられました。私も、何度も訪れたことがありますが、こじんまりとしていながらも、わくわくする展示がいくつもあります。機会があればぜひ出向いてみてください。では早速、本の内容に入っていきましょう。
     本書は、2011年3月11日の震災のあとに書かれた。「地震がいつどこで起きるかという問いに対して学問ができることは、得られる精度最高のデータを用いての確率計算ですが、一方、被害に遭った人たちにとっては、地震発生は100%起ってしまった出来事です。これは病気についても同じで、・・・すでに病気にかかってしまった人には、確率は役に立ちません。ここが、学問が日常と接点を持つことの難しさです。けれども、だから学問は無意味ということではなく、この違いをわかったうえで学問を生かしていかなければならないのだと、震災後さまざまな場面で強く感じました。」「科学者らしくないと言われるかもしれませんが、自然は人間が制御できるものではなく、もっともっと大きなものであり、私たちはその中にいるのだということを痛感したのです。」これは、前回紹介した梅原先生のデカルト批判にもつながるだろう。本書をつらぬく一本の大きなテーマは「人間は生きものであり、自然の中にある」ということである。
    (ここで、理科の担当者としてひとこと言っておきたいことがある。ヒトは生物の1つの種類に過ぎない。進化の過程で言えば、ヒトはあとからやって来た新参者だ。我々が地球を支配しているわけではない。それどころか、地球からしてみればヒトの存在なんて屁でもない(失礼!)環境問題なんて問題ですらない。だからと言って人間が何をしてもいいということにはならないが、地球の46億年の歴史のなかで言えば、いま起こっていることは異常気象でも何でもない。おごりを捨て、自然に対する畏怖の念をもち、われわれも生き物の一員であると意識する必要がある。)
    第1章での中村先生からの提案。「まずは1人1人が『自分は生きものである』という感覚を持つことから始め、その視点から近代文明を転換する切り口を見つけ、少しずつ生き方を変え、社会を変えていきませんか。」具体例として、賞味期限を過ぎた食品をどうするかという話をされている。「科学的とは多くの場合数字で表せるということです。具体的には冷蔵庫から取り出したかまぼこに書かれた日時をさすわけです。・・・安全性の目安として書かれている期限を見て、その期間に食べているわけです。それを科学的と称しているけれど、これでよいのでしょうか。こうした判断のしかたは、私には、自分で考えず科学という言葉に任せているだけに思えます。『科学への盲信』で成り立っているように思います。」「科学的とされる現代社会のありようは実は他人任せなので、これは『自律的な生き方』をしようという提案でもあります。うっかり期限の過ぎたかまぼこをすぐには捨てずに鼻や舌を使うという小さなことですが、一事が万事、この感覚を生かすとかなり生活が変わり、そういう人が増えれば社会は変わるだろうと思うのです。常に自分で考え、自身の行動に責任を持ち、自律的な暮らし方をすることが、私の考える『生き物として生きる』ということの第一歩です。」
    右下の図は生命誌絵巻と呼ばれている。生命誌研究館設立以来、この図が研究館のイメージ図として使われてきた。「扇の天が現在であり、ここには現在の生きものたちが描かれています。バクテリアもいますし、シャクジクモがいたりキノコも、植物や動物もいろいろ・・・大きく分けて五界(原核生物、原生生物、植物、菌類、動物)に分類される生きものたちは数千万種もいるとされています。」ここには身近な生き物が描かれている。これらはすべてゲノムを持つ細胞から成る。ゲノムとは細胞内にあるDNAの総体をさし、ここに遺伝情報がある。「これは決して偶然ではなく、地球上の生きものは祖先を一つにしていることを示していると考えています。ここから多様な生きものたちが生まれていく過程を知ることこそ生きものを知ることと考えて、生命誌を提唱しました。」「この絵巻の語っていることの第一は、祖先は一つということです。これほど多様な生きものが皆一つの祖先から生まれた仲間だというのです。これは現在の生物学の見方の基本となる大事なことです。」生命が最初に誕生したのはおよそ38億年前と言われている。すべての生きものが、それだけの時間をかけて、いまここに存在しているのだ。そう考えるとアリ1匹殺せなくなる。いのちの重みにはこのとてつもなく長い時間の重みもあるのだろう。「もっともここで、これほど重いものなのだからどんないのちも失わせてはならないなどときめつけたら大変なことになります。私たちが毎日野菜やお肉を食べていることからも明らかなように、生きもののいのちは他のいのちの上に成り立っているものなのですから。ただ、すべての生きものが同じように持つ重みを感じて行動する。これが絵巻から読みとれる二つ目のことです。」絵巻が示す三つ目のこと、それは人間の立ち位置である。「現在の社会での人間のありようをここに描くなら、扇をはずれた上のほうに置くことになります。他の生きものたちとは別のところ、つまり自然の外にいるという姿です。しかも少し上のほうから眺めて、生物多様性を考えましょうとか、地球にやさしくしましょうなどと言っているのです。でもそれは間違っています。『中にいる』。人間は生きものであるということは、他の生きものたちの『つながりの中にいる』という感覚を持つことです。」
    このあとチンパンジーを研究されている松沢哲郎先生の話が続く。そして、人間特有の能力としての「想像力」が取り上げられる。このあたりもおもしろいのだが紙数がつきた。松沢先生の著書を紹介して終わろう。岩波新書では「進化の隣人 ヒトとチンパンジー」。少し古くなるので今回は取り上げなかったが、ぜひ読んでいただきたい1冊だ。
    次回は、大森荘蔵先生が描く「近代的世界観」が語られる。少し難解になっていく。

    その2
     昼ドラ「やすらぎの郷」を毎日楽しみにしている。その中で、主人公石坂浩二が嬉々としてメールを書いているシーンがある。「機械文明はすばらしい」という。確かにそうなのだけれど、2011年、原発事故を経験した我々は、科学技術を礼賛ばかりしているわけにはいかない。
    著者は科学に対する見方、世界観について論じていく。選択肢は2つ。1つは「悪者は科学なのだから、もう科学からはすっかり離れよう。」もう1つは「科学にはたしかに多くの問題点があるけれど、そこに蓄積された知を無視することはできない。17世紀にヨーロッパで始まった科学を見直し、そこにある問題点を検討することで、科学を踏まえた新しい知を探索しよう。」著者は後者の考えをとる。特に原発事故後は、専門家の言うことなんて信じないという風潮が強くなる。それは、「専門家」たちが自らもまた社会の中に生きる「生活者」であるという感覚を失っていることが原因と言える。そこで、科学を一般の人々に紹介するコミュニケーターというような存在が生まれる。しかし、著者はここにも疑問を呈ずる。「科学を文化とするなら、本を読み、絵を眺め、音楽を聴くのと同じように、だれもが科学と接することができて初めて、科学が社会の中に存在したことになるはずです。ここで作家や画家や音楽家が自分の作品を世に出すときに、コミュニケーターを求めたりするだろうかと考えてみると、今の科学のありようの不自然さが見えてきます。」科学を表現するということを音楽になぞらえて言うと、論文という楽譜をいかに演奏するか、表現するか、その道を探っているのが、著者が館長を務める生命誌研究館である。「では、文化としての科学の表現に対して、広く一般の人々が関心を持つようにするには、科学者はどうしたらよいでしょうか。概して、人の話を聞く場合、大切なのはその内容と同じくらい、またはそれ以上にその人への関心であり、さらには信頼です。それがあれば少々難しいことでも耳を傾け、学ぶ気持ちになります。話し上手でなくても惹きつけられます。」(信頼、難しい課題です。日々その大切さを感じていますが・・・)ここで、著者が学生時代に出会った、朝永振一郎先生のエピソードが紹介されている。「教育とはまさに、こういうものでしょう。先生への信頼が基本です。最も大事なのは人間として語っているかどうかということです。それを考慮せずに、科学は難しい特別の分野とし、科学者・科学技術者は、普通の同じ考え方ができない、普通の言葉も話せない人としてしまうことには疑問を感じますし、それをしてはいけないと思います。専門のことはそれを専門とする人が最もよくわかっているのですから、その人に聞くのが最もよいはずです。」「そこでまず専門家が言葉を大切にし、だれにも話が通じるようにしなければなりません。高度の内容そのものを理解させるというより本質を語れなければなりません。それには、専門家が専門の中だけにあるのでなく、聞く側の人と人間としての共通基盤がなければならないと思うのです。しかも、人間としての魅力を持っていたとしたら、それはすばらしいことでしょう。」「研究者自身もまた、自分の研究対象という狭いところだけでなく、自然そのものに向き合い、自然観、人間観を培う努力が必要です。自然とはなにか、生命とはなにか、生きものの1つである人間とはなにか・・・哲学というほど難しくなく素朴な問いでよいので、つねにそれを考え続けていたいと思います。生活者の感覚を持ちながら世界観を探っていくことも含めての研究と考えて、初めてその人のすすめる研究は社会から信頼されるものになるのではないでしょうか。」将来研究者になろうとする人がいるなら心にとめておいてほしいことばだ。
    次に、近代科学がはらむ問題が語られる。17世紀、近代科学の誕生を振り返ると、その中心になる考え方は以下の4つである。ガリレイ「自然は数学で書かれた書物」、ベーコン「自然の操作的支配」、デカルト「機械論的非人間化」、ニュートン「粒子論的機械論」。そして、「自然は私たちと一体のものではなく、「未知なる第三者」として、外から実験的に把握されるもの、解剖されるものと位置づけられるようになった。」(伊東俊太郎「近代科学の源流」より)著者はこういったところに問題意識を持ってきた。いくつかの具体例をあげた後、著者は次のような結論に達する。「このような例に次々出会うなかで私自身は、生命や自然を機械として見ることの問題の核心は、数値化にあるとなんとなく思ってきました。すべてを数量化し、それを生かした技術によって利便性だけを求めていくやり方に疑問を持ち、単により速く、より大きくという形で進歩を求める動きの中では、生きものとしては生きにくいと実感し、悩んできました。しかし、科学を全面否定するのでない以上、数値化をすべて否定することはできません。ではどうすればよいかを考えたときに、大森がひじょうに重要な視点を与えてくれました。問題の本質は数値化そのものではなく、その数値化をする際に、自然を『死物化』していることだというのです。これは数値化を否定せずとも、『死物化』を回避するという方法で新しい知を生みだすことができるという示唆です。」ここで、大森とは科学哲学者の大森荘蔵のことであり、その著書「知の構築とその呪縛」によって、この後の話はすすんでいく。
    大森の考え方に2つのキーワードがある。「略画的」と「密画的」。日常、自分の眼で物を見、耳で音を聞き、手で触れ、舌で味わうという形で外界と接している時に私たちが描く世界像が「略画的」である。それに対して、近代科学が生まれたことで可能になった世界像の描き方が「密画的」である。近代科学は「略画的」な見方を排除し、「密画的」な見方を進めてきた。その結果、自然は「死物化」していった。ここで、「略画的見方、より平たく言うなら日常的な見方を否定することを考え直す必要があります。」そこで登場するのが大森の「重ね描き」という方法だ。それは「DNAやタンパク質のはたらきを調べるという生命科学の方法で見ているチョウ(密画的描写)は、花の蜜を求めて飛んでいる可愛いチョウ(略画的描写)と同じものであるというあたりまえのことを認め、両方の描写を共に大事にする」ということである。「重要なことは、『科学的』だからといって、密画の方が略画より『上』なわけでも、密画さえ描ければ自然の真の姿が描けるわけでもないということです。密画を描こうとする時に、略画的世界観を忘れないことが大事なのです。」「密画的世界は、略画的世界と重ね合わせることで生き生きとした自然につながる魅力を持ちうるのだということは、科学者の側から伝えていかなければならない大事なことです。科学の専門家でない方の中には、科学による密画的世界が私たちの自然を美しいと感じる気持ちを損なうと思っている方さえあります。」ここでミヒャエル・エンデをとりあげている。科学を敵対視する発言に、著者は憤りを感じているようだ。「科学的理解が感情を豊かにしてくれると考えてほしいと思いました。研究者が発信しなければならないのはこの感覚です。」「『略画的世界観』と『密画的世界観』との重ね描きによって豊かな自然・生命・人間を見出し、それを基本に置いて社会をつくろう。建設的な答えはここにあると思います。」
    この後、重ね描きの実践として、日本人の自然観が紹介される。当然、ここでも登場するのは宮沢賢治だ。さらに、南方熊楠も登場する。そのあたりについては、次回にしよう。

    その3
     著者は「重ね描き」の実践を考えていく中で、日本人の自然観が重要であることに気づく。科学の基本には普遍性があるわけで、日本人であるという特殊性は意識しないようにされてきた。しかし、この「重ね描き」に関しては、どのような自然とのつき合い方をしているかということが大きく関わってくる。そこであえて、日本人がこれまでどう自然と関わってきたかを確かめることになる。
     まずは和辻哲郎の「風土」、それから、ユクスキュルの「生物から見た世界」における考え方が紹介されている。その上で、日本人の自然との関わり方について次のようにまとめられている。「思いきって一言で表すなら『自然の中にある』という意識が強いのではないかと思います。ここでの『自然の中にある』は、手をつけない天然の状態だけをさすのではないところが重要です。」原始林ではなく手入れをされた里山のこと、棚田のことが語られたあと、興味深い具体例が挙げられている。「花を愛でる気持も古くから私たちの中にあり、日本の文化として続いています。ただこの『花』もまったくの天然自然ではなく、徹底的に手を入れられたものです。桜がその典型でしょう。古くは花と言えば梅であったものが桜に変わり、今ではお花見と言えばまず思い浮かべるのは桜です。それも染井吉野、どこへ行っても薄いピンクの花が一斉に開く、桜並木や公園があります。そこで『花の色はうつりにけりないたづらに我身世にふるながめせしまに』という有名な小野小町の歌にも今身近にある桜を思い浮かべてしまいますが、染井吉野は幕末に江戸で作られた品種であり、平安時代にはありませんでした。当時の桜は山桜ですから花の色は白、咲き方も花と葉が一緒に出るので、花が先に咲く染井吉野とは違います。花と言い、桜を思うという点では連続した文化を持ちながら、そこへ完全な人工を持ちこむ――染井吉野はすべてクローンです――のは、自然の中にあるという原則を持ちながら人工を生かす日本人のみごとな生き方ではないでしょうか。」「つまり『自然の中にある』というのは、多種多様な生きものの一つとして生きるということですが、生きものとしての人間に与えられた知性や手の器用さを生かした人工を否定するものではありません。それどころかその能力はフルに生かすことが必要です。自然の外に出てしまわずに、中にありながら人間らしさを生かす点で、日本の文化はすばらしいものを持っているのです。」しかしながら、「近代以降の科学はデカルト・ベーコン型、つまり自身は自然の外にいてそれを操作するという自然観を持っています。近代化とともに日本に入ってきた科学が、外から自然を客観的に見るという方法を持ちこみ、これが進んだ考え方とされたために、『人間は自然の中にいる』という自然観は遅れているということになり、日本人はそこで自信を失ってしまったように思います。遅れている、追いつかなければという落ち着かない気持ちで過ごしてきました。けれども冷静に考えて、日本人の自然観は『重ね描き』に有効な一面を持っています。『重ね描き』をするには、いかに自然と親しむか、自然と近いところにいるかということが大きな意味を持ちますから、そこでは自分自身が自然の中にいるという認識が重要だからです。」さらには万葉集の自然観について。「朝露にしののに濡れて呼子鳥三船の山ゆ鳴き渡る見ゆ」鳴き渡る鳥がいるのを見ている私がいることが重要。「主体と客体として一度は分離しながら、客体を主体とまったく独立の存在とするのではなく、主体がある意味そこに入りこむ、あるいは、客体を自身と同じ感情を持つものとして見ている」つまり「自然は人間と密接な関係にある存在なのです。」「この自然を通してつながる感覚は、同時代の人どうしのものとは限りません。私たちが今万葉集を読むと、具体的な生活様式は大きく違っていたでしょうに、そこに歌われている生活や感情を通して、万葉人とのつながりを感じます。その感覚は、科学技術に支えられた都市に暮らす若い人たちも同じなのではないでしょうか。そう感じるのは、そこで歌われている自然への共感から来るのだと思います。」
     次に、日本の理科教育について。幼稚園における教育目標には「自然に触れて生活し、その大きさ、美しさ、不思議さなどに気づく」とある。小学校1,2年生の生活科でもほぼ同じ。3年生になって理科が始まると、「科学的な見方や考え方を養う」と、ここで初めて「科学」という言葉が登場する。実はここに、「略画」と「密画」の両方が現れている。日本人的な自然観として、自然に親しみ、自然を愛する心情を育てる、これは「略画的」そのものである。一方、自然科学的な要素である観察・実験・問題解決能力、科学的な見方・考え方などはまさに「密画的」なものである。目標としては良いものを持っていながら、どうもうまくいっていないのではないかと著者は考える。「進歩した社会のありようとして『科学的』であることを求めながら、一方で、日本社会、日本文化の根底にある『自然に親しむ』をその教育の基本に置いたのが『理科』というわけです。この『接ぎ木』によって生じた混乱が、これまでの科学の歴史の中で、日本人を中途半端なところに置いたのかもしれません。」自然に親しむという感覚と論理的思考の両方を持つことは正しい。ただそれがうまくいっていないのではないかと言う。「21世紀の科学は、自然の複雑さにそのまま向き合うものへと変わりつつあります。17世紀以来の機械論的自然観に対して生命論的自然観を持つものに変わろうとしているのであり、そのためには重ね描きが必要だというのが、ここで考えていることです。日常の自然への親しみと科学をつなぐことがこれから重要になります。実は日本の理科教育は、まさにこの『重ね描き』のできる人を育てるものになっているのです。」この後、福島県喜多方市の小学校における農業科の取り組みについて紹介されている。さらに、宮沢賢治、南方熊楠、ポランニーなどの考え方についてかなりのページを割いて紹介されている。その後にまた、農業高校での実践例が紹介されている。「豚を飼っている女子高校生は夏休みも登校です。長靴をはき、汗だくになって豚の世話をしているのを見て、大変ですねと先生に伺ったら、私が代わりに見ておくからと言っても来てしまうんですよ、との答えでした。時間と手間のかかることを楽しむ気持ちが彼女たちの中にあるということです。私が近寄っていくと豚がシッポを振ってくれました。…よほど大事にされているのでしょう。しかも女子高生たちは育てた豚がソーセージになることを承知している「のです。ときには自分たちでソーセージづくりもします。」日本の理科教育に「自然に親しむ」という考え方があったが、ここでの「親しむ」は、自然の本質を知ることでそれを愛する、『愛づる』であると言う。「農業による教育は、理科教育の基本であり、人間を育てることでもあるのです。」
    最後に、著者が今現在実際に取り組まれている生命誌研究館での具体的な取り組みについて語られる。そこが面白いところではあるのだが、紙幅にも限界があるので、実際に、皆さんに訪れてもらうことを期待して、ここでは、その考え方だけを紹介するにとどめる。「重ね描きを意識しながら『生きているとはどういうことだろう』と考え、そこから生まれる世界観を持ち、そのうえで社会人として生きることが今私にできることです。そして、その世界観から見えてくる、誰もが生き生き暮らす社会の構築に向けてできることを続けていきたいと思います。」「もちろん研究館で行なう研究だけで世界観が見えてくるわけではありません。世界で進められている最先端研究に目配りし、データを集め、生命誌のデータベースを作るなどして全体像を作っていく作業を進めています。論文という形でなく物語を作り表現していく試みです。」具体的な取り組み方が図示されている。(右図)「くり返しますが、密画を描くのはよいのですが略画の世界を捨ててはいけないのです。サイエンス・コミュニケ―ション活動は、密画の世界を伝えているだけです。音楽と組み合わせて楽しい夕べにしても、それは密画の世界に伴奏がつくだけで重ね描きにはなっていません。画家が絵を描き、作家が小説を書き、歌人が歌をつくるとき表現したいものと、私が生命誌研究で表現したいものは同じです。ですからいかに表現するかが重要であり、表現が稚拙であれば何も伝わりません。」
    ここまで、科学者のものの見方・考え方について話はすすんできたが、最後の1ページで、これを人間全体に展開されている。「科学者だけでなく、現代社会に生きる人皆が、それぞれの立場で、日常感覚と思想性に基づくバランス感覚を発揮してこそ、新しい文明、新しい科学への道が開けてくるのだと思います。」
    3回にわたって中村桂子著「科学者が人間であること」を紹介してきた。将来、科学者を目指す人はもちろん、そり以外の人も、日々の暮らしの中に必ずや科学技術は入りこんでくるわけだから、ぜひ本書を読んで、科学に対する見方・考え方を学んでほしいと思う。まずは、一度、高槻市にある生命誌研究館をのぞいてみてくださいね。

    最初に書いたレビュー
    科学者は人間に決まっている。しかし本書によるとどうやら科学者はふつうの自然の中に生きる生き物としての人間とは言えないらしい。自分も地球上の生き物の一員であることを忘れてしまっているようだ。木を見て森を見ない状態になっていることが一つ、それから研究費を捻出するために、経済成長に役立つ研究ばかりを優先させる。そういう人を何人も見てきたと著者はいう。そのことばは辛辣だ。挙句の果てにはあの原発事故。それを経験したにもかかわらず、相変わらず同じ調子が続いているのだ。科学者に日常感覚を取り戻してもらわなければいけない。そういう教育をしなければならない。具体的な施策としては、小学校での農業科の取り組みが紹介されている。これは一つのヒントになるかもしれない。梅原猛先生が考えている哲学も役立ってくることと思われる。著者が館長を務める生命誌研究館には足繁く通った時期がある。できて間もないころ、岡田先生が館長のころ。自分もこんなところで働きたいと思ったものだ。10年ほど前、子どもが小さかった頃にも行ったようだが、あまり記憶にない。ホームページを見てみると、館長自ら本書の感想のメールにお答えされている。これは過去にはなかったことだ。これをし出すと、忙しくて仕方ないだろうなあ。

  • 所在:紀三井寺館1F 請求記号:Browsing
    和医大OPAC→http://opac.wakayama-med.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=181635

    JT生命誌研究館館長であり『細胞の分子生物学』監訳者、中村桂子氏がいま問い直す、ポスト震災時代の科学者の在り方。

  • 自然科学の分野に限らず、社会科学の世界でも同じことが言えるのではないかと思う。
    専門分化が進むと、全貌が見えにくくなり、何のための学問であるのかを「人間学」として振り返り自問する。
    ただ、商業ベースに乗らないこともあり、それが社会に理解されたとしても進歩と捉えられることはないのだろうと思う。

  • 著者もあとがきで記しているが、あたりまえのことしか書いていない。あたらしいことも書いていない。「科学者は科学者である前に人間でなければならない」と繰り返し主張している。
    実際は、研究者の世界も「経済効率優先で科学技術はそれを支えるもの」となっている。現代の世界観は要素還元から成立しているが、要素のみに注力しては全体像を見失ってしまう。
    「木を見て森を見ず」と言うではないか。これからの科学は常に「森」を見ていなくちゃいけないのだ。

  • いろいろと考えさせられる1冊でした。

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プロフィール

中村 桂子(長崎大学核兵器廃絶研究センター准教授)

「2018年 『核の脅威にどう対処すべきか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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